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アーメン
皆さん、おはようございます。
今日も礼拝にお越しいらっしゃいました。
今、またいの福音書を中心にして、イエス様のたとえ話、私たちの問いかけという題で、
今日5回目です。そして今日は、子どものようにというタイトルを付けさせていただきました。
先週少しお話ししましたように、4つの福音書、またいの福音書、丸子の福音書、ルカ、ヨハネの福音書、4つありますけれども、
その中で、このまたいの福音書のイエス様のたとえ話、そしてイエス様のお話の中心テーマは、
よく天の御国、神の国と言われるんですね。
このまたいの福音書を記録した記者、またいがユダヤ人ですし、そこでイエス様のさまざまな御業とお話を、
またいは天の御国、神の国というテーマを考えて書いたと思うんですよ。
それで今日の18章の1節4節のお話も、内容は皆さんよくご存知の話なんだけれども、
そこでイエス様はまた改めて、ここでもまた天の御国が出てくるんですね。
まず1節を見ると、その時弟子たちがイエスのところに来ていった。
それでは天の御国では誰が一番偉いのでしょうか。
ちょっと突然的な弟子たちのイエス様への質問なんですね。
この背景を今日理解するのが、今日のメッセージの中身を理解しやすいと思うんです。
自分ではないんですけれども、またいの御国書の16章には、イエス様と弟子たちがカイジャリアピリポのところに行かれて、
突然イエス様が弟子たちに、あなた方は私は誰だと思うのかと聞いたんですよ。
その時に誰が答えたんですか。ペテロさんがね。
あなたは神の子キリストですと立派な答えをしたんですよ。
それでイエス様がこの岩の上に私の許可を立てるとですね。
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そういうふうに他の11人の弟子から見ればペテロさんがめっちゃイエス様に褒められたわけなんですね。
そういうこともありましたし、また18章の1節だけちょっと見ましょうね。
そのペテロの立派な信仰告白がありました。
そして結構日数は経ったと思うんですね。
1節見るとですね、6日経ってイエスはその次ですよ。
誰々を連れて行きますかと見たら、ペテロ、ヤコブ、その兄弟ヨハネだけを連れて高い山に導いて行かれたとあるんですよ。
弟子は12人あるのに、イエス様はなぜかペテロ、あの立派な信仰告白をしたペテロさん、ヤコブさん、ヨハネさん、この3人だけ連れて高い山に登られて、
そこでイエス様のお姿がですね、神の栄光に満ちた太陽のように輝いてですね、
コロモンも光のように白くなったこのイエス様の変貌というね、その光景を3人だけ見たんですね。
そしたらですね、その中でこのマガタニオノクニシオの他のところを読みますとですね、
弟子たちはその中にこの見えるような見えない形で、この権力争いみたいなものがあったんです。
お互いに嫉妬をしてしまってですね、だからヤコブ、ヨハネのお母さんがね、
イエス様にですね、イエス様、あなたがね、もう王様になると、
私の息子2人を右腕、左腕にですね、長官にしてもらいましょうみたいにお願いしたことがあった。
もう弟子たちはですね、なぜイエス様はペテロさんだけ愛するんだろうと、
なぜヨハネさん、ヤコブさん、ペテロさん、3人だけ連れて行ったんだろうとね。
その中でですね、弟子たちはイエス様がこのイスラエルという国を通し越したら、もう王様になる。
そしたら自分たちはですね、官房長官みたいなね、長官のね、高いポストにもイエス様が仕下してくださるんじゃないかと。
でも住人もいるし、何度か自分がトップにならないといけないんじゃないかとね。
そんなふうに思って、心の中に争いが起きてしまったんです。
その時に弟子たちが、まだ天皇御国を誤解していたんですね。
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だから今日の一節の、なんか愚かな質問をしてしまったんです。
軍首ではないですね、弟子たちがね。
イエス様、天皇御国では誰が一番偉いんですか。
その次が書いてないね。まさかペテロさんじゃないですよね、みたいなね。
俺はダメですか、みたいなね。
上に立ちたい。人の上に立ちたい。
他の人からも偉い偉い、あなたは素晴らしい、今日も素晴らしいとね、褒められたい、認められたい。
そんな権力欲と言いましょうか、妬み、嫉妬。
それが弟子たちの心の中にですね、じわじわと起き始まったわけなんですよ。
だから今日の、誰が一番偉いのですかとね、聞いたんですね。
その弟子たちの姿を、心を、イエス様がわからないわけではないんですね。
全てご存知なんです。
そこで今日はイエス様が、それに対してどんなふうにお答えするんでしょうか。
2節ご覧ください。
そこでイエスは小さい子供を呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、
