1. 名谷教会
  2. 2015/07/12:聖日礼拝(旧音源)
2015-07-12 42:59

2015/07/12:聖日礼拝(旧音源)

2015/07/12 聖日礼拝(旧音源)




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本教は、ユン先生より、人の働きの公開説教第十二回目、バルナバの信仰と行い、と題しまして、メッセージをしていただきました。
皆さん、おはようございます。今日も暑い中、よくおいでくださいました。
では、メッセージに入る前に、いつものように、隣の方と挨拶しますか。よろしくお願いします。
それでは、一言お祈りいたします。
天皇父の神様、恐怖を負って、暑い中ですけれども、でも、待てずに、本当に喜びをもって、主の恵みを期待して、ここまでまた登ってやってまいりました。
どうぞ、主よ、ここにいる、この一堂の上に、主よ、主の恵みと、主の慰めと、希望で主が満たしてくださいますように、心を素直に入り下って、主の御声を耳傾けて、そして、受け入れ、信じる信仰をお与えください。
そして、生きる力を、天皇力を、上からお与えくださいますように、イエス様の皆によって、お祈りいたします。
アーメン。
今日はですね、この日となった時、もう十二回目ですが、今日の御言葉から、今日は、バルナワという人物から、彼の信仰と、また、彼の行いについて、共に学んでいきたいと思います。
旧約聖状と新約聖状まで含めるとですね、聖状の中には、もうたくさんの人物が出てくるんですね。
二千人以上の人々が出てくるんですが、その中で、今日の人物、このバルナワという、元の名前はヨシフですけどね、
このヨシフのバルナワという人物は、本当にですね、見習いたいような立派な信者でした。
ところが彼にはですね、華麗な経歴とか、あるいは目立つ、そういう人物ではありませんでしたけれども、
特に初代教会においては、このバルナワの信仰と行いがなかったならば、この立派なですね、初代教会にはなれなかったんじゃないかと思えるほど、とても重要な人物でありました。
03:15
今日の36節に書かれているように、彼はキプロス生まれのデリービトだったんですね。ところが、彼の名前はヨシフ、元の名前がヨシフでした。
ところがですね、この初代教会において、多くの人たちは、彼をヨシフじゃなくて、バルナワと名付けて、バルナワさん、バルナワさんと呼んでいたんですね。
なぜ彼を、名前があるのにバルナワと呼ばれたんでしょうか。そのバルナワという名前の意味を見たらわかるんですね。
その意味は、36節に書かれているように、慰めの子という意味なんですね。なんと素晴らしい意味の名前なんでしょうか、バルナワさん。
このヨシフさんが、いつも本当に人を慰めて、励まして、人を立て上げる本当に立派な人生を、人格を持っていたから、
人たちがバルナワと名付けるほどの彼の人生、それから人格を持っていたんですね。
今日は特にこの新約聖書の中に、このバルナワが出てきて、そこに彼から、
二人の立派な人物が、このバルナワさんによって慰められて、励まされて、本当に立派な人物になった二つのお話をしていきたいと思います。
まずは、人の働き9章を開きたいと思います。新約聖書、人の働き9章、26節から31節までですけれども、ここは、バルナワとパオロとの出会いがここに書かれています。
ストーリーを申し上げますと、サオロだった彼がダマストに行く途中でイエス様にお会いしました。
そしてあのサオロはパオロになりました。会心に来て、今まで神社たちが客観したすべての行いを持っていて、神の人になりました。
06:07
それでパオロがエルシャレムに来て、そこにはすでにペテロとかヤコボとか、他の弟子たちがいるわけなんですよね。
そしてパオロは、その弟子たちの仲間に入れてほしいと。
マジアリを持って、自分もこれからこのイエス・キリストのために福音を述べ伝えて働き出してもらいたいと彼は願っていたんですね。
ところが、あのエルシャレムの弟子たちは、あのパオロを受け入れてくれなかったんですよ。
パオロはイエス様を信じていることを、それをわかってはいるんだけれども、あのパオロを受け入れるわけにはいけませんと。
信頼しようとしませんでした。受け入れようとしませんでした。
パオロはあのとき、大きな壁を彼は感じたと思うんですね。
ああ、この人たちの壁がこんなに高いんだろうか。
自分が以前、昔、迫害者だったのがこれほど大きな邪魔になっているんだろうか。
彼は挫折はがっくりして落ち込んでいたかもしれないですね。
もしそのときに誰もこのパオロを慰めてくれなかったならば、させ上げてくれなかったならば、
誰も信頼してくれなかったならば、この後パオロはどうなったんでしょうか。
こんなに立派な働きはできなかったかもしれないですね。
ところが誰も信じてくれない、誰も慰めて受け入れてくれないときに、天使のようなバルナバさんがやってくるんですね。
