1. 名谷教会
  2. 2023/07/16:神を愛し、畏れる
2023-07-16 46:58

2023/07/16:神を愛し、畏れる


2023/07/16 聖日礼拝

加藤満牧師

使徒の働き -


00:02
皆さん、おはようございます。
先週は、夏季休暇をいただいてありがとうございました。
リフレッシュのひとときをいただきました。
感謝をいたします。
一言お祈りをして、今日の御言葉にご一緒に聞いていきたいと思います。
お祈りをいたします。
愛する天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
主の御前へと私たちを招いてくださり、
今朝もこうしたあなた御自身が、私たちの御前に立ち、
恵もうと待ち構えていてくださっていることや、
恵みをもって臨んでいてくださっていることを覚えて、
感謝をいたします。
神様、本当に熱さの中に私たちはあり、
心も体も霊も弱りやすいものですけれども、
主あなたは、私たちを限りない愛をもって愛してくださり、
今も愛していてくださり、
それだけではなく三日目に復活をさせられた、
その復活の命を私たちにも与えてくださり、
永遠なる日と共に生きる人生をあなたは開いてくださり、
今も私たちをそのように保っていてくださることを
感謝をいたします。
神様どうか、様々な心も体も霊も、
重荷を抱えますけれども、
主の御前へと出ることができますように、
帰りみてください。
あなたの永遠の階段に支えられていることを覚えて、
そこに重荷を下ろすことができるよう、帰りみてください。
何よりも主の命の言葉が今朝も私たちに語られて、
あなたの言葉によって立ち上がる勇気を得られるよう、
私たちに届いてください。
あなたの言葉によって立ち上がる勇気を得られるよう、
私たちに届いてください。
お願いいたします。
この礼拝を家で聞いておられる方々もいらっしゃいます。
どうかお一人一人のうちに主がその場に
御臨在くださって支えてください。
施設におられる方々、
体が弱っておられる方々もおられます。
神様どうか、その方々もその心のうちに主が
共にいてくださり、支えていてくださいますように、
あなたの恵みを知ることができるように、
帰りみてください。
病によって痛んでいる方、
ずっと癒されない痛みの中にある方、
神様、怒りがあるでしょう、嘆きがあるでしょう、
あなたが寄り添っていてください、
その一人一人の心をなおも
慰め続けてくださいますように。
特に私たちにおいては、
先週、愛する兄弟が天に召されました。
どうかご遺族の方に、
あなたの天来の慰めを豊かに
注いでくださいますように、
お願いいたします。
御言葉を聞いてまいります。
私たちの霊の耳と目を開いてくださって、
03:02
あなたご自身の御言葉を聞くことができますように、
語る者の唇を清めて、
精霊様がお一人一人に届いてくださいますように、
お願いいたします。
これからの一時を御手に委ねして、
御名前によってお祈りをいたします。
皆さんは教会にどのような印象をお持ちでしょうか、
ということを最初に聞きたいんです。
教会、もしかしたら教会ということを聞いて、
とても親切で温かい場所だなと、
いつまでもここにいたいなと思える方々はいらっしゃる。
そうであれば嬉しいなと思うんですけれども、
そういう方々もいらっしゃるでしょうし、
教会は何か難しい聖書を読む場所であり、
教会も人のつながりだから何か煩わしさがあるな、
息苦しいなと思う方もいらっしゃるかもしれません。
私自身は教会の印象というものは、
主に二つあるんですね。
それは何かといいますと、
教会は温かい場所である。
そして教会は少しだけ緊張感がある場所であるということです。
そのことを教えられた二つの経験がありました。
教会が温かい場所だと教えられたのは、
私は母教会でした。
私は小さい頃から当たり前のように教会に行っていましたが、
教会は本当に神の家族でした。
温かく私を養い、私を愛してくれて、
教会は温かい場所なんだなと、
体験的にとても教えてもらったことを覚えています。
ただもう一つ、教会は少し緊張感がある場所だなと
教えられた体験をしたのは、幼稚園でした。
実は私はカトリックの幼稚園に通っていたんですね。
今思うと結構しっかりした幼稚園だったと思います。
朝登園するとですね、マリア様の像があるんですよ。
