1. 名谷教会 podcast
  2. 2015/08/02:聖日礼拝(旧音源)
2015-08-02 45:55

2015/08/02:聖日礼拝(旧音源)

2015/08/02 聖日礼拝(旧音源)




00:01
アーメン、ありがとうございました。
皆様、おはようございます。
今日はですね、猛暑が続いていますけれども、また暑さにも負けずに、礼拝にようこそいらっしゃいます。
それでは、御言葉をですね、寝たく前に、隣の方と挨拶しましょうか。
はい、よくいらっしゃいますか。
はい、それでは、ひとつお祈りいたします。
神様、私たちの賞味と祈りを、この礼拝を、主が喜んで受け取り下さることを信じます。
主よ、今から、あなた様の御声に耳を傾けます。
どうか、主よ、お語り下さい。
下部は聞いております。
イエス様の御名によって、お祈りいたします。
アーメン。
暑い日々はですね、続いていますけれども、この前、私の新日本の同期生、女性の選挙史ですが、
アフリカのケニアでですね、もう10年ほど、私より先に行ったからですね、10年ほどなっているんですけどね、
この礼拝の様子の写真をですね、メールで送ってもらったことがあります。
見たらですね、アフリカですから、1年中平均気温が30度以上じゃないですか。
それで、エアコンも当然なくですね、礼拝堂がですね、こんな形の屋根だけあってですね、
壁は柱がぽつぽつあるわけなんですね。
その中でですね、本当に40人、60人ぐらいの人々がですね、集まって礼拝しているんですけれども、
当然彼らはバスもないし、電車もないし、自転車だってまるで私たちがベンツに乗っているような贅沢なことなんですね。
だから歩いてはもう80キロ以上ですね、歩いてですね、礼拝に来て。
その中で礼拝している写真を見てですね、自分はですね、申し訳ないなと思うぐらいですね、
03:01
本当にこんなにですね、涼しいところで礼拝できることは本当に感謝で感謝で、胸ゆっくりになるんじゃないかなと思いました。
さあ今日ですね、この人の働きを、メッセージが続いていますけれども、
神様の恵みを豊かに経験したエルサレム教会は本当に幸せな教会だったと思います。
私はこの席を準備をしながら、このようにですね、想像をしてみました。
もし自分がエルサレム教会の信徒だったら、どれだけ幸せだったんだろうか。
ペトロさんとヨハネさんと一緒に弁道したり、毎日宮に集まって一緒に参禮したり、一緒に礼をしたり、一緒に祈ったりしてですね、交わりをしたりですね、パンを炊いて一緒にですね、食事をしたり。
一日三千人が、五千人がエルサレムを信じて宣言を受ける、あの光景を見るなんて。
それはですね、本当に想像をするだけでも、本当にもう楽しくて、ワクワクするんじゃないでしょうかね。
ところが皆さん、このような想像が想像で終わるのではなく、この想像が現実になったこと。
私たちの人生にも、私だけの貧困においてもですね、この想像が、夢が現実に変えること、変わること。
そのことがですね、起きるように切に祈っていきたいとそう思います。
皆さん、よく考えてみたらですね、この使徒の働きのこのストーリーは、まさに想像したことが現実になったというストーリーではないでしょう。
イエス様が天に昇れる直前にですね、弟子たちに、あなた方は私の承認となるよ。これから地の果てにまで行け。
この福音を述べ伝えるものになるんだとですね、そう言われた時ですね、彼らはですね、多分ですよ、これは推測ですけれども、
弟子たちはですね、お互い顔を見ながらですね、なんで?俺が地の果てにまで行って承認になる?まさか。
というふうにですね、彼らは半信半疑したかもしれません。
イエス様のあの時の言葉がですね、ピンと来なかったかもしれないと思うんですね。
06:02
ところが皆さん、その夢のような話、想像のような話がどうなったんでしょうか。それが現実、事実になったのではないでしょう。
