00:02
それでは一言お祈りをさせていただきます。
愛する天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
祈られたように、この梅雨の時期の、体が重たくなるこの季節の中で、
主が私たち一人一人を励ましてくださり、
その足を押し出して、今日もこのところへと招いてくださったこと、
あなたがこの場所にご臨在くださって、あなたの御言葉によって招かれ、
あなたの懐の中で今御言葉を聞こうとしていることを、心から感謝をいたします。
神様どうか、祈られたように私たちは日々様々な戦いがありますが、
この一時死を仰がせてください。
あなたが私たちのために、どれほどのものを与えて、
ご自身までも捧げてくださったのか、
その捧げてくださったあなたご自身の身体によって、
私たちが完全に罪許され、神のものとされ、神の子とされ、
それだけではなく、復活の命、永遠の命を与えてくださり、
今主と共に生きる、主の恵みの御支配の中に生きる、
そのような立場へと私たちを置いてくださったことを、
今一度深く覚えることができるよう、助け導いてください。
お願いいたします。
あなたは共におられます。
それは、ここに集えなくて集えない、
集えたくても集えないお一人一人も一緒です。
今施設におられる方々、
またCDにおいてまた音声を聞きながら礼拝を守っておられる方々、
その他にも思いがあってもこの場所に来れない方々、
思いが離れてしまっている方々もいらっしゃるでしょう。
主よ、お一人一人とあなたは共にいてくださいます。
あなたの御言葉を語りかけてください。
あなたはその場所で知り、
またあなたはあなたが私の人生におられるというその豊かさを
知ることができるよう、帰りに来てください。
お願いいたします。
御言葉を開いてください。
下部はここにおります。
主よどうかお語りくださいと、
あなたの声に聞くことができますように帰りに来てください。
お願いいたします。
これからの一時を御手に及だねをして、
イエス様の御名前によってお祈りをいたします。
アーメン
今朝は3週ぶりに、
主の祈りの言葉を聞いています。
今朝、御一緒に注目をしたいお祈りは、
私たちを試みに合わせないで、
悪からお救いくださいという、
この祈りの言葉です。
最近、とある学びの中で、
改めてビクトール・フランクルの
夜と霧という本を改めて生み返す機会がありました。
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皆さんもご存知かもしれません。
第二次世界大戦下のドイツの強制収容所、
フランクルはダハウ収容所というところに、
後で運ばれる方でした。
本当に強制収容所の光景というのは、
何と言いますか、近現代においては、
この世の悪が集約したような場所の一つであると、
そのように表現することができるでしょう。
私が持っている本の中には写真がいくつか載せられている、
そういう版を持っていまして、
改めて見ますと、そこには、
人間がまるで物であったり家畜であったり、
そのように処理されている写真があります。
人間の尊厳とは何か、
人間が人間に対して、
なぜこんなにまで残酷な仕打ちができるのだろうかと、
改めて見ながら思わされることがありました。
しかし、もっと驚かされるのは、
そのようなある種収容所で働く人々、
まさに貨物列車に運ばれた人々を、
労働家、ガス室家、まさにその命の選別をするような、
そしてまたガス室に運んで、
衣服や物を奪い、ガスのスイッチを押したあの職員たちは、
実は特別な人たちでは何でもなかったということです。
人格異常者でも鬼でも悪魔でも実はなかった。
彼らは死聖のドイツ人です。
収容所の近隣で実に普通の生活を営むドイツ人でした。
彼らはまるで朝、会社に出勤するかのように収容所に行き、
デスクワークをするかのように、家の掃除をするかのように、
何千人もの人を殺し、定常すぎると家に帰って、
家族と一緒に温かな食卓を囲む、
そういうことが実際になされていたわけです。
そういうものを見るときに思わされます。
人間とは一体何なんだろうか。
ただ、そういう深いテーマを答えることはできませんが、
ひとつ言えることは、この世界には悪が存在するということです。
それは人の心を捕らえてしまい、
人の中にあるすず醸造されてしまって、
人を人とは認められなくするような悪が存在するということです。
聖書の中に第一ペテロの五章の八節というところには、
こういう言葉がございます。
あなた方の敵である悪魔が吠えたける獅子のように、
誰かを食いつくそうと探し回っていると。