そしてこのバルナバは、パオロの以前のことを彼も知っているはずなんですよね。
ところがこのバルナバさんは何の疑いも持たず、このパオロを解禁したパオロをそのありのまま受け入れてくれて、
信頼してくれて、信じてですね。
それで自分一人だけ信じて、信頼して、大変ですね。
それで終わりじゃなくて、なんとこのバルナバさんはパオロを連れてですね、
弟子たちにですね、このパオロはこんな人ですよとですね、もう自ら保証人になりましたね。保証人になりました。
09:00
それが27冊です。私は読みますね。
ところがバルナバは、彼を引き受けて人たちのところへ連れていきました。
そしてですね、彼がダマスコへ行く途中で死を見た様子や、死が彼に向かって語られたこと、
また彼がダマスコでイエスの皆を大胆に述べた様子などを彼らに説明した。
皆さん、なんとバルナバさんがですね、パオロの保証人になりました。
普通ですね、皆さん、保証人になることなかなかやらないんですよね。難しいことですよ。
もしこの人を自分が保証してですね、大変なことになったら大変なことになりますよね。
だけども、バルナバさんは、あの人たちが名前を付けてくれたように慰めの人でした。
彼がどのようにしてイエス様に終わったか、どんな人になったのか、言葉をどのように語っているのか、
それをですね、彼がですね、パオロの代わりに弁護して、説明して、慰めて、パオロを立てて、
その結果どうなったのでしょうか。28節ですよ。ご覧ください。
それからバルナバさんがパオロを弁護して、慰めて、説明して、保証してですね、立ててくれたときに、
それからサオロはエルサレムで、弟子たちと共にいて、自由に出入りし、主の皆によって大胆に語ったとあるんですね。
なんと素晴らしいことでしょうか。
もしこの時にですね、バルナバの慰めが、励ましがもしもなかったならば、パオロは立てられなかったでしょう。
自由に出入りもできなかったでしょう。大胆に語ることもできなかったかもしれない。
そしてこのパオロによる新約時代のこの素晴らしい福音のリバイバルもなかったかもしれません。
実はですね、この出来事をですね、パオロの人生においてはとても重要なポイントなんですね。
そこにこの慰めの人、バルナバがそこにいます。
そしてその後、パオロはどうなったんでしょうか。
このバルナバからあの時に慰められて立ててもらった時に、このパオロ先生はですね、
ああ、このイエス様の慰めがこんなに素晴らしいことである。
12:00
人を立てて、人を生かして、そしてその生かされた人として大きな見当がなされることを、彼は自分がそれを体験したわけなんですね。
だからシト・パオロはこの新約にですね、後から出てくるコリント・オピトリの手紙とかエペスト・ガラティア、
ところどころにですね、その慰めの人とかイエス様の慰めについて、
彼はそれをもう行くところどころでそれを語っているんですね。
その中の一ヶ所ですね、一緒に開きたいと思います。
第二コリント一書四説です。
345ページです。
第二コリント一書四説を一緒に読みたいと思います。
神はどのような苦しみの時にも私たちを慰めてくださいます。
こうして私たちも自分自身が神から受ける慰めによって、
どのような苦しみの中にいる人も慰めることができるのです。アーメン。
パオロはもちろんバルナバのあの出来事だけではないでしょう。
他にもたくさんのですね、シトからイエス様から慰めを受けました。
その慰めを受けた人こそ、また他の人を慰めることができる。
もう一つのこのバルナバによって、
シトが慰められて生かされたもう一つのことがあります。
シトの働き十五書を読みましょうか。
シトの働き十五書、三十六説から四十一説です。
この一人を申し上げますと、
十三書において、アンテオケ教会でこのバルナバとパオロが選挙主として、
今のトルコ、生徒の中では超アジアといいますが、
その国々を街々を連動旅行に行きました。
そのときにですね、このマルコという人をパオロとバルナバが一緒に連れて、
第一回目の連動旅行に出かけていきました。
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ところがですね、このマルコはですね、この連動旅行がたぶんつらかったみたいですね。
まあ疲れもあるでしょう。
本当にですね、もう贅沢な旅行じゃないですから、疲れもあるし、なかなか難しいこともあり、
ときには本当に迫害のような逃げたくならないこともたくさんあったからですね、
マルコさんはですね、あの連動旅行の途中でですね、
もうパオロ先生、バルナバ先生、もう僕はできません。
家に帰りたいです。エルサレムに帰りたいです。もうとうとうできません。
それですね、実際に辞めてですね、エルサレムに帰ってしまいました。
それですね、パオロはたぶんそんなマルコのことが気に入らなかったようですね。
命を懸けて使命を果たすべきなのに、ちょっとひんどいと言って途中でやめて帰るなんて、
