00:01
それでは、潤牧氏より、阿那尼雅夫婦の信仰と行いと題してメッセージを語っていただきます。
おはようございます。今日もよくおつかれいらっしゃいました。
では、今日もですね、メッセージに入る前に隣の方々とお邪魔しましょうか。挨拶しませんか。
よくおつかれいらっしゃいました。
それでは、きょうそお祈りさせていただきます。
神様、今日の主の恵みを心から感謝いたします。
今日も天候はよくないんですが、でも、主の恵みを期待求めて、こうのようにして、主の宮にやってまいりました。
主の定めの恵みをあふれんばかり、私たち一人一人の上に、心の中に、霊の中に、主がおかさり下さいますように。
そして、なおなお主を愛し、主に従うものとして下さい。
そして、私たちの生活において、また人生において、主の心が待ち遂げられ、そして主に喜ばれる人生へと。
そして、本当に主を愛する者が、主に従う者はどれほど低くされ、豊かな人生を歩むのか、明かしできますように、主をどうぞ豊かに低くして下さい。
今から主自身が、私たちに今日聞くべきメッセージをお語り下さいますように。
どうぞ聖霊様、一人一人の心の中に感動を与え、悟りを与えて下さいますように、お願いをいたします。
未然に委ねた家様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
新約聖像の中で、使徒の働きのメッセージ、シリーズ連続メッセージを今させていただいております。
そして今日は第5章に入りました。
今までの使徒の働きの描かれているエルサレム教会、初代教会のその姿を整理してみたいと思うんですね。
家様が手に昇られた後、非常に残された十一の弟子たち、それからマリアとかマルタとか、家様を叱って、そしてついていた信徒たち約120人が、
03:13
あのペンテコステの日に、家様のお約束通りに精霊に満たされるその恵みがあります。
そして彼らは本当に天の力をいただきました。そこには悔い与えの恵みも起きました。
その結果として、ある日は3000人が、ある日は5000人が祈念を受けて、信徒に加えられる奇跡のようなことが起きました。
そしてそれだけではなく、彼らは生き方が、生き様が変えられて、毎日のように宮に集まってきて、
そしてそこで間際りを持って、御言葉を教えて、そして自分のものを自分のものだと思わず、それを共有にする、本当にユトピアのような新しい世界が始まっていました。
本当にですね、信徒の力、精霊に満たされますと、恵みに満たされたらですね、私たちはこの霊が救われるだけではなくですね、
自分の生き様も変えられることということですね。
このエルサレム教会の信徒一人一人は、神様も信じて、お金の力も信じる、
そういったですね、生き様ではなくですね、神様だけを信じる信徒を持っていたんですね。
ところが、このような素晴らしいエルサレム教会に、この精霊の共同体を妬む、妨げようとする力が起きてしまいました。
それは、サタンと言われる悪い者の力です。
このエルサレム教会を何とかして妨げて、分裂を、分派を起こそうとして、死にに来たんですね。
残念ながら今日、この第5章に書かれて出てくるアナニア、そしてサッピダというこの夫婦は、このサタンの狙い者にされてしまったんですね。
今日は、神父と違って、神父はですね、バルナマという本当に素晴らしい信心深い信徒の信仰と行いについて教えていただきましたが、
それと違ってですね、逆のような、反対のような、あるいは似ているような、このアナニアとサッピダというこの信徒の信仰と行いがどんなものなのかを学んでいきたいと思います。
06:11
アナニアとサッピダはですね、バルナマと同じく、このエルサレム教会の信徒でした。
