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2020-09-20 30:02

2020/09/20:イエス様のたとえ話~私たちへの問いかけ(16)羊を見つけた人のたとえ

2020/09/20 聖日礼拝

尹善鎬牧師

ルカの福音書 15:1-7


00:01
ありがとうございました。改めて皆さん、おはようございます。
朝晩だいぶ涼しくなって、また教会に来やすい季節になっております。
また今日も、この1週間も主に守られて、一緒に集まって礼拝できること、本当に主に感謝いたします。
今、イエス様のたとえ話、私たちへの問いかけ、16回目です。
今日は、羊を見つけた人のたとえ、というタイトルですけれども、
このルカノ福音書第15章には、大きい3つのたとえ話が書かれています。
皆さん、おそらくよくご存知の箇所だと思います。
羊とその羊飼いの、それから銀貨と女の人、またいわゆる宝刀息子といわれている父と息子、この3つのたとえ話が書かれています。
何度もですね、この箇所から皆さんお聞きになったことがあるかと思いますけれども、
今日は、この3つのたとえ話をまとめて、そこから大きい2つのキーワード、法則と言いましょうか、そのことについてお話をしていきたいと思います。
まず、1番目のキーワードは、関係です。
この3つのたとえをですね、よく読んでみると、すべて関係に焦点を当てています。
最初は、羊を100匹持っている人、ある人と羊の関係ですね。
2番目は、銀貨を10枚持っている女の人、ある女の人と銀貨、その関係です。
3つ目は、何でしょう、お父さんと息子の関係ですね。
これが、人と物だったり、人と動物だったり、人と人だったりするんですけれども、そこには、両社会で、その関係に、両社の関係に、フォーカスを当てているということなんです。
まず今日は、この関係ということから、私たちが信じる、このキリスト教信仰とはどういうものなのかを、一緒に見言葉から、その原理、法則、真理を学んでいきたいと思います。
03:09
この私たちのキリスト教信仰において、関係は非常に重要なテーマです。
皆さん、人類の始まり、アダムとエヴァの最初は、どこから始まったのでしょうか。
神様は、何の動機で人間をお作りになったのでしょうか。
一言で言えるならば、それは、神様は人間と、神様と人間と、愛と信頼に基づいた交わりという関係を持つために、神様は人を作られたと言えるでしょう。
旧約新約聖書を読みますと、神様は愛を注ぐために、祝福するために人々を作られたと書かれています。本当にそうなんです。
私たちが信じる神様は、関係の神様なんです。
だから私たちに絶えず、いつも私たちと関係を持ちたい。
愛の関係、信頼の関係、それがベースになっている礼拝の関係を主は求めておられるんです。
でも皆さん、だからといって、神様がとても寂しいから、退屈でつまらないから、
あるいは一人ではほっと不完全だし不安だし、だからそれを満たすために人を作られたでしょうか。そうではないでしょう。
事実ですね、神様は自ら完全なお方であられるから、人を作らなくても、神様には何の問題も支障もないんです。
にも変わらず神様は、アダムとヤブカラを始めて、人類を、人々を作ってくださった。
そして愛の関係を持ちたい、信頼の関係を持ちたい、
あなた方は私を礼拝しなさい、私はあなた方を祝福するという、この関係を主は持ちたいんです。
求めておられるんですね。
まずこの関係に、私たちが正しくしっかりと立っているかどうか、自分自身を顧みていただきたいと思います。
06:02
どうでしょうか、皆さん。皆さんは神様との関係はどうでしょうか。
素晴らしいでしょうか。乏しいでしょうか。美しいでしょうか。醜いでしょうか。
本当に近いでしょうか。なんか距離があって遠いでしょうか。
もう一つ、神様との関係を考えるとき、皆さん、人間と人間の関係が最初でしょうか。
あるいは人間と神様との関係が最初でしょうか。創跡に戻ってですね、考えると。
最初の関係は、人間と人間、アダムとエバーの関係が最初ではないんですよね。
アダムと神様、神様とアダムとの関係が最初なんです。それが始めなんです。
これが実は大事だと思うんです。
我々人間、人の関係というものは、神様との関係が最初である、第一であるということなんです。
