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2016-12-25 20:53

2016/12/25:クリスマス・選ばれた日

2016/12/25 聖日礼拝

斎藤亘師

ルカの福音書 2:1-14

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今、お呼びしました、このルカリオの福音書の2章から、今朝のお言葉を開いていきたいと、こう願っております。
今朝は、今まだ誰も見えないとすれば、この3人でのクリスマス礼拝なのかと思いますが、
思い起こしますのは、東方から博士たちがやってきて、そして別れに滞在中のイエス様を礼拝するという、
あの時の博士たちの心境、少数ではありましたけれども、イエス様を囲んで、そしてクリスマスの礼拝が捧げられた。
これは、またやによる福音書の2章において、それを見るわけです。
その時の礼拝と、人数にしては一緒かなと、そんなこの想像もします。
私は、この特に11節の、今日ダビデの町に、あなた方のために救い主がお生まれになったという、このクリスマスメッセージを改めて読み返しますと、
本当に自分は、クリスマスになって教皇して、ご一緒に礼拝を、クリスマスを覚えて、この礼拝をお捧げできるという、この幸いを感じております。
私は、クリスチャーになって、そして最初のこのクリスマス礼拝という、17歳、高校2年生の時だったかと思うんですが、当時、東北の白川で住んで、それでクリスマス礼拝を捧げる前に、
と申しますのは、当時、このクリスマス礼拝は朝6時からなんですよね。
で、イブの礼拝をしてから、確か3時、4時くらいからね、そんなに多くはないんですけれども、教会に来られている方々の家に朝焼けに行って、そしてキャロルを歌うわけです。
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帰ってきて、そして宣教師が集めてくれている礼拝堂で、クリスマス礼拝をそこで捧げる。
そういうのは、当時私が言い出しておりました、その教会の礼拝。
スウェーデンから見えております、宣教師ですから、スウェーデンがそうだったのかなと、そんな想像をしたりもしますが、しかし当時私は、クリスマス礼拝というのはそういうことで初めてですからね、こういうふうに朝早く来て、そしてやるんだろうと。
そしてそれまでに、このキャロリングをして、そして戻ってきて、そして朝早くなっている礼拝堂で礼拝を捧げる。
ところが現状は、ほとんど寝ておりませんのでね、それで帰ってきて、あったかいところで思って、気がついたときにはもう居眠りしていた。
ひどいときには、椅子から転げをして寝ていた、そんなことがあって、大変宣教師には失礼なことをしたなということ、当時は気がつかないのですけれども、今にして思えば、そんなこの礼拝でした。
神様はその上に、教会にたどり着いたときには雪がちらちら舞っていたんですね。
そして1時間ぐらいのクリスマス礼拝がそこで行われて、そして表に出ましたら、雪が積もっていました。
今よりも寒さが厳しいときでしたから。
そしてその教会の前には、ひまらや杉がちょうどクリスマス杉のように、これがまたずいぶん大きな木でして、宣教師がその上に登って、
それで言うならば、今までの言うのは、そういう電飾で綺麗にというのではないのですけれども、
色とりどりの電球をずっと飾って、そして、これがクリスマスにやることなのかなと思って、また珍しく見たのですし、
そしてそこへ持ってきて、雪が降ったものですから、よけい輝いて、本当にきれいなクリスマスなんだろうかなという、私にとりましては、
クリスチャンだって最初のクリスマスだ、そういうクリスマスだと思うんですからね、
非常に印象深く、いまだにそれを覚えております。60何年か前の話ですけれどもね。
で、その時に、そしてまたその時以来、私は今のこの11節のこのお言葉、
今日ダビデの町に、あなた方のために救い主がお生まれになった、というこのお言葉ですけれども、
私は何と素晴らしい今日というこの日なんだろうか、私は教会に行くまではクリスマスという意味も知らずに、
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戦後間もない時にお寺さんでクリスマスの映画会じゃなくてね、伝統会という、それがありましてね、
それは今思えばキリストの生涯をずっと映したんですよ。当時は何でかわからないですね。
けれどもまあ、伝統会があるというので、それで見に行ったのが、私にとってはクリスマスという名のもとに行われた一つの集まりに成熟した最初かなと思います。