多分彼はですね、もう最初から入っていた信徒だったと思うんですね。
彼はある程度信仰も持っていました。そしてある程度財産も持っていた夫婦でした。
そしてですね、彼らは、この人の働きの書き方からも少しわかるように、第4章の最後にはバルナマという人物の素晴らしい信仰と行いが書かれているんですね。
自分の持ち物を売って、すべてをまるまる人に渡して、人に捧げた。
そうした素晴らしい信仰と行いを持つバルナマという信徒がいましたが、しかしそうでないような信徒もこのエルサレム教会の中にいたわけなんですね。
バルナマという人は、精霊に導かれて、そして喜んで自分の自所、それが畑としましょう、畑を、あるいは田んぼをですね、売って、それをすべて主に捧げたんですね。
精霊に導かれているから、精霊様が喜ばれることを喜んで進んでするわけなんです。
ところがですね、アナーニアとサッキロという夫婦は、きっとですね、このバルナマさんを値段でいたのではないかと思うんですね。
そしてですね、バルナマさんがエルサレム教会でみんなからですね、褒められて認められていることが羨ましくて、そして値段でですね、自分も畑があるから、
それを二人でですね、話し合ってですね、それを売って捧げようとしたんですね。
褒めだけ見たら、バルナマの信仰と行い、それからアナーニア夫婦の行いと似ているように思うんですね。
しかし、その心の底は、その動機は全く違うものではないでしょう。
人に見える部分は一緒なんですね。バルナマも辞書を打って捧げた。アナーニア夫婦も畑を打って捧げた。
外から見たら、みんな偉い人のように見えるわけなんですね。ところが、全く違う部分がありました。
09:01
それが今日の二節をご覧ください。私が読みますね。
妻も招致の上で、その財金の一部を残しておき、ある部分を持ってきて、子供たちの足元に置いた。
そして、八節を見たら、ペテルは彼女にこう言った。
あなた方は実をこの値段で売ったのですか?私に言いなさい。
つまり、あなた夫婦が売ったその辞書の値段は、これが全てですか?というお問いですね。ところが、九節。
そこで、八節の講和に、彼女は、はい、その値段ですと言った。これが全てですよと、嘘ついたわけなんですね。
その持ち物を売って、一部を残して、一部を捧げます。
そうしても、全然一つも捧げない人よりは、一部でも捧げたこのあなにやとさっぴら夫婦が偉いんじゃないですか、と思われたかもしれません。
確かに偉いと思いますね。ところが、もうちょっと振り下げて、一緒に考えて見ていきたいと思います。
ただ単なる人に嘘をついたとか、百事だったとか、それよりもっと根本的な、そこに過ちがあるわけなんですね。
それを三説で、ペテロは、このあなにやとさっぴら夫婦のその心を見抜いてわかっていました。
ペテロとか他の弟子たちを騙すことができるだろう。彼らはどうして知らないだろうと思っていたわけなんですね。
これが一部なのか、全てなのか、全てですよと言ったら、そうですかとありがたく受け取ってくれるだろうと思ったわけなんですね。ところが三説。
このようにペテロは見抜いてこう言いました。ペテロがこう言ったあなにや、どうしてあなたはサタンに心を奪われ、
精霊を欺いて、自称の大金の一部を自分のために残しておいたのか。
サタンはこのようにしてエルサレム教会に妬みと偽り、欺きの霊を、その種を蒔こうとしていた。
12:08
このサタンはエルサレム教会を破壊する最も恐ろしい道具として、偽りの霊、騙しの霊、あるいは妬みの霊を、
欺きの霊をエルサレム教会の神徒、あなにやとサピラの心の中に撒いてしまったわけです。
ところが皆さん、あなにやとサピラが側に悪い夫婦だったんでしょうか。