その次が人間と人間の関係であるということなんです。
ここに注目すべき必要があると思うんです。
というのは、私たちは人間は神様との関係、さっき言ったですね、その関係からすべてが始まって、すべてがなって、すべてが完成されるという法則が実はそこにあるんです。
だから皆さん、我々人間の立場から考えれば、私たちにこの地上で起きるすべての問題、悩み、苦しみ、その解決、答えは、どこに誰に求めたらいいんでしょうか。
人でしょうか、本でしょうか、何かいいカウンセラーでしょうか。
違いますね。
第一、始めが大事なんですよ。
それは、神様との関係が先である、最初である、いや、ある意味で、すべてであるということなんです。
キリスト教信仰は実はここに立っているんですね。
この上にキリスト教信仰は立つということなんですよ。
ですから私たちは、神様との関係において、人生の答えをいただき、そして、いただかなければならないということなんです。
これを信じて、この通りに生きることが、キリスト教信仰であるということなんです。
09:05
ですから皆さん、神様を礼拝して、この方を賛美して、この方を愛して、この方と深い、親密な愛の美しい関係を保つことが、すべての第一である、第一である、すべてであるということなんです。
だから、神様との関係が美しくて健全で健康であるときに、私たちの人生も健全でありますし、健康であり祝福されるということなんです。
逆にですね、神様との関係が何か気まずい、何かに邪魔されているような気がする、何かが詰まっているような気がする。
あるいは何かに穢れたまま、そのまま引きずっている、あるいは何か神様との関係が遠い気がする、あるいはいつも浅い、そういう関係でずっといるならば、
当然、その人はですね、その魂も体も人生も家庭も弱ってしまいますし、病みますし、健全でも健康でもないということなんです。
これは非常に大事なことなんです。
神様との関係が第一であり、いや、それがすべてであるということなんです。
もう一度お聞きします。皆さんは神様との関係はどうでしょうか。
朝にも昼にも夜にも、寂しい時にも忙しい時にも、嬉しい時にも苦しい時にも、何の問題もない時にも、たくさんの問題を抱えている時にも、
神様と愛と信頼の関係において、その上で歩んでいらっしゃるでしょうか。
キリスト教信仰というものは、私たちは神様を愛して、その方に愛されて、神様を信頼して、そして神様は語られる、私たちはその御言葉に従う、この従順の美しい関係、これが大事なことであります。
12:02
二つ目のキーワードは、所有というものです。
今日のこの三つの例え話から、関係という話を今お話ししましたけれども、
これを言い換えるならば、主人とその持ち物、主人と所有の関係と言えます。
主人と羊、主人と銀貨、父と息子。
つまり、そこには全部失われたんですね。
羊も銀貨も息子も失われたんですね。
同じことが起きているんです。
失われたということは、皆さん、言い換えると、元の場所があったということですね。
羊も銀貨も息子も元の場所があったわけなんです。
そしてそれらを持っている、所有する主人がいるということなんですね。
でもみんな失われてしまったということなんです。
羊もその羊の主がいた。
銀貨にもその主がいた。
息子にも主である父がいたということなんです。
全部、羊も銀貨も息子も所有されていたということなんです。
二つ目として、このキリスト教信仰で、この所有という概念は非常に大事なことなんです。
なぜなら聖書は、この所有、私のものという言葉が非常に多く書かれていて、強調されているんです。
そして、この所有というものも関係と密接しています。
ここでですね、一箇所、聖書を開きたいと思います。
ローマ人への手紙14章、8節、開きたいと思います。
私の聖書では311ページです。
ローマ人への手紙14章、8節、311ページ。
それでは一緒にみんなで読みたいと思います。
せーの、もし生きるなら主のために生き、もし死ぬなら主のために死ぬのです。
15:03
ですから、生きるにしても死ぬにしても私たちは主のものです。
アーメン。もう一度私が読みますね。
もし生きるなら主のために生き、もし死ぬなら主のために死ぬのです。
ですから、生きるにしても死ぬにしても私たちは主のものです。
私たちは誰のものですか?皆さんお答えいただけますか?