まさかと思ったことが、本当にその通りになったんですね。
多分ですね、これも推測ですけれども、後々ですね、ペペロさんとヨハネさんがですね、お互いですね、ご話し合ってですね、半分冗談でですよ。
いやペペロさん、ヨハムシのあなたがこんなに素晴らしい人になるなんて驚きですね、と言った時ヨハネさんがですね、お互い様じゃないですかとですね、そう話し合ったかもしれません。
昔のことをお互いに言っているわけなんですよね。
皆さん、聖書は夢が現実になること、想像したことが現実になるということを、神様が私たちに教えてくださった神のノートだと思うんですね。神のノート。
その神のこのノートの中には、主にあって夢を持っていた人、主にあって想像した人々、その夢、そのビジョン、その想像をですね、神様が事実に、本当にその通りに主が変えてくださったという記録のノート。
それが聖書ではないでしょうか。
皆さんこのようにですね、神の恵みというものは、主の恵みというものは、夢やビジョンを、また、主のためにこうさせていただきたいなと思っているその想像を、それをですね、事実に、現実に変えてくださるパワーだと思うんですね。
それは神様の恵みではないでしょうか。
自分にはそれを変える力がないんですけれども、神様にはそのパワーがある。
このお人の新しいストーリーは、まさにですね、想像したものが、まさかと思ったことが現実になる、いや、それ以上のストーリーになったということのノートなんですね。
では、その他の家様の出来立てのことをちょっと考えていきましょう。
彼らは弱虫でした。
家様が十字架で亡くなれた後、あるいはみんなですね、逃げてしまいました。
逃亡者でした。
卑怯者でした。
09:03
このような彼らが死の果てにまで行って、救いの伝えること、家様の証人になるということは、たぶんですね、彼らがそのお話を聞いたあのときはですね、果たして俺たちが家様の証人になれるのだろうか。
難しかもなと、そういうふうに考えたかもしれません。
道が分かったかもしれません。
確かにですね、彼らには、あのときの彼らには、それを担える力はなかったと思うんですね。
確かに思いづらい思いだかと思います。
ところが、ありえないことのようなことが、難しいですよと思っていたことが、現実になりました。
夢が叶えられました。
家様のお言葉通りになりました。
そしてですね、今、その働きを続けて見ていますけれども、
あのペペロが、あのヨハネが、あのジェシタ氏がですね、行くところどころで、
イエスは救い主ですと。
それですね、大胆にですね、語り続ける立派な神の人に変えられました。
弱向きな人になりました。
逃亡者が弁護者になりました。
失敗者が勝利者に変えられたんですね。
皆さん、これが人の働きの記録であって、これが信仰の記録であって、
これが神の恵みによった福音のストーリーではないでしょうか。
もう一度申し上げますが、神の恵みは、
神の恵みは、夢のようなことを、ビジョンを想像したことを、
現実に、事実に、それを変えてくださる身業を起こす力であります。
そして、その神は、その主は、生きておられ、
私たちの人生の中にも、生活の中でも、主は、
我々のビジョンを、我々の思いを、夢を、それが事実に、現実に変えてくださる、
それを起こしてくださる力が、神様の力なんですね。
エルサレム教会の使徒たちは、神の恵みによって、
イエスの承認の役割を全うしていきました。
ところがですね、その道は平坦な道ばかりではなかったんですね。
12:03
坂道もありました。荒野のような道もありました。
でも、人や、あるいは是非かし、あるいはエルサレム教会の使徒たちはですね、
命のキリスト、救い主なるイエスキリストを伝えることを喜びとしました。喜びとしました。
イエス様を信じて救われる人々がですね、次から次へ起きてきましたけれども、
また一方では、それを嫌って迫害する、威嚇する人々も大勢いました。
