2024-04-21 23:28

#プライドと我儘に対して 24/4/21

マルコ-33からの礼拝説教。2024年4月21日録音。今日の場面ではプライドが高く自己中心的な存在として「祭司長たち、律法学者たち、長老たち」が登場します。彼らとイエス様のやり取りが描かれていますが、そのやり取りから、1.神の権威と人の権威の隔たり、2.プライドとわがままの問題、3.イエス様と弟子たちの進む道、の3点を取り上げて、私たちの人間関係や生き方の知恵となるべきことが何かを探ります。


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それでは、お読みします。
マルコの福音書、11章、27節から33節。
彼らは再びエルサレブンに来た。イエスが宮の中を歩いておられると、
最司長たち、立法学者たち、長老たちがやってきて、こう言った。
何の権威によってこれらのことをしているのですか?
誰があなたにこれらのことをする権威を授けたのですか?
イエスは彼らに言われた。
私も一言尋ねましょう。それに答えなさい。
そうしたら、何の権威によってこれらのことをしているのか、私も言いましょう。
ヨハネのバプテスマは天から来たのですか?
それとも人から出たのですか?私に答えなさい。
すると彼らは論じ合った。
もし天から来たと言えば、それならなぜヨハネを信じなかったのかと言うだろう。
だが人から出たと言えば、彼らは群衆を恐れていた。
人々が皆、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。
そこで彼らはイエスに、分かりませんと答えた。
するとイエスは彼らに言われた。
私も何の権威によってこれらのことをするのか、あなた方に言いません。
以上です。
今日はこのところから、フライドとわがままに対してと題して見言葉を取り続けます。
皆さんおはようございます。
早いもので7月も第3週となりました。日曜となりました。
先週は夏日の日もありまして、暑い日になりました。
今日は少し涼しくなりまして、雨ももしかしたら夕方以降降るかもしれませんが、このように共に礼拝を守れることを幸いです。
さて、先週から、しばらく前からイエス様がエルサレムで十字架に向かって前進している、そんなところを取り上げています。
そして先週、先々週の場面では、神殿でのイエス様の宮清めの出来事、
それから一軸具合が枯れて、祈りのこと、信じること、許すことということが取り上げられてきました。
そしてイエス様はいつもエルサレムで教えたり活動した後、反対者たちから逃れるようにベタニアに行っていました。
そして朝になるとまた戻ってくる。
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今日もまたおそらく水曜日あたりじゃないかと学者たちは言っていますけれども、その日の出来事です。
また神殿の中でイエス様が歩いて教えておられた時に、この3種類の登場人物が出てきます。
3種類のグループが出てきます。
まずイエス様はそうですけれども、3種類のグループというのはここにありますけれども、
最秘長、立法学者、長老たちというのがやってくるわけです。
今日の主な語り手や登場人物はイエス様とこの長老、最秘長、立法学者たちです。
でももう一種類の登場人物が背後にいて、それはこのイエス様とのやり取りを見ている群衆とイエス様の弟子たちです。
今日はあえてイエス様とこの3種類の人たちのやり取りを見ている群衆とか弟子の立場でこの箇所を考えてみたいと思います。
議論を見ている人たちのグループとして考えていきましょう。
3つのことを話しますけれども、まず一番最初、3つの比較というか、まず最初は神の権威と人の権威の隔たりということを見ていきます。
27、28節読んでいますね。
彼らは再びエルサレムに来た。イエスが宮の中を歩いておられると、最秘長たち、立法学者たち、長老たちがやってきてこう言った。
何の権威によってこれらのことをしているのですか。誰があなたにこれらのことをする権威を授けたのですか。
この先ほどから言っている3種類の人たちは、いわゆるユダヤのエルサレムのサンヘドリン、最高議会とも補正書と言われていますが、そこの公正メンバーです。
そして71人から成り立っていて、今で言えば国会議員と裁判所の裁判官を合わせたような人たち。
サンヘドリンというのは、イスラエル国家があるとすればイスラエルの国会であり、また最高裁判所のようなところだったんですね。
