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みなさん、おはようございます。
今日は父の日ですね。
教会にもお父さんの方々がいらっしゃいますけれども、
このようにまた、主にあるまじわりの中、
また、家庭でも神様が立ててくださって、
また、教会の長老として、兄弟として、
このように信仰生活を送ってくださっているお父さんの方々のために、
励ましと、慰めの拍手を送りませんか、みなさん。
ぜひですね、奥さんのみなさん、今でもいいです、今はちょっとセキュラムですね。
礼拝の後とか、お家に帰ってですね、
今日、温かい心を持ってですね、お父さんありがとうと、
ぜひ、それだけで十分だからね。
もちろんそこにプレゼントがあれば、もっと嬉しかもしれませんけど、
そういうふうに励まして差し上げてください。それも信仰です。
また、今日もですね、このように一緒に礼拝できる、この恵みを心から感謝いたします。
また、この小さき者の癒しのためにも祈っていただいて、本当に心から感謝いたします。
本当にですね、前もそうですが、今はさらにですね、
みなさんに祈られて、支えられている喜びいっぱいの日々を送っております。
先週の金曜日に診察がありましたけれども、
CTを取ってですね、その結果を見たところ、肺炎もだいぶなくなってですね、
本当に小さくなっています。
そして肺炎の治療のために5週間ほど、今、抗がんの治療を止めていますけれども、
幸いにがんの方も大きくならず、転移もなく、むしろ小さくなっているような、
そういうふうな所見が出ていました。本当に主の力です。
取りなしの祈りの力を本当にですね、すごく強くですね、体験する日々です。
全能なる癒し主、神様に、またみなさんにですね、
また見えないところでも祈ってくださっている方々にも心から感謝いたします。
では一言お祈りとします。
天の父な神様、主の全能の皆を賛美いたします。
あなた様は全能の神です。癒し主です。救い主です。
信じる者にその限りない恵みを降り注がれるお父さんであることを信じます。
今日のこの時、あなたの御言葉の前に全てを下ろします。
苦しみもプライドも経験も知識も全て白紙にして主にお聞きいたします。
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どうぞお語り下さり、一人一人に悟りや霊の知恵を豊かにお与えください。
イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン
まあそれでですね、肺炎もだいぶ落ち着きましたのでマスクからこれに変えました。
あの感染のちょっとあの恐れが危険だったのでですね、ちょっと控えておりましたけれども、
今日は創世記のメッセージ続いています19回目です。
今日の題は信頼選択そして結果です。
神様を信頼することとはどういうものなのか一緒に学んでいきたいと思います。
今日の13章を朗読していただきました。
創世記13章に入ってから、この創世記はロトという人に注目をしているんです。
1節と6節にロトの名前が繰り返されているように登場するんですね。
今まではあまりロトの名前が書かれて登場していなかったんです。
今日のお話はアブラムたちがエジプトから出た後からの話です。
アブラムは家畜と銀と金を非常に豊かに持つようになりました。
アブラムだけではなくロトもですね、羊の群れや牛の群れ、また天幕も持っていました。
多くの牧者たちもいました。
みんな大金持ちになったんですね、アブラムもロトも。
でもこの多くの財産が果たして何をもたらすのでしょうか。
そこにも注目したいと思います。
やがて彼らが帰ってきて着いた場所はベテルとアイの間です。
この場所は高度が高い方で今もそうですが丘が多い場所ですね。
平地草芸平野ではないんです。
ヘブロン、イエルサレム、キデオン、ベテル、アイとはイスラエルの地形から一番高いところなんですね。
いわゆる高原自体が縦に続く地形なんですね。
そこに今アブラムたちが帰ってきたわけなんです。
そこに草も水もある程度あったでしょう。
でもどこまでも広がっている草原地ではありませんでした。
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しかしその地は彼らが一緒に住むのに十分ではありませんでした。
聖書に書かれているように彼らが所有するものが多すぎて一緒に住めなかったんですね。
羊も多い、牛も多い、また牧者たちも多いでしょう。
彼らが暮らす天幕も多く張らなければならないでしょう。
人も水を飲む、家畜も水を飲む。
だから食べ物や水やさまざまなものが十分ではなかったんですね。
そのために何が起きたんでしょうか、皆さん。
そのために牧者たちの間に争いが起こりました。
困りますね、多分草のところの争奪戦みたいなですね、水のところ誰が先に確保するかみたいな争いが起こったと思うんですよ。
