2024-01-07 24:00

#祈りとは 24/1/7

マルコ-29からの礼拝説教。2024年1月7日録音。今日の箇所は先週取り上げたお話しの続きです。信仰と祈りがテーマのこの箇所から、1.祈りの言動力は力不足、2.祈りは信頼の表明、イエス様との心の交流、3.信仰のガイドとしての祈り・信仰の向きと焦点を「願い」に向ける、の3つの点から学びましょう。

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00:07
それでは、お読みします。
マルコの福音書、9章、28節、29節
イエスが家に入られると、弟子たちがそっと尋ねた。
私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか?
すると、イエスは言われた。
この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。
以上です。今日はこのところから、祈りとはと題して、三児玉を読み継ぎます。
皆様、おはようございます。
今年もよろしくお願いいたします。
新年最初の礼拝です。ご存知のように元旦の四時ですか、
ノトで大きな地震が起こりまして、礼は六年、ノト地震と命名されました。
そしてその後、羽田空港であのような航空機事故が起こって、
驚くような新年となりましたけれども、
今年一年ともに一緒にやって歩みながら、また痛みを抱えた方々にですね、
祈ったり、またできることで、手を差し伸べるというとおくがましいんですけれども、
寄り添いながら、教会がまたお互いが愛めたらと思います。
さて、今日は祈りとはと題してのところなんですが、
祈りとはですね、救い主イエス様と人格的な交わりをする手段ですね。
そしてその祈りの中で私たちはイエス様への信頼を表す。
そして私たちはその前後の中でですね、
自分の力不足を痛感したり、先週取り上げました信じきれない弱さというものを実感します。
その時にですね、弱さが祈りの原動力になる。
そんな話が今日のところと関わるんですけれども、
今日のこの箇所は、先週取り上げました
病気の息子を治してくださいと、このイエス様のもとに訪ねた父親と息子、
そしてそれを弟子が救えなかった、イエス様がそれを救ったという、
そういうところの続きであります。
そしてですね、そこに祈りということで今日の読んだ2つのところがですね、
結論として書かれている。そこから祈りについて3つのことを考えていきたいと思います。
まず、祈りの原動力は力不足であるということなんですね。
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今日の最初の御言葉はこうありました。9章28節。
イエスが家に入られると弟子たちがそっと訪ねた。
ここだけ読めるかと読んでみましょうか。3回。
私たちが霊を追い出せなかったのはなぜですか。
そっと訪ねたというのは、よく弟子たちが家の中で、
他の群衆から分け隔てられたところでイエス様にそっと訪ねる。
そしてイエス様が、ある意味は英語で言うとプライベートにですね、
親しい間柄として弟子たちに特別教えた。そういうことがよくわかるところです。
ずっと先週の箇所で顕著にもなりましたが、
これまで弟子たちの失敗が浮き彫りになっている。
さらに、今日のところで、というか先週のところからわかるのは、
弟子たちの勘違いということなんですね。
何か、弟子たちはですね、6章7節のところで、2人1組で派遣されました。
イエス様によって派遣されて村々に行きました。
こんなことが書いてありました。6章7節。
イエス様はまた12人を呼び、2人ずつ使わし始めて、
彼らに穢れた霊を制する権威をお授けになった。
このお授けになったというところが大事なんですね。
この弟子たちはですね、授けられて行って、
そしてその行った先々で、そこの箇所の続きを見ると、
悪霊を追い出したり病気が治ったりしたわけです。
イエス様と同じような働きを派遣された先で、弟子たちはすることができました。
しかしそれは、彼らに力があったからではなかったんですね。
彼らがイエス様のような働きができたその理由は、
イエス様の権威を授けられた、委ねられたに過ぎなかったわけなんです。
書かなかったですね。
権威が授けられたイコール、力が弟子たちにあるということではないということを、
覚えておく必要があるわけなんですね。
しかし弟子たちはですね、先週のところ、
息子と父親の助けを求めてきたところで勘違いした。
それは、自分たちはイエス様に委ねられた権威を自由に行使できる。