ちょうど道端だったと思うんですね、そこに子供がいたわけなんですね。
サイちゃんぐらいかもしれませんし、もっと小さいかもしれませんしね、
アルカちゃんぐらいかもしれません、わかりませんけど、小さな子供を呼び寄せて、
弟子たちとイエス様が真ん中に立たせてですね、何とおっしゃいましたか。
3節ご覧ください。
誠にあなた方に告げます。
特にここでのあなた方は、今誰が一番偉いんですかと言っている、
この争いが、妬みが起きている弟子たちなんですね。
あなた方も悔い改めて、子供たちのようにならない限り、
決して天皇御国には入れません。
だからこの子供のように自分を低くするものが、天皇御国で一番偉い人です。
これはですね、イエス様が、
しぐに天皇御国では誰が偉いのか、そんなのはないんですよ。
まだわからないのとね、そんな話じゃなくて、
ちょっとイエス様が変化球みたいで、直球みたいでね、子供に来てですね、悔い改めて、
子供たちのようにならない限り、決して天皇御国には入れませんよ。
自分を低くするものが天皇御国で一番偉いですよ。
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弟子たちはですね、もう半端で頭を流れたかというように、
今まではペテロさんが一番偉いんじゃないかと思っていたかもしれないんですね。
でもイエス様は、全く違った次元の話を、
自分を低くするものが一番偉いんだ。
実はこのイエス様のお答えは、弟子たちにはショックでした。
まだ書かれていないんですけど、とても恥ずかしかったと思うんですね、弟子たちは。
なんでイエス様をペテロさんだけ、ヨガネさんだけ愛するんだろう、引き合いするんじゃないの。
なんで3人だけ連れて行くの。
そう思って、もう妬みが燃えていて、争いが起ころうとしている、
そんな彼らの複雑な心の中が、まるでイエス様に全部わかられていった。
イエス様は悔いを改めて、自分を低くしなさいと語られたんですね。
皆さん、天皇御国、神の国の話をずっとしていますけれども、
神の国、国は、私たちが考えるこの世の中の国とは全く違う国なんですよね。
この世の中はどうでしょうか。力ある者が偉いんです。
素晴らしいことをたくさんした人が偉い人なんです。
あるいは、すごい良いことをたくさんして、金持ちであって成功して出世した人が、世の中の目から見れば偉い人なんです。
ところが、神の国はそうではない。
また、未国の民のライフスタイルも生き方もそんなものではない。
それを真似ではいけないという話なんですね。
そこでイエス様は、もう、妬みに争いに燃えていた弟子たちに、まず悔いを改めてと語られたんです。
皆さん、私たちが未国に入る、未国の民らしく生きる生き方の一つは、
自分がもし、私たちがこの弟子たちのように、何か争い、妬み、偏見、偉くなりたい、そういったところで傲慢になっている、
そういった心が少しでもあるならば、まず、未国の民として悔いを改めることが必要なんですね。
そこから、未国の民らしく生きる生き方がスタートするんです。
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そして、子どもたちのようにならない限りとおっしゃいましたけれども、子どもたちのようになることはどんなものでしょうか。
それは4節でイエス様が、とても短かったんですけれども、自分を低くすると教えてくださいました。
子どものようになることは、自分を低くすることです。
今日の例え、未国の民の生き方は何であるか。
誰が一番、もちろん未国ですね。偉いと、その次に偉いと、その次に偉いと、このランク付けがあるわけではないんですけれどもね。
神の心にかなった人は誰なのか、そういう表現がいいんじゃないかなと思いますね。
あまり順位を付けるのは、みんな嫌じゃないですか。
学生さんも学校でですね。
私が中学生、高校生からはなくなったんだけど、中学生の時にはですね、試験が終わったらですね、
クラスごとの順位が掲示板にジャーっと付けられるんですよ。
自分が何となのかはね、みんなわかるしね、恥ずかしいか偉いか欲しいかどっちかになるね。
そういうところがあったんですけど、未国はそんなところじゃないんですね。
だから順位があるわけじゃないんですよ。
誰が心にかなった、神の御心にかなったものなのかという意味で捉えてほしいんですけれども、
誰ですか。自分を低くするものです。
今日二つお話をしたいと思いますけれども、子供たちのようになること。
ここでですね、子供たちは清い、良い、だから良い人になろう。
善悪の善ですね。あるいは清い人になろうとね、そんなふうに捉えますが、
皆さん私たちが忘れてはいけないことがあります。
もちろん大人より子供は良い心を持っていると思うんですけれども、
アダムの依頼、アダムエヴァ依頼ですね。
人は生まれつき現在を持った罪人であります。
だから一律に大人は悪い、子供は良いとは言えないんです。