悪魔が獅子のように吠えたけて、この世界を迷っている。
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いろいろなところにいると。
私たちの近隣でも聞きますが、
なんであんな立派な人がと思わされることがあります。
なんであんな立派な人が、あんな素晴らしい働きをした先生が、
こういうことになってしまったんだろうというのは、
私界隈でもないわけではありません。
しかし私たちもまた、何と言いますか、
加害者であったり被害者になり得るという意味では、
実はここにいる私たち誰一人、
悪と無関係ではないということです。
悪とは無関係ではない。
だからこそ、今朝の祈りの言葉というのは、
必然的にと言いますか、
私たち全員に関わる祈りの言葉、
私たち全員が祈らなければならない言葉であると思います。
私たちを試みに合わせないで、
悪からお救いください。
今朝はこの祈りから、特に二つの言葉に注目をして、
ちょっとこの祈りの心を読んでいきたいと思うのです。
一つそれは、試みという言葉です。
試みとは何なのか。
そしてもう一つは、悪という言葉です。
悪とは一体何なのか。
順に見てまいりますが、
まず試みという言葉がここで使われております。
この試みという言葉は、
ギリシャ語ではペイラスモスという言葉でして、
意味は試みるという、そのままの意味があるのですけれども、
もう一つある言葉の意味は何かと言いますと、
誘惑するという言葉なのです。
みなさんも新京都予約聖書を読まれた方はわかるかもしれませんが、
新京都予約聖書でこの箇所は、
誘惑に合わせずと確か訳されているわけです。
読みながらその試みと誘惑って、
だいぶニュアンスが違うような言葉に聞こえますけれども、
実はこれは両方ともの意味が含まれている単語なんですね。
ペイラスモス。
つまりこの言葉自体が、人が何かに誘惑をされて、
それによって試みられるという、そのようなニュアンスの言葉なのです。
ではちょっとだけ踏み込んで、誘惑とは一体何なんでしょうか。
もう少しばかりここでは、ちょっとだけ話すならば、
人間が持っている欲望というものと、
誘惑というものをちょっと意味ある、
整理しないとここの箇所は混乱すると思うので、
ちょっとだけ整理をさせていただきますと、
聖書に書かれている言葉を見ていくならば、
人間の欲望というのは何ら否定されていません。
聖書は人間に対して禁欲的でありなさい、
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もしくは欲望全体を悪く見ているという、
そういう見られ方がされるところがありますが、
そうではないと思います。
確かに中世の修道院制度においては、
製品という文化がありますから、
そういうものはあるわけですけれども、
しかし聖書が、例えばですけれども、
人間が持っている欲求ですね。
例えば食欲だとか、睡眠欲だとか、
性欲というものがあるとしますし、
また綺麗なものが欲しいだとか、
どこかに行きたいだとか、
楽しいことがしたいだとか、
そういう人間の欲を、
聖書は別に悪いものとしては考えていません。
そう言えるのだと思います。
今朝、もう一箇所を開こうとして、
私も抜けていたのですが、
もう一箇所をお読みしたいのは、
創世紀の2章の15節から17節というところを
ちょっとお読みしたいと思います。
創世紀の2章の15節から17節というところ。
これは、エデンの神様が世界を創造されて、
エデンの園の中にアダムとエヴァを置かれたという、
神様のなされた技が書かれているところですが、
創世紀の2章の15節から17節というところを
ちょっとお読みしますと、こういうことが書いてあります。
神である主は人を連れてきて、
エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。
神である主は人に命じられた。
あなたはそのどの木からでも思いのままに食べてよい。
しかし善悪の知識の木からは食べてはならない。
その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬと言われています。
神様はアダムとエヴァにエデンの園を与え、
おいしい木の実のどれを食べてもいいと言われました。
エデンの園を存分に自由に楽しみなさいと、
それを楽しむためにあなた方にこの世界を置いたんだと言わんばかり。
それを置いているわけです。
ですからエデンの園を楽しむことはいいんですけれども、
ただ一つだけご存知の通り、