当然のことながら、この3種類の人たちは、神の民、イスラエル民族のリーダーたち、権威者たちとして、政治と立法を取り仕切っていて、そしてイエス様に対峙しているわけです。
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当時、この何の権威によってという質問の意味なんですけれども、この民の特に立法学者たちとか、パリサイ人は立法を教えました。
でもその権威は何に基づいていたかというと、有名な先生や学派の権威に基づいて教えていました。
そして当然、この神の民、イスラエルの伝統の権威に基づいて教えていたわけです。
そのような後ろ盾が彼らにはあったわけですね。
そして当然、この最高議会というのも、この3種類の人たちの権威付けとして機能していたわけです。
この彼らが何の権威によってあなたは、お前はそんなことをするのかということのしたことは、一つには直前のミヤ清めですね。
彼らの権威の及ぶところを怪我したように思える。
そしてこれまでマルコの勲章の中で語られてきたイエス様の教えとか、イエス様の奇跡です。
それをですね、どんな権威によってしているのか。
どんな教師、どんな伝統、あるいはどんな国家の権威からお前はそんなことをするのかという、でも半分、軽蔑の意味も含めてですね。
そして彼イエスを落としめるための質問だったんです。
それに対してですね、イエス様は逆に質問しかえしたんですね。
どんな質問か。それは、じゃあ私も一つ聞きます。
それに答えてください。ヨハネのバブテスマは天から来たのですか?それとも人から出たのですか?私に答えなさい。そうすれば私も答えますよ。
でここのですね、天からという言葉、それは当時の
天からというのはですね、いわゆるユダヤ教の暗優的な言葉で、聖なる神様の皆を直接口にしたいということで、天からというその言い方をしたわけです。
つまり、本来は神から来たのかとイエス様が言いたかったわけです。それともヨハネのバブテスマは人から出たのかと問い正したわけですね。
で、ここでイエス様が言いたいのはですね、イエス様に迫ってきたこのサンヘドリンの議員たち、彼らがですね、どれほど人間的にですね、
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この高い権威と地位を持っていて、そして伝統に目指していたとしても、イエス様はそれを超越した神の権威を委ねられている。彼らを超越していると言っているわけです。
それはですね、マルコの福音書の冒頭で言われている通りですね、一章一節でこう言われています。
神の子イエスキリストの福音の始め、イエスは神の御子であると宣言されています。
そしてイエス様が言ったバブテスマのヨハネからイエス様がバブテスマを受けたとき、まさにこのようなことが起こったんですね。
すると天から声がした。この声を読んでみましょうか。
あなたは私の愛する子。私はあなたを喜ぶ。
まさに天から神様の声がして、このヨハネからバブテスマを受けたイエス様に、神様子自身がこの権威を授けた。
神の権威としてのイエス様の活動がその裏にあることがここからわかったわけです。
言わずもがな、ここにいる皆さんはですね、このイエス様の答えは天から来たというのはわかっているはずです。
一方ですね、このサンヘドリンの議員たちの過ち。
それはですね、イエス様を自分たちと同じ人間的なレベルで語ろうとしたことなんです。
皆さんも触れることがあるかわかりませんけれども、今の時代もいろいろなイエスキリストについての意見やコメントとかですね、ものが出ています。
でもそれらの中にはですね、人間的な議論やレベルでイエスキリストは誰かということを分析したり判断を下しているんですけど、
実はイエス様はそういう中には収まらない。それを超越した神の御子、救い主であるということを私たちは知るべきなんですね。
そのような人間的なレベルでイエス様を分析したり判断を下すということができないお方がイエス様です。
そのイエス様を私たちは神の御子、救い主であるかどうか、それを認めるかどうかが問われていて、
そして私たちはそれを受け入れて議論するのではなくて、イエス様と共に生きることが求められている。
そういうことを最初の点から学んでいきたいと思います。
2番目、今度はですね、プライドとわがままの問題ということが出てきます。
イエス様から問いかけられて、こういうことが起こりました。
すると彼らは論じ合った。