こんな情けない奴だなと思ったようなんですね。
それで第一回目の連動旅行が終わって、そしてしばらくエルサレムでですね、
パオロ先生もバルナバ先生も休んでから、第二回目の連動旅行に出かけるときの、
それが今日の、さっき読みました、36節からのそのストーリーなんですね。ちょっと私が読みますね。
37節からだけ読みます。
ところがバルナバはマルコとも呼ばれるユファネも一緒に連れて行くつもりであった。
しかしパオロはパンプリアで一個から離れてしまい、
仕事のために同行しなかったようなものは一緒に連れて行かない方が良いと考えた。
パオロ先生も堅くですね、お断りしたんですね。
そして39節、アケーシー反目となり、その結果互いに別行動を取ることになって、
バルナバは誰を連れて行きましたか。マルコを連れて船でチプロスに渡って行った。
パオロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みに委ねられて出発したとあるんですね。
パオロは断固こったという人からがあったようなんですね。
それであのようなマルコはもう一緒に行きません。
バルナバはどうなったんでしょうか。
このマルコにもう一度チャンスを与えましょう。連れて行きましょう。
18:00
結果的に反目となって別れました。
バルナバはマルコを選びました。
失敗したものですよ。ぽつーでもうやめます。もうできません。帰りがいいですと返したもの。
そのマルコをバルナバさんは選んで連れて行ったんですね。
そしてその後々どうなったんでしょうか。
パオロもずっとマルコを憎んで受け入れなかったでしょうか。
そうではありません。マルコはこのバルナバによってもう一度チャンスが与えられて、彼は初代教会の立派な人になりました。
そしてパオロ先生も彼を受け入れて、このマルコをさせて何と語っているのか、そこぞそ見ていきたいと思うんですね。
新約ページの中にピレモンの手紙があるんですよ。ピレモン書を開きたいと。ピレモン書をちょっと開きます。
ピレモン書1章24節。新約の423ページを開きましょうか。
ピレモンへの手紙1章24節。私が読みますね。
私の同僚者たちである、その次は誰ですか。マルコ。ここにマルコが出てくるんですね。
あの時にはもうパオロ先生は一緒に行けませんよ。あんなぽつり辞めたりする弱い者は一緒に行けませんと言いましたけれども、
でもその弱かったマルコもバルナバも励ましと、もう一度チャンスが与えられて立て上げられて、マルコは後に立派な指導者になりました。
パオロ先生が手紙を書いて、マルコは私の素晴らしい同僚者ですよ。選挙の働きのパーソナルですよと言えるほどの人に変えられました。
何によってマルコが変えられたのでしょうか。そのきっかけは、第2回目の全土旅行のあの時のバルナバの慰めの家だったのではないでしょうか。
心が弱くて、決心が弱くて、全土を訪れ辞めてエルサレオに帰って生きてしまったあのマルコを捨てなかったんですね。
諦めなかったんですね。もうお前ダメだったんですね。じゃなくてですね、もう一度彼に検診できるチャンスを与えた。
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バルナバはマルコを受け入れた、包み込んでくれた。そして全土旅行に一緒に行ったんですね。
だから人はバルナバもマルコも用いてから、そしてマルコも立派な人の下人になることができました。
そのきっかけには、パオロもそうですけれども、このマルコもそうですけれども、
二人とも人から受け入れられないような状況の中で、誰も信用してくれない、信頼してくれないような時に、
このバルナバさんは自ら進んで、このパオロは大丈夫ですよ、立派な人ですよ、マルコも連れて行きましょうと慰めて弁護していかれました。
その結果、パオロがあったんですね。その結果、マルコはあったんですよ。
ところが皆さん、これは単なる良い人だなと、そこで終わってほしい。
バルナバは本当にですね、精霊の人生を持つ人でした。精霊様の人格を持つ人でした。
バルナバを見たら、デスカフィはヨセフを見たら、彼の中には素晴らしい慰めのアレがあるから、バルナバと呼ぶほど彼を見たら、ミタマの実が見える。
寛容が見えてくる、慰めが見えてくる、イエス様の人生が見えてくるんですね。
その人を見たら、イエス様が見えてくる、精霊様が見えてくる。
どうでしょうか、皆さん。今皆さんの右に左に座っている方のお顔を見たら、イエス様が見えてきますか。どうでしょうか、皆さん。
精霊様の人生が見えてくるんでしょうか。慰めのその素晴らしい人生が見えてくるんでしょうか。
皆さん、バルナバはですね、精霊の人でした。イエス様の人でした。
だからファオロにマルコに、その人だけではないでしょう。他の大勢の人々にですね、命の風を吹き込んでくれる人でした。
生かしてくれる人でした。慰めて、慰めて、どこまでも信頼してくれる人でした。
だからですね、私たちが誰から?
