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御着席ください。聖書朗読をしていただきます。
聖書の箇所は、「マルコの福音書16章1節から7節まで」です。
新訳の102ページです。
和尚兄弟、よろしくお願いいたします。
マルコの福音書16章1節から読みます。
さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。
そして、主の始めの日の早朝、日が昇った時、墓に着いた。
あの女たちは、母の墓の入口から、あの石を転がしてくれる人が誰かいるでしょうか、と皆で話し合っていた。
ところが、目を上げてみると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでに転がしてあった。
それで、墓の中に入ったところ、真っ白な長い衣をまとった青年が右側に座っているのが見えた。
彼女たちは驚いた。
青年は言った。驚いてはいけません。
あなた方は十字架につけられたナザレジンイエスを探しているのでしょう。
あの方はよみがえられました。
ここにはおられません。
ご覧なさい。
ここがあの方の納められたところです。
ですから言って、お弟子たちとペテロにイエスはあなた方より先にガリラ屋へ行かれます。
前に言われたとおり、そこでお会いできますと、そう言いなさい。
以上でございます。
それでは聖火隊に聖火171万を賛美していただき、その後、主は今生きておられると題して、本庁のメッセージをいただきます。
聖火171万を賛美していただき、その後、主は今生きておられると題して、本庁のメッセージをいただきます。
03:23
聖火171万を賛美していただき、その後、主は今生きておられると題して、本庁のメッセージをいただきます。
聖火171万を賛美していただき、その後、主は今生きておられると題して、本庁のメッセージをいただきます。
イースターおめでとうございます。
06:00
今日も御言葉をいただく時が来ました。
今日の聖書を飲み言葉をいただく前に一言お祈りをさせていただきます。
事実、キリストは眠っている者の初歩として、死人の中からよみがえったのである。
恵み深い天の父なる神様、こうして今日もまた聖霊の導きにより、この礼拝堂へと集うことができたことを感謝をいたします。
特に今日は主のよみがえりをお祝いするイースターの時、本当に幸いな時を迎えることができたことを感謝をいたします。
主はよみがえられたと今日も御言葉を通してあなたが語ってくださることを待ち望んでいます。
そしてまた私たちもそれをしっかりと受け止めて、また主から力をいただき、そして恵みと祝福をもってここから出ていくことができますように、どうぞ導いてください。
この礼拝の主であられるお方が最後までこの礼拝の主として伴って最後までお導きくださるようお願いいたします。
また前に飾られていますように、私たちの信仰の先輩、方々が先に主のもとに行かれましたけれども、そのことも覚えつつ、またその信仰に倣って、私たちもまたこれから信仰をいただいて、主と共に歩むその日々をあいませていただけるように、この礼拝を祝福してください。
また続きます聖三式の上にも、どうぞ主が臨んでくださることを信じて委ねます。また午後には墓前礼拝もございますけれども、どうぞそのプログラムを思うあなたが伴って祝福してくださることを信じてお委ねいたしております。
また御言葉を持ってあなたが私たちに慰めと励まし、そして力を与えてくださって、ここからそれぞれにお使わしくださるように日々困難がありますけれども、どうぞ私たちのより頼むべき御言葉を持って、それぞれが力強く大しく歩んでいくことができるように、主をどうぞ助けてください。
今日事情があって、あるいは弱さを覚えてここに来れなかった兄弟姉妹方のことも覚えますが、主がどうぞそれぞれに行き巡ってくださることをお願いいたします。
今からのひととき、どうぞ主がお導きくださるように、また語る者をも哀れみ支えてくださることをお願いいたします。今からのひととき、御手に委ねて主キリストの皆によってお祈りいたします。
09:11
アーメン。今朝誰もいないこの礼拝堂に来まして、来ましてというか降りて来まして、そして最初に感じたことは、いい匂いがするなということですね。そしてこの百合の花を見て、今年もイースターの時が来たんだな、そういう本当に感慨深い思いをしたわけであります。
ですから今日本当に改めて主の復活を皆さんとともにお祝いできることを心から感謝を申し上げますし、またこのとき日本中の教会、あるいは世界中の教会がこのイースターのお祝いをしている、礼拝を捧げているということ、これも私たちは覚えておく必要があろうかと思うんですね。
同じ主を信じて同じ主のよみがえで祝う者たちが私たちだけではない、日本中にたくさんいる、いや世界中にたくさんたくさんいるんだということ。そしてそういう人たちとともにこの主を信じて助け合い支え合い祈り合いながら生きていくんだ。