彼らもエルサレム教会のある意味では立派な神徒だったかもしれません。
皆さん考えてみてください。見せかけあるいは見栄ででも、自分の家とか畑を打って、その一部でもそれを献金することだったら、それは偉い神徒だと皆さん思いませんか。
ほんまに簡単なことではないんでしょう。
この辺ですね、世田谷教会が開拓されるときは、私はおりませんでしたら、知りませんけれども、皆さんがこの建物を建築なさるときに、皆さんはきっと精一杯の最大の捧げ物を捧げてこれらだと思うんですね。
皆さんの中ではある方は、バルナモのように自分の畑を打って捧げた方もおられるかもしれません。
あるいは初期の丸々捧げた方もおられるかもしれません。あるいは新しい車を買うつもりでしたけれども買わないで、その代金を捧げた方もおられるかもしれません。
世田谷教会の神徒、皆さんは本当にみんなバルナモのような神徒だったと思うんですね。
アナニアとかサッピラのような夫婦は一人もいないと思います。
ところが皆さん、ニエデでもアナニアのように一部を捧げるということは、なかなかそんなにやりやすいことではないかもしれません。
ところが、そしたらこのアナニアとサッピラ夫婦のこの問題は何でしょうか。
まず一箇所の聖書を一緒に開きたいと思います。
新約聖書の中にエペソビトへの手紙という箇所があります。
エペソビトへの手紙、4章27節を一緒に開きたいと思います。
新約聖書378ページ、エペソビトへの手紙、第4章27節。
15:05
それでは一回読みたいと思います。
悪魔に機会を与えないようにしなさい。
ここにこうありますね。悪魔に、サタンに機会を与えないようにしなさいとあります。
これは全く未信者の人に書いてあるメッセージであります。
エペソという教会の神徒向けで与えられたメッセージなんですね。
この27節と今日のアナニア夫婦のことを結びつけて考えますと、
なんでながらこのサタンは普段、
ネタミを持っている、あるいは呟きをしているこのアナニアと夫婦をターゲットにしたわけなんですね。
皆さん、悪魔サタンは普段、キシンクは持っているんだけれども、
ネタミがある、呟きがある、
キシンクは全く前訳がないんだけれども、
見せかけのシンクを持っている人々を、皆さん、
サタンは、小枝啓路式のように歩き回って狙っているんですね。
そしてターゲットにして、倒してしまう、騙してしまう。
残念ながらアナニアとサピラ夫婦は負けてしまいました。
誘惑に惑わされてしまったんですね。
呟きなんて、ネタミでいいんじゃない?怒りながら喧嘩して、
憎んで許すな、こういう煽るサタンの誘惑にこの夫婦は負けてしまったんですね。
騙されてしまいました。
皆さん、私たちも、
今日のアナニアとサピラ夫婦を反面狂気にしているわけです。
そして先のエペゾの4の27節の御言葉のように、
悪魔に機会を与えないようにしていなければならないんじゃないでしょう。
悪魔サタンは教会の中でも神道に向けても、食い尽くそうとして狙っているんです。
そして、怒りなさい、喧嘩しなさい、ネタミなさい、許すなというふうに煽る悪魔に、
誘惑を引っ掛ける悪魔に、騙される機会を与えないようにしなさいという、
この御言葉を心に留めていただきたいですね。
そしてもう一箇所、聖書を開きたいと思います。
新約聖書の中にヤコボの手紙という聖書があります。
ヤコボの手紙4の7節です。
新約聖書の449ページです。
18:05
ヤコボの手紙4の7節。
では一緒に読みたいと思います。
ですから神に従いなさい。そして悪魔に立ち向かいなさい。
そうすれば悪魔はあなた方から逃げ去ります。アメン。
このヤコボの手紙も、
今日アジアに知らされている信者にツリーシャン向けで書き送られた手紙です。
何と言っていますか?
