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2018-04-29 36:29

2018/04/29:ヨハネの福音書講解説教(26)主よ。私は信じます

2018/04/29 聖日礼拝
尹善鎬牧師
ヨハネの福音書 ~41

00:00
皆さんおはようございます。良い天候の中で、礼拝によくいらっしゃいました。共に礼拝できるお恵みを感謝いたします。
それでは、隣の方と挨拶しましょうか。
ありがとうございます。一言お祈りします。
イエスは彼に言われた。あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。
彼は言った。主よ。私は信じます。そして彼はイエスを拝した。アーメン。
主よ。この朝、神の御言葉によって、私たちの魂が、礼が、神を見る時となりますように。イエス様を見るこの恵みの時となりますように。
そして皆、ここに集っている我々一人一人が、このかつて盲人であった人が、イエス様に出会って、主よ。私は信じますと。
そしてイエスを礼拝したように、この朝、私も主よ。私は信じますと信仰を持ってお答えできますように。
そしていつまでもイエス様に従っていき、イエス様を拝することができますように、どうかお守りくださいますようにお願いいたします。
神様御自身が一人一人に語ってくださって、神の声を聞く恵みの時となりますように。
そして我々信者の目が、心の目が、礼の目がさらに開かれますように。主よ。どうぞお助けください。
感謝して、イエス様の皆によってお祈りいたします。アーメン。
今日は、ヨハネの福音書公開説教26回目です。
26回目でしたから、半年くらいになっているわけなんですね。本当に感謝いたします。
その中で、主よ。私は信じます。主よ。私は信じますという題にして恵みを共にしたいと思います。
内容的には先週の盲人であった人の話の続きのような感じになります。
先週には、生まれながら盲人であった人、彼がイエス様に出会って、彼の体の目が見えるようになったということを見てみました。
03:07
その見えなかった体の目が見えるようになったということから、それは私たちに二つのことを示唆する、教えていることを学びました。
一つ目は、かつて神を信じなかった人が、その人の礼の目が、心の目が見えるようになって、神を信じるようになること。
これは全て神の恵みであり、神様の御業であります。そしてここにいる信者の私たちは、皆この恵みに預かっているのです。
二つ目、それは我々神を信じている信者の私たちの心の目が、礼の目がさらに開かれることです。
もちろんこれも神の恵みであり、神の働きであります。
そしてエペソビテの手紙の箇所を見てみました。心の目がはっきり見えるようになって、どうなるんですか。
神の名刺によって与えられる規模がどんなものなのか。生徒の受け継ぐものがどんなに栄光に富んだものなのか。
そして神の全能の力の働きによって、私たち信じる者に働く神の優れた力がどんなに偉大なものであるかを知ることができますように。
その箇所を見てみました。
簡単に申しますと、私たちの信者の礼の目が開かれて、そしてイエス様を信じることが幸せである。
そして私たちの礼も心も精神も体も健康になり、家庭が祝福されることを願っております。
うちもイエス様を信じること、信仰生活することが苦しくて苦しくてたまらない。
それは当たり前のことではないんですね。
そしてそれは神様が願われることでもないですよね。
ここで一箇所、聖書を開きたいと思いますけれども。
ヨハネの福音書14章27節、開きましょうか。
ヨハネの福音書14章27節、私の聖書では211ページです。
06:01
聖書が面白い方はご一緒にお読みしますか。
私はあなた方に平安を残します。
私はあなた方に私の平安を与えます。
私があなた方に与えるのは、与が与えるのとは違います。
あなた方は心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。アーメン。
皆さん、神様が私たちの霊の目を開いてくださって、神を信じるように導いてくださった。
そしてさらに心の目がはっきり見えるようになって、神の力が受け継ぐものが、どんなに栄光に富んだものかを知ること。
それをこのイエス様の言葉を借りて言うと、それはイエス様がくださる平安なんですね。
平安という言葉を旧約ではシャロームと言います。新約ではエイレネと言います。
その意味はとても豊かな意味を持っているんですね。
それがこの後ですね、また話をする猛人だった彼が、本当にイエス様に出会って、彼は素晴らしい全くシャロームを、エイレネを彼はイエス様からいただいたわけです。
そのシャローム、あるいはエイレネという日本語の平安という言葉の意味を7つ話しよう。
まず平和ですね。平和。この平和は、まずは神様との平和です。
以前は敵だった私たちが、イエス様がくださるシャローム、エイレネを通して、神様との関係が和解させられて、平和があった。
二つ目、この27節の言葉通りに平安です。平安。平安。これはこの世が与えるのとは違います。
イエス・キリストがくださる平安は、霊の中に、心の中に、主を待ち望むものとして持てる平安です。