そして私たちの先輩、信仰の先輩方、既に主のもとに帰られた、その先輩方が残してくださったその遺産、信仰の遺産を私たちもそれを受け継ぎ、そしてまた次の世代に引き継いでいく、そういうことをも幸いかなと思うんです。
私たちは毎週この週の始めの日に教会に来て礼拝を捧げています。それは聖書にありますように週の始めの日に主がよみがえられたというところから来ているわけです。
ですから、もし主イエス様がよみがえられなかったならば、週の始めに、いや私たちは永遠に礼拝することはないわけであります。これまでもなかったわけであります。
礼拝がないということは、礼拝をする民がいないということですね。礼拝をする民がいないということはすなわち、それは教会が存在しないということ。
言い換えますならば、教会があるということは、そこに主のよみがえりがあったからということ。教会の寄って立つところ、それは主のよみがえりにあるんだということを、私たちは今日改めてそれを覚えて、主の皆を崇めたいと思います。
12:12
私たちはすでに先週、この受難集というのを覚えて過ごしたわけですが、イエス様の短い御生涯でありましたけれども、それは神様の国を伝えて、そして人々に生きる喜び、あるいは力をお与えなさったわけですね。
多くの民がそのことによって、生きる望みを与えられ、そして力を与えられた。その主イエス様が十字架にかけられて死なれたということ、そのことを私たちは覚えたわけですね。
この十字架の死ということ、それは間違いなく私たち人間を罪から救うためになされた神の愛の業であったということ。もうこのことは、私たちは神様にいくら感謝してもしきれないほどの恵みであったということ。そのことを覚えたわけであります。
しかし、その望みの主イエス様、頼みの綱であるその主が死んでしまったということ。そのことを、ある者はそれを喜んだでしょうけれども、多くの人たちは、もうこれで終わりか。
あの主が十字架で死なれた。そして墓に葬られてしまった。もう万事休す。これで終わりなのだ。私たちの望みも継いえたのだ。誰しもがそう思ったのも当然でありましょう。
特に弟子たちは、もうがっかり。どれほど落胆したでしょうか。おそらくもう何も手がつかない。あるいはふぬけのような、もう呆然とするような、そういう状態ではなかっただろうかと想像するわけです。
そして私たちは今日、マルコの福音書の十六章を開いて、先ほども読んでいただきました。
15:00
どの福音書にも書かれてある。このような大きな大きな失望の中でも、毅然としていたのは、婦人たちであったということ。おそらく婦人たちも本当に意気消沈し、どうして主は死なれたのか悲しみの中にあったでしょう。
しかし、気を取り戻して、取り直して、日が明けると同時に、彼女たちは香料、あるいは香油を持って墓に向かったというんですね。せめてイエス様のお体に香油を塗ってあげたい。そう思うと、もういてもたってもいられない。そういうことが書かれてあるんです。
聖書の四つの福音書の主のよみがえりの記事の最初に登場するのが、このご婦人方であるということ。ですからイースターには欠かせない存在。それがご婦人方。
ですからどこの教会でも、おそらくそうだと思います。イースターの準備のためにご婦人方が活躍なさって働いておられる姿を私は見ましたし、主御自身がそれを見ておられて本当に喜んでおられる。そんなことを思うわけですね。
ところが墓に向かったその婦人たち。彼女たちには一つの大きな課題があった。それもここに書かれてあるわけです。三節で彼女たちは、墓の入り口からあの石を転がしてくれる人が誰かいるでしょうかと皆で話し合っていた。
イエス様のお体に紅葉を塗ってあげたい。そういう思いもありながらも、でもあの墓の入り口には大きな大きな重い重い石が封印されている。そのことを思うとどうしたら墓に入ってイエス様のお体に紅葉を塗ることができるだろうか。
いやーダメなんじゃないだろうか。行くのはいいけれどもどうしたら入れるだろうか。あの墓の入り口にあるその封印の石を転がしてくれるような人が誰かいるだろうか。いやーいないだろうな。そんなことを思いながら彼女たちは墓に向かっていったということ。
大きな石が封印として置かれていたということ。この石の封印というものは何を意味しているのか。それは私たちが、婦人たちがそうであったように私たちがイエス様に何とか近づこう。イエス様のところに行こうとするそういう思いに妨げとして封印がなされている。
18:24
それも重い大きな石であるということ。そんなことを思うときに私たちが神様を信じたい。でもなかなかそれを信じることのできない人もあろうかと思うんですね。
あるいはそれを妨げるようなものが自分の心にあるそういう人もいるでしょう。かつての自分がそうであったように。それは私の中にある大きな石の封印のようなそういう思いがします。
