使徒たちの神に従う姿勢
一言お祈りをいたします。
天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
死の御前へと私たちを招いてくださり、
しもべは聞きますし、お語りくださいと、
そのように心を鎮めて、あなたの御言葉を待ち望んでいることを感謝をいたします。
神様どうか、あなたは限りない愛をあらわしてくださり、
私たちをその罪から救い、永遠なる人と共に生きる永遠の命を与えてくださいました。
その立場はいかほどに素晴らしいものであるか。
祈られたように、精霊様が共に歩んでくださり、
私たちを慰め強め、日々支えてくださることは、
どれほど栄光に富んだものであるか、そのことを思わされますが、
神様同時に、私たちは本当に心も体も霊も弱りやすいものです。
特に本当にこの熱さの中で、体も心も疲れてしまいます。
神様どうか、私たちを支えてください。
このところにあなたが強めて招いていさせてくださっています。
この時に心を開き、あなたの命の言葉によって強められて、
ここから立ち上がることができるよう助けてください。
お願いいたします。
ここに来たくても来れない方々、
家でCDを聴きながら礼拝を捧げておられる方、
また施設におられて、今も手を仰いで生きておられる方もいらっしゃいます。
神様どうか、お一人一人の心と体と霊とを支えてくださり、
その笑みが穏やかなものとなりますよう、神様導いてください。
お願いいたします。
御言葉に聞きたいと願っています。
どうか主御自身が立ってくださり、御言葉を開いてくださり、
語るものの足りない唇を通して、あなたの心で表してくださいますように、
お願いいたします。
これからの時をあなたへと期待をして、
イエス・キリストの皆によってお祈りをいたします。
アーメン。
西さんがおっしゃってくださった通り、暑さが厳しくなってきています。
今朝ニュースを見ると温暖化ではなくて地球沸騰化なんだという言葉があって、
本当にびっくりしました。
でも全世界的にそういう状況ですから、ぜひお体を無理なさらないように
御自愛いただければと思います。
私はふと小学生のときの夏の日を思い出していました。
それはですね、友達と二人で夏歩いていて、コンビニ、スズミに行ったんですね。
スズミに行ったというか、暑いからコンビニに入ろうかと言って入って、
で、スズンでから外に出るとこういうことがあったんです。
友達が手にガムを持っていたんですね。
で、一緒に入って一緒にすぐ出たから、
え、どうしたのそのガム、いつ買ったのっていうことを聞いたんですよ。
小学生のころです。
そのときに彼はこう言いました。
いや、買ったんじゃない、取ってきたんだって言うんですね。
満引きをしたということを彼は言うんですよ。
で、私は驚きました。
驚いて彼を説得しました。
仮にS君としましょう。
S君、取ったらあかんやんか。
お店の人が困るでと言いました。
すると彼はこう言いました。
たくさんあるんやから一個ぐらいなくなったって構えへんやろうと。
彼にこう言いました。
S君、お母さんが悲しむでと。
彼は母子家庭だったんですね。
お母さんが悲しむでと。
そしたら、いやそんなお前が黙ってたらえんやってことを言われてしまいました。
で、私はそのお母さんに打ち明ける勇気も持てませんでした。
最後に出た言葉は無自覚でしたけれども、
はっきりとイエス様を信じるということを言ってなかった時期でしたけど、
こう言いました。
でもそんなんしたら神様が悲しむんやでと、
不意に出た言葉でした。
すると、はっきりとこう言い返されてしまいました。
神様なんかおれへんと。
神様なんかおれへんと。
この経験は今も忘れられません。
その後一生懸命説得したんですが、
結局彼に万引きはだめだということを私は説得はできなかったんですね。
ショックでした。
やってはいけないと思うことを当たり前のように
やってしまう人がすぐ身近にいたんだなということにショックでしたし、
また自分ではやってはいけないと思うことを
がんばって説明しても通じないんだなということに