三つ目、このシャローム・エイレネという言葉の意味の三つ目は、満足という意味があります。
満足。これはもう100%のような満足していることの意味です。なぜでしょうか。
明日のことは明日が心配です。私に必要なものは神様がすべて知っておられると。
09:06
その神様が私の方であることを信じるものは、主によって満足できるということであります。
四つ目は、完全という意味があります。完全。欠けていない。足りていない。主によって満たされている意味があるのです。満たされている。
そういう意味として、完全という意味がこの平安、シャローム・エイレネとの意味です。
その次は秩序という意味があります。いわゆる秩序が正しくできている状態。乱れていない。暴れていない。
平安ですからね。平和であり平安であるから、本当に完全な秩序を保っている状態。それがまさにシャローム・エイレネという言葉の意味です。
それからその次は栄える繁栄という意味があります。
だから皆さん、イエス様が神様が私たちにくださるシャロームは、平安は主にあって、
例えばあの葬石のヨセフが神と共にあったから、彼のやることすべては栄えた。主が栄えさせてくださったという言葉がありますよね。
その言葉がこの言葉であります。
そしてまた同じ、似たような意味として、最後の意味としては、成功という意味であります。
シャローム・エイレネという言葉は、平和、平安、満足、完全、秩序、繁栄、成功との意味がある。
そしてこれはただ賜物として神様が、イエス・キリストが私たちに与えてくださるものであります。
そして今日見ていくこのかつて盲人だったこの人は、イエス様に出会って、
まさにこの平安をね、シャローム・エイレネを彼はイエス様からいただいたということなんです。
さあ本文にね、戻りますと、
彼はイエス様に出会って、目が見えるようになりました。
ところがですね、あいにくその日が安息日だったんですね。
それでその当時のヨダヤ教の中心のパリ西人は、安息日には何をしてはいけない。
なのに癒した。
そして彼はその泥をシロアムの池に行って洗った。
12:04
何かの行動をしたわけなんですね。
それを彼らによっては違法なんです。律法を侵したことでしまった。
それでですね、このパリ西人たちは彼を呼び出して、あるいは彼の両親をですね、呼び出してですね、
誰がしたのか、何でこんなことをしたのかですね。
ずっとですね、もう攻めているように問いだらしているわけなんです。
そこでですね、このかつて盲人だった人が、
今日も全部読んでいないんですけれども、
ぜひですね、今日お家にお帰りになって、この九章をですね、全部読んでいただきたいんですけれども、
彼が当時の経緯を持って、学校も持っているパリ西人とやっている対話、会話を見たら、
本当に素晴らしい、こんなに人がですね、変えられるんだろうかというか、
びっくりするほど彼は堂々と語っているんですね。
というのは、彼はもはや盲人ではありません。
彼の目が見えるようになりました。
ところがもっと素晴らしいことは、彼の体の目が開かれただけではなく、
彼の霊の目も開かれるようになった。
そして真理を素晴らしくですね、もう知るようになった。
その男性にイエス様がシャロームをお当たりになったということであります。
彼は目が見えるようになって、その噂がパリ西人たちの耳にも入った。
そしてパリ西人たちは街道にですね、この盲人だった彼を呼び出しました。
彼はまだですね、彼の身分はこのパリ西人のように偉いものはありませんけれども、
そのパリ西人の前に立っている彼は全く違った人になっていました。
パリ西人はですね、もう全然恐れていないんです。
彼らとまるで論争しているんですけれども、決して負けていません。
彼の肉体の目が見えるようになったことも奇跡ですけれども、
彼の心の霊の目が開かれるようになったことは、最も素晴らしい奇跡でした。
推測できることは、生まれながらのこの盲人だったこの人は、
少なくともですね、すごい覚悟をした人ではないでしょう。
ところが、今からね、見ていきますけれども、まず24節ご覧くださいますか。
15:08
今日のヨハネの訓書、9章24節です。
私が読みますね。しばらくご覧ください。
聖書をご覧ください。
そこで彼らは盲目であった人をもう一度呼び出して言った。
神に栄光を期しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。
もうその場でですね、盲人も責めている。
そしてあなたを癒やしたあのイエスという人物も、彼も罪人なんだと言いました。
そしたら彼が何と答えているのでしょうか。25節、よくご覧くださいね皆さん。
彼は答えた、あの方が罪人かどうか、私は知りません。
ただ一つのことだけ知っています。
私は盲目であったのに、今は見えるということです。
皆さん、これはある意味で、自分で危険を招いているようなことなんです。
あのパリサ人に逆らったらですね、あのイスラエルの社会でうまくいけないかもしれないんですよ。
そういう危険をあるにわからず彼は、あの方が罪人であるかどうか、私は知りません。
でも私ははっきりしていることがあります。
それは盲人であったのに、私は今見えるようになりましたよ。
恐れていないでしょう皆さん。恐れていないんですね。
