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2021-08-08 33:33

2021/08/08:創世記(25)覚えてくださる神様

2021/08/08 聖日礼拝

尹善鎬牧師

創世記 -29


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皆さんおはようございます。 今日も暑い中、本当に一緒に守られて集まっていただいて、一緒に出会いできますことを感謝いたします。
日曜日も皆さん本当に頑張ってね、おいでになって、ある方は歩いて、ある方はバスやある方は自転車に乗ってですね、この暑さを
本当に買ってですね、 教会に集まって一緒に出会いできますことを感謝いたします。
今日も私たちが人の前に座っているんじゃなくて、神の前に謙遜に座って、主の前に心を低くしてですね、一緒に主を仰いで出会いしたいと思います。
一言お祈りいたします。 神様感謝します。今日も主の前に私たちが
身体の姿勢から謙遜にして、心を低くして、あなたを仰いで、主を求める礼拝として全身全霊で礼拝できますので、どうか我らを主の霊で満たして、
あなたの希望で、命で満たして、 イエスキリストは私は命のパンであると言われました。
どうか私たちのこの霊に主の命のパンで満たして、食べさせて生きるようにしてください。 イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。 今日は創跡二十五回目です。覚えてくださる神様です。
皆さんもそう考えていらっしゃると思いますけれども、 人は誰かに覚えてもらおうということはとても嬉しいことだと思います。
そういう意味としてですね、兄弟が互いに覚え合ったり支え合ったりすることは神様の見心です。
先週幸いに私は覚えて祈ってもらおうという兄弟愛を体験をいたしました。
ある教会の先生からこんな e メールが届きました。 ユン先生こんにちは。今日も厳しい暑さです。
先日はリモートでしたがお目にかかることができ、主によって守られ強められている。
ご様子拝見できて感謝でした。 さてこの度、神道さんからの、神道さんからユン先生のためにいくらかでもお捧げしたいのですがと
申し出があり、本日教会からのお見舞いと合わせて先生の講座に送らせていただきました。
心ばかりのお見舞いでありますけれども、神様の祝福を祈りつつお送りいたします。どうぞお受け取りください。
御手による支えと全く癒しを求めて続いてお祈りしています。
こういうメールでした。こんなにも主は、 神道さんや先生方を通して
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私はあなたを覚えているよ。 私はあなたを支えているよと
語っておられます。神様のこんなに温かい助けを信じる人はいつでも主に
頼り強められます。
旧約聖書の内容の中で、今日のこのソドムとゴモラという町が
滅ぼされること、この記事を読みますと、どうしても神様に対するイメージが
怖い神様、裁きの神様とか滅びの神様につながりがちだなと思います。
しかし皆さん、ぜひ正しく知っていただきたい真実があります。
それは、私たちの父なる神様の願いは全ての人が救われることです。
これは聖書全体を通して一貫する真理です。 一箇所聖書を見たいと思いますけれども、
ヨハネノ福音書3章17節に、こういうふうに明確に書かれています。
前に出しますので、ご一緒に確認したいと思います。
神が巫女を世に使わされたのは、世を裁くためではなく、巫女によって世が救われるためであるとあります。
世を裁くためではありません。 私たちを裁くためではありません。
イエース・キリストによって、一人一人が、そしてこの世が救われることが、神様の切なる願いであります。
そのために、私たち一人一人のために、この日本のために、神様はイエース・キリストをお送りくださいました。
なんと感謝のことなんでしょうか。
さあ、字幕は終わりです。
では、今日の19章のストーリーを簡単にお話したいと思います。
アブラムの家に訪ねた人たち、神の御使いとみられる人々ですけれども、その後二人が露都の家に行きました。
そして露都の家で泊まることになりました。
それは、その露都にソドムの滅びを伝えるためでした。
露都は神の御使いである二人をお客さんとして大事にして、お迎えして、心を込めておもてなしをしました。
しかし、二人が露都の家にいるときに、一つのアクシデントが起きてしまいました。
その街の人々の噂を聞いて、なんと男性の人々が露都の家にやってきて、露都の家に滞在している二人を求めました。
06:08
それは、身体の関係を持とうとする強引に求める要求でした。