無力感を覚えました。
そして何よりも、
目と向かって神様なんかおれへんと言われたことが
とてもショックでした。
生まれたころから教会に行っていた人間でしたから
ええと思いました。
まだ明確に神様を信じているときでもありませんでしたが、
でもショックを受けて今でも覚えているということは
どこかででもやっぱり神様というお方を
心の中で信じようとしていた
小さな御言葉の種がまかれた状態だったのかな
ということを思いますが、ショックでした。
それ以降、この経験からか
私は自分がやってはいけないと思うことを
人に注意することに
少し臆病になったような気がします。
自分が勇気を出して
神様はこう思っているということを訴えたとしても
無駄なのではないか。
いや、言ったとしても
相手を不機嫌にさせてしまうのではないか。
不機嫌にさせるぐらいならば
黙っていればいいのではないか。
そのようなことを思うようになりました。
神様が悲しむからと
でもそれが一体目の前の人に
どのぐらいの意味があるんだろうかと
そういうことを思わされたことがあります。
もしかしたら皆さんにも
そのような似たような経験が
終わりかもしれません。
当然私たちは
愛をもって真理を語れという言葉が言われていますから
愛をもって大切なことを伝えようとします。
でも勇気を出して
正しいと思うことを伝えたとしても
無駄であった
自分の無力さといいますか
そういうことを覚えることが
私たちにもあるのかもしれません。
今朝、使徒の働きを続けて
5章の27節から読んでいただきました。
先週からもずっとその前から見ていますが
使徒たちの姿を見ると
改めて驚かされるのは
彼らの大胆さです。
大胆に彼らは歩んでいます。
そして今日こういうことを
これは前の節でも言っているんですが
彼らはこういうことを言いながら歩んでいきます。
人に従うより
神に従うべきですと
人に従うより
神に従うべきですと
私の心の中で小学生自分の私が
もしかしたらこういうことを言うかもしれません。
そんなことをまだ言うのかと
そんなことを言ったって無駄ではないか
神に従うそれは良いことだろう
しかしそういう正しさは伝わらない
意味をなさないということがほとんどなんだと
言いたくなるかもしれない
勇気を振り絞って何かを言っても行っても
それは無算するかのように
無駄になることを私は経験したんだと
言いたくなるかもしれませんし
人の働きの前半は
この後見ていくと
8章までなんですよね
前半は一応8章で区切られます
ここまでがまさに
エルサレムでの人たちの活動なんですけれども
彼らはイエス様を述べ伝えれば伝わるほど
今日の歌詞を見ていてよく分かりますが
最高法院と対立が深まっていくんですね
人たちがエルサレムで伝えれば伝えるほど
エルサレムの権威者とバチバチに
喧嘩が深まっていく
見ていて思います
もう黙っていればいいじゃないかと
そんなに悪くなることは分かっているのならば
神殿の中心なんかで語らず
どこかで小さくひっそりと
信仰を守っていればいいではないか
なぜここまでしてここで
イエス・キリストを伝えなければならないのか
しかし聖書から読み取れる
彼らの理由はただ一つです
人に従うより神に従うべきです
神がここでこの箇所であれば
このエルサレム神殿という場所で
何かをしたいと望んでおられる
だから私はここで
いろいろな人に反対されながら
無駄かもしれない言葉をそれでも
語り続けるということを彼らはしている
今朝はこの箇所の内容を
少し確認をしていきながら
ご一緒に考えたいことがあります
それは人に従うより神に従うべきです
という言葉を
ご一緒に受け止めたいと思うんですね
その中で問いとしてはこうかもしれません
それでも私がここで神に従う理由は
何だろうかということです
私は皆さんのことが
全部わかっているわけではありませんが
もしかしたら挫折といいますか
やったこと無駄だったと思うことが
あるかもしれません
これだけ伝えたのに伝わっていない
ということがあるかもしれません
それでも神に従って伝え続け