そのマリア様の像の前に子供たち一人一人がまず十字を着てお祈りをするんです。
その後、鞄を部屋に置いて遊びに行けるかというとはそうじゃなくて、
幼稚園の3階に小さな礼拝堂があるんですね。
そこに子供たちは来た順に一人一人行って、
そこの礼拝堂でひざまずいて、
短くお祈りをしてから遊びに行く。
そういう幼稚園だったんですよ。
お祈りの言葉は私は正直覚えていませんが、
ただその礼拝堂の雰囲気というのは鮮烈に覚えているんですね。
ステンドグラスが、狭い部屋の中にステンドグラスがあって赤茶色の光が射していて、
そこだけシーンとしていてちょっと暗いんですよ。
06:00
子供はここにひざまずくんですよという線が入ってあって、
正面にはカトリックですから様々な財布と、
そして正面の上の方には十字架にかかわられたイエス様の像が掲げられているんです。
子供ごっこにそれは大きく見えたんですね。
カトリックですからただのこの十字ではなくて、
そこにははっきりと釘付けられたイエス様の像がそこにはある。
ちょうどそこで釘付けられているイエス様の像が、
こうやって見下ろす、その視線の先にひざまずいている子供たちがいるみたいな、
そういう場所だったんですね。
小さいながらに毎朝そこに行くんですが、
少し緊張感をそこに覚えたことを覚えています。
今覚えればそれはただの木の像がある部屋なのかもしれないんです。
でも幼心に私が感じたのは、いや、そこに何かがいるです。
何かがいる。
イエス様の像、その視線の眼差しを、
怖くて直視なかなかできなかった。
でもその視線を感じれば感じるほど、
自分の心の中が何か見抜かれているような、見透かされているような気がして、
怖いんじゃないんですよ。ただ緊張感があるんです。
ここに何か、イエス様か何かがここにいる。
私自身が小さい頃に教会に感じたのはその二つなんです。
幼稚園は教会じゃなかったかもしれませんが。
でも園長先生がシスターだったので、
もしかしたら子どもたちのためにそこで真ん中に乗っていたのかもしれません。
教会というのは温かさと少しの緊張感がある、私の教会への印象です。
でもこれはおそらく適切なものではないかなと思うんです。
なぜならそれはきっと、私たちが神様の前に立たされるときに感じる感情を
おそらくそういうものだからです。
温かさと少しの緊張感がある。
神様は私たちに十字架の愛を示してくださいました。
神様は全ての人、どんな人をも愛しておられると言ってくださいます。
しかし十字架に貼り付けにされたイエス様の眼差し、
神様の眼差しが、今ここにいる私たちを見つめている。
もしもそう思うのであれば、緊張感がある。
そう言っているのかもしれません。
今朝読んでいただいた箇所は、初代教会の活動について書かれた箇所をお開きいたしました。
いわばこれは教会の初期の記録ですね。
教会とは一体何であるのかということのエッセンスが書いてあるような箇所です。
09:02
ここから私たち自身のこの妙谷教会の姿と重ねながら
少しこの箇所から学ばせていただきたいと願っております。
さて、初代教会はどのような活動をしたでしょうか。
まず32節を見ますと、こういうことが書かれてあります。
32節を読みいたしますと、
さて信じた大勢の人々は心と思いを一つにして、
誰一人自分が所有しているものを自分のものと言わず、
全てを共有していたと言われています。
教会は財産を共有し合って支え合っていたと書かれている。
おそらく初代教会のメンバーには貧しい人たちという人々がいたのでしょう。
そして最初のクリスチャンの人たちは、
そういう兄弟姉妹の中にいる貧しい人たちを無視するのではなくて、
どうやったらこの人たちと共に生きられるかということを考えたということです。
それはきっとイエス様ご自身が貧しい人たちに関わり、
貧しい人たちと富を分け合いながら共に生きなさいと教えられたからですね。
弟子たちはここで心と思いを一つにして財産を共有したと書いてある。
続けて34節35節も読みますと、
彼らの中には一人も乏しいものがいなかった。
辞書や家を所有している者は皆、それを売り、
その財金を持ってきて人たちの足元に置いた。
その金が必要に応じてそれぞれに分け与えられたのであったと。
この箇所、旧約のヨベルの年にも何か重なるような場面ですけれども、
この箇所はちょっと読み様によってはですね、
教会に集う人々は何か全財産を強制的に徴収されて共有したみたいな書き方にも読めなくはないわけですけれども、
