ペンテコステと聖霊の導き
一言お祈りをいたします。
世界中どこででも新しい歌を主に歌えと、
誠に主は大いなる方と、
愛する天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
ヘンテコステ礼拝を迎えました。
まさに主が、2000年前に聖霊様を一人一人に下して下さり、
それはまさにイエス・キリストことが、この世界の王となられたという、その告知でありました。
世界中は主を褒め、誠の王である主を知るようになると、あなたが語り、
私たちに幻を見せて下さるという、そのような約束を与え、
そのように私たちを今も導いて下さっていることを、心から感謝をいたします。
神様どうか、今日もまた御言葉を開いて下さって、
あなたご自身を知ることができますように、
聖霊様が今も私たちに働いて下さっている恵みを知ることができますように、
帰りみて下さい。
祈られたように、世界中には様々な争いが、分断が、壁があります。
ただ、だからこそ、この時にヘンテコステを祝うことの意味があるように思います。
御霊は一つへと向かわせる霊です。
私たちの内に今も働いて下さっているあなたが、
私たちにあなたの力を与えて下さって、
この世界にあって世のものではないようなその歩みへと、
私たちをまた引き戻して下さいますように、お願いをいたします。
ここに来たくても来れないお一人一人がいることを、
どうか主が憐れんで下さって、慰めて下さいますように。
施設におられる方、家で礼拝を守っておられる方、
体調を崩して来れない方、
また違う場所で礼拝を守っておられる方、
それぞれを聞いておられます。
また久しぶりに今日は礼拝に来ることができた方も覚えております。
どうか主がお一人一人を憐れんで下さり、
どうかあなた御自身の御臨在によって、
あなたの恵みを教えて下さいますように、お願いをいたします。
御言葉を開きます。
どうか主御自身が私たちに語って下さいますように。
期待をしてイエス様の皆によってお祈りをいたします。
おめでとうございますという感じですね。
おめでとうございます。
聖火隊の賛美に感謝をしております。
本当に毎回色々な曲を歌って下さってありがとうございます。
今日歌っていただいた最初の一曲目の歌詞、
少し覚えたいと思うんです。
御霊は雨より我に下りて、
御霊は雨より我に下りて、
喜びやすきを満たしたまえりと賛美をいたしましたが、
まさに今朝は2000年前に御霊様が弟子たちに下り、
教会が誕生したペンテコステを一緒に祝っているわけです。
内なる葛藤について
この賛美はまさに御霊様は喜びやすきを与えて下さると歌うのですね。
御霊様は私たちを喜びやすきというのは平安ですけれども、
喜びや平安へと私たちを導きたいと願っておられる。
そう願うだけではなくて、今も私たちのうちに働いて下さっている。
それが聖霊なる神様ですね。
ではちょっとだけ具体的に考えたいと思います。
じゃあ聖霊様はどのように私たちの心に喜びと平安を与えて下さるのでしょうか。
二番目で歌われたように、確かに御霊の満たしが与えられるという歌がありましたね。
御霊の満たし、まさに聖霊様がうちに満たされて確信が与えられて強められる。
そういうこと私たちあるわけですね。
ただそれと同時に、私は三番の歌詞が胸に刺さるなと思いました。
三番目に歌ってくださった歌詞は、
まことに御霊は光のごとく心の闇夜を照らし給えりと歌ってくださいましたね。
聖霊様は光のごとく心の闇夜、いわば私たちの心の暗闇を照らしてくださる。
それによって喜びと平安を与えてくださる、そのようにも聴ける歌ではないでしょうか。
私たちの闇の中には、人間の闇の中には一体何があるのでしょう。
様々なものがごちゃついているような気がしますが、
ただおそらく一つ方向性を探るならばそれは、
最終的に壁を作るという方向へと人間を導くものが闇の中にあるのではないでしょうか。
壁を作る、壁を作る。
先ほど世界情勢も思って祈っていただきました。
現在の世界はまさに壁を築き、分断へと向かっていく様相が見えています。
戦争を越えて虐殺とも言うべきことが起きております。
大きな悲しみ、憎しみの連鎖は生み出され続けていますし、
その中で国はどうなるのか、自国主義へと向かっていますね。
自国主義が作るのは移民への高い壁です。
しかしこれは国の話じゃないんです。
国というのはどこまで行っても人間です。
人間の話なんです。
人間というのは壁を作る。
人間は壁を作る生き物です。
しかしペンテコステが私たちに告げることそれは、
神は私たち一人一人に精霊様を注いでくださった。
精霊様は何をさせる霊なのか、壁を越えて一つにさせる霊なんですね。
精霊様というのは一つへと向かわせるために、今も私たちへと働いておられる霊です。