そういうこの出会いでしたけれども、それで正確には高校生になって、そして教会に行って、初めてそういうクリスマスを迎え、
で、改めてこのクリスマスを今日までお迎えし、またお祝いもしてきたんですが、
私はこの十一節を見ますとね、改めて思うことは、神様の選び、この日は神様のお選びになった日。
で、自分のこのことを振り返りましてもね、イエス様を知るまでの十二月二十五日というのは何の意味もない。
ただ年末の過ぎていく日の一つであっただけですけれども、
イエス様がこういう形で私たちの家においでくださったというこのクリスマスを知った時に、
ああ、この日は何と祝福された日なんだろうか、神様に選ばれたこの日。
その日イエス様が、あのユダヤの方いながらでもって静かに誕生なさった。
誰がお祝いしたわけではないですけれども、しかしそういう誕生のお知らせを聞いて、数人の羊飼いたちが来たでしょう。
それからまた後に、はるばる今のこのイランの方から訪れてきた博士たちの礼拝を、
この場所でやったかどうかわかりませんけれども、そこでイエス様はお受けなさったでしょう。
けれども地上においての礼拝というのは、そういう静かでしたけれども、しかしこのような知らせの中において行われた。
09:06
この25日というのが、そういう意味で特別な日に変わっていったわけですね。
いろいろ説はありましても、今日私たちが一般的にこの教会で行うクリスマスは、
この日をクリスマスとして礼拝を捧げたり、いろいろそのことを行っております。
私にもそうであったように、イエス様を知るまではその日がどういう意味を持っているのかというのは知らなかった。
けれどもイエス様がその日誕生なさったことによって、その日は全世界が注目し、そして全世界がこの日をお祝いするという特別な日になっていった。
選ばれた日ということを考えますと、本当に神様は何でもないこの日をご自分の御幸を下しなさる、そういう日として選びなさっておられた。
それは聖書をたどっていくならば、イエス様がおいでなさるというこの日のために、地上において一つの民族を選び、
そしてまたその民族の中からアブラムの一族を選び、そしてアブラムをたどっていくそういう中でもってこのダビデを選び、
そしてまたダビデの末からやがてイエス様がおいでになるということを、
神様の方のプログラムでは、選ばれたその日のために着実に民族と種族と人と、そして場所と、そして遂にその時を選びなさって、そしてここに立っている。
私はですから、クリスマスというのは何度神様のドラマチックなこの神の選びの中において着実にこれが行われて、そして今私たちに良き訪れとしてこの日をお与え下さったこと。
そして私は思うことは、この日というこの日に対して、神様はちょうどその日を選びなさったように、その日を通して今度は私を選んで下さった、私たちを選んで下さった。
申し上げましたように、初めて教会に行ったのは、門ごろ着いて行ったのはその高校生の時です。
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そして何にも分からない、右も左も分からない、ただ教会ってのはこういうことをするんだなという程度の理解でしかなかったんですけれども、しかしそういう中でもクリスマスを通してね、
神様はこの御子をお使わせ下さったというこの事実の下において、その机にこんな私をもう選んで下さった。神様の選びがなかったならば、もうその辺で終わっていたかもしれない。
しかし、クリスマスの日を選びなさった神様は、そのことを通して、その選びを私たちにまでそれを及ばせて下さった。
そしてその日が祝福されたように、神様の選びの救いに預かった私たちを今度、選ばれた人、そしてまた選ばれた者への祝福をお与え下さっている。
という神様の選びの素晴らしさということをね、この日を選びなさった方が、こんな私をも加えて、そして神の選びの中においておいて下さった。何と素晴らしい大きなこの恵みだろうかということを思います。
そしてこの日を通して、神様はこんな私を生きるようにして下さった日として、この救いをお与え下さった。
私は一つの聖書からの光といえば、やはりローマ日帝の手紙を通して少しずつ自分の罪がわかってき始めた。そして七章というその箇所に入った時に、自分が罪人であり、罪人として何ともろい人間か。
これはパウロの体験ですけれども、しかしそのパウロの体験を通してその光は私にも及んで、そしてその光は自分がどんなに神様の前に本来ならば呪われて滅びるべきものが、
あえて選び、そしてその救いに預からせて下さったあればこそ、パウロはそのローマ日帝の手紙の七章において、私は生きながらにして死んだようなものだという。