しかもその地にはこのアブラムの親類、兄弟だけではなく、カナン人もペリジ人も住んでいたんですね。
だからさらに草も水も足りなくて土地も狭かったでしょう。
この争いはこの後どんな結果をもたらすのでしょうか。
彼らの特に牧者たちの争いの挙句、アブラムとロトが別れてしまうことになりました。
争いが起こり、別れが起こってしまったんです。
こんなことが起こらなかったらよかったんですね。
ここでこのような争いが、それから別れが起きたことの始まりについて考えていきましょう。
私たちはそれをアブラムからその始まりを見つけることができます。
アブラムはエジプトに行ったときにはそれほど多くの所有を持っていなかったと思いますね。
少なくとも入ったときより出るときの方が何倍の所有を持つようになりました。
清楚にも彼が出るときに家畜と銀と金を非常に豊かに持っていたと書かれているほどでした。
たぶんあの時の光景はすごかったと思うんですよ。
エジプトに下ってくるときは小さな群れでしたけれども、彼らがどれくらい退場したのかその期間は書かれていないんですね。
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でも彼らが出るときには牛や羊や男奴隷女奴隷、大行列になってエジプトから
外戦将軍まで言えるかどうかわかりませんけれども、そんなふうにして出たわけですから、みんなすごいと思ったに違いないと思います。
とにかく多くの所有できっととても嬉しかったでしょう。
でもどうですか。
これらの所有というものは実は自分の妻を妹だと言って、パラオからその代価としてもらったものでした。
恥ずかしいものであって決してめでたいものではありませんでした。
その非常に豊かな所有が争いや別れ、それから後から起こるロトの家族の災いにつながるもとになったんですね。
まるで小さな火種から山火事が起こるようなものです。
ロトとその家族に起きた後の災いの理由がすべてアブラムのせいですよとは言い切れないと思います。
けれども、よくよく考えたらアブラムにもそこに少なくない責任があると言えます。
皆さんこう見ると、良いものが最後まで良いものとして残るとは限りません。
非常に豊かな所有は、かえって争いや別れ、災いにつながることもあるということを教えられます。
ここで今の時代の考え方、生き方、価値観についてちょっと考えてみましょう。
今の時代は人が何を持っているかによって評価されやすい、評価しやすい時代だと思います。
ものによって人が評価される時代ではないでしょうか。
多分皆さんも否定しにくいと思うんですね。
多くのものや良いものを持っている人は優秀な人だと、みんなから評価されやすい時代です、今の時代は。
乏しい人は、持っていないものは、持っていない人は、劣る人間として評価されやすい時代です。
しかし皆さん、これは今の時代の、この堕落した罪の文化から生まれた、結果中心やもの中心といった世の文化の影響です。
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この世界を作られた神様の心は、それと遠くて、彼らは、そういったものは堕落したものです。
神を信じる私たち、神の形として私たちを作ってくださった神様を信じる私たちは、そういった余的な価値観や考え方に振り回されてはいけません。
神様を信じる人は、物によって生きる人ではありません。
神様によって生かされる人です。
ですから、人の命ではなく、神の恵みによって生きることを学びたいのです。
神の憐れみによって、神の力によって生きること。
信仰はこれを学ぶコースなんです。
皆さん、そのコースをよく通っている中でしょうか。いかがでしょうか。
さて、この所有、それから起こった争い、そして別れ、そして、今日そこまでいけないと思いますが、
ロトットその家族にあった災い、そこまで見るならば、
この出来事は、アブラームに対する神様の裁きのようなものなんですね。
所有から見れば、アブラームたちは祝福されたと言えます。
けれども、その所有や持ち物は、彼らを試す道具になりました。
争いや分裂のもとになりました。
彼らの歩みに大きな違いをもたらす火種になったんです。
ロトットその家族が非常に堕落した街に入ってしまう間接的な原因を、
ある意味でアブラームが与えたと言えるのではないでしょうか。
まあ、言い過ぎかもしれませんが、もしエジプトに行かなかったならば、
もしそこでアブラームが自分の妻を売らなかったならば、
もしそういったたくさんの所有をもらっていなかったならば、
昔のまま小さな棟だったならば、これは仮想ですけどね、
争いもなかったでしょう。別れもなかったでしょう。
それでロトットが守られたかもしれない。
そしてあの堕落に堕落したソドムという街に住むようになることもなかったかもしれません。