この楽しみや自由には条件があったわけです。
それは善悪と知識の木から取って食べてはならない。
取って食べると必ず死ぬから。
ここで書かれているのは何かと言いますと、限度はあるわけです。
超えてはいけないラインはあるんです。
でも超えてはいけないラインがあるけれども、
それを超えなければそこまでは楽しみなさいと言っているわけです。
聖書に共通する考え方だとも思いますが、
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自由というものがないわけではない。
神様は人に自由を与えられるんです。
でも健全な自由が守られるためには限度があるんです。
超えてはいけないラインがある。
そしてそれを超えたら死ぬわけです。
その言葉の通り、
著しく人間にとって大事な何かが損なわれてしまうというラインがあるわけです。
実家や立法もそういう形態をしているのだと思います。
そしてこれはおそらく人間の欲望においても同じなんですね。
欲自体は何ら悪いものではありません。
いいえ、人間は欲がなければむしろ健康に生きていくことなどできません。
ただし、健全な欲にもまだ限度があるということです。
超えてはいけないラインはある。
そしてその限度を超えてはいけないラインを超えるように、
超えて何かが起きてしまうように私たちを誘うのが誘惑なんですね。
そう考えていいのだと思います。
欲はいいものです。限度がある。
でもそれを超えるように超えるようにと私たちに誘惑をすることが誘惑というものです。
例えば私はこんな体型していてご存知かもしれませんが、
私はラーメンが大好きなんですね。
ラーメンを食べること自体は何ら罪でも何でもないわけですよね。
けれどもそれが好きすぎて、例えば野菜も食べずラーメンばかり食べているとなると、
次第に体調を崩すわけですよ。
でも体を壊してでもいいからラーメンを食べたい、
時々そういう気持ちにとられることがありますけれども、
ここまで来るともう危険なわけですよ。
何かが体に起き始めてくるということが例えばある。
神様が与えてくれた体という賜物を傷めてしまうということが例えばある。
例えば子どもを愛することはとても大事です。
でも子どもを愛しすぎていつしかそれが
過保護という方向に現れてしまう時があります。
過保護は子どものためにならない。
それは言えるのかもしれないけれども、
それを知りつつもそれをやめることができないとするならば、
例えばそれは子どものためではなくて、
私の中の何かを満たしたいがために
そうやってしまうということがもしかしたらあるのかもしれません。
それは誘惑と言えるのかもしれない。
私たちは神様を礼拝をします。
教会や礼拝というものはものすごく大切です。
しかしそれを大事にしすぎるあまり、
自分の家族の感情に目が行かずに
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私たちが礼拝に参加し続ける、熱心に参加し続ける、
熱心に神を信じ続けることを通して
家族を著しくもしも傷つけてしまっているとするのであれば、
どうなんでしょうね。イエス様はそれを望んでおられるんでしょうかね。
そうしたら教会や礼拝というものが
誘惑というところに変わってしまうということもまたあり得るわけ。
しかしそうわかっていても変えられない。
まさにそういう状態が私たちにとって誘惑にとらわれている
というところだと思うのです。
もうお気づきになられたかもしれません。
誘惑というものの特徴は何かと言いますと、
それぞれ動機は正しいんですよ。
それは何も否定されるべきではない。
おいしいご飯が食べたい、いいことです。
子供を愛したい、いいことです。
教会や礼拝や神様を第一にしたい、いいことです。
ただ、それぞれには超えてはいけない、
いや、超えたらちょっと立ち止まって考えなければいけないラインが存在する。
超え始めていくと何が崩れるかと言いますと、
神様を愛し、隣人を愛するという関係性、そのラインが傷つき始める。
それはイエス様の望むところでしょうかということを
私たちは常に考えなければならないのだと思うのです。
ヤコブの手紙の1章の13節から14節というところに
この誘惑について書かれている言葉があるので
ちょっとだけ読みしたいと思いますが、
ヤコブの手紙、聖書の後ろの方ですね。
ヤコブの手紙の1章の13節から14節というところに
こういう言葉があります。
ヤコブの手紙の1章の13節から14節。
誰でも誘惑されているとき、神に誘惑されていると言ってはいけません。
神は悪に誘惑されることのない方であり、
