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改めてみなさん、あけましておめでとうございます。
2016年、昨年も神様は、名谷教会の上に、また皆様一人一人の上に、大きな恵みを主がお与え下さいました。
そして、2017年、この新年にも、以前より今までなかったような大きな恵みと祝福をもって、
私たちの主が導いて下さることを、心よりお祈り申し上げます。
それでは、メッセージに入る前に、周りの方々と挨拶しますが、改めてあけまして。
是非、とうとう水をお祈り下さい。将来と希望をもって、私たちを導いて下さる主なる神様。
今から、新年の御言葉を聴くご自身から語っていただきます。
どうぞ、一人一人に聴くべき主の言葉を語って下さいますように。
私たちは、主の御前に比例をして、典型にして御言葉をいただきます。
そして、それに従っていく信仰も、ますます強めて導いて下さりますように、お願いいたします。
このお物を隠して、主御自身が現れて、主よどうぞお祈り下さい。主よお助け下さい。
お礼様の御名によってお祈り致します。アーメン。
2017年、ちょうど1日で、聖日になりまして、一年の最初の日を、このように礼拝をもってスタートできることは、本当に素晴らしい恵みだなと思っております。
今日は、その中で開かれています、エレミア書、イール9章11節、そこから、将来と希望の神様という題にして、しばらく御言葉を神様から語っていただきたいと願っております。
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全能なる神様は生きておられ、私たちを納めておられます。
また、私たちを守っておられます。また、私たちを導いておられます。この真理を信じる人は、本当に幸いな人です。
年末ごろ、本屋さんとか、書店とか、あるいはデパートとか、山のみあたりのロフトとか、そのところにいたら、さまざまなカレンダーや、あるいは手帳、バインダー、いろんな種類、あるいは家計簿がたくさん売っています。
たぶん皆さんの中でも、新年度の手帳とかカレンダーとか買って、いろいろメモして、希望に生きて一年をスタートしたいなという思いでおられるかなと思います。
確かに今はそうです。新年には誰もが新しい夢、希望で本当に胸いっぱいになる。しかし、同時に我々には否めない不安があるということ、それがみんなにあるかなと思います。
希望と表題、夢がないわけではありません。それをもって、信仰をもって、もちろん進んでいきます。ところが、同時に心の一隅には何かの願いへの不安があるのではないでしょうか。
例えば、世界的に見るならば、昨日まで権力を握っていた人が一晩で衰落することもあります。あるいは、昨日まで強い同盟国だった国家間が敵になることもあるでしょう。
あるいは、昨日まで全然大丈夫だった施設が一晩で破壊されてしまうことも私たちは経験しています。あるいは、昨日まで本当に大丈夫だった会社が一晩で倒産してしまうこともよくよくあるでしょう。
あるいは、昨日まで元気だった方が今日はこの世の人ではないことも私たちは経験したりします。2017年、世界は予測し難い、いろんな変化が起こるだろうと言われています。個人や世界、この日本も例外ではないです。
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ただ、滅多に政治の話はしませんが、この前、安倍総理大臣はこの不安な世界情勢の中で、アメリカとの同盟を固くするために、まずはトランプ当選者に会って、あるいはオバマ現大統領に会って会議をしたり、
京都的な場所を訪問したり、心得て、この同盟関係を固くして、この国を守ろうとする外交活動をしています。それが、四つ八つとは関係なくて、それほど世界情勢は混乱しておりまして、助速・座席を代弁していると思います。
一人一人個人個人もそんなことがあるかもしれません。こんな不安な時は、お金が最高だ、現金が一番だ、あるいは自主力をいい職場、あるいは国家公務員が一番だとか、不安を克服しようと、個人も社会も企業も国家も努力しているんですね。
ところが皆さん、このような個人とか国家、社会、不安な情勢の中で同盟や、あるいは自力、あるいは国力を伸ばそうといったやり方、考え方は、古代にも現代にもそれがよく似ているということであります。
皆さんもよくご承知のように、似ているような歴史が実は人間の歴史の中で繰り返して繰り返しているということであります。
そういう意味で皆さん、聖書を読みますと、そこに中約聖書の歴史のところを読みますと、もう現在の、この現代の歴史が見えてくるでしょう。
聖書はあらゆる面において、本当に教科書のような書物だと私は信じております。
ちょっと聖書の歴史の話をさせていただきたいと思います。
今日の仮説と関連付けがありますので。
聖書に出てくる古代イスラエルは、約930年頃、北と南が分かれてしまいました。
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北は北イスラエル王国、南は南ユダ王国と呼ばれるようになりました。
ところが、この両王国はある時代には激しく戦争する関係でもありました。
ところが、ある時には同盟を結んで、突いたり滅たたりすることもよくあって、自分の国の勇気を図っていました。
ところが、現代もそうですけれども、古代もですね、あのイスラエルをめくっているこの中近東の世界情勢は、本当に激しく目が回るほど急変していました。
