1. 名谷教会
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2016-02-28 50:22

2016/02/28:恵みのわざに与る栄光

2016/02/28 聖日礼拝

斎藤亘師

コリント人への手紙第二 8:9-15

00:00
本日は、斉藤先生から、恵みのわざにあつかる光栄と題して、メッセージを語っていただきます。よろしくお願いいたします。
おはようございます。
昨年の、ちょうど今頃、ユン先生が入院されるということで、2回ほどね、礼拝でご用する機会がありました。
その先生も元気になって、今年はアメリカの方に行かれているという。
昨年、私は、そのことがきっかけではないんですけどもね、教団の先生方の中に、心肺停止20分というね、そういう危ういところを通りなさった先生方がいる。
その教会でしばらくご用してほしい。それは本当に不思議なようにしてね、一度心肺停止したらだいたい駄目なんですけども、本当に立ち直って、今元気でご用意されているんですが、
終わったと思ったら、今度は、羽野浦教会の先生が入院をした。そこへも3回ほどご用に行くというような、そういうようなことがありました。
こういうピンチヒッター的なそういう存在が、やはり教団には必要だなと。
あげればまだまだね、今の教団の教会の様子から言うと、先生方はそれぞれ引退なさったんですけども、しかし、この公団を守るためにそこへ出張して、そしてご用するというようなことで、
何とか補って間に合ってきている。その間に合わせに、私も今活かされているんだなと思いながら、大変感謝しております。
2月の100日でしたかね、このご用を、ユン先生から依頼を受けて、その時に、私たちの教団としてのという、ではないんですけども、
関西青少新学校が、今度、新しく新学校を建て直すという、しかも6億余りの予算がそこに計上されている。おそらく7億ぐらいはなるんじゃないかと、そう思うんですね。
そして、電動体がもともとそこを所有しておりますから、電動体と、そして日本イエスと、また、あの学校を卒業された教会、先生や教会の協力を得て、そしてやるという、そういうこの方向で今進んでおるようであります。
大変な事業だなと。詳しいところは三上さんの方も、そこに関わりを持って、そうしていなさっているでしょうから、詳しい情報はまたそこから入る、三上さんの方から入るかと思いますけれども。
03:07
で、その役員会でね、そういう折りなんで、ぜひこう、新学校のそれをアピールするために先生、御用してくれという内容を決めて、そして説教を依頼をするというようなことで、今私はそういう責任で今立っているわけですが。
で、新学校は、私が学びましたのが、1958年、7年ぐらいから、1961年、61年の春に卒業したんですが、その頃の校舎というのは木造校舎でしてですね、
多分、私のこの記憶、大変いい加減なところがありますから、あんまりそれを自信を持って言えるんじゃないんですけれども、1930年に今の場所に木造の新学校が建てられた。
で、あの辺り一体は、通称今でもそうですが、ジエウス山っていう、そういうニックネームが付けられております。
で、これはユデア系のイギリス人貿易省の方が、やはり神戸に在留している外国人のために、あの辺りに60個家を建てて、そしてそこに住む、そういうこの場所を提供なさった。
で、その時に、バクソン先生はもうその時は英国ですけれども、しかし繋がりとしてありますから、同じ英国系の新学校がある。
で、ジエウス山が電動隊の方にですね、これを提供しますので、どうぞ新学校を建てなさったらどうでしょうか、というような、そういう記者姿があったようであります。
ですから、それまでは見かけに、当時は聖書学者といったそうですが、そこからこちらの方に、ジエウス山の方に移って、そして最初の新学校がそこに建てられた。
で、それが約30年、40年たらず、その建物がこの持ち入れられていくうちに、いろいろとこれですね、私がおりました頃は、そうですね、一番新学生にとって困ったのは、ゴキブリはもちろんですけれどもね、
人を刺す、なんていうんですかね、軟禁虫、軟禁虫ですね、あれがおりましてね、それでもう夜中中、それで戦いを余儀なくされるというような学生さんもおるという、ですからもうめばりしてですね、そして対応するというような、そういう状況ではあったわけですね。