おそらくそうではないわけです。
5章の4節にペテロがアナニアとサッピラの事件の時に、
占いでおけばあなた方のものであり、
売った後でもあなたの自由になったではないかと言ってますから、
何を言っているのかというと、教会は私有財産は許されていたわけです。
自分たちの財産、自分たちが生きるための財産はちゃんと自分のために取っておいてよかったんですよ。
取っておいてよかったけれども、
この兄弟姉妹を支えるために自発的に支えたい人たちが、
土地や家を売って共有していたということが書かれているわけです。
決して強制ではなかったわけです。
12:00
であれば、むしろこの箇所のインパクトはどこにあるかというと、
初代教会は貧しい兄弟姉妹を支えるために、
辞書や家というような大きな財産を自発的に捧げたというこの恵みの深さにあります。
気前の良さと言ってもいいかもしれません。
こんなことまでして原始教会は互いを支え合ったということをここで書いてあるわけです。
あの人の支えのために、あの人の助けになるならば、
そう言っておそらく純粋な動機でお互いに支え合って、捧げ合った。
これはさらっと読んでしまったらそこまでですが、
簡単なことではないはずなんですね。
なぜなら、私たちの中で富への執着と言いますかね、
富への執着というものは決して小さな問題ではないからです。
むしろこういう表現もできるかもしれません。
人間は何よりも富と神をすり替えやすい。
神と富をすり替えやすい。
そういうことが言えるのだと思うのです。
なぜこういうことを言うかと言いますと、
実はルカ福音書、使徒原稿録はルカと使徒がつながって、
ルカ文書と一まとまりで考えられがちですが、
ルカ福音書というのは、他の福音書に比べて特に
富に対する警告が多く書かれていると言われる書簡だからです。
全部を開くことはできませんが、
一箇所だけとても象徴的だなと思うのは、
ルカの18章の18節から23節というところを
ちょっとご一緒に読みしたいと思います。
ルカの18章、読んでいただいたら
あの箇所かと思われるかもしれませんが、
お読みいたします。ルカの18章の18節から。
またある指導者がイエスに質問した。
よい先生、何をしたら私は永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。
イエスは彼に言われた。
なぜ私をよいというのですか。
よい方は神お一人のほか誰もいません。
今しめはあなたも知っているはずです。
簡易してはならない、殺してはならない、
盗んではならない、偽りの証言をしてはならない。
あなたの父と母を敬え。
するとその人は言った。
私は少年の頃からそれらすべてを守ってきました。
イエスはこれを聞いて彼に言われた。
15:00
まだ一つあなたに欠けていることがあります。
あなたが持っているものをすべて売り払い、
貧しい人たちに分けてやりなさい。
そうすればあなたは天に宝を持つことになります。
その上で私に従ってきなさい。
彼はこれを聞いて非常に悲しんだ。
大変な金持ちだったからである。
有名な箇所です。
この指導者はイエス様に、私についてくるか、
もしくはあなたの富、財産を貧しい人に分けていくか、
どっちを選ぶかという選択肢を出された。
そしてそれを天秤にかけたとき、
この人は富を手放せなかったということが書かれているわけです。
イエス様はこの後で、金持ちが神の国に入るよりは
ラクダが針の穴を通る方が優しい。
いかに難しいかということが言われています。
ルカにある福音書にはいちいち開きませんが、
こういう言葉も例えば言われています。
あなた方の宝のあるところ、そこにあなた方の心があるのです。
ルカの12章の34節というところにありますし、
もう一つは、あなた方は神と富とに仕えることはできませんとも、
これもルカの言葉です。ルカの16章の13節にあります。
イエス様の言葉、神と富とに仕えることはできない。
イエス様は神と富とを並べて語りました。
それは、富はまるで神様のようになりがちだからです。
富というものはとても大事です。
それは私たちの生活を保障してくれます。
ちょっと雑な言い方をすると、人生に何があろうとも
お金があればどうにかなると思うことがあるのかもしれません。
神様よりもお金様の方が目に見えるし、
自分の支柱には収まるし、
そして富は確実に希望を叶えてくれるわけです。