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もし天から来たといえば、それならなぜヨハネを信じなかったのかと言うだろう。
だが人から出たといえば、彼らは群衆を恐れている。
人々が皆、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。
実はこの、あえてサンヘドリンの議員たちとまとめて言ってしまいますけれども、
サンヘドリンの議員たちはですね、あからさまにですね、イエス様の問いからですね、
イエス様が神から権を授けられた方だということをですね、
分かっているにもかかわらず、それを認めることができませんでした。
それの何が問題かというと、彼らが表している問題はですね、
プライド、そして、日本語に訳しにくいんですけれども、
セルフィッシュネスと言われている日本語で言えば、
わがままや自己中心性や利己主義だというんですね。
特にイエス様と神様と自分をですね、対峙するというか、比べた場合に自分を貫くという。
それが彼らの姿に映し出されているわけなんです。
で、彼らがですね、何の経緯によってヨハネのバクテスマが存在したのか、分からないと答えました。
彼らがそう答えた背景をですね、彼らのプライドやこの自己中心性から読み解くと、
こういうことが分かるんですね。議論している映画があります。
実はですね、彼らがそう答えた背景、プライドやこの自己中心性がどのように関係しているかというとですね、
彼らがこのイエス様とのこのやりとりの中で、
もしもイエス様の権威、ヨハネのバクテスマの権威が神から与えられたものであると言ってしまったらですね、
多くの群衆の前で、彼はここでも言っているように、じゃあなぜ神に従うと言っているのに、
このヨハネのバクテスマも、そして私自身も受け入れないのですか、というこの問題を指摘されてしまうわけですね。
神に従うと言いながら、なぜじゃあヨハネのバクテスマと私の言葉に従わないんですか、という問題が指摘されてしまう。
そして群衆の前で恥をかくわけですね。プライドが傷つくわけです。
また、彼らがですね、そのイエス様の権威やヨハネの権威を天から、神からだと認めないということで、
自分たちの無知とかですね、神に対する固くなさも明らかにされてしまいますね。
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ですから彼らはまず自分たちの非を認めたくなかった。群衆の前で恥を晒したくなかったわけです。
そのように彼らのプライドとかですね、自己中心性が働いたわけです。
当然この国会議員とかですね、のような高い地位にある人たちですから、恥をかきたくなかったわけですね。
そして自分の非を認めなかった。そして興味深いことにですね、彼らは群衆を恐れていたってです。
その地域で最高の地位を持ちながら、実はでも彼らは群衆を恐れていたんですね。
これは異性者たちのこの真理をよく表しているかと思います。
別のですね、副印書にはですね、
人から出たといえば、我らは群衆は怖いという書き方をしている副印書もあります。
とにかく彼らはプライドと、そして自分たちが一番偉いというのに懲り固まりながら、
群衆に対する恐怖心を持っていたという、そういう背景も見て取れるわけなんですね。
群衆の反発が怖いのか。
それか自分たちの地位やこのプライドを失うの、信用が失うのを怖いのか、
彼らは群衆の反応を恐れていたわけなんですね。
で、そういう問題が明らかにされる時に、
自分たちの問題がイエス様によって彼らが明らかにされる時にですね、
彼らはますます心を固くなりするわけです。
時に怒るわけです。
そしてこの前後に書かれているように、イエス様の殺害の決意をますます固くしていく。
そのような彼らの姿が見て取れるわけですね。
最後にですね、3番目。
イエス様と敵たちの通日は何だったのかと見ていきましょう。
その議員たちの答えに対して、イエス様はこう答えましたね。
するとイエスは彼らに言われた。
ここから読んでみましょうか。
私も何の権威によってこれらのことをするのか、あなた方に言いません。
で、興味深いことにイエス様はここで彼らにですね、
直接教えたり、また彼らの問題を指摘したりしていないんですよね。
いや私は天から捧げられた権威を持っているよと言わないし、
あなたたちそれを認めないのが問題ですよと言って、
彼らの問題を指摘もしませんでした。
まあ放っておいたとも言えるわけですよね。