自分を洗濯してくれる人がいればですね、もう一度立ち上がる力が湧いてくるんですね。
私も大学三年生のときに、二年生三年生のときに、ああいう経験がありました。
あのときに精神の悩みもあって、そして学校の悩みもあって、自分の信仰の弱さのゆえにですね、もう一年以上信仰をサボっていた時期がありました。
24:13
教会の青年会の役にもしていたのに、青年会にも行っていなくて。日曜出会いは行っていましたけれども、なかなかサボってですね、悩んで悩んでいました。
あのときは、韓国は社会デモも多くてですね、国自体も暗い時代でしたけれども。
あのときにですね、青年部の先生、今も覚えているんですけど、金吾先生。
この先生は、そんな私を一度も責めたり光ったりすることがありませんでした。
青年会の土曜日の集会は行っていなかったんですけれども、日曜出会いが行くからですね、先生に見られたらまずいから、出会いしてこっそり見ているんですね。
たまたまに、おいって呼ばれてですね、そうすると劇会とか言われてですね、青春はそんなもんだよって言われてですね、
なんで青年会に来ないの、なんでそんな情けないとか、そう言われたとか言い知られなかったんですね。
なんと1年半もその先生は見守ってくれたんですね。
それであるときにその先生が、ちょっと事務室に来てほしいと言ってですね、その先生と向き合っているときに、
男なのにですね、その先生の前で泣いて、こう急してですね、泣いてしまったら、その先生が、あのときにペテロがですね、
夜通し編み下ろしてなけれども、さかの一匹も取れなかったことがあったんですよね。
それでその先生がその御言葉を私に読んでくださって、ペテロは立派な美容師でしたが、
自分で何かを評価したりしたら、何にも一匹も取れなかった。
しかし御言葉に従って家様が下ろしなさいというところに網を下ろしたときに、もう網が破れるほどの大きな魚を捕れなかったんじゃない。
だからあなたも自分で頑張ることをやめてほしい。家様は慰めてくださって、力をくださる方であるから、
御言葉通りに従いますとして従ってみればどうと、そういうようなお話を、今なり私は覚えているんですけれども、
その御言葉が私には大きな励ましとまたチャレンジになりました。
そしてその次の週から、今は何もなかったような顔をして生命体に復帰できました。
27:00
皆さん、人を信頼すること、慰めること、立ち上げること、これは皆さん、釣りさんの最も重要な心声なんです。
それを家様の心声でやりますし、精霊様の心声であるからなんです。
恵まれた神社は使徒を励まして、見守って、あくまでも信頼してくれるんです。
バルナマがそうです。バルナマがそうです。
バルナマがパオロを信頼して立ち上げてくれたから、バルナマがマルコを信頼してくれたから、
パオロを通して、マルコを通して、こんなに偉大な福音の技ができたのではないでしょうか。
皆さん、人を慰めること、励まして信頼することは、まるでその人が一個の種であって、
その種を潰してしまうのではなくて、その種に水やりをして、栄養をくれて、
そしてその種から多くの実が結ぶような働きではないでしょう。
皆さん、もし皆さんが今、慰める、立てます、あるいは立ち上げるべきそういう方は、
どなたか皆さんの周りにいるでしょうか。
あるいはそうしたい人が、もし皆さんの周りにおられるでしょうか。
バルナマのように、人を信頼して、最後まで信頼して、立ち上げて、慰めて、励ましていこうではありませんか。
このようなバルナマの信仰と行いによって、初代教会には立派な働きができたわけなんですね。
次に、このバルナマの行いのある信仰について見ていきたいと思います。
今日の箇章の37節に戻りましょうか。
一名だらけ四章37節、私が読みますね。
畑を持っていたので、ヨシゴウですよ、バルナマは。畑を持っていたので、
それを売り、その大金を持ってきて、人たちの足元に置いた。
34節とか見たらですね、初代教会はみんな共同生活をしていました。
心を思い一つにしていました。そして物を自分の物と思わず、それを売って、
30:07
そしてすべてを一緒に共有にして、とぼしています人が一人もいなかった。