けど感謝することは、そんな私のためにイエス・キリストが私のために救いをそこに成就して下さったという、それを彼はそこに証しとして述べ、そしてローマ日帝の手紙の八章に入りますと、そのキリストによって生きるようにされたものの勝利の障害がそこにずっと展開されていく。
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私はまさにそうだな、クリスマスはパウロじゃありませんけれども、罪に死んでいたような、あるいは本当に善に生きようとしてもそれができないような、そんな自分をもう一度生き返らせて、生きるようにして下さって、そしてその救いをもって神様はこんな私をも変えて下さった。
ですから私にとりまして、このクリスマスの日というのは、罪からの救いが完成された日と言ってもいいわけですね。
神様の方ではそれを成し遂げて下さっているんですけれども、私個人の中においてはクリスマスの日を通して、ああ、そうだったのか、この方がお生まれなさったことによって私を罪から追い付けて下さった、そういう特別な日、それがこの生きるようにされただけではない。
その生きるようにされたというこの証のために、そこには罪からの救いというのが完成された日として知らせて下さい。
そしてあわせ思うことは、それだけではなく、この日を栄えにして、このお方とともに生きるようにされた日と言えるということができようかと思いますね。
ですから、以来今日までその信仰生活、また伝道者としてのそれを今日まで守られてきておりますけれども、まあ恥ずかしいことながら私は、選挙主から最初に宣伝を進められたときにね、いつ辞めてもいいんですかというね、まあ考えてみればね、バカみたいなことを言ったなと。
しかしそのとき選挙主は、いいですよ、辞めたかったりしても辞めなさいという、なんか一面ちょっと突き放されたような感じもしないではなかったんですけれども、
けど、ちょっと安心しまして、入ったら障害抜けられないみたいなね、なんか呪文にかけられてしまって、というような一つの宗教に対する一つの思いがありましたし、またそんなふうにも聞かされておりましたからね、だからめった宗教なんか凝ってはだめなんだというようなことを周りの者からよく言われてもおりました。
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ですからまあそんなこと言ったんでしょうね、まあもうちょっと思い出せませんけれども、ただ言ったことを覚えているんですね。しかしそれをその選挙主は受け止めてくれて、そしてそれからだいぶ経ってからですけどね、宣令の決心をして、受け決心をして、そしてその救いに預かって今日まで来ました。
だいたい何をやってもですね、長過ぎしないような私ですから、前にも申し上げたことがあるかと思うんですけどね、私は、まあうちの家内もそうですけれども、親の反対があった。
よくね、そういう証を聞くんですよね。ところが私はね、全然そういう親の反対とかなかったんですよ。それはなんでなかったかというと、どうせ渡るわ、まあしばらくしたら辞めるに違いない、そんな長過ぎするような子じゃないんだから、私の友達に言ったそうですよね、まあ教会で知り合った友達ですけどね。
まあそう言われたんで、ああ、だから反対しなかったんだなとわかりました。それぐらい周りも、まあ教会に行ったって言ったって、そんな長過ぎするはずがないし、また党の本人もですね、そんな長過ぎすると思わない、最初からいつ辞められるんですかみたいなことを言ったりするような人間ですからね。
しかしそんな私がね、今日まで来れたというのは、このクリスマスの日を選びなさった神様が、同じようにこんな私を選んでくださったという、主権は神様の方ですからね、私が信じたから、そして今日まで来たんだというんじゃなくて、神様の選びが主権ですから、ですからそれがあっての今日だということを思うとですね、
まあなんと神様の選びというのはね、こっちがあれやこれや考えてとりむし黒みたいな思い過ごしのようなことをするわけですけども、しかし圧倒的な神様の手は、本当に迷いやすいようなものをずっとこうね、守ってくださって、しかもクリスマスは神が共にいます日という、インバネールのこの方ですからね、
ですからこれほど確かなことはないわけで、それを知れば知るほど、今日あるのは本当にこのクリスマスを通して私を選んでくださったこの方がご一緒してくださったのこその今なんだな、今日なんだな、このクリスマスに私はそういう特別な日としてね、本当に感謝しています。
それではお祈りいたしましょう。
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