祈って神様に聞かれるかわからないよりも、
お金で支払った方が早い。
そう言ってしまえばそうなのかもしれません。
しかし、旧約を読まれた方はお気づきになるかもしれません。
富というのは実に偶像の特徴を兼ね備えているんです。
支柱に収まる。自分の手でどうにかできる。
そして力がある。
まるで金の格子ととても似ているわけです。
そういうことを再三、イエス様は福音書の中で注意なさいましたし、
18:03
それに従えなかった人たちも出てまいります。
ただ、そのことを思えば、
今朝のこの使徒の働きの4章の歌詞は驚きなわけです。
あなた方の宝のあるところにそこにあなた方の心があるとイエス様が言うのであれば、
この初代教会のクリスチャンたちの心はもはや富には置かれてはいないんですよ。
そこに置かれているわけではない。
彼らの心は富を最優先にしているのではなく、
彼らの心の最優先は神様への愛と目の前にいる兄弟姉妹の存在、
そこに置かれていたということです。
そこに彼らの心が置かれている。
何が一体ここまで彼らを変えたのでしょうか。
使徒の働きを見るときに、
私たちはそれは聖霊なる神様が彼らに望んだからここまで変わったんだ、その通りなんです。
聖霊様が弟子たちを変えてくれた。
しかしもう少し具体的に言わせていただくならば、
弟子たちは聖霊様を通してイエス様ご自身を知ったということが言えるのではないでしょうか。
イエス様を知ったから彼らは捧げるようになった。
富から手放す富を手放すようになった。
彼らはイエス様ご自身を聖霊様に教えられ、
イエス様ご自身がどういうお方であるかを知った。
そう言えるのではないかと思うんです。
それが彼らを変えた。
じゃあ一体イエス様の何を知ったのでしょうか。
二つほどお話をするならば。
一つそれは、イエス様は私たちのために全てを与えてくれたということを知ったということです。
イエス様は私たちを愛し、永遠の滅びから救うために、
あの十字架にご自身の命を捧げてくださったということを、
使徒たちは知りました。
そしてそれは何のためか、私たちが、使徒たちが、
自分が、私が滅びないために、私が滅びないために、
そして私に永遠の命、神と共に生きる命を与えるために、
イエスキリストが全てを与えてくれたことを知ったのです。
パウロが言った言葉、これも開いていたらちょっと大変なので、
ちょっとお読みするので聞いていただけたらと思いますが、
パウロが第2コリントの8章の9節というところで、
これも献金の文脈で語られていますが、こういうことを言います。
あなた方は私たちの主イエスキリストの恵みを知っています。
すなわち主は富んでおられたのに、あなた方のために貧しくなられました。
21:06
それはあなた方がキリストの貧しさによって富むものとなるためです。
第2コリントの8章の9節というところの言葉です。
もしもキリスト社が自分以外のために、神様のために、
それは隣人のために何かを捧げるとするならば、
それは決して強制じゃないんです。
捧げなければ滅ぼされる、そんなことはないんです。
ただもしも大胆にそれを捧げ得るとするならば、
それはいつでもキリストが私にしてくださったことへの感謝以外ないんですよ。
キリストが、神が私に成してくださったこと、
その恵みに対する応答でしか捧げるということは起きない。
初代教会には今朝の4章の33節にも、
大きな恵みが彼ら全員の上にあったということが書かれている。
彼らは恵みに押し出されていたんです。
神は生きて私たちをここまで捧げてくださっている。
イエス様の大きな恵みを知ったから、
彼らは心から自発的にこれらを捧げることができた。
そういうことが一つ言えるのではないかなと思うんですね。
そしてもう一つ、
彼らがもしも捧げることができた理由があるとするならば、
それはイエス様が今やこの世界の王となられ、
その世界の王が私たち教会の主であるということを知ったからです。
それが意味するところは何でしょうか。
私たちは富を手放せないのは何かと言いますと、
富が私たちの保障だからです。
お金があるから私たちは大丈夫ってどこかで思うわけです。
しかし、彼らが財産を手放すことができたそれは、
私を保障するものはもはや富ではないということを知ったからです。
私を保障するのはもはや富ではなくて、
むしろ私の主であるイエス・キリストこそが、
私の究極的な保障であり、
