1. 名谷教会 podcast
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2023-06-11 24:41

2023/06/11:共に生きるために


2023/06/11 ファミリー礼拝

加藤満牧師

マタイの福音書 18:1-5


00:01
では、短く最初にお祈りをさせていただきます。お祈りをいたします。
愛せる天の父なる神様、今日も私たちを主の御前へと招いてくださって、
あなたを仰ぎ、あなたを賛美し、あなたへ祈り、あなたの御言葉に聞こうとしています。
あなたが私たちを恵もうとこの場所に待ち構え、私たちに命の言葉を語ってくださることを感謝いたします。
祈ってくださったように、私たちはあなたの十字架によって流された血潮によって、
神のことされ、それだけではなく三日目に甦えられた命、復活の命を与えられて、
永遠なる日と共に生きる新たな人生を始めていただきました。
神様どうか、私たちは日常のこと、様々なことに心が奪われて、
あなたが見えなくなることがよくありますが、
どうか礼拝の時を通して再び死を仰ぐことができますように、
私たちの目をあなたへと向かわせてください。
そしてまた、ここに集いたくても集えないお一人一人が、
今施設におられる方が、体を痛めて家で礼拝を守っておられる方々がいらっしゃいます。
神様お一人一人のその歩みにも、あなたが共にいてくださって、
あなたご自身の恵みを置かれているところで表してくださいますように、
お願いいたします。
また、今日は子ども祝福式をこの後もたせていただきます。
神様が愛しておられる一人一人の魂を、
共に祝福があるようにと願います。
その時を主が豊かに導き祝してくださいますように、
子どもたちが神様の愛を知ることができるよう、
帰りに来てください。お願いいたします。
これからのひとときを見てにおいだねをします。
主が豊かに語ってくださいますように、
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン
ファミリー礼拝にようこそおいでくださいました。
どのくらいの方々に当てはまるかどうかですけど。
子どもたちも本当によく来てくれました。ありがとうございます。
本当にそれをすごく感謝をしています。
この後、礼拝の中で子ども祝福式を持ちますので、
お楽しみにしていただけたらととても思っています。
今朝はファミリー礼拝ということで、
少し家族というものに注目をさせていただきたいと願っています。
皆さんはどうでしょうか。
家族という言葉を聞かれて、いい印象があるでしょうか。
それともあまりよくない印象をお持ちでしょうか。
家族にもいろんな家族がありますし、
それは温かい家族というものもあるでしょうし、
03:01
温かい家族になってほしいと願いながらも、
実に家族で仲良く過ごすということがなかなか難しい。
そこに難しさを感じている方も、もしかしたらいらっしゃるかもしれません。
実は聖書の中にもいろんな家族が出てきます。
それこそ聖書というのは家族の物語なんです。
たくさんの家族が出てきて、その家族の物語が集められて、
聖書になったといっても過言ではないと思うんです。
けれども実際、聖書の中の家族を見ますと、
実は仲がいい家族ってほんと少ないんですね。
ものすごくゴタゴタしている。
どちらかというと、親と子が、夫と妻が、
兄弟同士が喧嘩をしているという話がほんとに多いです。
それほどまでに大きく話すならば、
実は家族というものが仲良く過ごしていくということは、
そんな当たり前のことではなくて、
むしろ様々なチャレンジがあるということを示しているといってもいいんだと思うんですね。
でも、聖書で語られるイエス・キリストは、
私たちに互いに愛し合いなさいと語るわけです。
人と人が共に生きるということは大切だと語るわけです。
そして今朝、このマタイの18章を読んでいただきましたが、
今朝の箇所では、互いが愛し合い、共に生きる、
ある種ほんとに難しいと思われるそのことをなすために、
注目すべきなのは実は、
今日子供祝福式ですけれども、
今日の主役である幼子に注目をしなさい、
幼子を見つめなさいと言っているのが今朝の箇所です。
今朝はそのことについて少しじっくり見ていきながら、
家族のことを少し考えることができればと願っています。
今朝はマタイの18章の1節から5節を読んでいただきました。
この箇所は大きく言えば、
人と人が共に生きていくために大事なことって何ですか、
ということを書いているのが実はマタイの18章です。
共同体の規則と言われます。
イエス様が語られたわけです。
私たちで言えばそれは、夫と妻であったり、
先ほども言いましたが、親と子であったり、
いわば家族が共に生きていくためには、
何が大切かということになるでしょうか。
この箇所はちょっと注意深く見るならば、