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そして自分の妻がね、塩のあの柱になる不幸も起こらなかったかもしれません。
アブラムたちがエジプトで得た非常に高な所有は、祝福でもありながら災いでもあった。
ついに彼らは別れます。 アブラムはロトにこう言いました。
全地があなたの前にあるではないか。 私から別れて行ってくれないか。
あなたが左なら私は右に行こう。 あなたが右なら私は左に行こう。と言いました。
人間的な目で見ればですね、アブラムは年長者らしくですね、ロトが行きたいところにさ、
どこでもいいから先に選んで、優先権を与えたわけですね。
アブラムの配慮というか、度胸がここに目立ちます。
でもそこをもう一歩深く入ってみるとですね、
ここにはアブラムの信頼がかかわされている大事な部分です。
彼が神様を信頼することができるから、このように行うことができました。
単なる配慮、年長者としての寛大さももちろん表面的にはありますけれども、
その中にあるのは神様を信頼するそれがあったんです。
そこにはですね、もしロトが潤う場所、一番いいところを選んだとしても、
そして自分は強く乏しい場所を選んでも、私は大丈夫だ、私の家族は大丈夫だという信頼なんですよ。
草が足らなくても、水が足らなくても、丘であっても、山地であっても大丈夫。
なぜでしょうか。私には神様が共におられるからといった信頼があったからなんですよ。
アブラムはエジプトの失敗から、その神様とその御言葉を信頼することを学びました。
痛感するほどでした。
彼ももう人生に、心に焼き付けられるほどでした。
彼は失敗と憐れみを通して、自分を信頼するんじゃない。
草や水を信頼するものではない。自分の経験を信頼するものではない。
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善能の神様、憐れみの神様、約束に誠実な神様を信頼するんだと。
それを学びました。そしてその道を歩もうと決心したんです。
だからこのようなことができたんですよ。
そして彼が学んだ、その神様への信頼が、このまま別れになりましたけれども、信頼がここに来て、信頼そのものが働きますね。
彼の中にある神様への信頼が、信仰が働くんですよ。
自分と家族の命がかかっていることでしょ。どこに住むか、行く道がかかっているんですよ。
住む場所がかかっていますよ。多く持っている牛や羊のその財産、その生命、それから牧者たち、男、女、奴隷。
後から見れば、露島を救出する国に士兵も行ったわけですから、わかりませんが、100人以上の群れだったのかもしれません。
その生活すべてを、彼はある意味で何もせずに神様にお任せ話でした。
この100人を考えたら、露島があそこは選んでほしくないなと思うかもしれません。
絶対にそこに行ってほしくないみたいにですね。
でもアブランはそれらすべて握っていないんです。
手放して、下ろして、神様にすべて丸ごと投げ出しのように委ねているんですね。
だんだん度胸じゃないんですよ。入れるじゃないんですよ。
信頼から来たものですし、信仰から来たものなんですね、これは。
すべてを委ねる信頼がここにありました。
皆さん、信仰は信頼です。
神様を信じるということは、神様を信頼するということです。
永遠に変わらない確実な神様の御言葉がありますから、この御言葉の上に立って神様に委ねることです。
例えば、今の私たちのこと。
主よ、私の人生を委ねます。
私の健康を委ねます。
私の子供や孫を委ねます。
私の感情を委ねます。
私の喜びや不安も委ねます。
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私の計画も委ねます。
すべてを委ねるコースが、私たちが呼んでいる信仰のコースです。
私たちはこのように神様にすべてを委ねる信者になりたいです。
私自身、病気を通して、委ねるということをもう骨に染みるほど学んでおります。
それは、私が生きるにしても死ぬにしてもです。
人は、もしものことを病気の時や苦しい時に考えることがあるんだなと思うんですね。
そんな不信仰の話を読者がするんですかと言われるかもしれませんけれども、
もしも私が早く死ぬなら、ということをですね、考えたことがあります。
妻のこと、彼女は再婚をするんだろうか、どうするんだろうか、それも委ねる。
4人家族の暮らしや生計、金銭のこと。
3人の子供たちの、今はもう学生だからね、学業や就職、結婚、
もちろんそこには一番大事な信仰、住まい、いろいろ考えました。
でもですね、それらは今の自分で十分に備えることができないんですよ。
もし私が癌で死んだらですね、もう10億円ぐらいもらえる保険に入っているわけではありませんし、
財産がそんなにたくさんあるわけでもありませんし、何もかも準備することもできないんです。
しかも私がいなくなった、亡くなった後のことだから、どうにもならないんですね。
