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それでは、いつものようにですね、隣の方々と挨拶を伺っていきましょうか。
はい、どうもいらっしゃいました。おはようございます。
はい、それでは一言お祈りします。
神様、本当に神の皆を拝みます。
本当に、主が乙女が姉妹をあの手に使わせてくださりまして、あらゆる方々に主が申し入れてくださってよかったことを感謝いたします。
ますます主を、本当にあなたが忠告を大に用いてくださいますように、主を祝福してください。
主は今から神の御言葉に向かって向けます。
本当に、従う心を持って、顔分けを持って御言葉を頂けます。そしてそれに従って生きる、我らとならしにしてください。
イエス様の名によってお祈りいたします。
アーメン
はい、先週から今年の最初のメッセージはですね、信仰生活の5つの基本とありまして、
今日はその2、礼拝に一部という題にして、ともに礼拝って何なのか、
私たちはどういう礼拝を捧げるべきなのかを御言葉から教えていきたいと思います。
信約聖書の中にコリゾビテの手紙がありますけれども、その第二の手紙の中にこういう御言葉があります。
誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく作られたものです。
古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなりました。
こういう御言葉、多分ですね、皆さんよくご存知だと思いますけれども、
これは本当に素晴らしいムグミなんです。
けれども、皆さんいかがでしょうか。私たちの気持ちはですね、元旦から1休館経って、そして2休館経ちますとどうでしょうか。
なんかあの元旦のその新鮮さは薄れてきてしまっているのではないかと、そう思うかもしれません。
しかし、パオルはそうではない。
誰でもキリストにあるならば、その人は新しく作られたものですよ、という御言葉を下さっています。
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実は皆さんですから、私たちがどう感じるかは実は何の関係もないんです。
常に新しくされている、それが御言葉の約束なんです。
そしてその恵みがすでに全ての神の子たちに約束されている。
それをこのパオル先生はですね、私たちに力強く伝えるともに、
そしてその恵みに、約束に留まり続ける私たち側の責任も解いているわけなんです。
それがキリストと結ばれているという恵みであります。
今日特にこの恵みをキリストと結ばれている、その観点から見ていきたいと思うんですね。
舞台持ちであるキリストに繋がり続けるというメッセージを先週少しお話をしました。
そのように皆さん、キリストに常に繋がり続けている。
そうしたら必ず変えられる、成長させられる、新しくされる。
そのようにして身を結ぶ、我らの人生になるということです。
そして神様が与えてくださっている、この具体的な繋がり方。
それをですね、栃野はじめの御言葉から確認しているわけなんですけれども、
今日はその2回目の勢拝に生きる。
ですからこの御言葉のゴールをあえて申し上げるならば、本当に今年記念館、
私たちが勢拝に生きる民、勢拝に生きる勢拝者でありたい、そう変えられていきたいと願っております。
こんな笑い話があります。
ある日本人がアメリカツアーに行きました。
そしてある町で教会の看板を朝見ます。
ところがそこにモーニングサービスと書いてあって、
この日本人はもう教会でもモーニングサービスをやっているなと、
切磋点みたいに思ってしまった、そういう笑い話があります。
それは朝の礼拝ですね。モーニングサービスから朝の礼拝です。
私たちは教会に通う者として、こうした法的な間違いは関係ないと思いますけれども、
このところから一つ思わされることがあるかと思います。
それは英語で礼拝をサービスと言いますけれども、
この日本人旅行者がポスターに自分はサービスを受ける側と理解していたわけなんですね。
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でも私たちはこの人のことを笑えるだろうかと思います。
私たちももしかしたら無意識中にそのような姿勢を持って礼拝の場にしていないだろうかと思います。
つまりサービスを受けるべきだと思います。