それは言い方を変えるならば、この世界においてはいろんな人たちが当たり前のように壁を作っていくんだけれども、
いや、精霊様を注がれているあなたたちは違う道を選ぶことができるんだと言っているんです。
違う道をあなたたちは選ぶことができる。
それがペンテコステに覚えるべきことではないでしょうか。
今朝注目したいのは25節の言葉です。
私たちは見たまによって生きているのなら、見たまによって進もうではありませんか。
この言葉に励まされながら、今日読んでいただいたこの16節から26節を3つのポイントでまた確認をしていきたいと思っております。
さて一つ目のポイント、それは私たちの中には対立が存在するということです。対立が存在するということです。
今日はガラテア書を開いていただきましたが、16節、17節を読みますとこういうことが書いてあります。
私は言います。見たまによって歩みなさい。そうすれば肉の欲望を満たすことは決してありません。
肉が望むことは見たまに逆らい、見たまが望むことは肉に逆らうからです。
この二つは互いに対立しているので、あなた方は願っていることができなくなりますとパールは書きます。
この言葉というのはキリスト社に向けて語った言葉です。
これはいわば私たちのようなクリスチャンに向けて語った言葉なのですけれども、
いわばそういうあなたたちは見たまによって今歩んでいるよねと。
私たちがイエス・キリストを信じる信仰が与えられるのは、人間が頑張って信じようとしてもなかなか信じられないのです。
信じがたいことを私たちは信じている。
でも不思議と信仰が与えられるそれは、聖霊なる神様の働きによってですね。
見たまによらなければ誰もイエスをしと告白することはできない。
ですから聖霊様によってあなたたちは今救われて導かれている。
しかしパールは言うんです。
そのような救われている一人一人の中には肉の欲望と聖霊様という方が中に混在し対立をしている。
神様を信じている。神様の願いを知っている。
しかし心の中にそれと対立するようなある種の自己中心。
傲慢、嫉妬、不安。
何よりも私たちずっと見てきていますが、自分自身の正しさを過信する思いですね。
正しすぎるという思い。
これらは肉の欲望。
ここでの肉というのは単に身体的な何かということではなくて、
肉という言葉これは聖霊様に相反する悪霊の支配力のことを指すと言われます。
肉というのは聖霊様に相反する悪霊の支配力。
ここではそのような使われ方がしていると言われますね。
聖霊の役割とその影響
そのような力があなたたちの中に働いている。
そしてその一方で確かに私たちの中には既に聖霊様が働いておられる。
聖霊様は単なる力ではありません。
私たちよく誤解します。
聖霊様は何か力だとかエネルギーとかそうじゃない。
聖霊様はご人格を持たれた私たちと伴う神、ご自身ですね。
そして聖霊様はヨハネの福音書に書いていますが、何をするか。
私たちの中にイエス・キリストを明かししてくださる。
聖霊様の働きは私たちの中にイエス様を教え続けてくださる。
それはガラピア書で言葉を書いてパウロは
あなた方の中にキリストが形作られると彼は言いましたね。
あなたたちの中にキリストが形作られる。
それが聖霊様の働きです。
先ほど賛美くださったまさに
嵐を止ませイエス君の御声のみが聞こえる。
これまさに聖霊様の働きですね。
そのような私たちの中には2つの対立が存在するのです。
パウロは16節にこう言いましたね。
私は言います。
見たまによって歩みなさい。
そうすれば肉の欲望を満たすことは決してありません。
これは聖霊様に従った夢は完全に欲望から脱却する。
完全に罪を犯さなくなるということを言っているのではないです。
17節にはパウロは葛藤があると言っています。
しかしここでパウロが16節に言い表しているのは何かというと
聖霊なる神様への大きな信頼なんです。
私たちの中には様々な葛藤が存在をする。
でも聖霊様は今私たちのうちにいて
イエスキリストを教え、イエスキリストを私のうちに形作り
そのための一切の供給源になってください。
そのような聖霊様がいるのならば
肉の欲望に支配され続けるなんてことはないんだよ。
これは信頼の言葉なんです。
私はそのように信じている。
聖霊様はそのように私を買い得ると信じている。
私たちはどうでしょうか。
ただ私たちはそう信じたいですね。
こっちの方向ばかり向く世界にあって
こっちを向かせることができると私たちは信じている。
聖霊様はそういうことをさせてくださると信じている。
では二つ目のポイントに見てまいります。
ではそのうちにある葛藤をもう少し具体的にしましょう。
葛藤は肉の欲望と三魂の身というものが