06:21
木造が古くなると、どうもそういう問題が起きてきたようであります。で、そういうこと自体に、私もちょうど学ぶ機会があって、そしてその新学校での生活を4年間いたしました。
ですから卒業して、4、5年だったと思うんですけどね、私もこれ資料見て言ってないですから言えませんが、新学校が新しく建てられるっていう、そういうことが入りました。
ところがその時は、B先生という方が電動隊の主管をなさっていて、そしてB先生が英国のいろんなところに働きかけて、募金をして、そして新学校を建てたのが今の現在の新学校なんですね。
で、立派な新学校だなと思って驚きながら、そこで私も教団総会や、宗谷生会とか、そういう時におりおり来て、そして留めてもらったりもいたしました。
ところが今思えば、費用も結構かかるものですから、手を抜いたわけではないんですけども、予算上それしかなかったんでしょうが、結局ブロックを積んで、そして建てるっていうブロック作りの新学校が今の新学校なんですね。
ですから最近で言うならば、震災やいろんなことがあって、それでやはり耐震の問題がそこに引っかかってきて、そこで宗谷生会やそういう大勢集まってするっていう集会はダメですという、そういうことがありました。
ですから4、5年前から、宗谷生会は赤城一丸教会とか、それから神戸中央教会、2つの教会で現在交互にするというようなことでやっておりますし、また入学式卒業式もね、今度は卒業式どこなんですかね。
赤城一丸です。
赤城一丸ですか。
そういうふうに、そういう教会を使って、そしてやらなくちゃいけないというような大変切発になった中に来ているわけですね。
それで持ち上がってきましたのは、やはりこのままではどうにもならないから、新しく献金をして、そして新学校を建てよう。
思いますのに、最初の校舎も、そして2回目の建物も、これはもう、1回目なんか私は全く存在しておりませんから知りませんけれども、ほとんどが英国日本電動体の方からの、あるいはそれに協賛する教会や神戸の方々が献金されたことによってこんなに立ったんでしょう。
09:20
2度目もそう。2度目というのは1960年代ですから、当時私たちのこの教団で、じゃあ献金しましょうと言って、できるような経済力のある教会を打たれば、本当に2つ3つぐらいできる。
たるみ教会とか、神戸中央教会とか、あるいは西部教会もそこに入るかと思いますけれども、それぐらいの教会しかないですね。
あとはもう自給するだけでも精一杯というような現状ですから、ですから当時の電動体も日本Sに呼びかけるということはあまりなさなかったんじゃないかなと。
ですから私の記憶の中ではですね、ある時突然新学校が新しく立ったっていう、そしてそこでもて修和政権がある教団総会を行われるようになったということで、そこにこのレムクっていうようなことで、あらあらと思いましたよ。
ですから日本人による日本人の手によっての新学校というのは、今回が初めてのことなんですね。
考えてみますと、ですからそこまで日本の教会も成長して、そして自分たちの手でもって新学校を立てようっていうようなね、そういう機運の中に今あるわけです。
そしてまた祈りの中にあるわけですけれども、今朝私はテキストとして開きましたのが、読んでいただきましたこの古林と大尉の手紙の発祥の言葉です。
この発祥、旧祥っていうのは、確かに献金のことについて触れてるところなんですね。
この発祥の、読んでいただきましたのはこの9節からですけれども、もう少し背景として知りたいのは、この1節以下に、
さて兄弟たち、私たちはマケドニアの諸教会に与えられた神の恵みをあなた方に知らせようと思います。
苦しみの家の激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらずあふれてて、その惜しみなく施す富となったのです。
12:11
ありがとうございます。
多分合わない。乱詞が。
ちょっとまあ、きっかけですから。
あ、駄目ですね。
ありがとうございました。
こうすると老眼が入りますから。
これ老眼入ってませんでしょ。
あ、そうですか。
ちょっとね。
で、今読みましたところを見ますとですね、マケドニアの諸教会がこの献金にこうして、そしてつなげてきている。