ご自分で誰かを誘惑することもありません。
人が誘惑に遭うのは、それぞれ自分の欲に惹かれ、
誘われるからですという言葉がございます。
イエス様は私たちに主の祈りを教えてくださいました。
何度もここまでに確認をしてきていますが、
主の祈りを祈るということは、
それは神様をこの地上において愛し、
そしてこの地上において神様の恵みの支配が表されるように
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隣人を、私自身を愛していく意味。
そのときにやっぱり私たちが対峙するのは誘惑というものなんですね。
そこに対峙するときに何かが壊れ始めるのは、
まさにそれは神と隣人との関係だと思います。
そのところ私たちは少し互いに問われなければならないのかもしれません。
神のご支配を築くために主はこの祈りを教えられました。
誘惑に合わせないでくださいと、
そのことを少し覚えたいと思っております。
さてもう一つの言葉を見ていきたいと思いますが、
もう一つの言葉は何かと言いますと、悪です。
悪。
祈りの後半は、悪からお救いくださいという言葉です。
悪という言葉は、ギリシャ語ではこれはポネロスという言葉です。
悪という言葉の意味は、
単に悪いだとか、本来的に邪悪であるだとか、
そういう表現がなされるのですけれども、
神学者によればこういう表現、こういう説明がなされています。
悪、それは良心が圧迫されている状態だという、
そういう説明のなされ方がなされていました。
悪、それは良心が圧迫されている状態である。
つまり前半とつなげるとこういうことかもしれません。
私たちがもし誘惑をされて、超えてはいけないラインを超え続けるならば、
そのときに私たちの良心が徐々に圧迫をされ、
良心が麻痺をしていくという状態になるということです。
悪、これも何か嫌な例え話ですが、しかしちょっとだけさせていただきますと、
例えば私たちに嫌いな人がいたとします。
嫌いとその人自身に感情的に感じてしまうということは即罪なのかというと、
ちょっと私は考えなきゃいけないと思いますが、
でもそれ自体が何か大きな問題ではないでしょう。
生きていれば嫌いな人は例えば出てくるということはあるのだと思います。
しかしその人がどんなに嫌いであったとしても、
その人を傷つけ始めたりだとか、いじめたりだとかはしてはいけないわけです。
それは何かの限度を超えている。
そのため、どこかではその人を傷つけてしまった、いじめてしまったというときに、
心が痛む、これは神様の前に罪だと思って、
まだ心が痛んで悔いを改めることができるならいいんですけれども、
しかし誘惑に身を任せて止まれなくなっていくときに、
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そのまま嫌々と思いながら身を任せ続けていくときに、
誰がではないですが、そうやってとらわれていく人は、
もしかしたら人を傷つけること、いじめることに対して、
歪んだ喜びを覚え始めていくわけです。
まさに良心が麻痺し始める。止められなくなる。
相手への痛みで想像力が失せてしまい、
相手が人間ではなくて家畜か者かに見えてしまう。
そういうことが起こり得るのだと思います。
そして最悪の場合、命が失われる。
何度も申しますが、これはニュースでもそういうことを見て、
私自身も思わされるんですが、こういうことをしてしまう人は、
生まれながらの鬼でも悪魔でもありません。
そういう傾向がある人は確かに認められるかもしれない。
でもそこに映っている人たちは、私たちと何か根本的に違うのかといったら、
実はそうでもないところがある。
ごく普通の、それは私たちのような人が、
そういうことがあってしまうということがあるのかもしれない。
悪とはそういうことなんです。
つまりいたずらに、誘惑に身を置き続け、良心が麻痺し、
神との関係、人との関係、自分自身との関係を
著しく傷つけ続けてしまう。
そしてその生産さすらも自覚ができず、破滅の道を後戻りできない。
ある先生が、悪という言葉を説明するときに、こうおっしゃいました。
悪とは、誘惑に陥る状況が状態化していることである。
誘惑を自覚しながら、いたずらにそれを遊ばせるならば、
先ほどのエデンのその名話でいうならば、
神様はいたるところに良いものがあって、
それを楽しみなさいと言ってくれているのだけれども、
誘惑があるわけです。
善悪と知識の実は目に見て麗しく、美味しそうに見えるわけです。
その近くで遊びたくなるんですよ。
でもその近くで遊んでいると、その善悪と知識の実はあまりにも美味しそうだから、