主のものです。私たちは主のものです。
この世界にあるすべてのものには主人がいる、オーナーがいる、主がいる。
誰ですか?神様であられる。私たちはこれを信じます。
作られたすべての秘蔵物の主人は、主は作り主なる神様であることを私たちは信じて告白してその通りに歩むのです。
それが信仰なんですね。これがキリスト教信仰なんですよ。
私には主人がいる。主がいる。その主は作り主なる神様である。
自分が主人ではないということなんですよ。
私には主である神様がおられる。私は主のものであること、神のものであることを信じます。
これが信仰なんですね。
この言葉を皆さん詳しく解いて言うならば、
神様が私に対するすべての権利を主張される。
神様が私を治められる。
神様が私を導かれるということなんです。
だから私のすべて、それが強みであろうが弱みであろうが持ち物であろうが精神であろうが見えるものであろうが見えないものであろうが
すべてのものの所有権は、権利は私にあるんじゃなくて、誰にありますか?神様にあるんです。
それが私は主のものであるという信仰の告白なんです。
皆さん、この所有権というものは大事なんですよね、所有権。
皆さんは今までこの所有権というものをとても大事に守ってここまで生きてこられた。
今もそういうふうに皆さんは暮らしていらっしゃるわけです。
18:03
所有権というもの。
例えばこういう話を、私も例えてお話をさせていただきましょう。
賃貸に住んでいる方除いて、ご自分のお家を持っている方々。
皆さんのあのお家は誰のものですか?その所有権は誰にありますか?
ご主人さんか奥さんか、あるいは共同名義になっているでしょう。
ところがある日、全然知らない人が皆さんのお家にいて、
今日からこの家は俺のものなんだ。
俺が勝手に使って、全部リフォームして、あとはもう売っちゃうよといった人が本当に皆さんのお家に現れたら、
皆さんはきっと警察署に電話するでしょう。
そしてその人に、いや違う、これはもう私のものなんだよ。
私のものなんだ。なんであなたが主張するの?とね、もう大騒ぎになると思うんですよ。
はい、どうぞお好きにやってくださいと言っても誰もいないと思います。
皆さん、神様と皆さんの関係を考えてみてください。
キリスト教信仰は、私の人生、私の強さ、弱さ、
私のすべての所有、それが物であろうが、時間であろうが、金であろうが、家族であろうが、
未来であろうが、弱さであろうが、すべての所有権は、
神様にあることを信じて、告白して、その告白通りに生きることがキリスト教信仰なんです。
私たちはそれを、使徒信徒なりに、あるいは主の祈りなりに、あるいはそれを信じてここまで、何十年もここまで来たわけなんですよね。そうでしょう。
ところが、我々のすべての所有権は神様にあるのに、皆さんが皆さんの人生を勝手にしていいんでしょうか。
皆さんが皆さんの人生を持ち物を好きに勝手にしていいんでしょうか。
皆さんが皆さんの子供のことも好きにやっていいんでしょうか。
皆さんのすべてのものの所有権を皆さんが主張していいんでしょうか。
もし、「はい、そうですよ。」と答える方がおられならば、
今日皆さんのお家に誰かいて、皆さんの車や通帳や現金をすべて持って行っていいんですよね。できないでしょう。
誰かがそれを持って行ったら、「あなたはなんで私のものなのに、あなたは勝手にやるんですか。」と言うんじゃないでしょう。
21:03
皆さん、私たちが自分自身の人生を好き勝手に何かをしようとする時に、神様はこう語れるんじゃないでしょうか。
それは私のものなんだけど、あなたは私のものなんだよ。
なのにあなたはなんであなたの好き勝手にしようとするのか。
なぜあなたは主人である私に聞かないのか。と神様が語るんじゃないでしょうか。
何より私たちが神のものであるという理由は、私たちはイエス・キリストの命という代価が支払われて買い取られたものだからなんです。
神様は、サタンの手元にあった私たちをイエス・キリストの命という価値を支払ってくださって、その手から私たちを買い取ってくださったんですね。
だから誰のものですか。神様のものなんです。自分のものではないんです。
だからさっきのローマビデオの手紙に、生きるにしても死ぬにしても私たちは主のものであると告白して生きることがキリスト教信仰なんです。
これが非常に大事な原点であります。
恋愛している皆さん、信仰生活してきている皆さん、この原点をチェックしてみていただきたいですね。