神に従いなさい。だけではないんですね。
悪魔に立ち向かいなさい。
そうすれば悪魔はあなた方から逃げ去りなさいと言います。
私たちはこの悪魔の方の存在を軽々しく思ってはいけません。
あなにやとさっきなるような神党も負けてしまいました。
たぶんですね、きっとこの悪魔の誘惑はこんなものだったのではないでしょうか。
あなにやに、夫婦にですね、彼らの夫婦に、
あのよさし、あの畑を打ってね、いくらになったのかそれは誰も知らないのではないか。
いくら隠しておいても誰も知りませんよ。
あなたたちも生活が必要だろう?これぐらい隠してもいいんじゃないかと。
一円も捧げない人よりはこれぐらい捧げるあなたたちが100倍は間違う方ではないかと。
あのペテロバテにはこれが全てですよと言ったらそれで済むだろうと。
ペテロバテはそれをするはずがないと。
そういうふうに悪魔にあおられました。
いやそれは、もてあそばれてしまったわけなんですね。
そして、誘惑に負けてしまったあなにや夫婦は、きっとですね、ペテロ達も知らないだろう、
騙されるだろう、嘘ついてもよかろうと勘違いしていたんですね。
しかし、精霊十万なペテロは、あなにやとサッピダ夫婦のその心を見抜いていました。
いや、精霊様は見抜いておられる。神様は私たちの心を見抜いておられるということなんだ。
三節達がもう一度読みます。そこでペテロはこう言った。
あなにや、どうしてあなたは単に心を奪われ、精霊を欺いて、辞書の大金の一部を自分のために残しておいたのか。
それは、もともとあなたのものであり、打ってからもあなたの自由になったのではないか。
なぜこのようなことを企んだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。
21:06
あなにやとサッピダは、ペテロ達を欺くことができるだろうと思っていました。
人を騙すことは、欺くことができるかもしれませんが、神を欺くことはできない。
あなにやとサッピダが、ただ自分のものを隠した、残した、よくないことをした、それぐらいではないです。
これは三節にペテロが言っているように、サタンに心を奪われたことであるんですね。
そしてその結果はどんなことになってしまったのでしょうか。
聖霊を欺いてしまいました。
そして一部を捧げているのに、これが全てですよ、これが精一杯のものですよと、ペテロを欺いて、神を欺こうとした。
なぜ残したのでしょうか。それはもう簡単ですね。
全てを捧げるのはもったいないから。
全く捧げないわけにはいきませんし、でも全てを捧げるのはちょっと無理なように気がするから、一部を捧げようと思ったわけなんですね。
ところがそれは、ただの人間的な思いしきませんでした。
ペテロが言っているように、それを全て捧げようが、一部を捧げようが、それは自由なんです。
もしもですね、あなたの夫婦がペテロに、先生実はこれは一部です。
一部は私は肉体なんだから一部を捧げます。でもこれは精一杯です。
そしたらペテロも主も喜んで受け入れてくれたでしょう。
皆さん、私だけが信じる神様は、もう貧しくて能力がなくてですね、人間に施しを求める戸敷のような神ではありません。
アナニアとサピラ夫婦の最も大きな罪は、神様を侮るという罪。
日本語の辞典にですね、侮るという言葉の意味はこう解説しているんですね。
人を軽く見てバカにすること。それが日本の辞典に書かれている侮るという言葉なんです。
まさに精霊を欺こうとした行い。それは神様を軽く見てバカにしようとした罪なんですね。
24:10
そうしたらペテロたちも精霊も神ももうだがされるだろうと思った侮りの罪。
その侮りの罪をその教会、教土祭にその圧を撒いてしまった罪が、実は彼らの罪でありました。
アナニアとサピラは教会の信者でした。エルサレム教会の信徒でした。私たちのように。
しかし彼らの信仰と行いには残念ながら、本当の信仰と本当の行いと、
もちろんここの一回だけだったのかそれは知りませんが、本当の信仰と本当の行いと距離の遠いものでありました。
だがそこで教えられる大事な大事なメッセージがあると思います。
それは神様は私たちの心を見られるおかげで、神は私たちの心を見抜いておられるおかげでありました。
私たちが本当に精一杯な捧げ物を捧げているか、喜んで捧げているか、主に全て捧げ物を捧げているか、
