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私は、神の作品というシリーズの第4で、御霊の流れを見つける、2番目という形で、四先生よりメッセージをしていただきます。
改めて皆さんおはようございます。今日も礼拝にようこそいらっしゃいました。
それでは、メッセージに入る前に隣の方と挨拶をお返ししましょうか。よろしくお願いします。
はい、それでは一言お祈りさせていただきます。
もし、私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて進もうではありませんか。
アーメン。
主よ、この朝も御霊に導かれて、この宮に登って参りました。
主よ、どうぞ、肌中に、この真ん中に神様が御臨在なさって、
今日では聞くことのできない、あなたの命の御言葉を一人一人に語り分けてくださって、
外出してくださって、その身胸のままに生きるものとさせてくださいますように、お願いをいたします。
全てを御手に委ねます。主よ、どうぞお語りくださって、我らを憐んでください。
神様の御名によってお祈りいたします。アーメン。
今、シリーズメッセージ、今日で4番目ですけれども、先週のメッセージの内容、続きですので、ちょっと振り返ってみたいと思います。
私たちは、なるはずの自分と、実は今の自分の間にギャップがある、溝があると申しました。
それは、罪のゆえであるということでした。
でも、このギャップ、この溝を越えるのは、自分の力や武力によってはできないということ。
ただただ、神様の恵みによって、なるはずの自分にならせていただけるということを申し上げました。
それは、まるで海でサーファーが波に乗るように、三玉の流れに乗ることと似ているとお話をしました。
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今日は、このメッセージの続きとして、三玉の流れ、神の命という言葉を持ってお話をしていきたいと思います。
まずは、例的に言いますと、三玉の流れを体験することこそ、私たちを生き返らせる唯一の力だと信じます。
皆さん、普段、聖書をお読みになっているでしょうか。
聖書を見ますと、命あるいは三玉にある命という意味を表現するのに、
聖書はよく川あるいは泉という言葉がよく例えられているのです。
その中で、聖書を開いてみたら、川が旧約、新約を合わせて150回出てくるのです。
多いでしょう。そのほとんどが、実はこの命あるいは三玉にある命を表現するものだと思うのです。
そこには、このイスラエルのことを理解したらすぐ分かると思うのです。
皆さんがご存知のように、イスラエルという地は、草が全部全くないわけではありませんが、
土地のほとんどが荒野な砂漠のような砂みたいな、あるいは石と言っても岩と言っても、
手ですぐに粉々にすることができるほど、そういう地がほとんどなのです。
だから、イスラエルには川というものあるいは泉というものは、実際に彼らには神様の恵みなのです。
なぜなら、一年中雨がほとんど降らないのです。とても乾燥なところでありますから、普段は川ではないところがあるのです。
谷なんだけれども、水がないのですよ。私も一度行ったことがあります。
とても深いヨルダンとイスラエルの国境に、イスラエルのグランドキャニオンと言われる深い谷があるのです。
白いのです。でも水がないのですよ。ところが年に、聖書は年に二回雨が降ってくる。
そしたらそれが急流ができて、川が流れていく。そして泉がなかったところから泉の水がぽんぽん湧いてくることがある。
だから、神様が雨を降らせてくださらない限り、あそこには命が生きられないということです。
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私たち一人一人と聖霊様の関係も同じだと思います。
三玉の川が自分の私たちの内側にあふれ流れるときに、私たちは生きるのです。生かされるのです。満たされるのです。
しかし三玉の川が、泉が枯れてしまっている。そしたらどうなんでしょうか。
その人の心も魂も枯れてしまう。疲れ果ててしまうことなんですね。
ですから三玉の流れの中にいること、三玉の流れを見つけてその流れに乗って生きるということの一つの主力は、
神様から来る力によって生かされていること。そして生きている喜びが内側からあふれるようになるということではないでしょうか。