詳しくは言いませんが、これだけ読んでも、当時ソドムや小村にどれだけ性的に堕落していたのかがすぐわかります。
そこで、その街の人たちの強引な要求に対して、露都は越してはいけない線を越してしまいました。
露都の対応にも大きな都があったんですね。
露都は、この二人が神の見つかりであることがわかったからなのか、ただ彼らを守るためだったのか、
二人を求めるソドムの男性たちに、なんと自分の娘を渡そうとしたんですね。
しかし、それは露都の思い通りにはなりませんでした。
結果的には、露都の娘たちも、その二人のお客さんたちも、ソドムの悪から守られました。
こうして、神の見つかりの二人は、露都にソドムの滅びを話しました。
それを露都が聞いたわけですね。
そこで、この町全体、そこにいる人も動物も建物も全て滅ぼされるという話を聞いて、露都は何とかして、その滅びから逃れるように助けてくださいとお願いをしました。
それが19節と20節に書かれています。
19節から20節をお読みいたします。
ご覧下さい。このしもべは、あなたのご好意を受けました。
そして、あなたは私に大きな恵みを施してくださり、私の命を生かしてくださいました。
しかし、私は山にまで逃げることはできません。
おそらく、災いが追いついて私は死ぬでしょう。
20節、ご覧下さい。あそこの町は逃れるのに近く、しかもあんなに小さい町です。
どうかあそこに逃げさせてください。
あんなに小さい町ではありませんか。私の命を生かしてください。
露都は今、必死に、私の命を生かしてください。どうぞお願いしますと、この行間を読み取ってほしいのですが、詳しくは書かれていませんが、
露都は、このソドムに住むまでには、アブラムと一緒に暮らした年月が結構長くあったのです。
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だから、ある意味で考えますと、彼にも全然信仰がないとは思えないし、
このソドムの滅びについて聞いたときに、きっと彼はいろいろなことを考えたに違いないと思います。
例えば、こんなことではないでしょうか。
あの時、アブラムさんが自分を救ってくれたあの時に、その後、この町に来てはだめだったとかですね。
こんなにも堕落しているのに、今、私は信仰を打ちかけているんじゃないかと、いろんなことを、この滅びの告知を聞いたときにですね、
もうきっと考えたでしょうね。
そこで、助けてください、生かしてくださいとですね、お願いをしました。
それに対して、二人はこう答えました。21節、22節。
その人は彼に言った。よろしい、私はこのことでもあなたの願いを受け入れ、あなたの言うあの町を滅ぼさない。
急いであそこへ逃れなさい。
あなたがあそこに着くまでは、私は何もできないから。
それゆえ、その町の名は、ツワルと呼ばれたとあります。
ここから不思議なことが起ころうとしていますよ、皆さん。
本来であればどうですか。路頭や家族も町の人たちと一緒に裁かれるだろうと思ったでしょう。
しかしどうですか。ここにですね、不思議な神様の哀れみが動き出します。
神の見つかりであるこの二人は、路頭にですね、なんとソドムの滅びから逃れる道を教えました。
これはですね、このタイミングのこと、この時のことを考えたらですね、本当にタイムリーな神の哀れみだと思いますね。
あの見つかりの二人が路頭の家に訪ねたこと、そこから神の哀れみが始まったこと、本当に過ちが全くないわけではありませんが、そんな中でも父なる神様は、今日も最後にですね、神様は油も覚えてですね、路頭を帰りに行ってくださったんですね。
父なる神様は、路頭やその家族のことを覚えてくださいました。帰り見ておられたんです。そして彼らを救うためなんですね。
皆さん、神様の助けは、神様の支えはですね、このように遅すぎることも早すぎることもありません。
12:08
皆さん信じますか。いつもちょうど良い時に現れます。
私たちはですね、これを信じます。
皆さん、東南アジアの国の中で、ミヤンマという国、皆さんご存知ですか、ミヤンマ。分かりません。
多分ご存知だと思いますけれども、今その国はですね、非常事態になっているんですね。
7ヶ月前に軍の総司令官がクーデターを起こしてですね、国がもう混乱状態になって、多くの人々がまた亡くなったこともあってですね。
そこに東南アジア、タイとか近いですし、今までは選挙士がですね、ある程度入りやすい国で、多くの選挙士が海外からですね、行ってました。
教団の女性のN先生もですね、その国で活動しておられたところ、クーデターが直前なのか、起きたすぐなのか撤回してですね、日本に帰国していらっしゃいますけれども。
先週は私、韓国の選挙士でですね、そこで活動していた選挙士といろいろ話をしてですね、