二つ現れてくるということです。
パウロは葛藤の内容というものを
より具体的に明らかに描いてまいります。
19節から21節にこういうことが書いてありますね。
肉の業は明らかです。
すなわち乱らな行い、汚れ、公職、偶像礼拝、
魔術、敵、争い、尊み、意気通り、踏破心、分裂、分破、
ネタミデイスイユウキョウ、そういった類のものです。
聖霊の実とその重要性
以前にも言ったように今もあなた方にあらかじめ言っておきます
このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。
乱らな行い、汚れ、公職、ネタミデイスイユウキョウ、
これらは簡単に言うと人間関係を破壊するものです。
倫理観の低下、刹那的な快楽の追求、
そして偶像礼拝や魔術というのは、これは神様との関係を台無しにするものですね。
ただ、聖書全体から言えることは、これらの問題の一番の問題は何かというと、
これがやり続けるとだんだんこれが悪いことだと感じなくなってくるということです。
いわば無感覚になってくるんですね。
痛むべきことに痛めなくなってくるというのが一番悲惨ではないでしょうか。
そして結果、敵、争い、その身、気取り、踏破心、分裂、分破、最たるものは戦争というものになるのでしょうか。
相手を討ち、自分の意見を絶対化し、相手を人間と認めず悪魔化していく。
これは肉の欲望がもたらす悲惨な現実ですね。
でも不思議なように人間の歴史では戦争が費やれたことはほとんどないですね。
戦争といいますのは、一方の声だけ聞けば筋の通った言い分と正義があります。あるんですよ。
一方の言い方だけで言うならば、そこには言い分も筋も通っていて、正義も存在するんです。
しかし、いくら筋が通っているか関係ないんです。
いくら筋が通ろうとも争い、分破へ至ってしまうならば、それは神の国を相続できない。
その先はいつまで経っても神の恵みの世界へは繋がっていない。
そのようなことをはっきりと語るのですね。
しかし、聖霊様に従うならば、そこに御霊の実が結ばれていくのだ、とパウロは語ります。
22節、23節にそのことが書いてありますね。
しかし御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、入和、自省です。
このようなものに反対する立法はありません。
皆さんよくご存知の歌詞かもしれません。
少し詳しく見させていただきたいと思いますが、
パウロは御霊の実の一番最初に愛を置きます。
最初に愛が置かれるのは、それはキリスト教のどこを切り取ってもこれが中心だからでしょう。
愛が中心にあります。
ガラテア書の5章の13節から14節というところ、ちょっと前のページですね。
こういうことをパウロは言っています。
5章の13節から14節。
兄弟たち、あなた方は自由を与えられるために召されたのです。
ただその自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに使い合いなさい。
立法全体はあなたの隣人を自分自身のように愛しなさいという一つの言葉で全うされるからです。
立法全体、いわば旧約聖書全部、聖書の本質それは、
愛をもって互いに使い合いなさいという神のすすめであるというのですね。
6章の2節には、まさに6章の2節にお読みしますと、
互いに重荷を負い合いなさい。そうすればキリストの立法を成就することになりますとも語ります。
互いに重荷を負い合う、互いに愛し合うことです。
でもそれはイエスキリストの立法でもある。
ですから、パウロは聖霊様が私たちの心に神の愛を注いでくださるとローマ書では語りましたね。
ローマ書の5章の5節にあります。
滝のように、あの言葉はもともと滝のように。
滝のように聖霊様が私たちに触れてくださるときに、神の愛がよくわかるようになる。
神の愛に照らされるならば、自分がなんでこんなちっちゃいところにいたのかというような、
そのようなところに思わされることがありますね。
そして私たちがその愛に生きることができるのは、
神がどれほど私を愛してくださっているかを知るがゆえです。
互いに愛し合いなさいというのは、歯を食いしばってアーンと言ってやるようなものではない。
愛されていることを知るから、この愛のために私は何かできるかな、それでいいわけですね。
聖霊様は愛に冷えてしまう私たち、これ私もそうですが、
愛に冷えてしまう私たちに、イエス様の愛、神様の愛を教え続けてくださるお方です。
そして二つ目の意味は喜びですね。喜び。
ただ、パウロは喜びという言葉をちょっと特殊な使い方をします。
喜びと平和の理解
私たちは喜びと聞くと通常、何か喜ばしいことが起きたから。