さあ、では先生もここでね、子供たちのようにと、そんな難しい話ではないですね。
まず一つ、自分を低くする。
つまり子供は相対的に大人よりは謙遜なんです。
自分を低くします。
大人はですね、何度か上に上がろうとするんです。
何とかして上に立とうとするんですね。
自分が知らなくても知っているふりをします。
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だから権力争いが起きたり、妬んだりするんです。
しかし大人と比べて、弟子たちと比べたら、小さい子供たちは、
子供は謙遜という言葉がちょっと似合わないかもしれませんけど、
謙遜なんです。自分を低くするんです。
知らなかったら知らない。
ねたみ、そねみ、権力争いなんてですね、大人ほどではない。
人の上に立とうとしない。
だからこの子供のように自分を低くするものが、天の御国で一番偉い人です。
この朝、イエス様が私たちに語っておられます。
自分を低くしなさい。
自分の心を低くしなさい。
自分の看板を低くしなさい。
自分の身も低くしなさい。
ここで一つの疑問が生じるんですよ。
どんなふうにどこまで低くしたらいいんですかという話。
それは、イエス様が十字架で死なれたほど、低くすることです。
神なるイエス様が人間になられたほど、自分を低くすることなんです。
それが私たちの模範なんです。
御国の民のライフスタイル、生き方、それは謙遜である。
どこまでの謙遜なのか。
イエス様のように十字架で死なれたほど、私たちを救うために罵られたほど、
馬小屋で生まれたほど、鞭打たれたほど、それほど低くされて、私たちに仕えてくださいました。
命を分け与えてくださいました。
そこまで自分を低くすることなんです。
だから、美しい信仰を持ったクリスチャンは謙遜なんです。
自己主張をする必要がないでしょう。
ただ、神に使え、兄弟姉妹たちに使え、神の御言葉に従う。
謙遜に心を低くして、主の教会に使えますね。
なぜでしょうか。
イエス様が自分を救うために、あの十字架で罵られ侮辱された、
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そこまで低くして使えてくださったことをよく知っているから、
そのイエス様の見せ方まで、見せられて変えられていきたいんだから、
自分を低くして歩むんですね。
私たちが夫婦の関係も、親子の関係も、兄弟姉妹たちの関係も、
このイエス様が十字架で死なれたほど、自分を心を低くすれば、
そこは本当に平和で平安で満ちると思いませんでしょうか。
そうでしょう。
ところが、どうですか、皆さん。
自分を低くすることはやりやすいですか、難しいですか。
難しい時もあるんじゃないですか、皆さん。
人は心の中にこの罪の性質があるから、
自分を低くするのが時にはなかなか難しいんです。
もう腹が立ってしまうんですね。
自分の思うままに何でもさせたいんです、したいんです。
上に立ちたいんです。
そういった欲があるんですね、人間には。
だから私たちは、この朝、今日の御言葉を覚えて、
あ、そうだ、天皇御国の民は自分を低くして生きるものなんだ、とね、
この御言葉を常に覚えて歩みたいんです。
十字架のイエス様にお会いした人ならば、決して高慢になることはないでしょう。
天皇御国は自分を低くする者たちの国なんです。
その人々によって称えられ、
その人々によって神が栄光を受け取る国なんですね。
2番目、子供たちのようにならない限り、
子供たちのようになることは自分を低くすると関係ある話なんだけれども、
もう少し詳しく言いますと、
子供たちは神様を完全に信頼すること、固くすがること、その様子を話すでしょう。
子供たちは小さければ小さいほど、親を全く信頼するんです。
例えば、パパが子供をこうしてこうして遊ぶでしょう。
そうされている子供が、パパが私を落としたらどうするんだろうって、
この人間は信頼できるんだなとか、そう思う子供はいないんじゃないですか。
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もう任せて遊ぶわけなんですよ。
もう完全に信頼しきっているんですね。
その様子だと思うんです。
私たちが神様を完全に信頼すること、
主は私のことすべて知っておられる、
私を裁かれることなく救ってくださる方である、
勝利を与えてくださる、御国に連れて行ってくださる、
守ってくださる、愛してくださる、
その神様を全く信頼をもって、
すがって、頼りにして、ついていくこと、そこなんですね。
だから、そういった意味として、本当に純粋で素直な心を持ちたいんです。
純粋で素直な心。
疑うんじゃなくてですね。
疑心をどうなんだろうなぁと、
そう言われても神様はそんな思いを持たないで、
神様の言葉であれば、主の御言葉であれば、
完全にもう信頼する、おまかせする、そこなんです。
ところがですね、大人になればなるほど、
信じやすいより疑いやすくなるかなと思うんですね。
疑うんです。あるいは、恐れるんですね。