イスラエルが南と北として分かれるその頃は、その中近東地域の強者は古代エジプトでした。
今のアメリカのような存在でした。
強力でした。パロのピラミッド、スピンクスを作れるほど強力な権力を持っていました。
この中近東も制覇していました。
だからですね、北イスラエルや南ユダは、そのもうエジプトのパロの顔を伺って、日銀を送って、小祭りをして、同盟関係を結んで、我が国を守ってほしいと、そういう風に進めていました。
なぜなら、その南の方には古代エジプトがある。そしてイスラエルの北の方は、アシリアというもう一つの強者が起こっているところでありました。
だから、エジプトに行って、もう協力してもらって、アシリアから我が国を守ってほしいと、現代という風に言っているんじゃないですか、皆さん。
ところが、その努力も無駄になってしまって、北イスラエルはあのアシリアに占領されてしまいました。それで、北イスラエルは歴史の中でも救えてしまいました。
エジプトの同盟も逆に当たらなかったわけです。
それで、どこが残っていましたか。南ユダ、小さな南ユダが残っていました。十二部族の中で、十は北で南が二部族ですから、最も小さいです。人口も小さくて領土も小さいです。
本当に引き一発の状態でした。そして、南ユダも必死になって、時にはエジプトと同盟を結んで、ちょっと困ってなったら、もうエジプトの同盟を作って、アシリアに水着を送って、王に来てもらって、
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王様のイスラエルの王様のホーモスブラを全部開けて、それを捧げて、神殿の金も銀も全部剥ぎ取って、それを水着で送ってしまいました。そういうふうに守ってほしいと。
ところが、南ユダはアシリアじゃなくて、もう一つの古代バビロンが起きて、アシリアを滅ぼしてしまって、南ユダもバビロンによって、1586年に滅ぼされてしまいました。それで、イスラエルは歴史の中で消えてしまいます。
1586年にイスラエルは滅ぼされてしまって、そして1948年、やがてイスラエルは独立しました。ですから、数えてみると、2000年以上、イスラエルは国のないまま、歴史が立っていたわけであります。
一つではありません。歴史は実は繰り返しているんです。この単純な真理をわかっているようですけれども、実はわかっていないのです。誰がですか。
歴史は世界の歴史だけではありません。一国の歴史であって、一人一人の私たちの人生であっても、それを起こすことも滅ぼすことも、それを治めるのは、エジプトとかアシリアとかバビロンとか、それによって指導されるわけではありません。
ただ、神様によって歴史は、一人一人の人生は導かれていることです。戻って歴史の話をしますと、エジプトもどんどん衰退してしまって、アシリアは歴史の中で消えてしまって、バビロンが起きましたね。
ところが、そのバビロンも永遠に続いたのでしょうか。そうではありません。ピリシアによって滅ぼされてしまいます。ところが、そのピリシアもその後、ローマによって滅ぼされてしまいます。
永遠な強者はないんですね。18世紀、19世紀はどうでしょうか。世界の強者はイギリスでした。今も弱者ではありませんけれども、もしイギリスが世界第一の強者だったならば、たぶん総理大臣はアメリカじゃなくてイギリスにいたでしょう。
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今のアメリカでは永遠な強者なんでしょうか。そうではないでしょう。あるいは中国、あるいはインドが世界最強大国になるのでしょうか。あるいは日本でしょうか。それはわからない。
ただのは、歴史を主導される方は、この宇宙万物をお作りになり、この世界に存在する全てを主観しておられ、主観を持っておられる神様であること、それを私は信じています。これが本人であります。
聖書はあたかさちにこのように語っています。私がお読みします。
イザヤ書2章22節。花で息をする人間を頼りにするな。そんなものに何の値打ちがあろうか。
イザヤ書31章1節と3節。
ああ、助けを求めてエジプトに下る者たち。彼らは馬に頼り、多数の戦車と非常に強い騎兵隊とにより頼み、イスラエルの聖なる方に目を向ける主を求めない。
エジプト人は人間であって神ではなく、彼らの馬も肉であって霊ではない。主が御手を伸ばすと、助ける者はつまづき、助けられる者は倒れて、皆共に滅び果てると判明する。
皆さん、本当にそうであります。私たちが神様の他に頼りにする者は、実は何者でもないということであります。
金も地位も能力も国力も、あるいは外交関係、同盟関係、未来対策であろうが、神様が一度手を伸ばしさえすれば、助ける者はつまづいてしまう。助けられる者も倒れてしまう。
すべては神の御手にかかっているということではないでしょう。よくよく、賢い人は歴史から学ぶと言われています。しかし、最も賢い人は、その歴史をつかがぼっておられる神様に学ぶ人ではないでしょう。
だから、聖書の御言葉は、私たちにこのように語っています。エレミア教17教7説8説は、一緒に開きたいと願っています。
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エレミア教17教7説8説。聖書お持ちの方で結構です。旧約聖書1274ページです。この7説と8説を一緒にお読みしたいと思います。