誕生日が来たからとか、何かプレゼントをもらったから喜ぶということを言いますが、
パウロが語る喜びというのは、状況に関係ないんですよ。
彼は苦難の中にあって喜べ、イエスにあって喜べと言います。
なぜ主にあって喜べるのか。
それは、イエス・キリストがこの世界の王であり、全てを支配しておられるという確信から来る喜びです。
私たちは状況を見るときに、悪いことが続くと、悪いことになってくるんだなと思う。喜べません。
でも、この状況を治めている神がいる。
そしてこの神が私の祈りも聞いておられる。
この神がここを導いておられる。
だから、私は喜ぶ。喜び得ないときに、私は喜ぶ。
パウロの用法はそういうものです。
でもそれはそうなのでしょう。
先ほどの歌に、「我が心静かなり、嵐は止みて。」と歌ってくださいました。
この歌詞を細かく読むならば、嵐が止んだから静かなのではないんですよ。
私の心が静かになったから嵐が止んだ。
聖霊様が確信を与えてくださったから、嵐の中でも私は静かだと賛美をしているのではないでしょうか。
そしてパウロは平和について語ります。
平和が与えられる。
平和というこの言葉は、もともとは賭けがないという意味です。賭けがないという意味です。
イエス・キリストによって私たちは神との平和を持っていますと、ローマ書の5章の1節にパウロはそう言いました。
イエス・キリストによって私たちは神との平和を持っています。
イエス様を通して私たちは神様との関係が賭けがないものとされました。
賭けてないんですよ、私たちは。実感がどうあろうとも、賭けてなどいない。
神と完全に結ばれている。
そのような神との平安がある。だから嵐の中でも平安があり、
この平安が私たちの心と考えを守るんだとピリピ書の4章でパウロは語りますね。
この神の平安が私たちの考えと心とを守る。
聖霊様は心に平和を与えてくださいます。
まさに神との平和が確かだという確信を与えてくださって、
それがあるから私たちは他者との平和に進めるんです。
いつでも神との関係が確かだから、私たちは他者との平和に進んでいける。
その他は簡単に見ていきますけれども、
寛容というのは他者の意見や他者の存在を受け入れる広い心のことを言うんでしょう。
親切や善意というのは見返りを求めない優しさ。
誠実や入和というのは思いやる姿勢でしょう。
慈悲というのは自分の感情をコントロールし、謙遜な姿勢で生きる力でしょう。
全てが闇を覆っているこの世界の中で、
十字架への献身
闇を抱えている私たちの心の中に必ず必要なものですね。
聖霊様はそのようにこの御霊の実を想像してみるならば、
やっぱり何に向かっているか、世界を一つにする方向へと結んでいる、続いているんです。
神とあなたが結ばれ、神とあなたの隣人が結ばれていく。
そのための実が、聖霊様が結んでくださる実ですね。
さて最後のポイントを見ていきます。
そのようなことを知りながら私たちの中には葛藤があるのですが、
大事なポイントを今朝は一つ抑えて終わりたいと思います。
それは十字架につけたという言葉です。十字架につけた。
それが二十四節に書いてありますけれども、こういう言葉ですね。
キリストイエスにつくものは、自分の肉を情欲や欲望とともに十字架につけたのです、とパールは語ります。
自分の肉を情欲や欲望とともに十字架につけたのです、と。
私たちはこの肉の欲望と聖霊様が中で対立しているときに、
何かゴブゴブの勢力が戦っているような印象を持つのですけれども、
もしかしたら肉の欲の方が強いよと感じることが多いかもしれませんけれども、
しかしパールは言うのです。あなた方の情欲や欲望は十字架につけている。つけた。
情欲や欲望はつけた。
この十字架につけたという言葉は細かい話をしますけれども、ギリシャ語ではアオリスト系という過去形です。
簡単に言うならば、一回きり起きたことの過去を表す時世です。一回きりなんです。
ここで書かれているのは、何度も何度もあなたの情欲や欲望が十字架につきましたよという話じゃない。
キリストイエスにつくものは、情欲と欲望が十字架にもうついたという一回きりのことなんです。ついた。一回きりです。
それは一回きりであるということは、かつてあった一度きりの出来事。
いわばそれは決定的な変化が既に起きているんですよということを言っているんです。決定的な変化が起きている。
それは既にあなたの内にすくっている肉の欲望、肉の力というのは釘付けにされているんだよということです。
もう釘付けにされてしまっているんだよということです。
だから事実として、肉の欲望があなたを支配などしてはいないんだというんです。支配する力はもはやない。
かつてのあなたの支配者であったものは、もはや釘付けとなって動くことなどできない。