その神に業に立ち続ける理由はあるだろうか
私たちは神様に従う中で
こういう声が聞こえるかもしれません
まだそんなことを言うのか
もう黙っていればいいのだと
そういう声に私たちはどう答えうるのか
そのことを今日聖書の言葉から
聞いていきたいと思うんです
二つの人たちを見ていきます
一つ今日見たいのは
最高法院の権力者
この最高法院という人たちが
どういう人たちであったか
そしてもう一つは
この神様の言葉を語り続けている人たち
その業はどういうものであったか
その二つのことを見たいと願っています
さて読んでいただいたこの27節から
少し起きている状況を
確認をしたいのですけれども
27節から起きていることですね
33節を読むと一応起きていることが
一番わかりやすいと思うんです
33節
これを聞いて彼らは怒り狂い
使徒たちを殺そうと考えたということです
何が起きているのでしょうか
彼らは使徒たちを殺そうとした
彼らというのは
この前の27節にも書いていますが
最高法院と呼ばれる人たちです
最高法院という人たちは
簡単に言うならば
エルサレムという都の権力者たちでした
総勢70数名で構成されている人たちです
そのほとんどの人々が貴族であったり
上級の妻子と呼ばれる人たちでした
エルサレムという都は
当時とても特別な都だったんですね
ユダヤ人からするならば
ちょっと過剰な言い方をすると
世界の中心なんです
神が住まわれる世界の中心
エルサレム
そこにはエルサレム神殿があって
神様が住んでおられる
もうちょっと具体的に言うならば
エルサレム神殿には
神の名が置かれているんです
神の名というものが置かれている
これは第一列王旗の八章の29節というところを見たら
書いてありますけれども
神殿というのは
神が天におられるのだけれども
しかし神様の威光であったり
臨済というものは
ここにあるんだと示す
神の名が神殿に置かれているんです
だから神が住まわれている場所だと言われる
ですからユダヤ人にとって
エルサレムというのは世界の中心です
年に3回彼らは巡礼祭といって
全世界のユダヤ人が
エルサレムの神殿に集まってきて
祭りを祝うわけです
その時に神殿には
莫大な献金が捧げられます
それだけではありません
当時のユダヤ人たちは
全世界のユダヤ人の
成人男性のユダヤ人には
神殿税という税金が課せられているんです
成人男性のユダヤ人は
全員神殿に毎年税金を払わなければいけないんです
そこから集まるお金も莫大なものなんですね
その他にも捧げ物に
いろんな税金がかけられるんですけれども
何かと言いますと
エルサレム神殿
エルサレムというのは
そのような富が集まるシステムだったんですよ
当時
そしてその富をおふところに
入れる人々は誰かというと
実は一部の豊かな人たちです
具体的にいうのは
最高法院の人たちです
貴族と上級才子です
上級才子と言いましたけれども
上級がいれば下級才子もいるんです
ルカの一書のザカリアとか出てきますね
彼なんかは下級才子なんです
上級才子は一族経営がされていて
お金持ちなんですが
最高法院の怒りと使徒たちの答え
下級才子は当時
下級才子の中で
餓死するものが出たという記述が残っています
そのぐらい実は格差がものすごく激しい
でもそれは才子の世界だけじゃありません
当時のユデアやガリデア地方というのは
一部の豊かな人たちは
本当に豊かに
この上なく豊かになって
その他の人をおしなべて貧しいという地域です
そういう社会になっていました
今政治の世界で言われますが
既得権益を手放すとでも言うんですかね
そういうことをするのは
人にはとても難しいことです
それが悪いことであって
正当な理由で集められたものでなかったとしても
それが暗黙され続けていたら
それが状態化すれば
ここから離れるということがなかなかできない
神殿を司り
誰よりも神に従うべき人たちなんです
最高法院というのは
でも彼らは神様に従っているんだったら
その富を貧しい人に分け与えなさい
まさにイエス様が福音書でそのことを何度も言っています
でもそれができない