このですね、エルサレム教会の神徒や弟子たち、人たちを迫害した人々は、どのような人々だったんでしょうか。
彼らはイエス様を十字架につけて死なせた者たちでした。
イエス様を救い主として認めない、神の子として認めない者たちでした。
彼らはですね、本当にしつこくですね、イエス様の弟子たちや人たち、神道、教会を迫害したんですね。
キカナだらけの後半部を見たらですね、パウルが街を歩き回りながら伝道するわけなんですよね。
そうすると、Aの街からBの街へ移るんですよね。そうすると、ユダヤ人はまたBの街までまたやってきて迫害する。
パウルがまた他の街へ行ったら、そこにまたやってきて、しつこくですね、迫害する、妨げる、その人々でした。
そして彼らはですね、今日の御言葉に聖書、過去にあるように、ペテロ達にですね、イエス様を伝えてはいけません、伝えるなとですね、脅かして脅迫してですね、彼らを牢屋に入れてしまいました。
そしてですね、釈放は終わったんですけれども、二度と伝えるなとも脅迫して釈放しました。
ところが皆さん、もし私達がペテロとかヨハネとか、この使徒や弟子達だったならば、どんな気持ちなんでしょう。
このような状況に会いたくないんですね。二度とイエス様を伝えるな、伝導したら殺されるよ。
たぶんですね、神の恵みを、生理の満たしを経験していなかった、昔のペテロとか弟子達だったならばですね、このような脅迫を受けたら、みんな逃げたかもしれない。
15:16
もうやめてですね、逃げたかもしれない。しかし、弟子達、人達は弱虫ではありません。逃亡者ではありません。卑怯者ではありません。
いくら脅迫されても、妨げられても、迫害されても、そのような迫害や脅迫に彼らは屈服していないんですね。
二十九節をご覧ください。今日の箇所、二十九節。
二十七節、二十八節で、弟子達が人達を添い去らして迫害していました。尋問をしていました。
その時にペテロをはじめ、人達が何と答えたのか。二十九節をもう一度一緒に読みたいと思います。
ペテロをはじめ、人達は答えて言った。人に従うより、神に従うべきです。ペテロをはじめ、人達、みんなこう答えました。
しかし、この場合、ダイサイとかユダヤ人とか、彼らに従う方が楽な道なんです。
あるいは、しばらくちょっと下げて、ちょっと引いて、しばらくは人に従った方がいいんじゃないかと。そう思いやすいですよね。人間ですから。
しかしですね、ペテロと人達はそう思っていないんですよね。人に従うより、つまり、あなた達に従うより、神様に従うべきです。
私達はそう思って、そう信じていますよ、というお話ではないでしょうか。
ペテロ達の目の前にある人々は誰ですか。イエス様を十字架につけて殺した、あの経緯あるものなんです。
ダイサイ、ユダヤ人達、何でもできる力を持っている人々ですよ。
ペテロ達なんて、つくにでも殺すことができる、そんな力のある、経緯のある者達の前で、人に従うより、神に従うべきですと言える信仰は、なんと立派な信仰ではないでしょう。
18:01
この信仰が、エルサレム教会の信仰です。
今日のおメッセージのタイトルは、「主を喜びとする信仰」です。
主を喜びとする信仰、どのような信仰なんでしょうか。大きく3つを申し上げたいと思います。
まず1つは、この言葉から教えられるように大事。
この世と妥協しない信仰です。
妥協しない信仰、まさにですね、弟子達、信徒達は妥協しない信仰を持っています。
この世と妥協しない信仰、あるいは世の力や、あるいは甘い誘惑に屈服しない信仰、世の流れに流されてしまわない信仰。
生きている魚がですね、川をですね、遡っていくような信仰が、主を喜びとする信仰ではないでしょうか。
主を喜びとする信仰はですね、人生に多くの喜びがあって、その中の1つがイエス様ですよ、という話ではないんですよね。
私には、ただ1つの喜びがあります。
それはイエス・キリストです、という意味なんですね。