だから十字架に釘付けられたという言葉はこれは何かというと、あなたの支配者が、あなたのルーラーが変わったということです。
あなたの支配者は変わったんですよと。だから25世紀に言うんです。
私たちは見たまによって生きているのなら、あなたがもはや支配者が見たまになっているのなら、見たまによって進もうじゃないですか。見たまによって進もうではありませんか。
あなたの支配者は、聖霊なる神様があなたの支配者になられているんですよ。
それはゴブゴブではないんです。十〇なんです。十〇で聖霊様が勝っているんです。
それなのに、いつまで肉の欲望が、悪霊があたかもあなたの王であるかのように、絶対的な力を持つかのようにあなたたちは振る舞っているんですかということです。
釘付けられた肉は、まだ私たちを誘惑するかもしれませんね。だから葛藤はあるんです。
釘付けられた肉は、私たちを誘惑し叫ぶかもしれない。しかし事実、肉は十字架に釘付けられた。その事実は変わらないんです。
二十六節にパウロはこう言います。
聖霊の導き
うぬぼれて互いに挑み合ったり、妬み合ったりしないようにしましょう。
まさに私たちの現実でよく見るものです。
分断された世界では切実ですね。
私たちは自分の正しさを振りかざしたり、他者との優劣を競い合ったり、争いを繰り返します。
しかし、聖霊様は私たちにこの共鳴心と妬み、それをいたかすとピリピシュに書いていますが、
まさにそこからもうあなたたちは解放されているものでしょうと。
それしか支配者じゃないような世界に、もうあなたは生きていないんですよという。
聖霊様は私たち一人一人が、「やあ、あなたは神に愛されている存在であり、
互いの賜物を喜び、協力し合うような素晴らしい関係や交わりを築けるものになったんだよ。」と言うんです。
聖霊様とともに、壁ばかりを築くのではない、私たちは別の道を選べるんだと私たちは語られる。
見たまによって生きているのなら、見たまによって進もうではありませんか。
先ほどの賛美の最後に、「我が心静かなり嵐を歩みて、イエス君の御声のみさやかに聞こえよ。」という歌詞がありました。
さやかにというのは、はっきりとという言葉でしょう。はっきりと聞こえたということですよね。
預言者エリアに神様は、かすかな細い声で語られたことを皆さんよくご存知でしょう。
私たちもそうです。私たちの現実で起きているのは、神様のかすかな声と神様の声を、きっと私たちの中にある闇の中から来る大きな叫び声がかき消すんですよ。
そんなわけがない。
いやいや、愛とかふざけるなと。俺の考えていることが正しいに決まっているじゃないか。
闇の中からの大きな声が、見たまの声をかき消すかすかな細い声です。
それは私自身も経験があるものです。
しかし葛藤があるとしても、その声をどうすれば納め、違う道を歩むことができるのだろうか。
壁ではなく一つへ私たちは向かうことができるのか。
それは、闇からの大きな声に導かれずに、いや、導かれそうになるならば、単純に主の御前に出ることではないでしょうか。
主の御前で、精霊様の細き御声をそれでも聞こうとすることではないでしょうか。
声の大きさというのは徐々に変わってくるんですよ。
余談ですが、昨日、私は以前の職場の方の結婚式に行ってきました。
二人ともクリスチャンの神戸栄光協会で挙げられた結婚式でした。
そのご夫妻が言うんですね。
私たち夫婦は結婚するまで、祈りを中心に関係を築いてきました。
二人で会うとき、必ずお互いのために祈るということをずっとしてきました。
それが私たちの関係を結んでくれたし、
これはこれからも私たち夫婦で続けていく要だと思っています、
ということを明かしされて感動しました。
それでもいいかもしれません。
御霊の声に聞くためには。
互いに祈り合う時を持つ。
蒼天祈祷会に来る。
水曜祈祷会に来る。別に何でもいいんですけど。
でも、私たちはその中で主の御前に出る機会を大事にしなきゃいけない。
自分の中でずっと考えてもどうしようもないことがあります。
主の御前に出ていく。
そのところにおいて、私たちは自分の大きな声だけを聞くのではなくて、
御霊が私たちに語られる声に聞き始めることが必要なのではないか。
声の大きさは徐々に変わります。
なぜなら肉はもう釘付けられているからです。
なぜなら肉はもう釘付けられているからです。
本当は自由に私たちは聖霊様の声に聞き従うことができるお互いです。
今日の言葉、私たちは御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。
皆さんの支配者は肉でも悪霊でももはやありません。
十字架に釘付けられた今あなたを支配しているのは聖霊様です。
その御方に従って共に御霊によってあえませていただきましょう。
一言お祈りをいたします。