どういう話かというと、おそらくここには
二つの種類の交わりについて書いてあるのです。
06:03
二通りの交わりについて書いてあるわけです。
それは弟子たちの交わりの在り方と、
それを見て教える、イエス様が教える交わりの在り方という
二つの交わりの在り方がここには書かれています。
少しこの箇所に注目をしていきますと、
イエス様の弟子たちがイエス様のところにやってくるわけですね。
一節にこう言って弟子たちが言っています。
天の御国では一体誰が一番偉いのですかと、
ここでイエス様の弟子たちが言うわけです。
一体天の国では誰が一番偉いのか。
ご存知の方も多いかもしれませんが、
実は弟子たちはこの話題が大好きでした。
彼らはイエス様と一緒に旅をする道中、
弟子たちの中で誰が一番偉いかということを
頻繁に話し合っていました。
なぜそんなことを彼らがしていたかというと、
ちょっとだけこの背景を話すと、
彼らはイエス様がエルサレムに向かわれたら、
イエス様がエルサレムで当時ユダヤ人を支配していたローマ帝国を追い出して、
本当にイエス様が王様になってくれると信じていたのです。
イエス様が王様になってくれるのであれば、
その次に偉くなるのは、実際に権力を持つのは弟子たちのうちの誰かだろう。
その次、まさに右大臣、左大臣ではないですけれども、
になるのは一体誰かということ。
本当に話し合っていたということです。
ペテロが言ったかもしれません。
いや、俺はお前たちよりも誰よりも早く弟子になったんだから、
俺が一番偉いんだと言ったかもしれませんし、
おこりんぼのヤコブやヨハネがいますけれども、
いや俺らの方こそ熱意があると言ったかもしれません。
そうした熱心党員の諮問が、
いやお前たちの熱心は偽物だ、俺の方が本物だみたいなことを
言ったかもしれません。
わかりません。これは完全な騒動ですけれども。
でもそういうふうに彼らの中で、
私の方が、私の方がというような比べ合いが
なされていたということです。
イエス様は弟子たちに、
互いに愛し合いなさいと教えたわけですが、
彼ら、イエス様の弟子たちの現実はどうだったかというと、
決して愛し合ってはなかった。
むしろ、比べ合って競争をし合ってというのが
弟子たちの現実でした。
私たちに馴染みのある言葉で言い換えるならば、
弟子たちの間でマウントの取り合いがなされていたわけです。
俺の方が偉い、俺の方が偉いみたいなことを言い合っていました。
私の方が優れている。私の方が価値がある。
そう互いに主張して譲らない。
私たちの世界にもあるでしょうかね。
仲がいいふりをしながら、実は言葉の中にナイフが隠されている。
09:03
にこやかな顔をしながらズキズキと刺し合うみたいなことが。
私たちもあるかもしれません。
ただ、弟子たちが一緒に旅をする中で
築いてきた交わりがそういうものだったということです。
これは、互いに優劣を競い合うということを知るわけですから、
相手が敵であったり、ライバルになることができるんですよ。
お互いに競い合うライバルにはなることができる。
しかし、いつまで経っても実はこれは続けていっても
仲間にはなれないんですね。
言い方を変えるならば、
愛し合うということがいつまで経っても実はこれだとできない。
もしかしたら、彼らは体は同じ場所にいたとしても
心では共に生きることができていない。
ということが言えるのかもしれません。
おそらくイエス様はそういう弟子たちの状況をよくご存知だったのです。
彼らが愛し合うことが全く難しくなっていると。
イエス様は彼らに一緒に生きていく上で、
共に生きていく上で大切なことを教えなければならないと思って
取られた方法が実は2節以降なのですが、
実にユニークな方法を取られます。
それは何かと言いますと、
イエス様は、2節を読みますと、
イエスは一人の子供を呼び寄せ、
彼らの真ん中に立たせてとあります。
この構図が物語っているのです。
小さい子供が大人で俺が一番偉いって言い合っている
大人たちの真ん中に小さい子供を置く。
真ん中って一番偉い場所なんです。
そこに小さい子供を置くという、
とても衝撃的な構図をここでイエス様は見せて、
そして言われました。3節、4節。
まことにあなた方に言います。
向きを変えて子供たちのようにならなければ
決して天の御国に入れません。
ですから誰でもこの子供のように自分を低くする人が
天の御国で一番偉いのですとここで言われる。
この御国に入れないというのは天国に行けないとか
そういう意味の言葉ではおそらくありません。
これはむしろ御国、神様の国の価値観という意味です。
神様の国の価値観、もっと言うならば
神様の価値観において子供から学ばなければ
あなたたちはふさわしい姿になれない。
共に生きる上で、神様が共に生きるということの上で
12:05
大事にしていることは子供の姿から
あなたたちは学ばなければならないということを
ここで言っているわけです。