旧約の時代にそのように告白をしている人が1人いました。
彼はネヘミアです。ネヘミア諏訪ですね、ちょっとしたいと思います。
ネヘミア諏訪、八諏十節です。
旧約聖書の真ん中ごろにありますけどね。
八諏十節、823ページですね。旧約聖書、823ページ。
ネヘミア記、第八諏十節。
それを一緒に読みたいと思います。
さらにネヘミアは彼らに言った。
行って上等な肉を食べ、甘い葡萄酒を飲みなさい。
何も用意できなかったものには、御馳走を送ってやりなさい。
今日は私たちの主のために成別された日である。
悲しんではならない。あなた方の力を、主が喜ばれるからだ。とありますね。
最後のあなた方の力を、主が喜ばれるからだ。と、
21:02
この新開約が公約していますけれども、
下の脚注とか、あるいは公語約聖書を見たら、このようにあります。
主を喜ぶことは、主を喜ぶことは、あなた方の力であるからだ。
主を喜ぶことが、あなた方の力ですよ。とネヘミアは、彼らに語っているんですね。
そうです。本当にそうです。
イエス・キリスト、唯一の主を、やあげの神様を喜びとする信仰。
あれもこれも、そしてイエス様も主も喜びとする信仰ではなく、
ただ主だけを喜びとする信仰が、このネヘミアの信仰であって、
今日の首都名だらけに出てくるエルサナウム教会の全ての信徒たちの信仰だったんですね。
このようにですね、神の恵み豊かに豊かに経験した信者たちは、主だけを喜びとするんですよ。
主だけが、イエス様だけが、自分にとって唯一の喜びである。
唯一の希望である。唯一の夢なんですね。
このような信徒について、シタパールはこのように語っています。
もう一箇所、ステージを開きたいと思います。
新約のピリピリとへの手紙、第3章4節から8節です。
ピリピリとへの手紙、第3章4節から8節までです。
新約聖書386ページです。
それを私が読みたいと思います。4節からご覧ください。
ただし、私は人間的なものにおいても頼むところがあります。
もし他の人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私はそれ以上です。
私はヨウカメのカスレオケ、イスラエル民族に属し、ベニャミンの若手の者です。
きっすいヘブル人で、立法についてはパリサイ人。
その熱心は教会を削害したことで、立法による事についてならば非難されるところもないものです。
しかし、私にとって徳であったそのようなものをみま、私はキリストのゆえに損と思うようになりました。
24:03
この進化訳ですね、損と訳していますけれども、後月世紀は憤怒とあるんですね。
8節、それどころか、私の徳であるキリストイエスを知っていることのすばらしさのゆえに、一切のことを損と思っています。
私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらを知り悪だと思っています。
それは、私にはキリストを得、またキリストの中にあるものと認められる立法による自分の義ではなくて、
キリストを信じる信仰による義、すなわち信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができるという望みがあるからです。
皆さん、パウロは立派な血筋を持っていました。立派な学歴を持っていました。立派な世紀を持っていました。
それを知り悪だ、憤怒のように自分は思っている。なぜでしょうか?
キリストを得るためなら、もうすべてを憤怒のように損と思うんですよ。
今日の御言葉のようにですね、言い換えるならば、すべては喜びとしていません。
見向きもしません。感収もしません。ただ、それだけを喜びとしています。
皆さんいかがでしょうか?
最近、あるいはずっと今まで、皆さんにとって最高の喜びは何でしょうか?
今、皆さんに本当の慰めと本当の喜びをくれる、それは何でしょうか?
イエス・キリストではないでしょうか?