主は私たちの心とその態度を見ておられる、わかっておられるということです。
この書かれているエルサレム教会だけではなく、今日のこのニョーナニー教会も世界のすべての教会は聖なる宗の集会です。
ですから神様は、聖霊様は、誠意を喜ばれ、偽りを侮りを忌み嫌われるということであります。
結果的に神を欺くことをした、いやもう欺いたわけなんですね。
そして主の子供達を欺いたアナーニアとサッピダ夫婦は、心を他人に奪われてしまって、神様を侮る罪を犯ってしまいます。
サタンの道具にされて、もてあそばれてしまいます。
皆さん、ですから私たちは本当に神徒でありながらも、目を覚まして起きていなければなりません。
アナーニア夫婦のようにならないために、バルナマのようになるために、そしてサタンにもてあそばれないために、目を覚ましていなければなりません。
27:12
ここで聖書一箇所一緒に書きたいと思います。第一セサロニケ五章六説です。新約聖書の四百ページです。
第一セサロニケ五章六説。では一緒に読みたいと思います。
ですから、他の人々のように眠っていないで、目を覚まして慈しみ深くしていましょう。
これも神徒に向けて語られたメッセージです。眠っていないで、他の人々のように当時眠っている神徒がいたわけなんですね。
だから他の人々のように眠っていないでと語られたんですね。目を覚まして慈しみ深くしていましょうと書いてあります。
皆さん、どんどんどんどん世界は、歴史は、終末に向かって進んでいるこの時代に、
私たちキリチャンは、本当に他の人々のように眠っていないで、目を覚ましていなければなりません。
悪しき者は、隙を狙って神徒を潰そうとする、教会教部隊を潰そうとする、様々な仕業をかけてくるんですね。
だから目を覚ましていなければなりません。
では、どのようにしたら、目を覚まして、慈しみ深くしていられるでしょうか。
なぜ、アヤニラとソッピラ夫婦は、悪しき者に、ササンに負けてしまったんでしょうか。その姿はどこから始まったんでしょうか。
それを聖書から調べたいと思います。旧約聖書に神言という言葉があります。
旧約聖書の神言四章二十三節です。神言四章二十三節、旧約聖書の1062ページです。
30:08
神言四章二十三節、これを一緒に読みたいと思います。
力の限り見張って、あなたの心を見守れ、命の泉はこれから沸く。アメ。
私がもう一度読みますね。
力の限り見張って、あなたの心を見守れ、命の泉はこれから沸く。
皆さん、アヤニラとソッピラ夫婦は、なぜこのような死を侮る罪を犯してしまったんでしょうか。
皆さん、その姿は本当に小さな小さなヒラネのような町一本の火のような小さなものだったのではないかと思います。
バラナマさんを羨まっていた。
そして、自分たちも人々から注目を浴びてほしかった。
捧げないわけにはいかないから、でも全てを捧げるのはもったいないから、一部だけでも捧げようと思った。
つまり、心を見張って、力の限り見張って、自分の心を守りきれていなかったんですね。
皆さん、サタンは私たちを攻撃するときに、攻めるときに一番の狙いは私たちの心なんです。
心を口に出してしまう。そしてつぶやきの心を起こしてしまう。
あるいは不満の心を、あるいは怒りの心を、不平の心を、サタンはその小さなヒラネを撒いてしまう。
そしたら、そこからですね、ものすごい火事がですね、山火事が広がって燃え広がるように心が乱されて、そしてですね、感謝を失ってしまう。
恵みを失ってしまう。そのようにして、私たちをクイック層として狙っているんですね。
皆さん、ですから、常に常に力の限り見張って、自分の心を見守らなければありません。
33:05
サタンは私たちの心に誰かに対して、それが家族であるかもしれません。それが教会の牧師であるかもしれません。
あるいは会社の業者であるかもしれませんし、誰々かもしれません。
つぶやきとか、寝たみとか、悪口とか、偽りとか、そういった罪という火種をこっそり床に撒いてしまう。
どこにですか?心の中に、霊の中に。撒いてしまうんですね。
だから、見張って心を守りなさい。ここから命が湧いてくるんですよ。
逆に言いますと、心を見守っていないと、もう命がなくなりますよ、という言葉ではない。