拠り所なのだということを知ったということです。
それがわかるから、簡単ではないかもしれませんが、
それがどこかでわかるから、
何がなくても主の愛が私を取り囲み、
私はどうにかなるんだとどこかで思える時って人にはあるんです。
でもそれがあるから、手放すことができる。
手放すというのは捨てるということではありません。
よく捧げますという言葉が使われますね。
24:01
捧げることは大事なんですけれども、
手放すということと捨てるということは違います。
何でもかんでも自分の得てきたものを軽蔑する必要はないんですよ。
私たちは生きてきて気づいてきたもの、大切なものはたくさんあるんです。
それは大事にしたらいいんです。
でも手放すことができるというのは、
それは私たちが気づいてきたもの、それが絶対ではないし、
私たちが気づいているもの、私たちが持っている富が
神ではないということを知っているということです。
だから自由になる。
富を手放すことができるということは、
富に対して自由になれるということです。
富を私のために使うこともできるし、
富が誰かの必要のためになるのであれば、
そのために私は手放すという選択もできる。
実はそれが自由であるということではないか。
ケテロの次世代の指導者の一人に、教会の指導者の一人に
殉教者ユスティノスという人がいます。
彼がこういう言葉を残しているんですね。
かつてむやみに他人の財産や富を欲しがった我々が、
今や所有していた財産を共有して、
すべての貧しい人たちと分かち合っていると彼は書く。
この言葉は驚いて書かれているんです。
ユスティノスは自分の僕している教会を見て驚くんですよ。
ああ、今まであんなにお金お金と言っていた私たちが、
彼らが今や何か不思議と互いに支え合っている。
これは一体なんだ。
でもおそらくそれはイエス様によって
互いが自由にさせられたということなのではないでしょうか。
聖書のヨハネの副印書に
真理はあなた方を自由にすると書いてあるんです。
真理って何でしょうか。
真理というのはイエスキリストです。
真理というのはイエスキリストなんです。
そしてイエスキリストを知る時に
実は私たちは自分を縛る者、自分を縛る声から
自由になると言えるのでしょう。
何度も言います。
富は大事です。
私たちは自分が生きるための富は大事にしましょう。
ちゃんとそのことは大事にしたらいい。
しかし富を神とする人生は不自由なんです。
富を神とする人生は不自由です。
キリストは目には見えません。
キリストは自分の支柱には収まりません。
キリストは祈ったら願い通りに何かしてくれるか
そんな分かりやすいお方ではないかもしれない。
しかしこのキリストの前に
跪いてのみ得られる自由があるんです。
27:00
この方を知るからこそ得られる自由というものが
この世界には存在をするんです。
びっくりするんですよ。
なんでこんなことが教会で起きているのと。
でも説明できるのはただ一つ。
イエス様がそうなかったんだなぐらい。
信じた大勢の人々は心と思いを一つにして
誰一人自分が所有しているものを自分のものと言わず
すべてを共有していた。
三十二節にあります。
イエス様を使徒信頼する教会は
富を最優先にせず
神様を愛すること
互いの存在を最優先にします。
イエスを使徒信頼する私たち明太に教会もまた
神様はこの愛の交わりを築くことができるんです。
今も築かれています。
でもこれを築き続けることが神様にはできると
私は思います。
精霊様に私たち導いていただきましょう。
神様と互いの存在を最優先に
そこにお互いの存在を優先にする交わりが築かれていくときに
きっと教会というのは温かい場所になっていくのではないかなと
私自身はそう思うわけです。
さてもう一つ見て終わりたいと思いますが
今朝の箇所でしかし無視できず
見なければならない箇所としてあるのは
この5章の1節から11節という不穏な事件の出来事です。
簡単に言いますと
教会の中にいたアナニア・サッピラという
このご夫妻が捧げたもののことで
この夫婦が神様に打たれて命を落としてしまうという事件が
教会で起きます。
このアナニア・サッピラの事件の出来事は
直前の36節から書かれています
バルナバの出来事と対比して書かれているので
これと重ねて理解すべきだと思うんです。
バルナバ、36節からちょっと読みますと
36節に
キプロス生まれのレビビトで
使徒たちにバルナバ