先週ですね、ある説教を聞いてですね、その中に言われた一つの赤字なんですね。
ある先生が開拓されて10年くらいになった教会です。
その間はカイドウがなくてですね、借りて礼拝していました。
一度もこの先生は建築しましょうとか、あるいは献金をしましょうとか、
そういう話を一切言ったことがありませんでした。
ところが神道も増えてですね、借りているところも狭くてですね、
とうとうカイドウを建築しなくならないなと思うところになりました。
ところが特別にですね、献金とかそういう話を一切なくてですね、
ただ神様に祈ってまいりましょう。ただただ祈っていきましょう。
神様がどのように働いてくださるか、主の皆さんを見ていきたいんですね。
27:01
ただそうおっしゃっていました。
そんな中ですね、ある日の聖日礼拝が終わってですね、
ある夫人が先生に個人的に来てですね、献金封筒を渡しました。
そこにはですね、金額が書いてありましたけれども、円に済んだからですね、こんなふうに書いてありました。
百二十三万四千六百五十円とか、そういうふうにですね、細かいところまで書いてありました。
その先生はちょっと気づきました。
確かにこれは何か丸々持って死に逃げようとしているんじゃないかと思ってですね、その夫人に聞いてみました。
誰々さん、これは失礼ですけど、どういう献金でしょうか?
その夫人がですね、先生、実はこれは保険の献金をもらったものなんです。
いくら祈っても、常に捧げなさいという御声がありまして、それを捧げたくて持ってきました。
先生はその夫人のためにですね、涙をもってですね、感謝して祝福の祈りをしました。
でもですね、もっと驚いたことはその次のことです。
そしてですね、別れようとしたら、その夫人がですね、その先生にこう言いました。
先生、実は私、来世にですね、婦人科の検査に行きますところが、がんがんをしていれません。
ところが先生ですね、私、以前からがんの保険を三つも話しているからですね、
もしがんと診断されたら治療されて、でもすごい多くの保険金をもらうと思います。
それをもう全部神様に捧げたいですから、どうかがん診断されるように祈ってほしいと、そう言うんですね。
献金を捧げてがんも神様が癒してくれるから、そうしたら一石二鳥ではないでしょうか。
先生、もう一度、もう本気ですから祈ってほしいとですね、がん診断されますようにと。
先生は、いやそう祈るわけにはいけませんよ、もうお断りしてですね。
そしてその夫人は帰って、その先生はですね、その夫人が帰ってからですね、その僕を知ってですね、
しばらくですね、泣いてですね、祈ったそうなんです。
仏より主を愛せる神徒がいる、なんと幸せな仏だなと、教会だなと思ってですね。
ところがですね、その結果はですね、残念ながらがんではなかったんですね。
30:00
嬉しいことですけどね。
皆さん、ここでですね、いくら捧げたとか、そういうお金の話ではない。
あの夫人の、その主に向かう愛、主を喜びとするその心にですね、目を止めてほしいんですね。
今日の箇所の40節、41節を一緒に見ていきたいと思います。
40節、41節です。
まずはですね、私が40節読みますので、41節を一緒に読みたいと思います。
先を読んで、彼らを鞭で打ち、イエスの名によって語ってはならないと言い渡した上で尺を押した。
一緒に、そこで人たちは皆のために恥ずかしげられるに値するものとされたことを喜びながら議会から出て行った。
アーメン。
皆さん、どういうことでしょうか。
鞭をたれました。
意外でしょう。
この肉がですね、血に出るわけですから、血が出るわけですから、歩き次第と思うんですよ。
しかしですね、そういうふうに言い渡されて、伝えるな、語るなとですね、言われてですね、尺を押されてですね、
その時にですね、人たちはそれをどう思ったんでしょうか。
それを褒美と思うどころか、喜びとしたわけなんですね。
なんと素晴らしい鞭口でしょうか。
ただ、人たちは迫害されて、牢屋に入れられて、無視されて、罵られて、