まるでユートピアのような世界だったんですね。
ところが、その初代教会のエルサネム教会にバルナマさんがいました。
彼は良い人でした。信仰と精霊に満たされた人でした。
ところが彼はですね、口先だけの信仰ではなく、行いのある信者でした。
真実な行いのある信仰。これがバルナマの信仰でした。
当時ですね、多くの人々が自分の家を売ったり、あるいは畑を売ったり、山を売ったり、あるいは物を売って、
それをみんな共有にして、みんな分配して、ほんとに住み合って暮らしていたんですね。
そしてこのバルナマさんも自分の畑を売りました。
そしてそれを全学を人たちに、ペテロ先生、ヨアラ先生、これをお使いくださいと喜んで下げたんですね。
皆さん、私たちはこの37ページを何気なく軽く読むわけなんですけれども、しかしこのようにするのは簡単なことではないんですよね、皆さん。
もし皆さんがですね、私たちが自分の家を売って、それを賃金して、そして賃貸に引っ越しするのは簡単なことではないんですよね。
もしももちろん、昔皆さんがそういうふうにされたことがあるかもしれませんが、あるいは畑を持ってですね、それを売って、その全学を捧げることは簡単なことではないんですね。
決してしやすいことではないんです。
なぜこういうことが、自分のものを売って、あるいは自分のものを自分のものと言わずに全てを共有にすること、全てを捧げることがしやすくないことでしょうか。
それは、このように捧げるということは、実は私たち人間の自己中心的な本性を逆らうことだからです。
皆さん、私たち人間の本性は、与えるより握ろうとするんです。
自分のものは自分のものと思うのが、自然な人間のこの肉の本性なんですね。
ところが皆さん、精霊に満たされた人は、恵まれた人は、自分のこの肉の本性に支配を受けるのではなく、精霊様の支配を受けるから、畑を売ってそれを捧げることが難しくないんです。
33:18
捕まおうとしなくて、与えることがむしろしやすいんです。簡単なんです。
バルナバはまさに、肉の本性の支配を受ける信者ではなく、精霊の恵みの本性の支配を受ける信者です。
皆さん、ここで重要なことはこれです。
何を捧げたのか、どれくらい捧げたのかではなく、精霊に満たされて、この肉体の本性を逆らって、天皇本性に従って生きるかどうか。
これが最も本質的に重要なことではないでしょうか。
恵まれた信者は、バルナバのように信仰と精霊に満たされた信者は、肉体の本性についていくのではなく、精霊の力についていくから、喜んで全てを捧げ、喜んで謙卑して、喜んで従って生きるようになるのです。
どうか皆さん、私たちの信仰が、このバルナバの信仰のようになります。
だから、精霊の支配を受けて素直に従っていくためには、皆さん実は私たちのこの肉の本性を、肉の思いを、それを戦って、それを打ち砕いて、打ち砕いて、打ち砕いて、精霊に従っていかなければならないのではないでしょうか。
どうか新しい皆が、バルナバのように肉の本性の支配を受ける信者ではなく、精霊の神性の支配を受ける信者、天の本性の支配を受ける信者になりたい。
そうすると、そこに素晴らしい神の祝福と恵みが起きるのです。
日本の東京と大阪、それから京都にもあるオンヌリ教会という教会があります。日本で長い間今もやっていますけれども、
ラブソナータという文化、選挙を通して日本選挙に献身した、手に召されましたけれども、タイオンドという韓国の先生がいらっしゃいます。
ソウルのオンヌリ教会のあるチョロさんのお若い子です。このチョロさんはとても大きな病院の院長でした。
彼は外科専門医でした。このチョロさんは65歳ごろ、ソウルアジアの医療選挙というビジョンを受けからいただきました。
36:15
彼はすべてを整理して、そして向こうに行って病院を建てて、そして巡回の医療選挙をすることを決定しました。
それは容易なことではないんですよね。大きな病院ですよ。この病院をすべて整理する。そして韓国でのその安定した生活もすべて箱にする。
そのすべてを全然何の縁もない国に行って、その人たちのために病院を建てて、自分の全財産ですよ。病院を建てて巡回して医療選挙をすることは、まさに肉の本性を逆らう信仰なんですね。