それを食べずにいるという選択は、実はとても難しくなっていく。
誘惑のそばで遊び続けるなら、
実はそれが悪につながっていくということが言えるのかもしれません。
そして、悪が怖いのは、それが危険であることすら自覚ができない。
そういうふうになっていくということです。
まさに吠えたける獅子のような悪魔が、
誰かを、もしかしたら私を飲み込んでしまうということになるのかもしれない。
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イエス様は私たちに、私たちを悪からお救いくださいと、祈りなさいと教えられました。
悪のことを考えれば、それは私たち自身の悪のことを考えてもそうですが、
もしもそれがあるとするならば、
どこまでも解決の糸口が見えない問題に見えてきてしまうということがあるかもしれません。
しかし、イエス様は法祈りを教えてくださったわけです。
試みや悪については、あなたたちは神に祈りなさいということです。
試みや悪についてあなたが陥っているならば、それはまず神に祈りなさいということです。
先ほど、近現代において、悪の集約の場所が強制収容所にあると、
ちょっと私はそういう言い方をさせていただきましたが、
そうであるならば、実は聖書の世界における悪の集約の場所というのは一体どこにあったのでしょうか。
それはゴルゴダの丘です。
十字架の場面です。
以前もお話したかもしれませんが、イエス様が十字架に架かられた場面というのは、
悪があそこに醸造されているというか、あそこに濁りきってたまっているというか、
そういう光景です。
裏切り、嘲笑、殺人、あらゆる歯止めのきかない悪がイエス・キリストの十字架に付け立て、
あの場面に表されていきます。
キリストを傷つけ、釘付けにしました、悪が。
しかしイエス様は、この世界の悪をまさにその身に一身に負い、
その世界の悪によって十字架に釘付けにされて、しかしそれに復活なさいました。
それは聖書で言うならば、キリストは悪に復活によって勝利をしたということを言うわけです。
ただ、私自身は復活もそうですけれども、
あのルカの場面を見るときにつくつく思わされるのは、
イエス様は悪に沈み込んだ人々、悪そのものになってしまった人間に向かい、
こう言われたわけです。
父よ、彼らをお許しください。
彼らは自らが何をしているのかわからないでいるのです。
悪にとらわれ、自分が何をしているのかもうそれすら自覚ができない、
神をその手によって十字架につけている、そのことすら気づくことのできない、
悪になった人たち。
イエス様はその人たちを見つめて言われたんです。
父よ、彼らをお許しください。
それは、あの十字架の上で神の子であるイエス様の愛の宣言。
27:06
愛の宣言というのは、この世界中の悪がどれほど集約し、
いやその人そのものが悪になってしまったとしても、
神はその人へ愛を宣言することをやめないということです。
そういうことを言っているわけです。
あなたが悪そのものになってしまったとしても、
神はそのものへの愛の宣言をやめることをしない、
やめることができないということを言っているわけです。
それが十字架が証していることではないでしょうか。
最後に一つお証をしても、今日はお話を終わりたいと思いますが、
一つお話をして終わりたいと思います。
皆さんは、鎮道達也先生という牧師先生のことをご存知でしょうか。
この方はもともと暴力団員をなさっていて、
出所した後、刑務所の中でイエス様にお出会いして、
出た後に牧師訓練校に行かれて、そこで牧師になられたという方です。
お母さんがやっていたスナックを改造して教会にして、
今はちょっと場所が変わったそうですけれども、
自分と同じように暴力団にとらわれていて、
でも救われた人たちを受け止めながら、
後世のサポートをしているという、そういう働きをなさっています。
そういう先生がいるんですけれども、ちょっと話は変わりますが、
昨年九州のホテルで、元暴力団員の男の人が、
自分の子供を3人殺害し、自らも無理刑事を図るという事件がありました。
しかし男性は、その男性自身は自殺未遂に終わって、
お子さん3人だけの命が奪われた、妻は離婚して離れていたそうです。
その殺人の罪で、その男性は裁判にかけられます。
しんどう先生は、この男性側の証人として立っておられるそうです。
子供を殺めてしまったその男性の出処後の後世、
暴力団から出た時の出処後の後世に、しんどう先生が関わっておられたそうです。
その男性は、両親に育児放棄をされ育ち、若くして暴力団に入り、