主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように、その人は水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに芽を伸ばし、厚さがつても厚さを知らず、葉は透けて、ひれりの土地にも心配なく、いつまでも実を実らせる。
主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように、その人は水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに芽を伸ばし、厚さがつても厚さを知らず、今長くても世界がどう変わろうとなっても知らず、葉は透けて、ひれりの土地にも心配なく、いつまでも実を実らせる。
ひれりの土地にも、かんばつの土地にも心配なく、いつまでも実を実らせる。
この祝福が誰にあるのでしょうか。主に信頼する人、主を頼みとする人にあるということであります。
皆さん、お一人お一人がこのような祝福を受け継いでいきたいと願っています。
主に信頼する人でありませんか。主を頼みとする人でありませんか。
この一年、ただただ全能なる神様に信頼して、ただただ唯一の主のみを頼みとする私たちでありたい、妙大に評価でありたいと切に切に願っております。
神様に信頼してください。これは永遠の真理であって、最も大きな知恵であります。
全能なる神様、人の人生や世界の歴史を主観される神様は、私たちを祝福しようと願っておられます。
今日の御言葉は、さっき申し上げたように、あのようなエジプト、アシリア、あるいはバビダのような教国の中で板挟みのようになってですね、
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もう怖がっておののいているその南ユダの人々に、神様はエレメアという預言者を通して、私に信頼しなさい、私を頼みとしなさいというメッセージであります。
そしてその中に与えられた御言葉が、今日のエレメア書29章11節でございます。
もう一度一緒にお読みしましょうか。エレメア書29章11節。
御一緒に。
私はあなた方のために立てている規制覚を得しているからだ。
宗の見つけ、それは災いではなくて平和の与える規制覚であり、あなた方に到来と希望を与えるためのものだ。
皆さん信じてください。
善のなる神様は、個人や世界歴史の主観者であります。
そしてこの神様は、御自身に信頼する者に、将来と希望と平和を与えるということであります。
神様の御言葉には、御約束には一緒張りがない。
あ、忘れた。そんなこともありません。
御言葉通りに、必ず上手してください。将来と希望と平和を与えるのなら、必ず与えるということであります。
人間はですね、約束をよく守る人もありますけれども、破たれすることもありますし、
あ、しまった。忘れてしまってですね、どこかで一時に会うことにしまったのに、路地になって家にゴロゴロしている自分を見て、
ああ、しまった。というとこもあったりする。
あるいは、こうしたらこれをあげるよと言っただけれども、親はあげてくれないとか。
神様はこんなこともあります。
言われた御言葉、その通りに必ず上手してください。
だから私たちが神様に信頼しておれば、
神様をより頼みとすれば、必ず将来と希望と平和が与えられるということであります。
ですから聖書は簡単にこう言っています。
神様と共に歩む人生は幸いな人生である。
祝福された人生であるということであります。
2017年、皆さんお一人お一人に、あるいは家庭に、教会に、この国に、世界にどんなことが起こるのでしょうか。
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別にですね、昨年とあまり変わらないかもしれませんけれども、でも予測できない大きなことが起こるかもしれないです。
いくら良いものを持っていたとしても、神様がその人生にないならばゼロであります。
しかし、いくらゼロのような人生であっても、神様をさえ持っておれば、その人生は素晴らしいことになります。
これですね、わかりやすくちょっと、ひじんちゃん、絵で作ってみます。ちょっとご覧ください。
もうね、実際算数、数学ではありませんが、
GOOD、G-O-O-Dですね。そこから、GODですね。神様を引くと、まあ、同じOですけど、ゼロになるわけです。
どんなに良いものを、GOODなものを持っていたとしても、その人生にGOD、神様がなかったならば、何になりますか。ゼロになります。
しかし、いくらゼロであっても、そこに神様が共におられれば、GOODな人生になる。いいですよ。
皆さん、今年一年間、どうか神様につないでいただきたい。
その身を頼りにしていただきたい。そして、いくら努力して、いくら頑張って、
でも、その中に神様と共に歩む人生がなかったならば、それはゼロにすぎない。
しかし、弱くても、持っていなくても、ゼロであっても、神様さえ持っておれば、その人生は素晴らしいものであるということ。
それは、今日の見言葉であります。
メッセージを終わりたいと思います。皆さん、願わくば、善のなる神様に信頼してください。
神様に信頼すること、これが古代にも、現代にも、未来にも、最も大きな平安と将来と希望を与えられるメッセージであります。
その作り主なる神様を、今年はさらにますます信頼していこうではありませんか。
さらにますます信頼していこうではありませんか。
外に憎みがある、将来がある、希望がありません。
アーメン、お願いします。