ところが問題がありました。その奥さんの夫人が、その原先生に何度も尋ねていて、その先生にお願いしていました。
先生、うちの旦那がちょっとおかしくなりました。ここで病院行って、もう治療して多くの人々を癒して、選挙、献金もたくさん捧げて先生を助ける長老でいてもいいじゃないですか。
先生、どうかうちの旦那をやめさせてくださいと、そういうふうに奥さんが何度も言って先生にお願いしたそうなんですね。
その奥さんの思いは、普通の人間の思いなんですね。普通の本性に従った思いでした。
ところが、もう何回も来たのに、しばらく経っているうちにもう来なくなって、そして最後のようにやってきて、その夫人の方が変わりました。
先生、いくら考えても、自分は精霊様の思いを逆らっているような気がします。
もし精霊様が旦那に東南アジアに行って、病院を建てて、ここを全部整理しなさいという、その思いが精霊様の思いならば、自分はそれを逆らう邪魔者に、もう悪魔になるんですよね。
そして私はもうやめることにしました。そして、もう彼について行くことにしました。
それで自分はそこで、旦那が病院に来たら、病院の働きをしたら、自分はここで美容のあれを学んで、
カットでもできる、そういう女房になりたい、そういうふうに心を締めて、実際に大きな病院をすべて整理して、
お二人で、65歳ですよ。東南アジアに行きました。
39:00
すべて自分の現在産を通して病院を建てて、そして議論会選挙をされたそうなんです。
皆さん、神のために用いられる人は、神の素晴らしい御業を見る人は、
肉の本性に従って生きる神じゃなくて、精霊の力、精霊の支配を受けて従う信者ではないでしょうか。
今日のメッセージの結論です。では、このバルナマ様は、どうやってこんなに素晴らしい品性、
行いのある信仰を持つ信者になったのでしょうか。
書の働き11章24節を一緒に読みたいと思います。
書の働き11章24節、251ページ。一緒に読みたいと思います。
彼は立派な人物で、精霊と信仰に満ちている人であった。こうして大勢の人が、巣に導かれた。
ここにですね、この彼はバルナマですよ。バルナマは立派な人でした。良い人でした。
そして何より、何と何に満ちていたんですか。精霊と信仰に満ちている。
だから彼は人を励まし、人を生かし、そして人を信用して、彼によって多くの人々が導かれて救われたんですね。
その厳選はどこにあったんでしょうか。単なる人間性ではないんですね。単なる優しさではないんですよ。
それは、やはり精霊と信仰に満ちている人だったから、彼はこのような行いのある信仰、立派な品性を持つ信者になれたでしょう。
皆さん、ですから私たちが、ああ、優しい人になろう、立派な人になろう、慰める人になろう、たくさん捧げる人になりたい、それを求めるんじゃなくて、厳選が重要ですね。
精霊と信仰に満ちた人になったら、自然に慰める人、人を励ます人、捧げる人、人を捧げる人になるでしょう。
だから皆さん、私たちが求めて祈るその道は、主よ、私を精霊と信仰に満たして下さい。
そして主よ、私を通して多くの人々が慰められて、励まされて、立ち上げられて、私を通してマルクのような人が、パオルのような人が、一人、二人、三人、百人、そう、異常に主を起こされるように、主よ、この者を精霊と信仰に満たして下さいと祈ろうではありませんか。
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どうか私たちを通して、みんなのように教会の人は、例えば、誰々バルナバと呼ばれてほしいんですね。中山バルナバとかいかがでしょうか。誰々バルナバといかがでしょうか。
そういうふうに呼ばれるほどの精霊と信仰に満ち溢れて、そして皆さんを通して周りの多くの人々が励まされて、立ち上げられて、そしてその人が立派な神の人になりますように。その恵みが我らの上に豊かにありますように、心からお祈り申し上げます。お祈り致しましょう。
42:59

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