そしたらですね、続いてご覧くださいね。26節。
パリサ人たちがまた彼に言うんですよ。
あの人はお前に何をしたのか。どのようにしてその目を開けたのか。
そしたら27節に彼は答えた。
もうお話ししたのですが、こう答えるんですよ。
あなた方は聞いてくれませんでした。
もう言ったでしょ。でもあなた方は聞いてなかったじゃないですか。
なぜもう一度聞こうとするのです。
あなた方もあの方の弟子になりたいのですか。
伝導しているんですよ。伝導している。
こんなことが起こるんですね皆さん。
まさに霊の目が見えるようになったんですよ。
どうもと言って28節。
そしたらですね、パリサ人たちも頭に来てしまったんですね。
彼らは彼を罵して言った。
お前もあの者の弟子だ。しかし私たちは孟子の弟子だ。
私たちは神が孟子にお話しになったことを知っている。
しかしあの者についてはどこから来たのか知らないのだ。
自分たちの話を知っているんですね、パリサ人たち。
そしてですね、30節。
彼はこう言うんです。ご覧ください。
彼は答えて言った。これは驚きました。
18:02
あなた方はあの方がどこから来られたのか、ご存じないという。
しかしあの方は私の目をお分けになったのです。
31節一緒に読みましょうか。
神は罪人の言うことはお聞きになりません。
しかし誰でも神を敬いその御心を行うなら、
神はその人の言うことを聞いて下さると私たちは知っています。
32節私は読みますね。
盲目に生まれついた者の目を開けた者があるなどとは昔から聞いたこともありません。
33節もしあの方が神から出ておられるのでなかったら何もできないはずです。
どういう意味でしょうか皆さん。
彼はですね、今パリサ人の前でですね、たぶんたくさんいると思うんですよ。
まるで裁判みたいに彼は一人で立っている。
そしてですね、向こうに偉そうな顔をしてパリサ人が何人も座っているわけなんですよ。
そこでですね、この33節すごいでしょ。
あの方が神から出ておられるのでなかったら何もできないはずです。
どういう意味ですか。
あの方は神から出ておられるんですよ。
あなた方はそれが知らないんですか。
驚きましたねということなんです。
素晴らしい証をしている。
本当にまるでですね、パリサ人たちの頭の上に立っているような気がします。
恐れていません。びっくともしない。
かつて盲人だった彼、あるいは無学だったかもしれません。
学問も全くなかったかもしれません。
ところがですね、むしろですね、この男性は、
あの当時のそのパリサ人たちの無知と不信仰を、
まるで何と言いますかね、責めているような、失策しているような、
これこそこの男性の霊の目がはっきり見えるようになりました。
そしてさっきも申し上げたような、
エペソビトの手紙のあの御言葉通りに素晴らしいことが見えるようになったんですね。
不思議なんですよね。
盲目だった彼がイエス様に出会って目が見えるようになって、一緒にして帰られた。
そして本当の盲目であるパリサ人たちに、
それを知らないんですか。驚きましたね。
そしたら多分ですね、このパリサ人たちは、
あの困惑を感じていたかもしれません。
この者は何者なのかですね、もうあのね、
21:05
慌てていたかもしれないですね。
そしたら、だからですね、このパリサ人たちが34節こう言うんです。
ご覧ください。
彼らは答えて言った。
お前は全く罪の中に生まれていながら私たちを教えるのか。
そして彼を外に追い出した。
ねえ、勝てないことをパリサ人たちは感じたかもしれない。
教えるのか。追い出しました。
皆さん、もう一度まとめて話をしますね。
この男性は生まれながら盲目でした。目が見えませんでした。
ところが、体の目が見えるようになった。
それだけではなく、心の目も見えるようになった。
神を知る知識が開かれた。
イエスを知る知識が開かれた。
そして何が正しくて何が間違っているのか、それも知るね。
本当に霊の知識が開かれたんです。
だから霊の目が開かれたから、パリサ人たちが間違っていること、それが分かってきた。
そしてそれを決して恐れていないんです。
むしろ彼らを教えているんです。
だから皆さん、大人であっても、子供であっても、青年であっても、
私たちの信者の霊の目が開かれますと、本当に素晴らしく神の言葉を語れるようになる。
子供が先生にも教えられるようになる。
ですからもう一度申しますと、
クリスチャンの私たちの霊の目が開かれなければならない理由をもう一度申しますと、
霊の目が開かれますと、神に対して、イエスに対して、
聖霊様に対して、聖書に対して、あるいは罪と義に対して、
明るく明るく知るようになるということであります。
その証がこの盲人のこのストーリーなんです。
人生が変わりましたね。
彼の霊の中にあった闇が消え去ったから、その代わりに光が入ってきて、
そして霊が輝く明るく見えるようになったということであります。
そしたらですね、続いて見ますね。
この男性がパリ地裁人たちの回路から追い出されたことをイエス様が聞きました。
そして三十五節を見ると、彼を見つけ出してこう言われました。
24:03
三十五節をご覧ください。
あなたは人の子を信じますか?とね、イエス様がずばり聞きました。
あなたは人の子を信じますか?