というのは、当時エルサレム教会から始まったんですけれども、ご承知のようにこのエルサレム教会というのは、ペトラムの石球によって3000人の人たちが信仰を持って、そして教会に加わった。
私たちは幸いにも隣を見ても前を見ても後ろを見ても、みんな知り合いの方ですよ。
120人ぐらいまではだいたいそういうふうに、それぞれ知り合いになれました。
私も、ひとまる教会もそうですが、その前の平方希望教会におりましたときにも、だいたいその近くまで教会の人数が増えた。
牧師の目から見ますとですね、だいたい見たら、あ、今朝誰が休んでいるとか。
あとでもずっと思い出してみますと、100人ぐらいまで思い出して、そして名前を上げることができます。
だいたいそれぐらいが限界。
ところがね、そういう中に3000人が加わっちゃったら、想像できますか。
教会の人を探すのにですね、大変なわけですよ。
前を見ても隣を見ても後ろを見ても、みんな知らない人たちばかりでした。
しかもよくこうことを聞けば、同じイザヤ人であっても、どうも言葉が違う。
人の働きのスコアを見てまいりますと、日常の始めを見てまいりますと、いろんな外国の言葉を使うこのイザヤ人たち。
で、彼らはエルサレムでもって、たぶん五巡節というこのユダヤの三大祭の一節ですけれども、そのためにみんな世界中から集まってきたわけですよ。
ヘブロ語を使えるようなユダヤ人はごく少数、ほとんどが違う。
それが後々いろんな問題もそこに生まれてきたんですけれども、それはそれとして、それぐらいの人数になった。
中にはね、本当に自分たちは今まで何も知らずに来たけれども、しかしここに来て、初めてイエスキリストのことを知り、
15:03
そしてまたイエス様が私たちの罪のために従事家にまでかけられた。
私たちの罪は許されたという、あのペトロのメッセージによって自分はイエス様を信じた。
これからも信じていこう。だったらもうこのままエルサレムに留まった方がいいんではないか。
また違うところに移ってて、そしてそこで生活するよりもということで、大勢の人がですね、かなりの人たちがそこに残った。
そのために教会はね、バルナバなんかはそういう中で一つの例として挙げられたんですけれども、
ある人はもう自分の財産もそのために捧げて、そしてそういった大勢の人々の賭けを補う。
みんなでもってしないと、この3,000人募集わった人たち、しかも中には転職もないし、
もうこのままエルサレムに留まってという中におるわけですから、その人たちの経済力を、経済を助けるためにそうしなくちゃいけない。
エルサレム教会は急に、突然のようにしてそういう大勢が集まったものですから、そういう問題も確かにあった。
しかし、それだけの大きな働きをしたこのエルサレム教会は、やはり当時の関係というのでしょうか、
そういう人たちの目にもとまって、そしていつもより放っておいたらね、
あんなYESという名ざれが出てきたのはわけのわからないのが、この生き返ったとかなんか言っている。
あんなのはもうダメだということでもって、特にイデア教徒たちがその教会に対する迫害を始めたわけですよ。
それでそこにおりたいけれども、しかしここにそのままおるわけにはいかないということで、いろんなところに散っていったわけですね。
それで彼らは散っていったんですけれども、しかし彼らはせっかくイエス様を信じたわけですから、
そこで何人か集まっては祈り会を始めたでしょう、集会を始めたでしょう。
そういう小さな群れに、ですから書き送られた手紙の一つが、ペトロ大使の手紙であるとか、大尉の手紙。
これはディエスポラというですね、いわゆるエルサレムでもって信仰を持ちながら、しかし地方に出ていったそういった人たちのために、
ペトロはそういう手紙を書いているとして励ましたわけですよね。
エルサレム教会は、そういう背景の中でもって、とても大きくなった教会であります。
しかし迫害も起きてきた。そして大勢の人たちが去っていった。そして起きてきたのは、やはりこの経済的なそういう問題でしょう。
最初はエルサレム教会もどこにできた、この小さな群れのために援助をして、そして彼らをサポートしたと思うんですよ。
18:02
エルサレム教会のスピリットが、やっぱりそういうスピリットでもって、この生まれた教会ですからね。
ですから、どこに小さな群れができた、ここにも逃げていった人たちの中に群れが生じたといって、そしてそれらの群れをエルサレム教会は助けていった。