ですから、ですかというより、全てを憐れみ豊かな神様に委ねるのが唯一の方法なんですね。
もう神様を、その憐れみ豊かな、私が信じる全能の神様、愛の神様を信頼して委ねることです。
今もですね、そういった気持ちで日々を送っています。
そして朝、目が覚めたら、起きられたら、「主よ、今日も生きております。感謝します。」と言ってですね、
朝、時には2時、時には3時、4時、起きております。
皆さんいかがでしょうか。
本当に本当に、私は全てを委ねています、と言える信者になっていただきたいんです。
さて、それに対してロトはどのようにしたのでしょうか。
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聖書を読みますと、ロトが目を上げて、ヨルダン帝地全体を見渡したとあります。
そこはどうですか。
主がソドウモトゴモラを滅ぼされる前であったので、その地はツワルに至るまで、
主のそのように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていました。
ここ、よくロトの行動を注目してみましょう、皆さん。
ロトはですね、自分で自分の目を上げて、自分が見たいところを見渡しました。
ツワルという町はですね、あのイスラエルのこの市街がありますね。市街の南西部ですね。
そこは非常に潤っており盛んな町です。
今、ベテルとアイと比べたら、ツワルのところは大都会です。
牧畜するにも暮らしにもよさそうな町です。
草原も低地ですからね、草原も水も他の環境もとても良かったと思います。
しかし、そこはやがて神様に滅ぼされる町です。
見た目はですね、エジプトのようにどこも潤っていました。
多分ですね、今もそうですが平地が広いんです。
水も結構あってですね、草も結構あるんです。
けれども、そこは罪と堕落の町でした。
だから皆さん、このロトの話は単なる引っ越しの話ではないんですね。
これは何を見ているかの問題なんです。何を見ているか。
物質的に潤いを見ていますけれども、信仰的にはそこから乾ききった場所であることを
見ていないんですよ、ロトは。
いや、ロトは見られませんでした。
それは彼の霊の目が閉ざされていたからです。
とても残念です。悲しいことです。
潤いは見ていました。そこにある草は見ていました。
低地だから広々として良い文化になってすごい素敵な町になっていること、
豊かな町であること、それは見ていましたけれども、霊的な部分は彼は見失っていた。
いや、見ることができなかったということですね。
皆さんここに大事な教訓があるのではないでしょうか。
このように肉の目がみんな開かれていても、霊の目はみんなが開かれているわけではありません。
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アブラムは霊の目が開かれていました。
しかしロトは開かれていませんでした。
一人は開かれて、もう一人は盲人のようです。
きついですね。ロトがあのつある低地を選ばなくても、アブラムはそこに行かなかったでしょう。
これは私たちに示すことが多くあると思いますね。
今の時代も同じかもしれません。
同じ状況ですごく恵まれる人がおり、そうでない人がいます。
同じ出来事を経験しても、恵みを勝ち取る人がおり、そうでない人がいます。
同じ経験で悟る人がおり、そうでない人がいます。
私たちはそうでない人にならないために、霊の目が開かれていてほしいです。
今この状況に、ここで私は何を求め、何を見て、何をすべきなのかを、
霊の目が開かれて恵まれる霊の目をみんな持ちたいんですよ。
ロトは自分で決めました。自分が主体になっていました。
そこには神様が働かれる余地がなかったんですね。
ロトはどうしてこのような選択をしてしまったんでしょうか。
さかのぼって見ていったらですね、ロトは最初からアブラムと一緒でしたね。
ウルを出る時、ハランに時々滞在した時、カナンに入った時、エジプトに行った時、
いつも神の人とアブラムと一緒でした。
そうでしょ。一緒だったんですよ。最初からずっと一緒でした。
だから最初からアブラムに与えられた約束の御言葉、彼は間接的に聞いたわけですが、
その一部始終を一緒に見て、一緒に経験して、そばでそれをずっと見ていた人なんですよ、ロトは。
だからここまでずっと一緒だったということは、ロトにも最初はですね、大きな勇気と決断があったからと言えると思いますね。
神の人アブラムに続いていくほどの、最初はね、信仰がロトにもあったと言えます。
しかしその気持ちは変わりました。
今は所有も増えており、草原も狭いし、そのため牧者たちが争っているし、
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これからは自分でやっていけるぞと思ったからです。
アブラムも別れよと言っているから、よしと思ったんです。