そしたら彼は何と答えたのでしょうか?三十六節。
その人は答えた。主よ、その方はどなたでしょうか?
私がその方を信じることができますように、信仰心がね、なかった信仰が与えられた。
これはまさに神の働きであって、神様の賜物なんですね。
そしたら三十七節。
イエスは彼に言われた。あなたはその方を見たのです。
あなたと話しているのがそれです。とイエス様は答えてくださいました。
そしたら彼が何と答えたのでしょうか?三十八節。一緒に読みましょう。
三杯。彼は言った。主よ、私は信じます。
そして彼はイエスを拝した。アーメン。
さあ、素晴らしいことが起きましたね。
かつて盲目だった彼が、イエス様に出会って、私がその方を信じることができますようにと願っている彼に、それが私ですよ。
そしたら彼が、主よ、私は信じます。素晴らしい信仰告白でした。複雑じゃありません。
簡単です。主よ、私は信じます。
世界の歴史の中で、いろんな方々がイエス様を信じて告白したと思いますけれども、この人もなんと素晴らしい信仰の告白じゃないでしょうか。
主よ、私は信じます。神の恵みです。霊の目が開かれました。
だからイエス様を信じるようになりました。
これは、全知を超える神の働きであります。
精霊様の導きであります。
そして彼は、主よ、私は信じますと言って、その後何をしたのでしょうか。
そして彼はイエスを拝したとありますね。
礼拝という言葉なんです。イエス様を信じますと告白した彼は、
その信仰の証として、そこですぐにイエス様を礼拝しました。
たぶんですね、彼の顔は喜んでいたことでしょう。
嬉しくて嬉しくて、そしてそれがイエス様だったんですね。
と、ハレリヤとイエス様に礼拝したに違いないでしょう。
27:00
皆さん、信仰の証は礼拝として現れる。
いや、信仰の証は礼拝によって完成されるということであります。
だから、信仰と礼拝は離れられないものでありますね。
イエス様を礼拝すること、これが信仰の表しであって証であります。
この盲人だった彼は、この日ですね、一生の中で最後の日を過ごしているのではないでしょうか。
見えなかった目が見えるようになった。
イエス様を知らなかった人がイエス様を知るようになり、信じるようになって、
あの口からイエスを信じますと、礼拝する日になったんですよね。
この後、彼の人生がどうなったのか、
このヨハネさんも他の福音書の記者も知るしかないんですね。
でも大丈夫ですよ。天国にいたら会えますので。
多分ですね、これはあくまで個人の推測ですけど、
十二弟子にはなっていませんが、ずっとイエス様に従っていて、
ついていって立派な信仰を持って福音にふさわしく会えたのではないでしょうか。
そう信じますね。
今日メッセージは短いですけれども、たまには礼拝にも早く終わってですね、
それぞれいい時を持つこともいいのではないでしょうか。
ところがですね、ここで私たちすでにイエス様を信じている信者として、
私たち一つ、この38節から一つ一緒に確認したいものがありますが、
それは私たちの礼拝は信仰によって捧げるべきであるということであります。
主よ私は信じます。そして彼はイエスを拝したと答えたように、
礼拝とは何なのか。それは信仰によってなされるものである。
皆さんが今、信仰によって礼拝をしているように、礼拝は信仰によらないと実は単なる式に過ぎないわけなんですよね。
単なる式に過ぎない。
しかし、礼拝において最も大事なのは、ある意味で誤解したいと欲しいですけれども、
30:01
何かの伝統でもないですし、順序でもないですし、奉仕のやり方でもありませんし、
あるいはこの人が奉仕するか、あの人が奉仕するか、それでもありませんし、
礼拝において最も大事なこと、それは信仰なんです。
もちろん、だからといってですね、本当に素晴らしい信仰を持たないと礼拝できないか、そういう話ではありません。
それぞれが枯らし種のような信仰さえあっても、信仰を持って主を拝するときに、その礼拝が神様に喜ばれる礼拝である。
だから皆さん、まずはこの誠実礼拝を信仰を持ってお捧げしましょう。