ですから皆さん、私だけの周りのクリスタンの方々を見ますと、
イエス様の身姿に近づいていて、なるはずの自分に近づいているクリスタンの生き方を見たならばですね、
いつも命に満たされているんです。それはですね、何を持っているのか、どんな仕事をしているのかは全く関係ありません。
まず、生きても満たされている人がいる。しかし、飛んでいても枯れている人もいるわけなんですね。
皆さん、私たちを作ってくださった神様、今も守ってくださって導いてくださる神様の望みは何でしょうか。
皆さんお一人お一人に向かう神様の望みは何だと思いますか。
それは、私たち一人一人が神様の流れに乗って、神様に満たされて生きることではないでしょうか。
命に溢れることではないでしょうか。キリストに満たされることではないでしょうか。
願わくは、私たちがキリストイエスにお出会いしてから、このような生き方の持ち主になりたいんです。
神様の命に溢れる人生、枯れて枯れて疲れ果てている人生ではなく、年と関係ない、持ち物と関係ない、健康とは関係ない、
神様の流れに乗ってスイスイと進む人生、溢れるほど満たされていて、たくさん人に分け与えて与えて与えても、
自分にはまだまだ溢れる人生になりたいと思いませんでしょうか。
ところが、この溝を盛り上げることができる、なるはずの自分になること、花咲く人生になることを邪魔する要素があります。
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今日は正直にそれについてお話したいと思います。
我々の生徒を妨げる要素が、実は私たちの中にあると思うんです。
それは、自分はあるがままで神様から愛されている、あるいは神様は罪人の自分をそのまま愛してくださった、と私たちはそういうふうに信じています。正しいことであります。
また、神様の無条件で一方的な愛は福音が持つ大切な要素だと信じます。
ところが皆さん、この日本の社会というのは、日本の10代ですよ。
10代の子供たちは、自分には何も価値がないと思っているのが、世界で生きた。
だから、教会は、その10代であろうが、40代、50代の人々の魂を獲得するために、あるがままの自分のために命を捨ててくださった神の愛を私たちは伝えています。正しいことです。
それが、この自己価値がものすごく低い人々に、正しい自己価値確認のニーズを満たすための福音の一要素だと思うんですね。
そのために、多くの教会では、魂を獲得するために、あるがままでいいよ、今のままでいいよという面を、とても強調してきたのではないかなと思います。
しかし、これは福音の一要素ではありますけれども、これが福音の全てではないのです。
あるがままで愛されたら、もはやあるがままではいられないのが福音なんです。愛とは交わりであって、応答の世界です。
あるがままで愛された者は、どうなるのでしょうか。この者をこのままで愛してくださった方に、喜ばれるような自分になりたいと願うのが当然だと思うんですけれども、皆さんはどうでしょうか。
言い換えるなら、あるがままで愛された者は、その愛に応答して、今のままの自分から神様が願う自分へ、我がままの自分から御所のままの自分に変えられたいと願うのが、聖書の教えではないでしょうか。
それが福音ではないでしょうか。ところが、どういうわけか、このあるがままの愛が福音の全てになってしまうクリスタンがいます。
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それが、理解していただきたいのですけれども、あるがまま、今のまま、ずっと我がままのクリスタンです。そこには理由があると思います。
その福音理解は、ちょっとピンと外れのものだと思います。神様は自分をあるがままで愛しておられる。だからずっと今のままでよいと思ってしまうことです。
これは、あるがままで愛されていることを、自分が変わらず、悔やためず、ずっとそのままでよいと、自己も断定してしまうわけなんですね。
ですから、聖書は心の意思によって自分を変えなさいと命じていますねと問われても、変えなくても愛されているんだからこのままでいいでしょうと、自己満足の答えが返されたりします。
あるいは、聖書の言うとおりに、英語から英語への主の御姿へと変えられましょうと勧めれば、変えらなくても愛されているんだからいりませんと固くなままになりがちです。