彼らは貧しい人々に分け与えるのではなくて
貧しい人たちからもっと搾取をし
そして神への取りなしという神殿の大切な機能が停止してしまった
これどこかでまた話しますが
イエス様が宮清めってしますよね
あれは何かというと
神殿がもう止まってしまっているということを
イエス様は言っているんです
じっくりまたルカ福音書を読んでいきたい
またいただきたいと思いますが
ルカ福音書の問題意識というのはここにあります
社会が実に貧富の差が分かれていて
貧しい人たちが苦しんでいる
どうするのか
そして神殿が停止してしまっている
これをどうするのか
ルカ福音書のテーマです
そして水曜日にエレミア章を読んできておられる方々をお気づきになるでしょう
これは南ウダ帝国が崩壊する直前の世界によく似ています
神殿が停止をして貧しい人が搾取をさせる
そのようなことを確認するならば
今朝のこの使徒たちが置かれている状況の深刻さがよくわかると思うんです
神殿は最高法院の前に呼び出されてしまった
目の前で使徒たちを問いただすのは
27節に書いていますが
大祭司です
大祭司というのは最高法院のトップです
そのような社会構造のトップがここにいます
本来誰よりも神に従うべきなのに
既得権益と言いましょうかね
そういうものに目が眩み
民への憐れみではなく
暴力と搾取を続けている人が目の前に立っている
このようなやりとりに少し注目をさせていただきたいと思います
33節までじっくり聖書の言葉を読みますと
こういうことを彼らはやりとりします
彼らは使徒たちを連れてきて最高法院の中に立たせると
大祭司は使徒たちに尋問した
あの名によって教えてはならないと厳しく命しておいたではないか
それなのに何ということだ
お前たちはエルサレム中に自分たちの教えを広めてしまった
あの人の血の責任を我々に負わせようとしている
しかしペテロと人たちは答えた
人に従うより神に従うべきです
私たちの父祖の神は
あなた方が木にかけて殺したイエスを
よみがえらせました
神はイスラエルを悔い改めさせ
罪の許しを与えるために
このイエスを導き来て
また救い主として
ご自分の右に挙げられました
私たちはこれらのことの証人です
神がご自分に従う者たちにお与えになった
精霊も証人です
これを聞いて彼らは
怒り狂い人たちを殺そうと考えた
人たちのこの言葉というのは
鋭く、とても鋭く
最高法院たちの過ちを突き刺す言葉になっています
大祭司は言いました
あなたたちはあの名によって語るな
イエスの名によって印を行うな
なぜか神殿に神の名があるからです
神の名を権威のもととしている彼らからすると
神の名以外にイエスの名によって
技が起きるというのはまずいんです
自分たちの権威の根拠が揺るがされるから
あの名によって語るな
でもエルサレム中にイエスの名が広まり
あの人の父の責任を我々に負わせるのか
イエスを十字架につけたのは私の責任じゃない
そんなことを言いふらすなということを言っているわけです
でも使徒たちの言葉は明確でした
あなた方がイエスを十字架につけたんだということです
あなた方がイエスを十字架につけた
そして神の名に使え神に従うと言いながら
あなた方は神が使わされた
あのイエスというお方を殺してしまったのだ
しかしイエス様は蘇られた
生きて使徒なられたイエス様は
イスラエルを悔い改めへと導き
救おうと今働き始められた
最高法院はこの五章の21節というところでは
ちょっと言葉を変えて説明されるんです
最高法院すなわちイスラエルの子らの
全長老を招集しと書いています
最高法院というのはイスラエルの全長老たちなんです
簡単にはイスラエルの代表なんです
イスラエルを悔い改めるためにイエス様はいる
あなたたちはイスラエルの代表でしょうと言っているんです
イスラエルの代表であるあなた方
あなた方こそまさに悔い改めへと招かれているんだということです
今やイエス様は神の右の座につかれ
この世界の王となられたその王の前に
あの人の血の責任を我々に負わせようとしているなどと
あたかも自分には責任がない
まるで無関係であるかのように