自分の意のままにイエス様から授かった権威を支配できると思った。
そのような勘違いをしていたということなんですね。
その中で、先週見た自分たちに癒すことができなかった。
悪霊を生み出すことができなかったというところで、
力不足を認識したわけなんです。
その時に弟子たちはイエス様に、
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私たちが霊を生み出せなかったのはなぜですかと率直に尋ねたわけなんですね。
大切なこと、とても大事なことがここで実は教えられています。
それは弟子たちの力不足が祈りの原動力になる。
その祈りに借り立てる弟子たちの弱さということを、
この箇所は私たちに教えている。
私たちの力不足が、私たちが祈ろうという気持ちに借り立てるということを、
この今日の箇所は私たちに教えているということなんですね。
そして、このことに関して私たちが知っておくべき、
もう一つ大事なことがあります。
それはですね、祈り自体に力があるわけではないんですね。
私たち弟子たちの力不足が祈りの原動力になるということなんです。
その権威を授けられた、その権威が自分が自由にできるという勘違いしてしまうということ、
それと関連してもう一つ知っておくべきことがあります。
それは祈り自体に力があるということではないんですね。
よく祈りを超能力のように勘違いして、
自分の念力によって祈りが叶えられて願いが叶うという、
そういう誤解を教会と馴染みがない人はすることがあるかもしれませんし、
教会に通いながらもそのような祈りの力というのは、私たちの願う力の強さ、
超能力や念力のようだと少し誤解することがあるかもしれません。
当然祈りが応えられるというのは祈りの能力ではないのですから、
たとえ私たちが祈って神様がその祈りを応えてくださったからといって、
私たちがクリスチャンとして優秀である、
そういうことが明かしされたということにもならないということなんですね。
ここで大事な言葉があってですね、
弟子たちを祈りに借り立てた弱さを表現する、ある英語の言葉があるんですね。
inadequacy、ちょっと難しいつづりなんですけど、
これは日本語では不十分、力不足、不足、不適当、不備、無能、欠点、不適当な点があるなどですね、
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広い意味で訳すことができるんです。
この弟子たちがinadequacyということを実感したときに、
そして私たちも同じようなものを実感したときに、
それが祈りの原動力になるということなんです。
ですから力不足が祈りの原動力というのはそういうことなんですね。
ここで何が関わってくるかというと、
先週、私たちはイエス様に信頼しているけれども、
信じきれない弱さがあるということを見たんですね。
でも例え先週も見ましたけれども、
私たちがイエス様を信じきれない、
救ってくださると100%確証できない時があるかもしれない。
だからといって自分が不信仰だといって、
嘆くことがあるかもしれません。
でもそこで失望する必要はないということなんですね。
あるいは今回の大地震の時もそうかもしれませんが、
イエス様のために、他の人のために何か役に立ちたいと思っても、
思ったように役立つことができないと、
嘆いてしまうことがもしかしたらあるかもしれません。
しかし福音はこう告げるんですね。
私たちが無力でも、私たちには祈る道があるということなんです。
弟子や私たちに力がないということは、
神の救い主なるイエス様に力があることだということ。
それが福音なんですね。
私たちに力がない、私たちが力不足だということは、
他でもないイエス様ご自身に力があるということなんです。
だからイエス様が、私のところに連れてきなさいと先週言った、
私のところに来なさいと招いてくださるということなんですね。
ですから今日の歌書のイエス様の御言葉が教えていることは、
私たちはたとえ無力であっても、それを実感したとしても、
祈るという道がある。
私たちは自分の力不足を受け入れると、
それが祈りの原動力になるということなんですね。
ここであげていいかどうかちょっと分からないですけども、
この間の羽田空港の航空機事故、今皆さんスマホを持ってますから、
生々しい現場のライブ映像が被害者の方によって公開されましたね。
皆さんご覧になったかもしれませんが、私印象に残ったのは、
その中で小学生か中学生くらいの女の子でしょうかね、
神様助けてくださいと声が入っているんですね。