それらをですね、恥と思わない、苦しいと思わない。
思うどころか、それを喜びとした。
光栄と思った。
誇りと思ったわけなんですね。
自分たちが、なんとイエス様のために鞭打たれる、それに値するものとされる、
なんと光栄でしょうかと思っているこの鞭口。
これがエルサレム教会の鞭口でした。
我々の鞭口もですね、このような鞭口でありたいんですね、皆さん。
大きく2番目。
福を喜びとする鞭口はどのような鞭口でしょうか。
2番目は、諦めないで粘り強く使命を果たす鞭口です。
諦めないで粘り強く使命を果たす鞭口なんです。
一つですね、あるメキシコのタマオマラ族という人々の話をちょっとしたいと思います。
33:07
その部族は主に鹿を捕まえて漁をする部族なんですけれども、
鹿が走る速度は時速70、80キロだそうです。
しかし人間は平均時速20、30キロ。
実際のタマオマラ族の彼らの様子なんですね。
彼らは実際ちょっと身長が低いそうです。
それは不利な条件なんですけれども、
彼らの鹿を捕まえる方法が僧侶と呼ばれる狩猟法で鹿を捕まえるんですね。
ところがですね、次。
それがコンビ側なんですね、今日は。
メンバーさん、まだですよ。
メキシコのタマオマラ族という族なんですね。
その狩猟法は鹿を見つけるんですね。
そしたら休ませることなく、どこまでも走り続けて追い立てていくんですね。
そうするとどうなるんでしょうか、次。
もう鹿が逃げたら、諦めずどこまで追い立てていくんですよね。
そしたらですね、鹿が疲れ果てて立ち止まってですね、
もう息することなくてですね、もう倒れてしまうんですね。
動けない。そしたら鹿を捕まえる。
このタマオマラ族の武器は矢とか槍とかではなく、
獲物に対して諦めぬ思いが彼らの武器だそうです。
はい、いいですか。
エルサレム教会の人たちも諦めぬ思いがありました。
福音神教に対する諦めない思いがありました。
彼らはイザヤ人たちに妨げられても諦めませんでした。
持ち寄されても諦めませんでした。
罵られても諦めませんでした。
牢に入れられて脅迫されても決して諦めませんでした。
イエスを切り捨てたと。
イエスが唯一の救い主だと、それを支えることを諦めなかったんですね。
四十二節をご覧ください。
そしてですね、彼らはそれをですね、光栄と思って喜びと思ってですね、
議会から出て行ってですね、何をどうしたんでしょうか。
36:01
四十二節一緒に読みたいと思います。
そして、毎日ミヤやイエイエで教え、イエスがキリストであることを述べ伝え続けた。
皆さんこれは本当にですね、驚きではないでしょうか。驚きではないでしょうか。
持ち寄されて支えるなとですね、本当に厳しく言い渡されて着望された。
多分ですね、もう打ち打たれてですね、足を引きずりながら出て行ったかもしれません。
あるいは怨露されて出て行ったかもしれません。
治療も受けなきゃならないですし、手発もしなきゃならないと思うんですけれどもですね。
でもですね、彼らは毎日ミヤやイエイエで教え、イエスがキリストであることを述べ伝え続けたんですね。
この諦めない進歩、どのようにしてこのようなことができるんでしょうか。
それは、ただ、死のために生きようと決めたからでしょう。
ただ、死が喜ばれることであるならば、どこまでも行く。
死が喜ばれることであるならば、何でもする。
死のためなら恥を恥と思わない。
良いことを思うという進行の心を持っていたからではないでしょうか。
皆さん、一般的な仕事もですね、数十年あるいは何代に渡ってですね、数百年とかの間ですね、
同じ仕事をしたら、たくみになったり立たずになるんですよね。
例えば、日本にはお寿司の握り寿司の匠、特勤が全国に数え切れないほど多くいるかと思うんですけれども、
ある番組で言ったんですけどね、握り寿司を作るときにですね、このシャリと言うんですか、
それを何度も握っても、その米の粒を数えたらほとんど一緒だそうなんですね。
シャリが40個だったら、50回握っても、シャリの粒が50個。