しかしそうしていくうちに、エルサレム教会そのものが、いろんな点で人数が少なくなるし、経済的なそういった力もなくなってくるという問題が生じてきたんです。
それをいち早くね、じゃあ私たちが今度はエルサレム教会をはがる教会なんだから助けようじゃないかといって、言い出したのが、実はこのコリントの教会なんですね。
ですから、今読みました中で、八章の七節あたり返しを問い合わせてみますと、
あなた方は全てのことに、すなわち信仰にも言葉にも知識にもあらゆる熱心にも、私たちから出てあなた方の間にある愛にも富んでいるように、この恵みの業にも富むようになってください。
こうは言っても、私は命令するのではありません。ただ、他の人々の熱心さをもって、あなた方自身の愛の真実を確かめたいのです、ということをこう言っています。
最初、エルサレム教会を私たちの手で持ってこれから捧げて、そしてそれでもってやっていきましょうと言ったんですね。
ところが、この言い出しっぺは良いのですけれども、なかなかそのコリントの教会は、じゃあどうしているのかと言ったら、実際の行動にはどうも遅れて、そしてむしろそのコリント教会のそういう提案を、それを受け止めたマケダニアの教会、あのフィリピンの教会であった小さい教会でした。
21:03
こっちの教会の方が、そうだ、私たちが今度はエルサレム教会を支えましょうと言って、今のこの発祥の始めに書いてありますように、彼らはまだ十分な力はないのですけれどもね、けどそういう乏しい中から献金しますと言って、彼らは献金をしだしたんですね。
それで彼らの理解は、この恵みの業ってパウロは書いておりますけれども、この恵みの業に私たちも加わりたい、そして加わりたいということを申し出すわけじゃない、もうすでに彼らはそういう献金をパウロの元に寄せてきているんですよ。
じゃあコリントの教会はそれ以上にしているのかと言ったら、そうではない。それでこのパウロは改めてあなた方が言って、そしてマケダニアの教会の人たちがみんなが、じゃあ私たちもそれになろうと言って言い出したんだ。
だからあなた方はこれから率先して、エルサレム教会のために献金すべきではないかということをここで言っているわけですよ。
その一文がこの八章九章においてパウロがそこで持って述べている内容なんですね。
ですから読んできますと、確かに献金のことについてという、それが中心にして私たちは理解するわけです。
しかし私はその中でもってこの九節、先ほど読んでいただきましたこの九節ですね。
あなた方は私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち主は富んでおられたのにあなた方のために貧しくなられました。
それはあなた方がキリストの貧しさによって富むものとなるためです。
パウロは確かに具体的にはエルサレム教会のためにあなた方が言い出してくれたその献金をマケダヌ教会も始めた。
だから一緒にやっていこうということをそこで言っている、それ具体的な術なんですけれども。
しかし私はこの今の九節を改めて読み返したときに、むしろパウロの本位はこの九節にあったのではないか。
イエス様は私たちのために貧しくなられた。
これはご承知のようにイエス様は天にある栄光を、そのすべてを奉祈なさって、そして私たちのこのところにまで人間の形をとられてそれでおいでになった。
24:04
パウロの徳、キリスト論とも言われておりますが、あのピリピリと言う手紙の二章においてのイエス様の姿はまさにこの光景なんですね。
しかもイエス様はそのピリピリと言う手紙に書いたこのパウロの文章によるならば、彼は人となられただけではない。
下辺の形にまでなられた。天における一切の栄光を全部言うならば奉祈なさって、そして彼は私たちのところにおいでになった。
それは私たちが神の恵みの豊かさの中に、これからさらに新たにされて生きるためなんだということをパウロはそこで説くわけですよ。
このコリントの教会に書き送ったこの一文も同じ思想と言うんでしょうか、同じ主の御心というものをそこに彼は受け止めて、そしてこれが本意なんです。
献金するのはその次のこと。私たちが知るべきことはイエス様が私たちのために何をしてくださったのか。
これを知らずして私たちクリスチャンのそういうこの生活のその基準というのはそこにはない。