聖書は愛されなさいではなく愛しなさいと命じていますね。あるがまま愛されたその愛で人を愛する者に成長しましょうと招けば、今のままずっと愛される川にいたいと拒否するかもしれません。
皆さんはこのようなクリスタンを見たことありますでしょうか。なぜかこのタイプのクリスタンにとっては大切なのは、あるがまま愛されている自分であって、あるがままを愛してくださっている神様ではないようです。
あるがままは確かに福音の重要要素であります。でもそれが全てとなれば、それはもはや福音と呼ぶべきではありません。天口の福音でさえないと私は思います。
皆さん、人があるがままに受け入れられたら、無条件の愛に触れられたらどうなるでしょうか。自分自身をその人のためにその方のために捧げたいという願いが起こるはずだと思うんですね。そう思いませんか皆さん。本当にそうなんですよ。
簡単に言えば、そこには根本的なことがありますね。実は、実は無条件の愛に十分に触れられていないからだと言えます。
実はその十字架を通して裸の自分を神の前に持っていっていない。実はありのままの自分を持っていっていない。ただ気取っている、偽っているということが言えるでしょう。
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その明け渡っていない自分は、どこまでも自分の世界で生きるという固くなさがあると思います。自分の力によって生きるその十字架が深く横たわっているんです。見えないところです。
それでこれまでその自我をもう覆い隠しながら、人間付き合いも自分なりに上手にやってきます。ところが聖書はこれまでの自分の振る舞いが決して通用しない、全てを見通す神様がおられることを教えられます。
だから神のその十字架の愛に本当に触れられたならば、人は変えられるはずです。あたたけの救いは罪からの救いです。古い自分が十字架でキリストと共につけられて死ぬということ。しかしそれは死んで終わりじゃなくて、新しい解放が与えられることです。
だから自分を捨てるというのは喜びの知らせなんですね。そしてキリストの姿に見せられるという人間本来の姿、神様が最初に人間に与えた目的が自分の中に実現していくのです。
皆さん、本来の自分の姿に戻ることを妨げる要素が何であるかお分かりになったでしょうか。あるがまま、今のまま、ずっとわがままの自分なんです。もしも私たちに少しでもそういったあるがまま、今のまま、ずっとわがままの自我という要素が少しでもあるならば、その古着を脱ぎ捨てていただきたい。
いや、脱ぎ捨てなければならないんです。脱ぎ捨てて、神様の衣に着替えなければならないんです。それが神様の恵み、神様の力によって、英子から英子へと、新子から新子へと、子供の新子から大人の新子へと、生死を目指していくものではないでしょうか。
大事なことは、精霊様は、神様が愛しておられる私たちの本来の姿に向けて、私たちを導いておられる。そして、導くために、いつも、もう、近づいておられるということなんです。そして、実際に助けてくださるということです。
あるときは、私たちが心配をします。あるいは、疎遠をします。あるいは、新子が落ちたりします。あるいは、罪を犯したりします。それで、御言葉にあるように、御様を消してしまうことがあるかもしれません。
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しかし、不思議に、それも神の憐れみでしょう。神の御様は、粘り強い御方であって、どの瞬間においても、そんな心配して、不衛生も、押し込んで、罪を犯している私たちを、もう要りません。
ずっとスタンバイして、御様になるはずの自分へ、私たちを導こうとして、もう助けて、助けて、助けて、導こうとしておられる御様の働きがある。それが御様の流れです。それを見つけて、それに乗ることです。その人は、征服していくことです。
御様の流れの中で生きるとは、イエス様の言う通りにするという意味です。実際に私たちは、たくさん失敗したりします。だから、イエス様が必要なんです。だから、御様の力が必要なんです。
神様、あなたの助けによって、できる限りを尽くして、私は、あなたのおっしゃる通りに従います。時には失敗する者です。悟り息吹者です。主よ、私の人生、時間、従順をあなたにお捧げします。主よ、私を変わらせてくださいと、お委ねすることこそ、信仰ではないでしょうか。