その教会に行って、教会のサービスが気に入ったらいいんですけれども、サービスが気に入らなかったら危険が悪くなったりすることがあります。
礼拝とは何であるかを考えるときに、神様と私たち、それからその間におられる家様の十字架の理性。
もっとわかりやすいならば、家様の十字架の地による私たちへのサービスを忘れてはいけない。
神様が私たち一人一人を神の子として買い戻すために、自分の一人をイエス様を捧げて、私たちのためにすでに奉仕、つまりサービスしてくださったんですね。
ですから、今日の御言葉一節を見ますと、
葬儀は手ですから兄弟たち、私は神の憐れみのゆえにあなた方にお願いします。
あなた方の身体を神に受け入れられる気を生きた不満へも残してどうするんですか。
何とかしてあげますか、皆さん。
捧げなさい。捧げなさい。
それこそあなた方の霊的な礼拝ですと進めているんです。
つまり、礼拝とは神様が私たちに仕えてくださる、サービスしてくださるだけではなく、今度はその恵みに応えて、
私たちが神様にお仕えする、サービスする具体的な行動、具体的な行為が礼拝なんです。
もっと簡単に言いましょうか。
それは何かを受ける、何かをもらうのが礼拝ではなく、実は心も身体もすべてをお捧げする、それが礼拝ではないでしょうか。
皆さん、さっきはどんなお気持ちで教会に向かって来られたんでしょうか。
今日は何を受けるかな、何をもらうかなという気持ちでしたか。
あるいは今日は何をしにお捧げしようかなという気持ちで来られたんでしょうか。
礼拝は受けるより捧げるものだという立場に立ちますと、今日の御言葉の2節の最後のところに御言葉があります。
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私が読みますね。
すなわち、何か良いことで神に受け入れられ、完全であるかをわきまえするために、その次ですよ。
心の意志によって自分を変えなさいとあります。
この神科学聖書はまるで自分が自分を変えるかのように訳されていますけれども、言語より生かした訳は神教の訳じゃないかな、私は思いますけれども、
その神科学聖書はこのように訳されています。
心を新たに言って自分を変えていただきとなっています。
つまり、受け身の表現となっています。
ここにですね、礼拝に関して2つの大事なポイントがあります。
その1つは心、もう1つは変えていただくということです。
ここでのですね、心は英語で言うならばheartではなくmindに近いです。
だから考えたり、思い巡らしたりということです。
神様の御心、善と悪の判断、
神に受け入れられることを考えること、つまり思い巡らすことなんです。
繰り返して繰り返して、神様の御前に思い巡らして、
神様の視点を持って物事を見て考える訓練をしていくことです。
まず考えの出所は心なんですね。
その心が変えられることが大事だということであります。
そのために私たちに何が一体必要なんでしょうか。
それは御言葉と祈りなんです。
祈りと御言葉を通して神様のお考えにどっぷりつかる、
神様の恵みと約束の御言葉、
慰めと癒しの御言葉につかり続けることがとても大切です。あるでしょうか。
それを通して私たちの心が変えられていくわけなんです。
だから礼拝が大切なんです。
礼拝によって私たちは変えられていくんです。
ですから皆さん、今年こそ御言葉と祈りを通して
神様のお考えにどっぷりつかりましょう。
朝晩に御言葉を読みましょう。
黙想しましょう。デボーションしましょう。
常に祈りましょう。
そして次に、変えていただきという言葉です。
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すなわちそれは私の力でできるものではありません。
あくまでも神様によって変えていただくということです。
フリストにつながっています、私たちは。
そのイエス様につながっていることによって、
少しずつ、少しずつ、徐々に徐々に全身的に変えられていくんです。
それは何を通して?礼拝を通して。
神道生活は、自分で自分を何とか変えることではないんです。
イエス・フリストにつながり続けていることによって、
イエス・フリストによって変えていただくことなんです。
変えていただくという変化が、礼拝において起こるということであります。
これこそ、霊的な礼拝の本当の意味なんです。
何が礼的な礼拝なんでしょうか?