主が私たちのために何をしてくださったのかという、それが私たちのあらゆる働きのあらゆる行為のこの動機ということをパウロはここで持って一つの献金という形においてその動機をここに求めるわけですね。
ですから言い出したのはかっこよかったけれどもさっぱりやっていないという、じゃあなぜそうなったのかということを考えると、コリントの教会にこの恵みが本当に生かされていないのではないか。むしろコリントの教会には別の問題。
パウロ自身に、パウロという人は確かに彼は私たちにこの大きな献金を持って人として住まった時を知っているけれども、しかしパウロはペトロさんたちのように直接イエス様から任命されて人となったのではないのではないか。
だからこの私たちとは違った考え方で持ってやっているというような、そういうパウロの本来主が与えてくださったこの使命ということに疑いを持たせるとかね。
ましてこういうお金の問題になってくると、この教会は、それは自分のためにいろんな教会に行って、そして集めて、そして自分を利用するためにやっているのではないかというような、そんなこの限りまでこのコリントの教会はパウロの個人に対していろいろな抽象を見えたことを言ってきたわけですよね。
27:09
ですからパウロにとっては本当に心痛むことである。
このコリントの教会が、じゃあエレステルの教会のためにと言ってくれた、それを自分は喜んで、そしていろんな教会にそのことを言ったら、その周りの教会がそうだそうだと言って、みんなエレステルの教会を助けようと言ってやったにも関わらず、肝心のこのコリントの教会は、
そういうね、間違った事柄でもって教会が汚染され始まった。そういうことも実はこのコリントの手紙の問題としてそこに挙げられているんですよ。
ご承知のようにコリントの最初の方では、コリントの教会の中には、私はあの優弁家のパウロを尊敬していきたいんだっていう。
いや私はもう本来人としてはペトロさんだからペトロさんについていくっていう。
いや私はもうイエス様なんだからキリストだって言ってですね、まあそれはいいでしょうけどもね、みんな天然バラバラになってしまったっていう、そういうところも問題としてはあったわけです。
そしてこう読んでいきますと、この旧説のこの言葉に徹していないとこの人たちの中には、モラル的にはもう考えられないような低い、もう犯罪と言ってもいいような、そういう問題でもって彼らはお互いに裁き合うし、罵り合うし、私たちが中心になった、私たちこそ本物なんだと言って、こうやっているようなこの教会。
ですからもうパウロはね、どれだけその後のために心痛めてきたことか。しかしパウロはそういう教会っていうことをよく知って、この教会に何が一番必要か、具体的にはエルサリムへの献金でしょう。
しかしそれを前にあなた方の知るべきものは、主があなた方のために何をしてくださったのか、ということだ。それがこの旧説の、主は富んでおられたのにあなた方のために貧しくなられました、それはあなた方がキリストの貧しさによって富むものとなる。
そして改めてこの献金のことについて私の意見を踏みましょう、それはあなた方の益になることだからと言って、彼はここから献金のことについて触れていくわけですよ。
ですから旧説を無くして、この十説からの彼の勧めは、そこにはこの生まれてこないと言ってもいいぐらい旧説のこの重さというのは非常に大きいわけです。
30:06
しかも旧説、十説の、今読みましたこれは、言うならば私たちがクリスチャンとして献金をするその時のこの姿勢の中に、いつもここに留める、それはイエス様のこの姿だということですよ。
ですから私はどのような行いも、献金もその一つですけれども、奉仕も、すべてがこの一つの言葉にかかっている。
これを動機としてその働きに加わる、あるいはその献金を捧げるにしても、これを動機としてそれをしなさい、すべきだ、というのがこのパールの違反としているところですね。
私はもう今回のそのご用のために新学校に置いたし、別に資料があったわけではない、もう少しこれだったら詳しく調べてみてもよかったなと思ったんですけれども、手元にありました信仰の報酬というね、
ゴッド・フレイ・バクソンの息子さんがお父さんのバクソンの伝記を書きなさった、そこをずっと読んだり、それから長く日本聖書協会の創世主をなさっておられた宮古田恒太郎、この宮古田先生のお父さんも末世時代にこのバクソンの下でもって養われたそういう方なんですね。