弟子たちは真ん中に立たされている幼子をじっと直視していたでしょう。
悩んだと思います。
子供のようにって、じゃあ一体どういうことなんですか。
子供のようになれとは一体どういうことなのでしょうか。
この言葉は実にイメージ豊かで、いろんな言い方があります。
子供のように素直になれとかそういうことかもしれませんが
私は一つイメージ豊かだからこそ
私自身が教えられている子供のようにということを
少しお分かちをさせていただくならば
実はこういうことを私も経験をさせていただきました。
ある友人の家に夫婦で遊びに行ったんですね。
あゆら先生と二人で遊びに行って。
その家庭には子供が二人いるんですよ。
幼稚園になったお姉ちゃんと幼稚園に入る前の男の子がいて
上のお姉ちゃんはものすごくコミュニケーション能力豊かなんですよね。
遊びに行ったらゲームをバーンと出して
一緒に遊ぼうみたいなことをやってくれるわけです。
私はそれが嬉しくてよくそこでワーッと遊ぶんですけれども
二人目の男の子はまだ人見知り期といいますかね
お父さんが大好きなんですよ。
パパパパッと言って
お父さんが立っている足元の
足に隠れながらこうやって私たちを見るんですよ。
それが強い力でお父さんのズボンの裾を握っているということは
遠目で見てもわかるくらい
なんかシワがピーンとなっているんです。
そのくらい強く握ってチラチラチラって
こうやって手を振るとまた隠れるんですけれども
とてもかわいい光景ですけれども
私も今年36歳になりますけど
そういう光景を見ているとちょっと涙もろくて泣けてきてしまうというか
ちょっとありまして
何に感動するかというと
この小さい子は本当に疑わずに
自分のお父さんが自分を守ってくれると
信じているんだなということ
そしてこの小さな子どもは
本当に自分が怖いときに
ここを握ればいいという場所を知っているということです。
ここを私は握ればいいんだということを知っているということです。
その子を見ながら
子どものようにってこういうことかなと
考えさせられたことがあります。
それは子どもというのは
自分の弱さや限界を知っているんです。
子どもというのは自分の弱さや限界を知っている。
だからこそ私は誰かに守られ
15:00
誰かに助けられなければ生きていけないということを知っているということです。
子どもは自分の弱さや限界を知っている。
だからこそ誰かに助けられ守られなければ
生きていけないということを知っているということです。
それがおそらく子どものようにということではないかと
私は思わされるのです。
これは実は先ほど言っていた
弟子たちの生き方とは真逆ですね。
弟子たちは手を取り合うことなく
私はもっとできるんだ、私はこれができるんだということを
自分は一人でこういうことができるんだという
自分のことを比べ合っているわけです。
しかしイエス様が弟子たちに望んでおられたのはむしろ
そのように比べ合っている弟子たちの中で
一人でもいいから
いや私には限界があって弱さがあるから
あなたの助けが必要なんだ
あなたの助けが必要なんだ
そう言って相手に自分の手のひらを開くという
勇気を持ってほしかったんじゃないかなと思いました。
あなたの助けが私は必要なんだということです。
共に生きるということを考えるときに
私がよくイメージするのは何かと言いますと
手と手を握り合うということです。
手と手を誰かが握っていて
誰かが手のひらを開いていることを
握り合うということです。
でもそれは実は片方が閉じられていては
互いに握り合うことってできないわけですね。
牧師という職業から
人を助けなければならないときってあります。
誰から構わず助けてはならないとも思っています。
人生によってそれぞれを負うべき重荷というのがあるので
それを横取りしてはならないということを意識していますが
でもやっぱりこの人は誰かが助けなければまずいという人に
出会うときがあります。
そのときに私たちは何と言いますかね
何か私にできることないですか
何かさせていただけませんかというふうに
手を差し伸べるわけです。
そのときにそうですか
一緒に考えてくださいますかって
手をもしも握ってくれたら
それはどんな問題でも大概問題じゃないんですよ。
一緒にその問題に取り組んでいける
外部の機関を借りながらいろんなことをしながら
その問題に取り組んでいくことは可能なんです。
でも大丈夫ですかって手を差し伸べたときに
時々あるのは、いや大丈夫です。
いや大丈夫、私はこの問題を一人でどうにかできるので
先生大丈夫、私は大丈夫ですってことを言って
手をギュッて閉じられちゃうときがあるんです。
どう考えても働かないみたいに大丈夫じゃないんですよ。
18:02
大丈夫じゃないけど大丈夫だって言ってしまう。
そうなると私たちは
本当にあの人の手が開かれるまで
祈って待つしかないねっていうことを
思わされるときがあります。