出処後もしんどう先生の教会に行きましたが、
教会にかつての高層相手の組員もいたそうで、教会でよく乱闘があったそうです。
結果、それを注意すると、へそを曲げて教会から出て行ってしまった。
出て行った後も、お金がなくなったらやって来て、
家族の葬儀があるからだとか何とか言って、お金をもらって、
絶対返すからと言って、一度も返しに来なかった。
そのような温身不通の状態が続いていて、ある時、事件で見たら、
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彼が自分の子供3人の命を奪っていたという、そういう事件にあった。
男性は妻に逃げられていましたから、
でも、しんどう先生は奥様を連れて男性の留置場に会いに行ったそうです。
男性は潮水しきっていて、もう生きていたくない。
死刑にしてほしいということを言っている。
世間的に見れば、幼い命3人を奪った。
それはもう死刑に処するしかないという話になるのかもしれません。
しかし、しんどう先生は彼をかばい続けるんですね。
男性をかばい続ける。
そして、この男性がしたことが決して許されることだ。
そんな簡単なことだというわけではない。
許されるべきことではないということは、従々承知しながらも、
しんどう先生が言うのは、
罪を償うということは死ぬことでは何も解決がしないということです。
罪を償うということは死ぬことで解決はしない。
しんどう先生は手紙でこう訴えて送っているそうです。
ちょっと言葉がぶっきらぼうで申し訳ないんですが、
お前死んでこのまま天に行って、
子どもと顔を合わせてお前は一体何て言うんだ。
何も変わっていないお前を見て、
子どもたちはお前が罪を償ったと思うのか。
罪を償うというのは、お前が変わるしかないんだ。
死んで罪が償えると思うな。
生きていれば必ずお前は変われるんだ。
俺はお前を見捨てない。
俺と一緒にやろう。
そう手紙を送られるそうです。
なんと厳しく、そしてなんと優しい言葉かなと私自身は思わされます。
この記事を私は見ながら、
私は神様がもしも目の前にいたら、
きっと同じことを言うのではないかなと私は思わされます。
そしてきっと神様なら何度でも、
いや俺はお前のところに来て、
俺はそこから一緒に歩いてやるよと、
神様はそう言われるのではないかなと私はそう思わされて。
何度も申し上げますが、
欲望と誘惑を正しく理解しなければならないのだと思います。
この世界を喜び楽しみましょう。
そのために神様は与えてくださいました。
今日は梅雨ですけれども、天気が晴れたらおいしいものを食べて、
気持ちよく外で遊びに行ったらいいのだと思います。
それはとても大事なことです。
しかし時に人は誘惑に誘われて失敗をしてしまうという事実もある。
人間には限界があり、人間は人間であるじょう、
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必ず失敗をします。私はそう思っています。
私たちは時に誘惑に誘われ、
いや悪に陥るということもあり得る。
しかし今朝覚えていただきたいのは、
キリストは悪に勝利されたということです。
今なおキリストは生きておられて、
悪に勝利し続けることができるということです。
そしてなおもキリストはあなたへの愛を宣言される。
そこから一緒に俺とやろうと言われる。
だから私たちはそのところで跪くわけです。
私たちは主が教える祈りをまさに神様にすがるように祈ります。
私たちを試みに合わせないで、
悪からお救いくださいと。
どうか主よこの者を憐れんでください。
神様ただ私を救ってくださいと、
私たちはそこで祈らされる。
そしてその祈りは聞かれるわけです。
主がそう祈れと教えておられるわけですから。
主にあって人は終わることがありません。
主にあって人は終わることがありません。
どんな悪に囚われていたとしても、
どんなにそこからどうしようもなくなっていたとしても、
私たちが関わる人でも、
あの人は自分の悪にすらも自覚できなくなったねという、
そういう人がいたとしても、
主にあってその人は決して終わらない。
それはあなたへの神様の愛が終わっていないように、
神様の愛というのはその人においても終わっていないから。
自らの誘惑に気づき、自らの悪に嘆いたそのところから、
私たちは悔い改め、主の支えによって方向転換が、
私たちはいつでもできるのです。
私たちの現実の中に主の助けを求めさせていただきましょう。
まさにすがりつつ、祈りつつ、
私たちを試みに合わせないで、
悪からお救いくださいと一言お祈りをしてメッセージを終わります。