心に恐れがあるんです。
人に対しても恐れがある人はいますし、
神様に対しても恐れるんですね。
御言葉は書かれていてもね、神様は恐れる。
信頼しない。
少しは信頼するんだけど、100%は信頼できない。
身体をもう、おまかせることがなかなかできない。
他の国として、イエス様がですね、
まず神の国と神の利を求めなさい。
そうすれば、これらのものは全て、そうやって与えられますよと言われても、
でもね、そう言われてもね、そういう意味でね、
でも病気があります。わかりますか。
何か言われてもですね、でもね、先生ね、
そう聖書が書かれていても、でもね、
でも、でも、それがでも病なんですよ。
よくあるんですよ、私たちは。
私たちはですね、正直に神の御言葉を100%信頼しきるものでありたいんだけれども、
疑うんですよ。
神の国を求めなさい。そうすれば全てのものは与えられる。
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その次にでもをつけてしまうところが、あれらにあるんじゃないですか。
それでですね、心配する、恐れる、疑う、ここがあるんですよ、私たちも。
そして自分なりに頑張って、自分なりに心配して、
自分なりに自分の人生を何とかやりくりしようとするところが我々にある。
恐れがある、心配がある、疑いがある。
そこをイエス様は今日、子供のようになりなさいということなんですね。
素直で神の御言葉を受け止めようではないでしょうか。
信仰をもって神の御言葉を受け止めようではないでしょうか。
神の言葉であれば100%全て信仰をもっていいんじゃないでしょうか、皆さん。
神様は私たちを滅びや不幸に導く方ではない。
私を祝福してくださる、私を癒してくださる、救ってくださって導いてくださる。
これを信頼することなんです。
しかし、たとえそうしてくださらなくても私は主の皆を崇めると、
それでも私は神様を信じる、信頼するという信仰をしたいんですね。
何を信頼するのでしょうか、2番目。
私はイエス様を救い主として信じている。私は救われた。
私は神の国の民である。
そしたら、民国で永遠に神を礼拝すること。
その確信を持つことなんですよ。
そこから切り落とされることはない。主に捨てられることはない。
私はもう確実に100%神の民なんだ、子供なんだという信仰を持って、
疑わずに、主を恐れるんじゃなくて、怖がるんじゃなくて、
主を喜んでついていきたいんですね。
3番目、何を信頼すればいいんでしょうか。
神様は本当に全知全能のお方である。
そして求める者たちの祈りを聞いてくださるし、答えてくださるし、
助けてくださるんだという、その確信を持つことなんですね。
だから祈ったらですね、皆さんが何か、きっと課題があって祈るんじゃないでしょうか。
癒しのために祈ったり、救いのために祈ったり、何かの問題の解決のために、
祈られるでしょう、皆さんね、普段。
そしたら、祈ったら、神様はこうしてくださることを信じますと、
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もう終止をつけて終わりたいんですよね。
イエス様の皆によって祈ります。
でもね、じゃなくて、分かりますか。
信頼する。この信頼を持つことが、子供のようになることなんです。
弟子たちはとても恥ずかしかったと思うんですよ。
国で一番になろうと思っていった。
私も偉いんだけど、なんでイエス様はベテランさんだけ子育てするんだろうな、みたいに思っていた弟子。
親もそこで加担してですね、言われた弟子たち。
まだイエス様とね、3年は経ってないと思うんですけれども、
この時点がね、大体1年から1年半ぐらい経っているかもしれません。
半分ぐらいはイエス様とずっと一緒に来たのに、まだ国のことが分からない。
だからこんな恥ずかしい質問をしたと思うんですけれども、
そんな彼らにイエス様は、彼らを責めることなく、自分を低くすることが、未国で偉い人ですよ。
そして子供のように、神を全く信頼を持つ人が、未国で偉い人で、神の心にかなった人ですよ、と弟子たちに教えてくださいました。
そのイエス様はこの朝も私たちに、あなたも心を低くしてください。
あなたも自分を低くしてください。
あなたも私を全く信頼してちょうだい、とイエス様は語っておられます。
皆さん、心の中に恐れがあるでしょうか、心配があるでしょうか。
食いしばって何とかやろうとする、自分なりの頑張りがあるでしょうか。
全て下ろして、子供のように、ママに抱っこされている赤ちゃんが、この世の中で一番幸せじゃないでしょうか。
そういう心を持って、神様に抱っこされたと思って、全てを委ねて、委ね切って、
心配もイエス様にも分けつけて、イエス様、あなたが私の代わりに心配してください、と。
そういうふうにして歩んでいきましょう。
そして主は、祈る者の祈りを必ず応えてくださる。
その革新を持って、どこまでも続いていきたいと思います。お祈りしましょう。