質問を投げかけただけ、そしてそれ以上深追いはしなかったわけです。
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私も答えません。深追いはしなかった。
ここからこういうことがわかるんですね。
要するに、プライドと自己中心でカタクナになった人たち、
彼らの心を入れ替えさせることをイエス様でさえできなかったと言うんです。
そういう方々を、そういう人たちを教え悟すことをイエス様でさえ、
神の子でありイエス様でさえできなかったしなさらなかった、
ということを私たちは心に留めておくべきです。
私たちこのやりとりを眺めている者として、
軍師の立場、弟子の立場として、そういうことをわかっておきましょう。
さらにそこから考えていきますけれども、
もしもですね、自分の目の前とか身の回りに、
わがままでプライドの高い人がいて、
そのときにですね、このイエス様とサンヘドリの議員たちのやりとりが参考になるんですね。
実は、そういうような人たちを私たちは教え悟すこともできないし、
その人たちを変えることもできないんだ。
その現状を認めるしかないんだということなんですね。
そして先週見たこの聖書の箇所ではですね、
ちょっとただ絵だけですけれども、
実はですね、あの先週見た宮で祈っているときに、
誰かに恨み事があったらそれを手放しなさいというのはですね、
当時のローマの社会の中で迫害を受けていたり、
信仰の家に苦しめられていた、
そういうふうに敬意によって苦しめられていた当時のクリスチャンや教会たちが読んでいたというのです。
そういう人たちにですね、そのような人たちに対する怒りや意気通りを手放しなさいというのが先週の話でした。
そして今日のところをさらに続けて読むのであればですね、
そのような人たちを手放すだけじゃなくて、
変えることができないんだ、そういうことを受け入れるということを当時の教会も、
そして私たちも学ぶことができるんですね。
そしてイエス様でさえそういう人たちを手放し、そして教えることもせず、
まさに手放してですね、何をされたか、十字架の道を歩まれたんです。
つまり成すべきことをイエス様は成した、目指すべき道にイエス様は進んでいかれたわけですね。
そしてそれを見ていた弟子たちはどうしたか、そのイエス様の足跡に従っていった。
イエス様と共に過ごしていったわけですね。
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弟子たちはそしてイエス様が復活した後、
使徒の働きを見るとまさにこのサンヘドリンに捕らえられてですね、尋問されて投獄されたりしたんです。
でもその弟子たちを精霊が慰め、そしてイエス様はその弟子たちと共にですね、
精霊によって共にいるよという約束をして励ましてくださったんですね。
そのイエス様の約束が私たちにも与えられて、また励ましてのり慰めてのるわけです。
そのような約束がですね、イエス様が天に昇られる直前、このような形で語られました。
マタイの福音書の28章の18節から20節です。
こう言っています、弟子たちに。
私は天においても地においてもすべての権威が与えられています。
ですからあなた方は行ってあらゆる国の人々を弟子としなさい。
父、子、精霊の名において彼らにバクテスマを授け、
私があなた方に命じておいたすべてのことを守るように教えなさい。
最後だけ読んでみましょうか、ミヨから3回。
ミヨ、私は世の終わりまでいつもあなた方と共にいます。
このイエス様の約束を覚えて歩んでいくお互いでありましょう。お祈りします。
救い主なるイエス様、あなたのお名前を賛美いたします。
あなたは権威者たちから議論を吹っかけられました。
足元を救われそうになりましたが、神の知恵をもって、
また彼らを超越した神の権威をもって答えられ、問いを投げかけられ、
そしてご自分の道を進んでいかれました。
どうぞ私たちが様々な試練や苦しみに遭うときに、
このイエス様のお姿を思い出すことができますように、
そしてイエス様がともにいてくださることを知りながら、
イエス様の歩む道、弟子の道を歩んでいくことができるように、どうか導いてください。
この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは1分ほど、御言葉に応えて祈る時間を持ちましょう。
23:28

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