でもともすれば私たちはみんな
ある種子どもから大人になっていくにつれて
自分の責任ですべてを解決できるように
ということを言われて育っていきます。
また人様に迷惑をかけないようにと
私たちは考えて生きていくところが
多分にあると思います。
それはある程度大事なことなんです。
大人になっていくってことは
多分そういうことなのかもしれない。
でもふと見落としてしまいがちなのは
そのような私たちの人生には時に
一人では抱えきれない問題が
降り注いでくるということです。
一人では抱えきれない問題に
出会うということがあるということです。
そしてそういうときに私は大丈夫です。
私は自分一人でそのことを解決ができますと
拳を握りしめて周囲に閉じて
一人でこのことをどうにかやりきろうとすることを
厳しい方かもしれませんが
私はそれが大人であるだとか
強い人間であるとは思いたくないんですね。
それは強さでも何でもない。
むしろ強さというのは
自分の限界や弱さに突き当たったときに
誰かの支えを求めて
手を開く勇気を持つことができる。
それこそが強さです。
これは実に勇気がいることなんです。
誰かに助けてくださいと手のひらを開いたときに
実は誰も助けてくれないということがあり得ますし
誰か助けてくださいと手を開いたときに
あなたはそんなことを一人でも処理できないんですかと
無能さをひけらかすみたいな
そういうことになるかもしれない。
実は手のひらを開くというのはものすごく勇気がいることです。
でもだからといって
そうやって手のひらを握り続けていたら
いつまでたっても人と共に生きるということはできない。
できないんですよ。
そして教会という場所なのであえて
少しお話をさせていただくならば
イエス様の言葉というのは明らかに
神様というお方
神の価値観の話をしていますから
神様の存在を意識しています。
教会や神様や何かを信じるということは
時に心の弱い人たちが
心の拠り所として信じるものなんだな
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というイメージが持たれがちです。
しかし私はそうではないのだと思います。
むしろ私たちの人生は
若造の私が語るのもなんですが
実に混沌としているんです。
荒波のように
次の瞬間何が起こるかがわからないという人生を
私たちは生きているんです。
その時に
おそらく自分の限界というものにどこかで出会い
限界がある私には
神様の助けが必要なんだ
そういうことに気づき
神様に向けて手の平を開いた
人たちがきっと
教会という場所に集っているんですよ。
私はそのような人々のことを
何か弱い人だというふうに
考えることはできないわけです。
牧師だからというのもあるかもしれませんが
しかしむしろそこには
本当の人としての
大切な強さといいますかね
そういうものがむしろそういうところに
隠されているのではないかと
私自身は思っています。
もう終わりますけれども
今朝一つご一緒に覚えたいこと
それは何かといいますと
手の平を開く勇気を
お互いに持たせていただきたいということです。
家族が
共に生きていくということを考えるときに
難しいなと思わされることがあるかもしれませんが
親と子が
そして夫と妻が
互いに手の平を開き合うということが
おそらく家族が共に生きるということ
なのではないでしょうか
それは家族の誰かだけが
よくありますが
私だけが頑張ればどうにかなるんだ
私もちょっと強いメンタリティーがあるんです
私だけがどうにか頑張ればいいんだ
というふうに思うことではないわけです
私がこれだけやっているのに
あの人はと比較をすることでもない
手を取り合うということは
共に生きるということです
私がこれだけやっているんだ
私はこれだけのことを気づいてきたんだ
という強さを競い合うことではありません
むしろ弱さを認め合い
限界を受け入れ
私はこんな人間なんだから
あなたに助けてほしい
そしてあなたが手の平を開いたときに
私は全力であなたを助ける
そのようなことを言い合える関係が
実は共に生きるということではないのでしょうか
弱さを認め限界を受け入れ
手の平を開く
それがまさにおそらく
子供のように自分を低くすること
と言えるのではないかと思っています
そしてイエス様は言われます
誰でもこの子供のように
24:01
自分を低くする人が
天の御国で一番偉いのですと
ここに集う私も含めてですけれども
家族の交わりが
温かなものとなりますようにと願います
それは簡単なことではないかもしれませんが
温かな家庭を目指してと言いますかね
それを築き上げる上で
一歩目を踏み出す勇気を
ご一緒に持たせていただくことができればと願っております
祝福をお祈りをいたします
一言お祈りをします
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