この宮古田先生の書きなさった書物などを通して、大体の枠というものに、あらためてそれを知りました。
私は信仰の報酬は新学校に入る前に一度読んだ。そして新学校に終わるときにまた一度読み返した。そして今回またざっとですけれども、もう一度この信仰の報酬を読みながら、あらためてこのバクソンという方の大きさって言うんでしょうかね。
私は本当にこういう方の働きの中の一つの実として、今私たちお互いがあるということにあらためて感謝しました。
今晩もありますけれども、NHKの11時という遅い時間のテレビにダウントン・アビーという、これは英国貴族のそういう様子をドラマ化した人間ドラマって言うんでしょうかね。
33:10
いろんな人間関係やそこで起きる問題に対してのそれが描かれてきてるんですけれども、あれを読んだときに、英国貴族っていうのはこういう生活を買ってなさってたんだなと。
バクソン先生もですから、ヴィクトリア王朝からやるサーという称号をバクソン家はいただいて、そして英国の中においての有力な貴族としてそういうのがあった。
ですから、これは宮本先生の本のほうだったでしょうか。今現在そのバクソン邸は新学校として用いられている。
その写真を見ますと、今のNHKでやってるようなダウントンのお城みたいな、そういうこの。そこを新学校にして、そして私たちの教団の中にもかなりの先生たちがそこで学んで、そして牧師職に預かっているという方々がおられ。
広い邸宅で、私は行ってないんですから、聞いたのでは、バス停がいくつもあるというような。今のテレビを見ておりますと、なるほどな、これだったらばそういうバス停がたくさんあっても、その邸内でもって狩りをしたりね。
ジョーカーでザーッとこの電車をめぐったり走ったりというような、日本じゃとても考えられない。そういうバクソン邸にこのバクソン先生は生まれて、そしてこの先生は20代のときにやはりアメリカで大きな働きをしました、
このD.L.Moodyという方がケンブリッジに来る。このケンブリッジというのはもう最高ですからね、あの靴屋と一緒に。ところがMoodyという人は、何屋さん、大工さんじゃない、靴屋さんか、もう全く無学の方。
けれども彼はアメリカにおいて大きく用いられて、そしてやはりアメリカのあまりの英語を使うということで、英国の人たちはみんな馬鹿にしたそうですけれども、最初のこのケンブリッジの集会はみんな学生が冷ややかな対応をしたそうですよ。
けれども彼が得福音の前に、やがてこのみんながシーンと静まに帰って、そしてこの福音を聴く。で、そういう中でもってバクソン先生はこのMoodyの集会でもって救われて、そしてその後先生は献身する。
36:09
英語教会というのは日本で言うなら聖皇会ですから、ウェストミニスター寺院とかそういう有名なのがありますけれどもね、国教会ですから。
ですからその中でもってバクソン先生は信仰を持ち、そしてまたそういう中でもって献身して、そしてその献身をしたときに先生がよく自分の霊の故郷というふうに表現をなさっておりますけれども、やはり英国のケジックという、そこで行われている収容会。
バクソン先生が日本式に言うと伝道師のときにその師官のペーブロ先生が一緒に行こうと言って誘われて、そしてケジックに行かれた。それからバクソン先生とケジックのつながりというのは非常に深くなって。
そしてそのケジックで、そのときにハゾスン・テラーという中国でもって伝道をなさっていたその方がケジックでもって説教をした。そのときに非常な海外に対する重荷が与えられて、そして先生は一体どこに自分はもし召されるならば行くだろうか。
そういうことをなしに先生はその生涯を海外のために自分は召さげようというそういう願いが起こされたそうです。そしてやがてそれは日本に結びついていったわけです。
神様がその偉大なバクソンという方を日本にそういろんなケースを通して送ってくださったということを知りますと、改めてこのような素晴らしい器が日本に来られた。
先生はケンブリッジもそうですけれどもね、英国政府内にもこの人は英国のために必要な人材だからその海外に行くということについてはいろいろと求めるそういうことがあったそうです。
けれどもしかしながら先生の中にはただ一筋に海外においての自分の働きがそこに備えられている。それが神様が私を召しなさった確かなことだ。一体それがどこにあるかわからない。そしていくうちにやがてそれは日本だというそれが与えられて。