振らまうことなどもうできないと突きつけているんだ
そんなことはもうできない
あなた方の罪がイエスを十字架につけた
そしてその責任はあなたにあるのだと大祭司に言っているんだ
しかしこの王イエスは今も生きている
あなたが悔い改めるならばあなた方が救われる
あなた方は救われることができるのだ
ガマリエルの冷静な発言
そういうことも伝えている言葉です
実にお聞きになられてどう思われたでしょうか
厳しい言葉なんですがこれは福音のメッセージなんですね
良き知らせではある良き知らせの言葉なんです
厳しい言葉ですけど
そしてそれを受け取るためにはこの最高法院たちは
いろいろ認めなければなりません
彼らは自分が私たちがあのイエスを十字架につけたのだという
罪を認めなければなりません
誰よりも神に従うべきものであるはずなのに
従っていなかったという欺瞞を認めなければなりません
既得権益を捨てなければなりません
そして何より貴族であり上級祭司である私たちよりも
無格な良子であるペテロたちの方が
人に従うより神に従っているという事実を認めなければならない
最高法院はどう答えたでしょうか
33節
彼らは怒り狂い人たちを殺そうとした
彼らは怒り狂い人たちを殺そうとした
殺そうと考えた
平たく表現をすると
ズボシをつかれて怒りだしたという事です
ただ私はこの歌詞を読んで説教を準備しながら
どちらかというと最高法院みたいな人たちが
あの人この人だなという事よりも
私は自分の姿がこの最高法院の姿にあるなと
無関係ではないなと思わされました
人間にとって一番難しいのは
おそらく他人に罪を認めさせる事ではありません
自分の罪を認める事です
一番難しいわけです
自分は悪くはない
自分が悪くなければ誰が悪いのか
神が悪いのか
自分の罪を指摘したあの人が悪いのか
誰かに責任転嫁をして
怒り続ける事は可能ですが
それは実は何の解決にもならない
31節の言葉をもう一度読みます
神はイスラエルを悔い改めさせ
罪の許しを与えるために
このイエスを導き来て
また救い主として
ご自分の右に挙げられましたと
人たちのこの言葉は
最高法院の人々を救うための
良き知らせなのです
ただ良き知らせというのは
悔い改め方向転換へと
人を招く言葉でも同時にあるわけです
悔い改めなさいという言葉を聞くと
私たちは身が固くなります
それは今の私は自分を否定されていると思うからかもしれません
でもそうではない
これは何度も言わなければならないと思います
悔い改めというのは
今のあなたを否定するために
悔い改めへの招きというのは
私たちがそれを持ち続けたら
痛んでしまうものを手放しなさい
ということを招いているのです
あなたがそれをうちに抱え続けているならば
あなたが痛み続けるから
手放しなさいということを
言われているのです
あなたがそれを否定せずに
認めることができるならば
あなたはもっと自由になれるんだ
ということを伝えるために
悔い改めというのは招かれます
そのようにあくまで私たちを
癒し、自由にし、生かすために
悔い改めという言葉はいつでもあります
ですから私たちはそのように招かれているわけです
そしてズボシを刺されて怒る人というのは
心のどこかでそれを聞かなければ
何かまずいと思っているから怒るんです
そうではないでしょうか
聞く価値のない言葉に人は怒りません
でもどこかで聞かなければならないと
その言葉に刺されるから
私たちはイラッとします
でも忘れてはならない
それはもしもそのような言葉を
聖書の言葉から
誰かの口から聞かされたとしたら
それは私たちを悔い改めと招くための
神様の招きかもしれない
良き知らせかもしれない
神の言葉に自分の胸が刺されるとき
私たちは人に従うよりも
自分に従うことが大事だということを思わされます
人、自分
自分自身の
いやそうじゃないという言葉に従うよりも
神様の言葉に従うということが大事
自分の心を大事にしてください
自分の心が感じることを別に
過小評価する必要はありません
でも人の言葉を通して
聖書の言葉を通して
何か神様に刺されて