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この煙が充満する部屋の中で。
そしてその後、また別の救出された後のインタビューで何人かしたんですけど、
やはり小学校に3年生くらいの男の子がどうでしたかと聞かれたときに、
いくつか言った中に一つ、助けてくださった神様に感謝しますと言ったんですよね。
本当に私たちは自分が自分を助けることができないというときに、
まさに無力を実感して神様助けてくださいと祈ることができる。
このような祈りの原動力は自分の力不足だ。
どうしようもない現実が祈りの原動力になるということは最初の点です。
2番目。祈りというのは何か。それは信頼の表明であり、
私たちとイエス様との心の交流なんだということなんですね。
するとイエスは言われた。
この種の者は祈りによらなければ何によっても追い出すことができません。
9章29節。
この御言葉はどんなことを言っているか。
それに関連して祈りとは一体何かということをもうちょっと詳しく見ていきましょう。
今日取り上げた箇所は先ほどから言っているように、
信頼する信仰と祈りが結びつけられているんですね。
不信仰の弟子たちを嘆いて、先週見た箇所で弟子たちはこう言ったんですね。
弟子たちにお願いしたけれども、癒されませんでしたと父親が言ったときにイエス様はこう嘆きました。
不信仰な時代だ。いつまで私はあなた方と一緒にいなければならないのか。
いつまであなた方に我慢しなければならないのか。
その子を私のところに連れてきなさい。
ここでやっぱり信仰、信頼が問われています。
そして父親がイエス様とのやり取りの中で最後に、
できるならというか、こんなちっちゃい頃からこんなにひどかったんですよと言って、
もしお出来になるならば私たちは我に助けてくださいとイエス様に言ったら、
そのことに応えてイエス様がこう父親に言ったんですね。
できるなら、私にできるならというのですか、信じる者にはどんなことでもできるのです。
そしたらそれに応えて父親はこう叫んだんですよね。
信じます。不信仰な私をお助けください。
この先ほどの点と重なりますけれども、最後の父親の叫びはまさに、
自らの無力を認めた人の祈りだったわけですよね。
そんな中で、今日の箇所にあるイエス様の言葉からわかること、
この死の者は祈りによらなければ何によっても生み出すことができない。
これらの言葉からわかること、
それはですね、イエス様への信頼は祈りによって表現することができるということなんです。
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祈りというのは何か、それはいろんな言い方ができると思いますけれども、
イエス様が私を救ってくださるということ、その信仰を表明する手段が祈りであるということなんですね。
信頼の表明としての祈り。
そしてもう一つ、祈りというのは何か、
信頼の表明と同時に、祈りとはイエス様と交わる手段、
すなわち祈りにおいて私たちはイエス様と心の交流をしているということなんですね。
今回のノートの地震に関して、大谷翔平選手がですね、
旧団とともに100万ドル、日本にすると約1億4500万円を募金するということを表明して話題になりました。
大谷選手も岩手県の奥州市の出身、
実は3月11日の東日本大震災の時に、大谷選手は花巻東高校の1年生だったんですね。
だからその震災のことを我がこととして知っている人の一人だったんです。
ですからこのような経験から、今回のノート地震に関しても被害者の方々に深い共感を覚えた。
心から助けたいと願ったに違いないと思うんですね。
一方、私たちがイエス様に助けてくださいと祈っている時に、何をしているか、何が起こっているか。
それは神様であって救い主であるイエス様と心の交流をしているんですね。
悩みを共有している、それが祈りなんです。
その時にですね、祈っている時にイエス様と心の交流があり、イエス様が私たちの痛みに共感してくださる。
何が起こっているか、そしてその時にイエス様は神であり救い主でありますけれども、
友として、我がこととして私たちに救いの手を差し伸べてくださる。
これがですね、祈りはイエス様と交わる手段だということであるわけですね。
そのような中で神様はですね、私たちにいつでも呼び求めなさいということで、このような約束を聖書に残してくださいました。
エレミーア書の33章の4節です。ちょっと長いんですが読んでみましょうか。
私を呼べ、そうすれば私はあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることをあなたに告げよ。