もう外的な条件から見ればですね、ロトの考えやその選択に何の誤りもないように見えます。
草原が狭い財産もあり、広い地があちらに広がっているし、独立できるし。
しかしここには、彼に決定的に欠けたものがありました。
ロトはそれに気づいていませんでした。
それは神が共におられる人と離れないでいることです。神の人と一緒に歩むことです。
そしてその人を通して、神と一緒に歩む道を選ばなければなりませんでした。
彼はそれを気づいていませんでした。見失っていました。
何よりですね、この13章以降、どこを読んでもですね、ロトが何より、
主よ、私はどこに行けばいいんでしょうか。今このような争いがあるときに何をしたらいいんでしょうか。
どうしても別れるならば、どこに住んだらいいんでしょうか。どこが神の町なんでしょうか。
どこが恵まれる場所なんでしょうかと聞くべきでした。
その答えを求めて、答えを待つべきでした。
しかしロトはそうしませんでした。
どこにも書かれていないんです。
ただ自分で考えて、自分で見て、自分の経験から判断して決めました。
そこにはですね、神様に祈り求める心が欠けていました。
神様から見れば、ロトの人生に神様はちょっと入って、介入できる余地がないんですよ、隙がないんですよ。
介入できない、関わりたくない存在にされてしまったんですね、神様が。
神様と関わろうとしないロトがここにいます。
このような考え、その選択は、時には耐えられないほどの恐ろしい結果をもたらすこともあります。
ロトの物語がそれを代弁します。
一言で申しますならば、ロトに欠けていたのは神様への信頼です。
ああ、アブラウムに語られた神様が自分にも語られるんだ。
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アブラウムに与えられた約束の御言葉は、私にも与えられたものなんだ。
私もその約束の恵みに預かり続けようと思っていたらよかったんですね。
これを握ったらよかったんです。
しかし、ロトは神様の約束への信頼を見失ってしまいました。
アブラウムはエジプトでの失敗の経験がありました。
しかし彼は、その出来事を通して、より深く神様を信頼するようになりました。
アブラウムもロトも、ある意味で同じ経験をしたわけですよ。
しかしどうですか?
一人は信頼を経験し、もう一人は経験できませんでした。
皆さん、どこまでも神様を信頼しましょう。
どんな時も神様を信頼しましょう。
人生や教会の歩みに、いろんな出来事が起こります。
嬉しいことや悲しいこと、元気や病、春のようなこと、冬のようなことなど、
たくさんのことが起こり続けているような人生ですね。
私たちは、そこからより深い恵みを勝ち取り、
より神様を信頼する成熟を勝ち取りたいです。
見失ってほしくありません。
ネットであるクリスチャン新聞の記事を読みました。
教会の未来学者というか、そういったこれからの教会のことを研究したり、
リサーチする人々が世界中にいますけれども、
そこでこのコロナというパンデミックが世界中にあってですね、
このコロナパンデミックの後、いわゆるポストパンデミック、ポストコロナと言われます。
その時に、教会のメンバーの中、また教会たちの中に、
3つの部類が生じるだろうと言われています。
よく聞いてほしいんですけれども、
このパンデミックから、より豊かな恵みと成熟を勝ち取る信者がおります。
また1つの部類は、パンデミックから何も学ばない、何も勝ち取らない信者がいます。
3つ目は、パンデミックでむしろ信仰が落ちてしまう信者が生じると。
なるほど、確かにそうだなと思います。
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パンデミックだけじゃなくてですね、いろんな経験を通して、
あるいはですね、単なる礼拝、説教を通して、学びを通してでもそうなんです。
小さなことから大きなことまで、恵みを勝ち取り成熟し悟る人がいる一方で、
何も変わらない人もいますし、むしろ落ちてしまう人もいます。
その割合は分かりませんが、不思議にもそういうふうに生じてくるんです。
皆さんは今どこに入っているでしょうか。
このコロナというパンデミック、あるいは今皆さん個人個人が置かれている状況、教会の状況、
あるいは私からあれですけれども、僕自身の病気を通して皆さんは深く悟って、
深く恵みを勝ち取って、そこから喜びを吸い取って、そういうふうに歩んでいらっしゃるでしょうか。
前と今と比べて特に何も変わっていないでしょうか。
あるいは、むしろつぶやきや不安や費用が増えて、信仰が落ちてはいないでしょうか。
メッセージをあげたいと思います。
願わくは、病棚教会のメンバー、皆さん一人一人が、みんながどんな状況の中にいても、
そこで神の恵みを勝ち取り、神を信頼できる信仰を神様からいただけてあげると願っております。
アメン。お祈りしましょう。