多分ですね、一晩でそれはできたわけではないと思うんですね。
何十年間もですね、握り寿司を握って作った。そうしていくと、いつかは仏人になるんじゃないでしょうか。
39:03
一般的な仕事も諦めないですね、数十年間やり続けてやり続けていきますと。
いつかは仏人になるように。朝先がイエスは主だと、イエスは唯一の救い主だとですね、
諦めないで、愛を持って鍛えていくならば、いつかは必ずですね、それが受け入れられる日が必ず来ると信じます。
福音宣教、家族連動、この日本の連動、それを考えるのは、なかなか難しいことのように思える想像や夢であるかもしれません。
その方々と温度を上げていいじゃないでしょうか。福音宣教、家族連動。
皆さん、あたたちが諦めないで、先のですね、玉をもらうこのみたいにですね、鹿がもうこれ以上走れないほど追い立てて追い立てて行ったら捕まえることができるように、
あたたちが愛と祈りと涙を持って、福音宣教のために、家族の福音のために、この日本の福音のために諦めないで、粘る強くどこまでも走り続けていけば、愛し続けていけば、伝え続けていけば、
必ず必ず家族みんなが救われ、この町が救われ、日本が救われるその日が来ることを信じました。エルザネム教会は本当に幸せな教会でした。
すべての人たちは、死ぬだけを喜びをする。妥協しないで、諦めないで、福音宣教のために走り続けていきました。その結果はどんなものだったのでしょうか。
6章の7節を見ていきたいと思います。一緒に見ましょうか。
どうして神の言葉はますます広まっていき、エルザネムで弟子の数が非常に増えていった。そして多くの妻子たちが次々に信仰に入った雨。
みなさんよくご覧ください。多くの妻子です。その妻子は、先の弟子たちを語るな、虫をつけて釈放したあの妻子たちの誰かもしれません。
42:16
みなさん、死を喜びとして、妥協しないで、屈服しないで、諦めないで、つかげ続けて、愛し続けて、走り続けてきたその結果は何でしょうか。
その迫害した妻子たちが、虫で討ったあの妻子たちが、あの反対者彼らが信仰に入って宣言を受けて、一緒に死を賛美する人に変えられました。まさにこれはですね、想像が現実に変わったことではないでしょうか。
本当にですね、想像したことが現実に変えられました。ありえないことが起きてしまいました。いくら伝道しても、いくら伝道しても、いくら語っても、信じてくれなさそうに思わない。
その彼らが、妻子たちが、キリストの従って、クリスタルになったんですね、みなさん。本当にハレリアではないでしょうか。その全てのことは、神の恵みによる見業でした。聖霊による見業でした。
ところがみなさん、ここまで見てきたように、このような素晴らしい祝いが信仰に入ったことが起きるまでには、祈礼の中でも、迫害の中でも、屈服しないで、妥協しないで、諦めないで、愛を持って祈り続け、伝え続けてきた、そのエルサレム教会の信徒や徹者たち、人たちがあったからなんです。
この人の働きは、最後が28章なんですけれども、28章で聖書は終わっていますが、しかし、原来版の人の働きは、続いて書いていかなければなりませんし、また書かれなければなりません。
私たちみなさんが、お一人お祈りが、この21世紀の人の働きに出てくる、その人物になってほしいんです。神様はみなさんのお祈りを聞いておられます。
みなさんが数年、あるいは数十年、涙をもって、愛をもって、疲れたその、あるいは誰かがその助けのために祈ってくれたそのこと、みなさんの愛の労苦を主はご存知であり、みなさん決して諦めないでください。
45:20
どこまでも伝え続けて、祈り続けて、愛し続けていくならば、必ず想像が現実に、夢が現実に変えられることを、主が変えてくださることを信じていこうではありませんか。
エルサレム教会の神と弟子たち、使徒たちのように、私だけもですね、主だけを喜びとして歩む、イエス様の弟子になりましょう。お祈りいたします。
45:55

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