その中でかつてそこにあった一つの本当に神様の助けは、何もしなくても祈るだけでも神様は不思議な形で助けてくださるお証を聞いてですね、首脳みんなを崇めました。
まあこんな話ですね。まあその選挙士は国際選挙団体に属していますから、そのチームでですね、ある本当に貧しい町でですね、選挙活動をしていました。
その中でいろんなですね、いわゆる貧民救済の活動をいろいろしていたところですね、あるときにとても大きな貧民救済のプロジェクトを立てたそうなんです。
ところがお金はありません。
お金がないのにそんな大きなプロジェクトができるかと。
その団体ですね、いつもフェイスミッション、神のフェイスは顔ですね、神の顔だけ仰いで祈るだけ。これがその団体の信仰の方針なんです。
信仰を持って祈り始めました。人にですね、助けてくださいとお願いをしない、手紙を送らない、アピールに回らない、あるいはある程度予算があるかとか、
措置区があるからやりましょう、そんなことでもないらしいです。ただ信仰を持って神の助けを仰いで祈るだけなんですね。
無謀な働きのように考えますか、皆さん。
15:02
そしたらですね、彼らはその団体はですね、そういうふうに祈るだけでも神様はそれが身旨であれば必ず助けてくださるのだと。
それを信じる信仰があって、今までもたくさんの経験があったそうなんです。
それでですね、そのプロジェクトのためにですね、仲間の選挙主たちと、教会があるわけですから、毎日一生懸命に祈ります。
例えば24時間連鎖祈祷をしたり、断食祈祷をしたり、教会に集まって祈ったり、集会を開いたりします。他のことはしません。
もうただ祈るだけなんですね。この働きのために死を、人も財政も満たしてくださいと。祈るだけです。
そういうふうにですね、数日祈っているだけに、ある日不思議なことが起こりました。
なんとその責任のですね、パスタにですね、次から次ですね、不思議なEメールが海外からですね、来るんですよ。
ドイツから、シンガポールから、香港から、アメリカから、韓国から、多くのメールが来るんですね。
明確なメールじゃないですよ。そのメールの愛は何だと思いますか。
そのメールですね、ほとんどがですね、なんと知らない人々からのメールだそうなんです。もちろん普段のサポートしてくれる人や団体もありますけれどね。
しかもですね、このあの時のプロジェクターについては知らない人々がほとんどだったそうなんです。
全然関係のない見知らぬ教会、あるいは神道さんからメールが来てですね、しかもそのメールの向こうはですね、みんな信心深く祈りの人だったそうなんです。
彼らも向こうね、彼らも祈っているうちに神様に導かれてね、あるところは大きく、あるところは少なくですね、
もう選挙献金を送ることをですね、決心して導かれて決心してですね、送りしたいという、そういうメールだったんです。
個人もあったりね、団体もあったんです。
それでですね、あの大きな貧民救済のプロジェクターのための資金が、なんと全て満たされたそうなんです。
皆さんすごくないですか。ただ祈るだけですよ。
見知らぬ海外の教会や団体からもう金銀が集められてサッとするようにですね、送られたんですね。
神様の助けは早すぎることも遅すぎることもないんです。
こんな信仰を持ちたいんですよ、皆さん。
何かあったらですね、あの人にこの人に、何とかね、人に頼りすぎるんじゃなくって。
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ただ神様を仰いで、神様に祈って、神様に助けて、強められて生きる信仰者になりたいんです。
さて、この今日の内容から、このロトの話から、もう一つ教えられることがあるならば、
それは、諦めない神様です。諦めない神様。
神様はロトを覚えてくださいました。
それは言い換えますと、神様はロトを諦めません。
あの戦争で捕虜になった時ですね、彼が、イスラエルの北部まで連れられていった時も、神様はどうでしたか。
いやー、あのロトはもう信仰が足らないし、
諦めましょう。
そうでしたか。そうではないんですね。
神様は、アブラハムを動き出して、アブラハムを用いて、彼らの命も財産も丸ごと救ってくださいました。
今回の滅びの中でもですね、もうこの滅びでソドム・ゴモラは終わりなんですね。終わりなんです。おしまいなんです。
もうこれ以上ソドムで暮らすことはできないんです。
そんな中でもですね、神様はわざわざ2人の密会をロトの家に使わせてくださいました。
そしてロトにその滅びの告知をしてくださいました。
皆さん考えてみてください。
神様がロトに告知をすべき責任とか義務とかがありますか。ないんですよ。
しかしですね、憐れみ深い神様はロトを覚えてくださって諦められませんでした。