時に怒り出すようなことがあるのならば
怒って終わらないでほしいんです
それはあなたにとって
神様からのこの上ない
良き知らせである可能性がある
そのことをぜひ
争点は神からの出どころか、人間からの出どころか
ご一緒に覚えさせていただきたい
さてもう少し先に進んで
もう終わりたいと思いますが
この最高法院の怒りというものがありました
ただこの33節以降を続けて見ていきますと
一人の冷静な立法の教師
ガマリエルという人によって
この最高法院の怒りはとどめられます
彼は冷静にいろんなことを言うんですね
一つ言ったのは歴史を振り返ってほしいと
ここ最近反乱を起こしたテウダダとか
ガリレーヌユダという人たちがいるでしょうと
これは前も言いましたが
イエス様の時代って
イエスマンみたいに
弟子集団を形成して
反乱を起こす人ってたくさんいたんです
それはまさにさっき言いましたが
厳しい各社社会を生み出している
貴族や妻子
そういう人たちを狙う
テロリズムというのは当時あったんです
だからそれを警戒していて
ということが最高法院にもあったでしょう
しかしそういう人たちかどうか
まだ判断ができないだろうと
そしてガマリエルが言ったのは
争点はそこじゃないでしょうと言ったのです
大事な争点はどこか
それは5章の38節から39節で言いますと
彼はこう言いました
そこで今私はあなた方に申し上げたい
この者たちから手を引き放っておきなさい
もしその計画や行動が
人間から出たものなら
自滅するでしょう
しかしもしそれが神から出たものなら
彼らを滅ぼすことはできないでしょう
もしかすると
あなた方は神に敵対するものになってしまいますと
ガマリエルが言ったことは
争点はこの事柄
弟子たちの働きが
人間から出ているのか
神から出ているのか
神から出たものの滅びなさ
そこが大事じゃないですか
ということを言うわけです
神から出たものは
彼は言います
滅ぶことがない
滅ぼすことはできない
つまり
人ではなく神に従うという歩み
神様に従うという歩みは
どんな良いことであろうと
それは人間の思惑から出ていれば自滅するし
逆に神様から出た思いであれば
どんなに悪い状態になったとしても
滅ぼしきることは不可能だ
ということを言っているわけです
どんなに悪い状態になっても
そしてこの箇所というのは
実はこの後に続きます
6章7章の導入部分なんですね
神から出たものは滅びません
ということは
じゃあ一体どういうことなんですか
ということを見るためには
実はこの6章7章のステファノの出来事を見たら
よくわかるんです
全部は見ません
ただ簡単に見ていきたいと思いますけれども
この先ほどガマリエールの取りなしによって
33節
使徒たちへの殺意というものは
とどめられますけれども
しかし6章で出てくるステファノという人がいます
そして読んでいったらわかる通り
このステファノは7章で
石打ちにあって殺されてしまいます
神様に従った結果
命を落とす
初代教会で最初の殉教者になってしまうわけです
読み進めて思います
神から出たものを滅びへんかったんちゃうんかいと
なんで滅びるのか
ステファノが何か悪いことをしたのか
いやそうではない
使徒の働きは
大切なことは
使徒の働きはステファノの死というものが
あったとしても
神の働きは何一つ終わらなかった
ということを言っているんです
例えばステファノの死というのは
二つの働きの種になるんです
一つはステファノの死をきっかけに
8章まさに8章からそれが始まるんですが
ステファノの死をきっかけに
エルサレムから初代教会を
あらゆる地域に散らされていくという契機を得ます
ステファノの死という出来事があったから
エルサレムから
様々な地域に人々が散らされて
まさに世界選挙が始まります
もう一つは
ステファノの死に加担していた
サウロという若者がいます
このサウロは後のパウロなんです
彼は激しく初代教会を迫害していました
しかし9章では
そのサウロの下にイエス様が幻として現れます
サウロはそれによって救われるわけです
否定しようがないんです