ヤクスとナクサメの子と呼ばれていたヨセフも
所有していた畑を売り
その大金を持ってきて
使徒たちの足元に置いたと
このバルナバがしたことは
他の人たちと同じように
畑を売って
大金を持ってきて
使徒たちの足元に置いた
使徒の足元に置いたという事は
神様に捧げたという事を意味します。
ところが
誤説から書いてあるという事は
アナニアとサッピラはおそらく
同じ事をしようとしたのでしょう。
自分たちの財産を売って
そして使徒たちに捧げようと
したわけです。
しかし
その途中彼らの心の中に
30:01
ペテロの言葉を変えるならば
サタンに心を奪われるという事があった。
つまり誘惑されたわけです。
それは神様に捧げると
誓ったものから
一部を自分たちのために
置いたという事です。
これがまさに神様を
欺くという事と言われています。
旧説には
この計画を
夫婦で心を合わせて
主の御霊を試みたと書いてある。
夫婦で
心を合わせるというのは
とても麗しい行為ですけれども
しかし
誰かを偽るために
一致していたという事が書いてある。
これはちょっとだけ
言葉の流れだけ見るならば
これは32節の
大勢の人々が
心と思いを一つにしていたという
言葉と並べて書かれているのです。
何を言っているかというと
教会は
神様とお互いを
最優先にして一致して進んでいたのですが
この夫婦の中だけが
違う一致の中で動いていたという事です。
アナニアとサッピラという夫婦だけは
教会とは別に
夫婦間だけの一致をして
この偽りを加わってしまったという事が
書かれているわけです。
ただ
読んでいただいてどう印象を持たれたでしょうか。
この裁きは
あまりにも厳しいのではないかと
思わされます。
アナニアとサッピラは
二人の罪を見抜かれて
命を奪われてしまいます。
二人の罪は
精霊と神様を欺いたというものでした。
調べてみますと
もうちょっとこの事件は何が問題だったか
ということをはっきりさせるために
調べましたら
この欺いたという言葉は
独特な言葉でして
この言葉と関連する箇所が
聖書の中で一箇所しかないのです。
それはヨシア紀の七章の一節です。
簡単に言うと
ヨシアが率いる
イスラエルの民が
エリコを攻略した時に
エリコの民やその財産を
神様は清拙しなさいと命令をなさいました。
清拙をするというのは
これもちょっとややこしいですが
清拙するというのは
それは全部神様のものですよという意味なんです。
清拙をするものは
全部神様のものですよという意味です。
でも
ヨシア紀の七章の一節に書いてあるのは
アカンという人が
エリコの財産の一部を
自分のために取っていたということが起きた。
結果的に言うならば
アカンはそのことが
神様によって明らかにされて
彼は討たれてしまう
ということがありました。
おそらく
アナニア・サッピラの罪も
同じ意味合いで理解をしなければならないのかもしれません。
神様に捧げると誓ったものは
神様のものです。
そこから一部でも取ること
33:01
それが仮に自分自身の財産であったとしても
それは
神様のものを
盗んだということになる。
実際に盗んでいるのに
盗んでいないと言い張るから
あなた方は欺いたと言われる。
偽りがあると言われる。
ただ
そこまで言っていても
それにしても
問答無用にこの命が奪われるというのは
やはり厳しいんですね。
この箇所を
実際に私も難しいなと思って
調べていろんな本を読みましたけれども
みんな口をそれて
難しいと言っています。
これは解釈が難しい箇所なんです。
そのために
ここで
神様が簡単に命を奪ったということを
ぱっと言うのも難しい。
なぜなのかということを説明するのは
本当に難しい。
ただ
この箇所が
主張したいことは
じゃあ
アナニアとサッピラの命を奪った神様は
怖い方なんだということを
言いたいのかと言ったら
そうじゃないだろうということも
みんな共通しているんです。
じゃあこの箇所が
言いたいことは何か
二つあるんです。
一つそれは何かというと
アナニアとサッピラの過ちを
見抜いたのは
ペテロではなく
聖霊なる神様だということです。
そしてもう一つは
この出来事を通して
教会に
大きな恐れが起きたということです。
それは
5節と11節に
同じ言葉が繰り返されています。
大きな恐れが
教会には起きた。
ペテロはアナニアに言いました。
ちょっと一箇所読みますと
5章の3節から5節を読みますと
ペテロは