一番最初に申しましたように、神の願いは滅びではなく救いなんですね。
ソドムの人たちと一緒に滅ぶことを神様は喜ばれませんでした。
皆さんこの19章で、このロトたちを救うため一生懸命に働かれる神様。
いやこの時代に、この2021年この時代に、この日本の中で、
この日本の中で、我々一人一人をまた皆さんのご家族、友人、知人の方々を救おうとしておられる、
一生懸命に働かれる神の諦めない憐れみが見えてくるんでしょうか。
読み取れるのでしょうか。
ある先生は、漱石の説教で今日のこのストーリーをですね、こういうふうに言いました。
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まるで主はストーカーのようだ。ロトを諦めない。
追っかけてロトを滅びから救おうとしておられる。
諦めず命の手を伸ばし続けておられる。
この愛と憐れみが私たちにも常にあることを気づいているだろうか、というね。
神様がストーカーみたいにですね、諦めず追っかけてくださるんですね。
私たちが信じる神様は本当に追っかけてくださるほど、私たちも諦めず帰り見てくださるお方なんです。
決して私たちは諦めず、人生のすべての時に私たちを握っておられることを確信しましょう。
いよいよ神様の裁きが、ソドム小村、後でジョワルと呼ばれますが、そこに下されます。
その裁きの光景は本当に恐ろしいものでした。
24節、25節を見てみましょう。
その時、主はイオウとヒオ、天から主のもとからソドムと小村の上に降らせられた。
こうして主はこれらの町々と、定地全体と、その町々の全住民と、その地の植物を滅ぼされたとあります。
この聖書の光景が一つの絵画として描かれたんですね。
そして後になって、この絵は世界的な名作になりましたけれども、
あの時の様子をよく描いている一つの絵をちょっと見てみましょう。
皆さん前をご覧ください。
この絵、皆さん見たことありますか?初めてですか?
これがですね、アルベルト・デュラーという方の作品ですけれども、
まあ、想像でしょうね。
ロトと、一番先頭に立てる人がロトですね。
で、二人の女性は娘さん。
で、後ろのポイントがないんだけれども、
左の真ん中のちょっと上にですね、なんか棒みたいになっている、
すでに塩の柱になっているロトの奥さんが描かれているんですけれども、
これはですね、当時クリスチャンの多いヨーロッパの社会を、
いわゆる国境的に封死する絵画だったそうです。
皆さん、今ですね、いおうと日があの街にもう下っているんですよ。
24:03
そうしたらどうですか?皆さん、火事だとか津波だと言ったらですね、
あんな風に綺麗な洋服を着て、そしてヒールを履いて、化粧して、頭を綺麗にしてですね、
あ、危ない、でね、ああいう風に洋服をちょっとこうね、持ち上げてですね、
上品にですね、ちょこちょこ歩いて逃げますか?
そんなことないでしょう。
今、神のさばきが、神の怒りがこの街に下っているんです。
そんな中でも、彼らはですね、その神のさばき、神の怒りがあんまりピンとこない。
信仰は持っているかもしれませんが、彼らの信仰はアクセサリーみたいになっている。
信頼かけている。
今、生きるか死ぬかの、もう危機一髪の絶対絶命の時でも、ああいう風に持てるものは全部持って、
ピクニック箱みたいなものも手で持っているでしょう。
立派なね、服を着て、歩いているあの様子を、当時の栗ちゃん社会の矛盾さ、
名ばかりの栗ちゃん、名ばかりの信仰、文化的な栗ちゃん、クリシャニティという文化はあるんだけれども、
本物の信仰のなかった、あのヨーロッパの社会を風刺する絵だったんです。
あのロトも娘たちも、もうすでに塩の柱になっている彼らは、その信仰は鈍くなっていると見えませんでしょう。
彼らの冷静は暗くなっているように見えませんか、いいです。
ロトが生きていた時代や、その町ソドムは、もちろん今の私たちと、私たちが住んでいる町とは違う部分が多くあると思います。
しかし、教訓的に教えられないのは一緒だと思います。
本物の信仰を持つことです。
信仰はアクセサリーではないということ、飾りにしてはいけないということです。
残念ながらロトも、その妻や娘たちも、神を信じる信仰を深めることができず、
ただのアクセサリーのようにしていたと思われました。
快楽や豊かさに溺れていた彼ら。
きっと、あのギリギリまでその町に住んでいたわけですから、
その町にもっと長く住みたいと、もっとここに暮らしたいという、人間の欲望がいっぱいあったんじゃないでしょうか。
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しかし、神の願いはどうですか。
そこからもう出ていくことなんです。