私は果たして自分のすべての主流権を本当に神様に丸ごと明け渡しているんだろうか。
口先では明け渡してますと捧げますと言っているんだけど、実は私が好き勝手に全部やって主人に何も聞いていないのではないか。
あるいは本当にすべて明け渡して、すべて神様どうぞあなたの思い通りにしてくださいと、本当に何もかも明け渡して従っているのか。
最後に結構前読んだおわかしを、私のおかしではないですけどね。
デイリーブレッドという小さい小冊子のデボーションの本があるんですね。
結構多くの言葉で訳されて、日本語でも訳されている、結構昔のある小さいデボーションの話ですけど、
そこにほぼ100年前の中国のクリスチャン、チェンという青年の証があります。
24:08
1910年くらいの話です。
このチェンという中国の青年は、1910年に20歳頃に中国からアメリカに選挙士の子供として養子でアメリカに行きました。
そして彼はそこでとても賢い青年として、イエイル大学を卒業して、本当に素晴らしいアメリカ人になったわけですから、本当に高位公務員になったわけです。
その道が保証されて開かれていました。
ところがそれが決まった時に、彼は自分の自分を養子で受け入れてくれて、
本当に大切に育ててくれた選挙士の親と相談をしました。
そして彼が大きくなって、自分の信仰をその親に話をしました。
1900年に中国の神という国があったんですね。
この山水で青いですね。
神と読みますか。日本では。
聖と読みますか。私が調べたら神と読みますけどね。
その国の末期時代ですね。
中国では義和団の動乱という乱が起きてしまったんです。
簡単に言ってですね。
外国の外政のすべてを排斥しようという動乱が1年間起きたんですね。
そしてその時に最も激しく起きたことは、
中国に入っている選挙者全部を追い出すこと、
そしてキリスト教を信じるクリスチャンたちを処刑するか、
信仰をやめさせるか、どっちかをすることですね。
キリスト教も西洋から来たものだから、
それも全部排斥するという動乱が起きたわけなんです。
その時にですね、このチェンが小さい時に住んでいたその町にも、
その記録にですね、163名の男女大人のクリチャンが、
その動乱を起きた義和団の人々に捕まえられて、
そしてその町の丘の上にですね、みんなが拝む大きいでっかい木があったんですね。
そこにですね、みんな一列に並んでですね、
ここを通ってこの木にね、お前らが拝んだら生きる。
しかし拝まないで、キリスト教信仰をしてなかったら、
27:02
もうあそこで首が切られる、処刑される。
どっちか選びなさいと言ったんですね。
そしたらそのチェン、彼はその時に小さい子供だったわけです。
ところがその町の163名の大人は、誰一人もその木に置かなかった。
堂々と胸を張って進んで向こうで待っている義和団に、
全ての大人が処刑されて死んだ。
その163名のうちの一人がこのチェンのお父さんだったそうなんです。
そして彼はその時に小さい子供でしたけれども、
自分が何のために生きるべきなのか鮮やかに、
首が自分にまるで語られたという。
そして彼はこのように証を閉じていました。
主イエスキリストが私たちをその知識を拠って買い取ってくださり、
よみがえられたから私たちはもはや自分のものではありません。
私たちの親子の先輩たちもみんな主イエスキリストのものだと
言い切って生きてきて、主のもとに帰りました。
だから私たちが生きている時も主のものとして
生き死んだ後も主のものだから主なる神に帰ることは当然のことです。
という証でした。
皆さんどうでしょうか。
皆さんの人生、私たちの人生、すべてそれを私のものだよという
所有を主張しないで。
すべては神から与えられ、すべては神の栄光のために用いられ、
すべては神に帰るという信仰を持っていただきたい。
そしてその通りに歩んでいただきたいと願いました。
キリスト教信仰は私の主は作り主なる神様である、
私はその方の作られたものであるという告白の信仰ではないでしょうか。
メッセージを終わりたいと思います。
神様は私たちにとっては良き主である神様です。
私たちは祝福し、私たちと毎日この美しい関係をもとを通していられます。
私たちは神様を愛して、礼拝して、信頼する関係。
神様は私たちを愛して、守って、祝福してくださる
この美しい信仰の道を共に歩んでいこうではないでしょうか。
お祈りします。
30:02

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