そして先生は1900年の初めの方にこの英国を出て、そして日本においでなさった。
私はマクソン先生が、これは信仰の報酬に書いてある一文ですけれども、その先生の日記の中にこういう一文があるんですね。
39:10
1890年11月24日、月曜日、ここに神が私のものを召された国がある。それ私にとっては聖であり神聖にさえ見える。この国が救われるためにこそお互いが多くを放棄した国である。
そして私は神が私をこのような国に引いておられることに感謝に満ちるものであるという、当時の横浜辺りなんでしょう、先生が初めて日本の国を目にした時の感動というのをそこに書いていらっしゃった。
神様がこの国の救いのために私、そしてまた私たちを導きなさった。またこの国のために私たちはあらゆるものを放棄して、そして来たという、そういうこの一文。
あのビクトリア王朝時代の豪華な生活をしておった、そういう文化あるいは生活習慣があったから、どういうのね、日本といったら、どういう世界だったのか。
それこそ明治維新があって、そして今そのあたりは朝が来るでしたか、とか、その前は八重の桜とかね、そういったのがありますけれども。
で、だいたいあの時代の日本ということをこの想像しなさったらいいと思います。まだそんな日本が落ち着いたわけではない。そして文化もですね、そんなにこう西洋文化が入ってきましたけれども、一般の生活になったら本当に考えられない。
バクスン先生は、やがてそこから神戸に来て、そして神戸から自分たちの働きはこのサインだということで、松江に向かわれた。それこそカゴに乗ったり、馬にまたがったり、そして歩いたりということで持って向かっていったんでしょう。
そしてこの文化といったらですね、もしかしたら英国にいった時には考えられないような、そういう事柄がそこにあるわけですよ。おそらく今の感覚でいうならば、今の私たちの感覚でいうならばね、私の娘がベトナムにおりますけれども、それもベトナムもずいぶん違ってきましたよね。
けれどももう一つ前までは、ベトナム戦争でもてあらされたこの国ですから、それこそ生活をもう少しというような、余裕も何もない、本当にこう大変な、そういう時代をアジアの諸国は通ってきているわけですよ。
42:09
そういうこの文化の中に入っていくというよりも、もっと大変だったんじゃないだろうかなと思ったりもするんですね。
けれどもしかしながら戦争の中にはね、娘はこれほどのことのために、私たちのためにしてくださった。そしてこのお方が、ついに私たちをこの国に導いてくださった。そのことを思うとどんなに感謝にあふれたことが。
それからいろんな困難もあったと思うんです。しかし人口の報酬という書物を読んでまいりますとね、そういう問題とか生き違いとかそういったことが全くそこにはないんですね。どんな中でも彼は受け入れ、また自分のところに来る人たちを全部受け止めて、そしてなさった。
で、そのバクストン先生が日本においての働きの大切な使命の一つとしてあったのが、やはり若い、そういうこの青年層に対するところの、やはり彼らをクリスチャンにしまった、彼らがやがてキリストの弟子になること。
ですから宮古田先生が書きなさったのは、バクストンとその弟子たちというタイトルなんですけれども、当時のこのバクストンの下に今も日本のあらゆる教派団体がありますけれどもね、書の係りを持っているような人たちがみんな末裔に行って、そしてそこでもって教えと感化を受ける。
その中の一人が武田俊三という先生。この先生が後にこの新学校ができましたときに、最初のこの校長としてその責任をお持ちなさった。その後を澤村吾朗という先生が受けなさって、そして後は演説に至るまでいろんな先生が係りを持ってこられましたけれどもね。
けれどもその初期の日本の教会というのは、ほとんどが何らかの関わりを持って、このバクストン先生との関わりを持ちなさっている。
ですから私は今の朝が来るというその主人公は、彼女は60歳になってから区医者になる。そして大阪教会の、当時の大阪教会の宮川拗てるというですね、その牧師の下で占領を受けなさるんですけれども。
この方もバクストンが神戸で持って働きをしているときに深い係りを持ちなさった。またバクストン先生はよく同志社に行ってこの説教され、あるいはこの官学にも行って、そしてそこでもって生徒たちにこの講演なさっているという、そういう繋がり。