主の御前に心が変えられていく。
そしてそれを神によって変えていただくこと、
それが礼的な礼拝の意味であります。
ところが皆さん、9月1日をちょっと見ていきますと、
イエス・フリストの神が、エリス・フリストから脱出します。
それであらのでですね、彼らは神様が何も食べ物がないと呟いていたから、
人がマナーを剣から剣のパンとして砕かったんですね。
ところが彼らは民主主義を見たら、このように彼らは呟いていました。
私たちはこんな惨めな食物に圧迫したと言うんですね。
ここのこんな惨めな食物とはマナーのことなんですけれども、
確かにそれは豪華な食べ物ではないですから、誤末な食べ物かもしれません。
しかしよく考えますと、それは神様がおあたりになった剣からのパンなんですね。
つまりこのマナーを神様がくださったものと見るのか、
それともこの惨めな食物と見るのかという問題であります。
さっきの十二章の二節の御言葉、心を新たにして自分を変えていただきなさいというのは、
つまり信仰の観点を持って何をどう見るのか、
結局何に期待するかということと深く関係するんです。
だから皆さん、私たちが神様からいただいている、神様から与えられているものをこんな惨めな食物と見てしまうのか、
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天の神のパンと見るのか、それは私たちの構に関わっていることなんです。
普段、信仰生活をしていく中で、私たちの生活の中に様々な困難があったりするんですよね。
問題もあったり、病もあったり、失礼事もあったり、いろいろあります。
先ほど静岡姉妹がおっしゃったように、本当に関係の中で気まずいということが起こったりするんです。
その中で、先ほど旧約聖書の鈴木と関係して申し上げますと、
ニュース記に彼らが本当につぶやいて、つぶやいて、それが止まらなくて、
死は毒蛇を送って、彼らが噛まれて大勢の人たちが死にました。
その時にイセナ神が申し訳にお願いします。
申し訳は神様にあなたが祈って、そしてこの蛇を取り去ってくださるようにお祈りくださいと、
モーテにお願いしたんですね。そしたらモーテが神様に祈りました。
そうすると神様がどういうふうにその問題を解決してくださったのでしょうか。
その蛇を全部神様が殺したのでしょうか、あるいは蛇を逃がしてくださったのでしょうか。
そうではないですよ。神様はその蛇を解決しなくて、
噛まれた人が精度の蛇の竿の竿先につけて、
噛まれた人がそれを見たら仰ぎなさい。
そうしたら癒やされるという神の解決策を皆さん注意深く考えていただきたい。
ただし、普段はこんなに問題がなくなるように、この問題が消え去るように取り除いてください。
あれを取り除いて、これを取り除いて、そういうふうに問題ばかりに目を奪われているのではないでしょう。
しかし、家様の恵みは神様は高手にその問題の中で、その苦しみの中で蛇を見上げ、見上げなさい。
蛇を仰げと仰るんですね。それが恵みなんです。
皆さん、ここに神後生活においてのとても重要な原則があります。
神後生活の人生に困難がたくさんあるかもしれません。
そういった場合に、聖人はそこから逃げなさいとか、
ではなくて、困難は困難のままにしておいて、そこで神を仰げと進めるんです。
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これができると本当に幸せな人生になるんですよ。
先週の特別席都会の期間中に、ヨシエウのことを学びました。
ヨシエウが奴隷になった時に、文字通の隅で、監獄に入れられてしまった時に、
彼は一度も神様、私を自由の身にしてくださいとか、この老爺から私を釈放してくださいとか、祈ったことはありますか、ありませんか。
ないんですよ、実は。一度もありません。
そこで奴隷として、あるいは囚人として、神と共に歩みました。
それで自分が恵まれ高温な人になって、周りは低くされたんです。
皆さん、これが信仰生活の原則なんです。これを悟ることがとても大事なんです。
だから私は皆さん、常に十字架のキリストを仰ぐこと、見上げること、それが信仰であって、それが聖杯なんです。
ですから、困難や弱さを抱えたままの姿で、私は死を仰ぐものでありました。
そこに癒やしと回復があります。
ですから私は希望を持つことができるんです。
あざわいの中に仕事が、困難の中に恵みが用意されて、罪の中に救いがあって、そして弱さの中に神様の偉大な全知全能の力が現れてくるんです。
そのようにして私たちの心が、生き方が神様によって変えられていくんです。
そしてそれが、聖杯において起こるんです。
これこそ神様に受け入れられる聖的な聖杯なんです。
メッセージを終わりたいと思います。
皆さん、どうか今年こそ、聖杯において、私たちの心も体も人格も生き様も信仰もですね、神様に変えられてまいりましょう。
ぜひこれからも、全愛する神として、ともに地を仰いで歩んでいきましょう。
お祈りいたします。