ですから皆さん、これを逆に言いますと、心を見守っていないというのは、ゼロの状態じゃなくて、
心を見守っていない、目を覚ましていないということは、逆にですね、
サタン様、どうぞお入りください。そして私の心にたくさんの悪い種をどうぞ参ってください。
どうぞお入りください、というような状態と同じではないでしょう。
見張って心を守りましょう。力の限り見張って、あなたの心を見守れ。命の泉はこれから湧く。
私の話をしまして、サタンは本当に目視をつぶそうとつぶそうと、狙って狙って攻めに来るんですね。
特に火曜日の夕方とか、あるいは土曜日とか、私の心を霊を騙そうと、かき乱そうとするんですね。
いろんな勇気がやってくる。時には妻と争いを起こしてしまったり、
そうして心を乱して乱して乱して、恵みをもらってしまうようにして。
だから皆さん、私たちが守るべきのは、お金ではありません。
私たちが守るべきのは、命がここにそこにあるから、心を守らなければ。
しかし、その心はいくら決心していても、守ろう守ろうと必死にもがいても、なかなか守るのが難しいんですね。
だから、神の恵みが必要なんです。だから、その恵みが必要なんです。
サタンが悪い種を果たないように、見張って心を守るためには、
36:05
それは、悪魔サタンがつぶやきとか、悪評とか、悪口とか、ソネミとか、ネタミとか、党派心とか、
そういった種を蒔くことができないように、そんな隙がないように心の中に、
清めの種で、感謝の種を、賛美の種を、慰めの種を、
謙心の喜びの種で、自分の心と礼を満たすことなんです。隙を狙うからですね。
精がなくなる。感謝がなくなる。賛美がなくなる。御言葉がなくなる。
謙心もなくなる。喜びもなくなる。そしたら、ゼロになるんでしょうか。
いえ、決してゼロにならないんです。マイナスになって、その何もないところに、
賛美がなくなったその隙に、悪魔は見事にそこにつぶやきの種を撒いてしまうんです。
だから、目を覚ましていなさい。力の限り見張って、心を守りなさいというメッセージではないでしょうか。
皆さん、いかがでしょうか。最近この頃の皆さん、ご自分の礼のコンディション、心のコンディションを考えていただけるでしょうか。
清の種で、感謝の種で、あるいは賛美と謙心と喜びで、皆さんの礼と心は満たされているでしょうか。
悪魔が好きを狙おうとしても、全然好きがないように恵みで満たされているでしょうか。
あるいは、あしらこしら、ところどころ好きができていて、そこにただに負けてしまって、そこに人に対するつぶやきとか、
あるいは、闇の礼とか、偽りとか、つぶやきとか、そういった種を待たされてしまってはいないでしょうか。
今日の本文に戻りましょう。
そして、あなにやとさっぴらは、種を欺いて、種を侮って、悲惨な結果を迎えざるを得ませんでした。
これは、初代教会が確立されるこの初期の時代に、この清みを確立するために、教会の清潔主を確立して立てるために、種がなされたことでありました。
39:12
だから、このような出来事は、この人の働き立てを見ても、一回きりのような事件でありました。
ところが、私たちは、種は許しの神様である、慰めの虫である、いつまでも許して下さい。
確かにあってますよ。いつまでも許して下さい。
しかし、きっかけは、神を欺いてはいけません。
侮るという罪は、種を神様を軽く見て馬鹿にすることであります。
少しでも、少しでも、もし心の中に欺きとか偽りとか、種を心見る、人を心見る、そういった気持ちがほんの塵のような、少し小さなものでもあったら、
それを奮い落として、そして食い温めて、その代わりに感謝と賛美と喜びと平安で、力を満たしていただかなければなりません。
このようにして、種は、この初代教会とある、このエルサレム教会をさせてあげていかれました。
そしてその結果、どうなったんでしょうか。
11節、こうありますね。私が読みます。
そして、教会全体と、このことを聞いた全ての人たちに、非常な恐れが生じた。
これは、単なる恐怖心ではないんですよね。
これは、神様を恐れかしこむ信仰の恐れであります。
メッセージを終えたいと思います。
皆さん、力の限り見張って、皆さん、お自身の心と霊を見守ってください。
そして、バルナバのように、種に喜ばれる生徒になっていただきたいです。
お祈りいたします。