アナニアなぜあなたは
サタンに心を奪われて
聖霊を欺き
辞書の大金の一部を
自分のために取っておいたのか
占いでおけばあなたのものであり
売ったあとでも
あなたの自由になったではないか
どうしてこのようなことを
企んだのか
あなたは人を欺いたのではなく
神を欺いたのであると
この言葉を聞くと
アナニアは倒れて息が絶えた
これを聞いた全ての人たちに
大きな恐れが生じる
二人のこの過ちを見抜いたのは
ペテロのように見えますが
実はそうではないのです
欺きを見抜いたのは
ペテロの中に働かれる
聖霊なる神様です
ですからペテロのこの言葉は
とても意味がある
それは何か
アナニアに対して彼はこう言ったんです
あなたは目の前にいる人たちや
聖霊を欺き
あなたは目の前にいる人たちや
36:00
教会の仲間たちを欺いたと
思っているだろうと
しかしそうではない
教会には
聖霊なる神様がおられ
聖霊なる神様を通して
キリストが
そして神が
この場所におられるのだ
あなたはその神の前で
欺いた
あなたは神を欺いたのだと
言っているわけ
人々に大きな恐れが
生じたのはまさに
この理由でした
彼らは教会の交わりの中に
聖なる神が
おられることを知ったのです
いやそれだけではなく
その神は
アナニアとサッピラの
心の欺きを
見抜いたように
私たちをも見抜く神である
そのことを
彼らは知ったということです
だから恐れたわけです
このことは
ある意味今も変わりません
それは今
ここにいる私たち
皆が
神様の前に出しているわけ
私たちの心は
人の前に隠すことはできます
しかし神様の前には
何一つ隠されてはいない
いいえ隠し得ない
神様はすべてをご存知で
いてくださるというのは
非常に慰めです
しかし同時にそれは
厳粛なことでもある
あなたの前に神が
おられる
あなたは神の前に
偽りなくいるだろうか
そう言われますと
私たちなんか
いや私なんかは
恐ろしくなるような気がいたします
ただ
そういう風に言われてなんか怖いなと思われるかもしれませんが
あんまり
恐怖心を持たないでいただきたいんです
私はこのことを思うときに
一つ思い出すイメージがあります
それは
読まれた方いらっしゃるでしょうか
私ちょっとパッと読んだだけなんですが
ナルニア国物語にアスランという
ライオンが出てきますよね
ナルニア国物語というのは
ご存知の通り
あれはシエス・ルイスというクリスチャンの作家が
書いたものですけれども
ルイス自身が言っています
アスランというライオンは
あれは神であり
受肉したイエス・キリストのことを
偶和的に書いているんだ
ということを彼は言っている
アスランというナルニアの世界の
王様のライオンがいるんですよね
子供たちと一緒に旅をするわけです
アスランは獣の王様であり
力と知恵に満ちていて
愛情深く
その瞳に見つめられると
39:01
羨まれそうな澄んだ瞳を持った
ライオンである
子供たちは
いつまでもアスランのもとにいたいと願うほど
アスランとともにいる日々は
居心地がいいわけです
しかし
そのように親しくしながらも
子供たちはふとしたときに
ちょっと思うんですよ
ああでも自分の隣にいるのは
ライオンだと
人ではない
同じ人ではない
私の隣にいる
そこには
いくら優しくて愛情深いと
知っていて決して私に牙を
抜かない方だと知っているんだけど
牙がないわけではない
そこにはどこか
どこかに緊張感がある
そして澄んだ
アスランの瞳に見つめられると
心の全てが見抜かれてしまう
しかし
その眼差しというのは
怒りに満ちているわけではない
その眼差しというのは
いつも
子供たちを愛する変わらない
愛の眼差しがそこにはある
私たちは神様の前に
見抜かれていると言われるときに
ドキッといたします
ただ同時に思うのは
嘘や虚飾のない
人間などいません
心の中に
私たちは互いに何かを抱えながら
生きています
全ての人に対して
嘘がなく生きるということは
大変なこと
いや本当にそんなことできるのかと
思わされます
しかし今朝の見言葉から
私たちが知り得ることは
何かというと
人を欺くことはできても
神を欺くことはできない
だから神の前に
偽ってはならないということです
神の前には
偽ってはならない
神様の前に
偽らないということは
神様の前に自分の現実を
そうですと認めることです
罪深い私の現実も
問題のある私の現実も
変えられない私の現実も
いや神様そんなはずはないんです