45:10
しかしもともとは聖公会ですから、あの元町にありますが、あそこの聖見返る礼拝、あそこでも先生は大きな働きをなさっておりますし、神戸英国教会がその近くにあります。
そこでも先生は神戸に来ると、そこでもって大きな集会をなさった。特に1937年、私は一つの設立と思っているんですけれどもね、この37年というのは私が生まれた年なんですけれども、そのときに先生は再び日本に来られる。
そして日本に来られて、そしてそれはいろんなところに招かれて集会をして、やがて日本を去って、やがて手に召されていくわけですけれども、その最後のチャンスに、この今の神戸英国教会であるとか、官学であるとか、同志社であるとか、いろんなところでもって大きな働きをなさる。
東京でも、今は本当にあまり係りがないんですけれどもね、麗南坂教会、あそこの尾崎孝道という先生は、非常にバクソンを尊敬して、そして日本に来られたときには、あそこでね、1000人以上の人たちが集まったそうです。もう本当に考えられないような、そういう集会ですけれども、ですからバクソン先生は、私たちの今の立場から言うとね、
日本イエスさんはもちろんですけれども、日本キリスト教団や、聖公会や、そういうこと、それからやる教会制度に、この範地、教会ということで持って立ち上げたのが、内村勘蔵という先生の、もうこの先生はもう宣教師は全部、早く日本を去っていったらいいというぐらいに宣教師になり、日本の伝道は日本人の手だと言って、
その無教会制度を取り入れたぐらいの方ですよ。けれどもしかし、この内村勘蔵もしばしばバクソンを訪ねていった。無教会ですから宣伝がないんですよね。ところが中には、ぜひとも内村先生から私は宣伝を受けたいという、そういう希望を持った人が現れたときに、内村先生は困ってしまってね。
私は安心を受けたわけではないし、そういう資格はないし、どうしたらいいもんだろうかと言って、訪ねた先がバクソン先生だった。それぐらい、この内村勘蔵はバクソン先生を個人的にもいろんな点で尊敬もし、そしてその説くところにおいては非常に深くこれを受け止めていなさっていた。
そのバクソン先生から大丈夫ですよと言ってね。そしてこの内村先生にその方のためのバプテストなどを勧めなさったという、そういうエピソードもバクソンと内村勘蔵という中の一つのエピソードとしてお聞きしております。
ですからこのバクソンはいろんな点において大きな働きをした。中でも申し上げたいことは、やはり若いクリスチャンたちのための政治学校を建てる。そして早く日本人による日本の伝道がそこに行われるように。
48:15
日本伝道隊というのは、そういう背景の中でもってそのバンドが作られた。しかも私も今の本を読んで改めて知ったんですけどね。日本伝道隊を結成するそのきっかけは、英国のケジックのコンベンションが行われるときに上緑先生に働きかけて、そして上緑先生が同調者を集めて、そしてそこで日本伝道隊が結成された。
最初はワンバイワンミッションという名前だったそうです。しばらくして日本伝道隊という名前にしようということで変わったそうですけどね。そして今その流れは今の日本伝道隊であります。
私はそういう係の中でもって神様が説の中で、あの後ジェームス・ヤマに完成聖書新学校という学校を作りなさった。そして今それは3回目の新学校を建てられるというその時期において、今初めて日本人の手による日本の教会による新学校をそこに建設しようという、そのことが今この始まっていく。
私たちの教会も、私たちの日本イエスキリス教団も、ですからそういう手においてはね、私たちはこのバクソン先生のこの使命ということを今日覚えながら、そして改めてその働きに参加できるようになったお互いであるということを感謝しながら、私たちはそのために何をすべきだろうか。
このことを受け止めて、そして共にこれからのこの新学校のためにまた建物ではなくて、そのところに学ぶ人たちが多く起こされるように、まずそのことをこの祈りの中心的なこととして私たちは、そして結果新学校がそこに建てられるということにおいてのそのことに祈りを求めていきたい。
長くなってしまいましたけれども、一言を祈りをいたします。
50:22

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