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私を呼びなさい。
そのような御言葉に応えて、神様と心を交流するべく祈りに向かいたいと思います。
最後、祈りとはですね、ちょっと長いんですが、信仰のガイドとしての祈りである。
この信仰の向きと焦点を願いに向けるというのが祈りなんですね。
もうちょっと長いんですがどういうことか。
祈りにはですね、具体的な願いが欠かせないという要素があります。
で、祈りにはですね、いろんな種類の祈りがあります。
どんなのありますか。
ありがとうという感謝の祈りがありますね。
賛美の祈りと感謝の祈りは表裏一体だという伝統があるんですが、感謝するときは実は私たちは賛美もしている神様。
また、罪の告白の祈りといってですね、自分の心のこの罪をですね、イエス様に告白して十字架の許しを確認する。
そのような罪の告白の祈りなどもあります。
その中で、願いの祈りとか取り出しの祈りというのがちょっと今日3番目に見ることです。
で、今日のこの箇所でもですね、イエス様は、
この種のものは祈りによらなければ何によっても追い出すことができませんといって、この種のもの、この文脈ではですね、
これを追い出すということですけれども、この特定のことに対して願い求めていくということなんです。
このことをですね、ある学者がこのように解説しています。英語でこんなこと言ってるんですけども、日本語に訳すとですね、
祈りとは、神への具体的な要求に信仰集中させ向けることである。
祈りって何となくそうだなと思いますけども、具体的にこのように外国人らしく、多分アメリカ人ですけど、アメリカ人らしくこう言ってるんですね。
具体的な要求というのは、その時その時の自分の課題ですよね。
その神への具体的な要求、願いに自分の信仰集中させる。
神様がこのことにおいて私を救ってくださる。私をこのことにおいて救ってくださいということで、そこに自分の信仰集中させたり、そこに神への信頼を向けるというのが祈りだと言うんですね。
ですから祈りは何ですかといえば、いろんな言い方ができると思うんですけれども、祈りとは、信仰を集中させることだということができるんです。
どういうことか繰り返しになりますが、私たちはその時々において直面している課題がありますよね。
病気、自分の問題、家族の問題、仕事の課題、あるいは勉強について、その時その時に課題、あるいは直面している問題があります。
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その一つ一つにおいてイエス様の救いを信じて助けてくださいと祈っていくということが祈りだ。
それが信仰の方向を定め、焦点を定めて祈る、神を信じる、救いを信じるということなんですね。
何についてどう助けてほしいのかを具体的に祈って、信仰の向きと焦点を定めていく。
そのようにして具体的な救いを願って信じて祈るということが祈りにもあるということを覚えておきましょう。
そのことをよく表す、よく引用する御言葉として、
首都パウロがピリピリとの手紙4章の6節から7節でこう言っているんですね。
願い事を知っていただきなさい。
読んでみましょう。
何も思い患わないで、あらゆる場合に感謝をもって捧げる祈りと願いによって、
あなた方の願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、
あなた方の心と思いをキリストイエスにやって守ってくれます。
新しい年が始まりましたが、弱さを思う時に、
イエス様に信頼して、具体的に助けてください。
このことにおいて救いを与えてくださいと祈っていく。
また祈り合っていくことを考えてやりたいと思います。お祈りしましょう。
天の神様、新しい年が始まり、日本中で様々な出来事が起こり、
世界も色々な事が渦巻いて、その河中に私たちはあります。
私たちの目の前にも様々な課題がありますが、
どうかそのような時に、あなたに信頼し、また私たちへの信頼を、
あなたご自身、救い主であるあなたに向け、
祈ることができるように、どうか導いてください。
その中で私たちが、あなたと心を通い合わせることができますように、
そのような幸いな時を過ごし、あなたからの平安をいただく、
またあなたと共に歩む、そのような一年になりますよう、
どうか導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは1分ほど、御言葉に応えて祈る時間をとりましょう。
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