習慣によってではない。
そしてもう一つ申しますと、それはこの礼拝は、誠実の日曜日の朝捧げるこの礼拝式だけが礼拝であるわけではないんですね。
普段の私たちの24時間365日、全て教会にいても家庭にいても社会にいてもどこにいても、
そこの我々のそのあり方、姿、生き方すべてが礼拝であるということを、
そしてどこにいても偽りない信仰を持って、礼道誠を持って、主を愛する心を持って、
また主を慕い求める心を持って、どこにいてもそこで祈りをする。
そこで聖書を開く。そこで主に賛美を捧げる。そういう風な礼拝が我々の生活のすべてでありたい。
そういう意識を持って信仰を全うしていきたい。そうしますと日々が礼拝である。
でも逆にそうでないと日曜日の礼拝はありがたく、本当に一生懸命守っているんですけれども、
他の曜日はキリストはあまり考えない。もしもですよ、考えない。
聖書はなかなか開くこともない。祈りをすることもなかなかない。
そうしたならば、それもある意味で矛盾していることになるかもしれない。
皆さん覚えてください。クリチャーの私はどこにいても我々の日常生活が礼拝であるということであります。
そして最後に、パリ裁人とイエス様との最後の対話の中で大事な教えが一つあります。
そこを40節からちょっと見ていきましょうか。ここだけ話をして終わりたいと思います。
33:05
パリ裁人の中でイエスと共にいた人々がこのことを聞いてイエスに言った。
私たちも盲目なのですか。この意味の盲目はどういう意味だと思いますか。
身体の盲目じゃないですね。心の盲目、霊の盲目なんです。
いろいろ言われるからですね、このパリ裁人の中の何人かがですね、ちょっと気になってですね。
イエス様、そしたら私たちも、私たちはパリ裁人なんですよ。
宗教家でね、聖書を知り尽くしていて教えている我々なんだけど、
でも、そうしたら私たちも盲目なんですかと聞いているんです。
そしたらイエス様の言った41節大事ですね。一緒に読みたいと思います。
41節、3、イエスは彼らに言われた。
もしあなた方が盲目であったなら、あなた方に罪はなかったでしょう。
しかしあなた方は今、私たちは目が見えると言っています。
あなた方の罪は残るのです。どういう意味でしょうか、皆さん。ご理解できたんでしょうか。
あのパリ裁人は、いや私たちは見えていますよ。何でも見えていますよと言っているの。
そしたらあなた方は実は盲目なんですよと言っている。
逆にイエス様、私の目を開いてください。あなたが見たいです。
あなたの栄光がどれだけどんなものなのか。
神徒が受け継ぐものがどんなに素晴らしいものか。
信者に働く神の力がどんなに優れたものなのか。
それが知りたいですしよ、この盲目な私の目を開いてくださいと言う人は、実は目が開いているんですよ。
分かりますか、皆さん。皆さんはどうでしょうか。盲目ですか。見えていますか。
さらに私の目が見えるようになりたいです。そのために祈ってください。祈ってください。
主よ、私の霊の目が見えるようにしてくださって、自分自身を正しく知ることができますように。
神をイエス・キリスを正しく知ることができますように。
これから歩む道を正しく知ることができますように。
あるいは今目の前にあるこの山のような大変なことをどう乗り越えられるか。
主よ、目が見えるようになって、知恵を上からお与えくださいと。
そのために祈りたいですね、皆さん。祈りましょう。
主よ、実は私の目は盲目でした。私の目を開いてくださいと祈ってですね、主が開いてくださって。
36:02
イエス・サムを信じるこの毎日の日々が、まさにこのかつて盲人だった人が喜んで主を愛したように、
私たちも主にあってですね、喜びのうちに幸せにイエス・サムを信じて主を私が信じますと告白しつつですね、
喜びで喜んで主に従ってまた歩んでいきたいと願います。お祈りしましょう。
36:29

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