私はそんなんじゃないんです
私たちには自己弁護の言葉が
渦のように嵐のように
私たちの心を取り巻きます
でも偽らないというのは
いや主よ私はこういうものなんですと
そのまま
主の御前に出ていくということです
私たちの心の全てを
愛の眼差しで見ておられる
十字架にかかられた
イエス様の眼差しを思い出していただきたいのです
私たちの中には
自己弁護の言葉が渦巻きます
でも本当に
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そう言えるのかということです
十字架にかかられた
イエスキリストの眼差し
あなたのために死んだという
私はここにかかっていると言われ
なおも私たちを怒るのではなく
愛し見つめるその眼差しを
前にして
私たちは
いや私はそうじゃないと言えるのか
私たちはその眼差しの前に
立たされているということです
神が私たちを見抜かれるのは
私たちを裁き滅ぼすため
ではありません
神様が私たちを見抜かれるのは
私たちを許し
神のことし
私たちを癒すため
です
私たちは
主の御前に
出ています
あなたを救いたくて
命まで捧げた神の眼差しの
前に私たちは
立たされている
もう終わりますが
今朝の歌詞はあるし
見てしまうならば
心と思いを一致していた教会の中に
アナニアとサッピラという
ある種偽りを持った人々が
入り交わりが裂かれた
入れるかもしれません
であるならば
交わりが私たちが
一つ
この初代教会のようになっていくために
必要なのはおそらく
偽りではなく正直さなのでしょう
正直さです
神様の前に
人の前に
自分を何かいい格好で
偽るというか飾り付けるではなくて
正直さです
それはいつでも
私はこんなもんなんですということです
私はこんなもんなんですしよ
それはあなたに許され
あなたに憐れまれ
あなたに支えられなければ
私は立っていけないんです
それが
私たちの現実じゃないでしょうか
それを私たちは正直に
認めてよい
人前に正直になるには時間がかかります
じゃあ最初に
神様の前に少なくとも正直になっていく
ということが大切なのでは
ないでしょうか
そのような中で私たちは
信じた大勢の人々は
心と思いを一つにして
誰一人
自分が所有しているものを
自分のものと言わず
全てを共有していたという
ある種分かち合い
一つとなる交わりが築かれていく
温かい交わりが築かれていく
人と人が共に生きる
本当に難しいということに
正面から正直に向き合っていける
そのような交わりを築いていける
神様を信頼し
神様を愛し
神様を恐れましょう
私たちの思いが
心と思いが一つという交わりは
私たちだけじゃ無理です
死とともに
精霊様に導かれて
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やっと築き上げていく
私たちはでもその一歩一歩を築かせていただきたいと
願っております
一言お祈りをいたします
大勢の人々は
心と思いを一つにして
誰一人自分が
所有しているものを
自分のものと言わず
全てを共有していたと
天の父なる神様
御言葉ありがとうございます
心と思いを一つにして
本当にその言葉を聞くと
私たちは驚かされます
本当にそんなことがあるのかと
それは教会の中にも
そして教会を出て
私たちの家族を見ても
そのように思います
人と人とが共に生きていくということが
なんと難しいことかと
私たちはそこに
無力感を覚えるお互いです
その中に傷つきもします
神様どうか
私たちは憐れんでください
私たちの中に
愛を築く力を与えてください
そのために
まず主よ
一つとなっていくことができますように
顧みてください
私たちには
共に愛し合って生きるということが
当たり前のようにできません
私たちには様々に捉えているものがあります
主よ
イエス様をもっと深く教えてください
それによって
あなたを信頼し
あなたの愛を喜んでいき
あなたゆえに誰かを愛し
手放していくそのような意味を持って
一つとなっていくことができるよう
私たちを助け導いてください
お願いをいたします
あなたご自身の導きに
あなたご自身の道からに
信頼をいたします
私たちを助けてください
イエスキリストの皆によってお祈りをいたします
アメン
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