一つの例でお話をしたいと思います。皆さん、どこかあまり慣れていない町を通って、その町で運転したことはありますか。
最近の車はほとんどカーナビがついているから、カーナビの音声が出てくるので、それを聞くなら、右にいたり左にいたり、誘拐したりして運転をするんですね。
では、もし、こういう運転者がいるとしましょう。これは家庭ですよ、あくまでも。全く初めての町に入りました。その町は一方通行も多くて、通り抜けられない道路も多くて、町の端っこには断崖絶壁があるとしました。
私が運転をしています。目的地を設定して、案内音声に聞きながら運転をします。ナビが右に曲がりますと言っていますが、私はいや、違うのよ、左に曲がる。
そしたら、ナビはどうするんですか。ルートを再検索します。Uターンしてください。それでも、私はもううるさいので消してしまう。電源を抜いてしまう。そのあとどうなるんでしょうか。
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大体、私は方向音痴みたいな感覚があるんですけどね。そこに夜は迷ってしまうというふうに怒られるんですけど。私はすっかり道に迷っていると思うんですよ。あるいは断崖絶壁のそこで前ですね、道路ですね、迷っているかもしれません。
それですね、仕方がなくカーナビの電源を入れるんですね。そしたら、カーナビが何と案内してくれると思いますか。お前はアホだな。だから、いただきよう。さっきUターンしないと、今更助けてあげると思うの。
あなた、私、これでと言ったじゃない。手遅れだよ。もう自分でやりなさいと言わないんですよ。ルートを再検索します。Uターンしてください。実は皆さん、これが神様の恵みなんです。
私は御様を振ってしまうことがあります。落ち込むことがあります。本当にアホなことをしてしまうことがあります。しかし、悔い改めて神様助けてください。あなたに従いたいんです。でも、それができない自分があります。変えられたいんです。しかし、オラママのこの自分があります。
手を助けてください。私を変わらせてくださいと、電源を入れればUターンしてください。何もなかったようにUターンしてください。と、御様はあたさきより粘り強く変えようとしておられるんですね。
その御様の流れを見つけることが幸せなんです。それが祝福なんです。この神の声につき伝うなら、神様はこうおっしゃるでしょう。あなたを家に連れて行ってあげますね。これが神様の恵みなんです。イエス・キリストだけが私たちに許しを与えることのできるお方です。
だから、イエス・キリストに近づく者はすべて、イエス様がその渇きを満たしてくださるのです。命を与えてくださるのです。二玉をもたらしてくださるのです。
だから、過去にどんなひどい失敗をしたことがあったとしても、私たちが本当に心から神を愛して、神様につき伝う構えさえすれば、神様は怒っているだろうかと心配する必要はありません。神様はそういうお方ではないのです。
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神様の恵みは私たちを変わらせる力です。その恵みの力にすべてをゆだねようではありませんか。今日の御言葉をもう一度一緒にお読みしたいと思います。
新たな諦めの手紙、五章二十五、二十六節です。ご一緒にお読みいきましょう。
もし、私たちが二玉によって生きるのなら、二玉に導かれて進もうではありませんか。互いに挑みあったり、備えにあったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。アーメン。
皆さん、二玉は我々の内側におられます。そばにおられます。だから、二玉によって生きるのなら、二玉に導かれて進むことなんです。
わがまま、今のままで進むのではない。世の価値観によって生きるのではない。この世の中がどう叫んでいても、ただただ御言葉に従って行くこと。二玉に導かれて進むこと、そこに神の恵みがある、秘区があるんです。
主にすべてを委ねる人が歩む道の先には何があると思いますか。そこには栄光に輝く自分が待っているんです。花咲く自分がそこに待っているんです。主にすべてを委ねて、この道を二玉によって生きる二玉に導かれて進んでまいりましょう。
今日はここまでです。お祈りします。