だってステファノが述べ伝えていた
イエスキリストが私のところに現れたから
パウロは自分の過ちにそれを通して気付かされました
これらの経緯を見ながら
私は神から出たものが滅びないという意味が
なんとなく見えてくるような気がするんです
神様に従うならば
その報いを見ることができる
そういうことばかり言えないのではないか
ということです
ステファノは命を落とします
彼は自分が行ったこと
語ったことの報いを見ることはできなかった
しかし神様に従い
そこで語りそこで成した良き技は
滅びることがなく
神様の良い技
神様の救いのために
用いられ続けた
彼の技は地には決して落ちなかったんですね
これは厳しく響くかもしれません
私たちは神様に従い注いできたものの
成果の最後を見ることができないかもしれません
それはつらいことかもしれません
しかし
それが神から出たものなら
彼らを滅ぼすことはできないと言われるとき
私たちは自分自身の神様に従って行った技が
神様に従って語った言葉が
神に従うことの意味
それがいかに小さく無力に思えたとしても
それは絶対に無駄にはならない
神の良い技のために残り続け
そして次に繋がっていく
神様がその技をそう用いてくださる
そのことを覚えたいんですね
私たちは自分が成したことの報いを
自分で見るために死に従っているのではないんです
ちょっと大げさな言い方をするならば
永遠に残るもののために私たちを奉仕をしているんです
今私がここで語った言葉
ここで成した良い技
それがわかりやすく何か成果が見える
そういう働きじゃないんです
牧師なんか一番痛感します
でもそうじゃない
でもここで語ったこととかやったことは
絶対に無駄には終わらない
神様がそれを次に繋げて用いてくださるから
まかれた種というのは無駄に落ちないんですよ
昨日私は綾名先生と一緒に
東名田バプテスト教会という教会のキャンプに
ご奉仕で参加させていただきました
とても良い教会でした
子どもたちが生き生きとたくさん集まって
何よりも良かったのは
教会のご夫人の方が
ご夫人というかお姉さんというか
そういう方々を奉仕していたんです
子どもたちと仲良く
本当に友達みたいに仲良く関わり続けて
子どもたちが安心して教会に入れているという光景を見て
素晴らしいなあということを思いました
でもそういう教会を作れたのはきっと
何かこの時に
何かすごいことを一回やっただとか
そういうことじゃないんですよ
時間をかけてじっくりとその子たちを愛し
受け止め
関係を作っていきながら
つらい時には一緒にいながら
でもそういうことを重ねていく中で
こういう空間
こういう教会ができているんだなあ
ということを改めて思って
やっぱり教会ってそういうことをしなきゃいけないんだなあ
ということを改めて確認をさせられた思いがいたしました
でもそれは地道な働きなんです
わかりやすく成果がパッと出るものではない
でも私たちは成果が見えなかったとしても
それでも主に使えていくんです
私たちの成した良い業は永遠のものだからです
人に従うよりも神に従うべきです
私は最初に一つの問いかけを皆さんに立てました
それでもここで私が神様に従う理由はあるのだろうかと
人に従うより神に従うべきです
しかし神様に従う中で聞こえる声があります
まだそんなことをやるのですかと
もう黙っていればいいんじゃないのですかと
しかし私たちはこう言い返してやればいいのです
いいえそれでも私は今日も明日も神様のために
この言葉を語るしこのことをします
それは小さく見えても神様のために
永遠に残るもののために私はやっているんですと
そう言ってやればいいんです
神に従うというのは
神愛・人愛だと私はずっと教えられ続けてきました
神を愛し人を愛するということです
人を信頼し人を愛する一歩一歩を踏みつつ進むことで
私たちは私たちの置かれているところで
人に従うより神に従うことを
なさしていただきたいと願います
私たちの愛の業を
神様は永遠のものとして受け取ってくださり
その業は決して滅びることがないんです
一言お祈りをいたします