だから、彼らの願いと神の願いはもう完全に違っていましたね。
もし彼らが少しでも目を覚ましていたならば、信仰が少しでも深められていたならば、
いおうと日の裁きが下る前に気づいたはずなんですね。
それで、もうこれ以上、こういう堕落の社会にいてはいけないと。
引っ越しをしようとですね、いや、もしかしたらアブラのどこに帰ったかもしれません。
しかし、そんなことはありませんでした。
もしかしたら、これが現代のクリスチャンたちを風刺する、指摘している内容ではないでしょう。
ドイツのボーン・ヘッパーという牧師がおられました。1945年亡くなった方ですけどね。
そのボーン・ヘッパー牧師は、当時ドイツやマンネリ化されたヨーロッパのクリスチャンに警鐘を鳴らす、たくさんのメッセージをされましたが、
その中にですね、安価な恵み、安っぽい神の恵みというね、内容のメッセージを語られました。
こういう話です。ちょっと長いので字幕にしましたけれども、私は読ませていただきました。
福音を聞いた者が悔い改めを迫られることなく、依然として球体に留まることである。
また、安価な恵みは、悔い改め抜きの許しの宣教であり、罪の告白抜きの清算であり、個人的な告白抜きの罪許しである。
安価な恵みは、服従のない恵みであり、十字架のない恵みであり、イエス・キリストの不罪の恵みである。
75年前のメッセージですけれども、今の私たちにもですね、耳を傾けて聞くべきメッセージだと思います。
神なるイエス・キリストが、私たちを救うために十字架で死んでくださった。
しかし私たちは、いつの間にか、憐れみ、憐れみ、憐れみだけを言って、信仰はまんねり化されやすい。
そして十字架の恵みを、あまりにも安っぽい恵みにしてしまう。
私が願いさえあれば、いつでも取れる、いつでも手放すことができるみたいな、私に主権があるかのように思ってしまう。
恵みを受けたければ、恵みを受ける。
30:01
そういうふうな、神の恵みを安っぽいものにしてしまう、当時のクリスタルたちを、真夏に告白したメッセージでした。
それでは、どうしたら皆さん、私たちは、神の恵みを尊いものにすることができるでしょうか。
それはですね、何かのノウハウ仕方ではないですね。
まず、我々自分自身の状態が大事なんです。
それは、自分の霊の目が本当の意味で開かれることなんです。
そのために、祈りを求めることです。
だから皆さん、まず祈りからスタートしてください。
祈りについて勉強するんじゃないですよ。
祈りについて説教を聞くだけでは足りません。
例えば、そんな方はいらっしゃいないと思いますが、何十年も祈りなさい、祈りなさい、説教を聞いても、
実際に自分が1分でも5分でも、あるいは1日1時間でも、ひざまずいて祈ることがなかったならば、それはもう意味がありません。
祈ること、喧騒にすること、清く生きることについて勉強するんじゃなくて、実践することだ。
実践が大事。
そして祈ったならば、その後は精霊様に委ねて大丈夫なんです。
私の霊が開かれて、死を正しく知ること、自分を正しく知るように求めて祈ってください。
その人を神様が、今日のロトのように、あるいはさっき冒頭でもお話しましたように、
あのような団体のように、精霊様が不思議な形として助けてくださる。
2ヶ所、聖書を開けたいと思います。
前に字幕を出しますね。
詩編の119編の18節です。
私の目を開いてください。私が目をとどめるようにしてください。
あなたの身教えのうちにある薄しいこと。
皆さん、このように祈っていただきたい。
主よ、私の目を開いてください。
主よ、私の目を開いてくださいと祈るのではないでしょうか。
もう1ヶ所、エペソイトへの手紙、1章、17節と18節。
これはですね、私がお読みしたいと思います。
どうか私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、
神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなた方に与えてくださいますように。
また、あなた方の心の目がはっきり見えるようになって、
神の召しにより与えられる望みがどのようなものなのか、
生徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか。
33:03
次。
そこまでいいです。
私の心の目を開いてくださいと祈ってください。
メッセージを終わりたいと思います。
こうして私たちの霊の目が本当に大きく開かれて、
主の真理を悟り、主の心を知り、また聞き従う熱心さも起こされますように、
心からお祈り申し上げます。
お祈りしましょう。
33:33

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