自分は愛を持って人々に接したい。でもそれができずにいる。何か自分の中に大きなイエス様に近づいてその愛をいただこうとしているそういうものを妨げてしまう。そういう大きな石の封印。
自分の魂を用いて何とか主に喜んでいただきたいという思いがありながらも自分の中にまだまだ重い石の封印が乗っかっていて一歩踏み出せない。みんな私たちをイエス様から遠ざけようとする。近づけないようにしようとする。
そういう妨げがあるならばそれはこの大きな重い石の封印ではないだろうか。そんなふうに思うわけです。
婦人たちはイエス様に近づきそしてイエス様のところに行って香油を塗りたいと思いながらそこには大きな妨げとしての石の封印がそこにあったということ。
四節に行きますときにところがとあります。ところが目を上げてみるとあれほど大きな石だったのにその石がすでに転がしてあった。目を上げてみると石はすでに転がしてあったというんです。
あの大きな重い石それは人の力では転がせない。何人も何人もかかっておそらく兵士たちがあるいは墓の番人たちが転がしたんでしょう。その石が転がしてあって墓の入口がぽっかり開いていた。
21:03
誰かが何人もかかってそんなことをしたということは考えられない。そんなことをしているということも聞いていないし誰もそんなことを見た人がいない。
なのに石がすでに転がしてあった。これは神の宮座としか言いようがない。そういうことを彼女たちはここで見たわけです。
イーサーというのはここにあります。目を上げるとき目を天に向けるときそれがイーサーである。そしてイーサーとは私たちが自分ではどうしようもできないそういう出来事。そしてどうしたらいいんだろうかというような心配ばかりしている。
そういうところに神様が先回りしてすでにその問題を解決してくださっている。そういうことを知るときである。目を上げてみると目を天に向けてみると私たちの心配事思いはずらい。
そういうものはすでに神様が解決してくださってその思い大きな意思も取り除けてくださっている。それをもう一度私たちに思い起こさせてくださるときそれがイーサーである。
そのことを私たちは覚えてこの全知全能の神にまた委ねていくその信仰が養われていくんだ。おそらく夫人たちも自分たちが心配していたことどうなるんだろうか。
そんなところにもうすでに石が転がしてあったというそのことを見たときにやはり神は素晴らしいお方素晴らしい力のある方この方はすごいお方なんだということを改めて思ったことでありましょう。
これで墓に入ってイエス様に紅油を塗ってあげることができる。そう思って中に入りました。そこで彼女たちは大変驚いたということがここに書かれてあります。
4節で彼女たちは驚いた。この驚きはもうびっくり業点ひっくり返るようなそういう驚きであったということです。2つの理由で彼女たちは驚いたわけです。
1つはその墓の中に真っ白な長い衣をまとった青年が右側に座っているのが見えた。このことに驚きました。なぜ墓の中にこんな青年がいるんだろう。
24:11
この青年というのはマタイやルカあるいはヨハネの福音書では密会と書いてあります。密会がどうしてこんなところにいるんだろうか。そのことに彼女たちは驚いたわけです。
そしてもう一つの驚き。それはそれ以上の驚き。それがこの密会が言った言葉に彼女たちは驚いたんです。
6節。驚いてはいけません。あなた方は十字架につけられたナザレジンイエスを探しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。
あの方はシュウイエス様はよみがえられました。これを聞いたときに彼女たちは大変大変驚いたわけです。びっくりしたわけです。
確かにシュウイエス様は十字架にかかって死なれた。そのことを彼女たちは見ましたしそれは間違いのないこと。
それなのにこの密会があの方はよみがえられましたと言ったのです。主は死んではいなかったと言ってはいないんです。
主は確かに十字架で死なれ、そして息絶えて墓に葬られた。しかしその死からよみがえって今生きておられるのですとそのように言ったんです。
そしてもうここにはおられません。あなた方も見なさい。ほらシュウイエス様のお体はここにはないでしょう。なぜならよみがえってここにはおられないからです。
もう墓にいる必要はないからですとこの密会が言ったわけです。その密会の言葉に彼女たちはもうびっくり行天、大変驚いたということ。そのことがここに書いてあるわけです。
発説のところにもこのように書いています。彼女たちは墓を出てそこから逃げ去った。すっかり震え上がって気も動転していた。こんな驚きを彼女たちはびっくりして、そして震え上がって気も動転するほどびっくりしたということ。驚いたということ。
27:02
しかしマタイの福音書ではこのように書いてあります。彼女たちは恐ろしくはあったが大喜びで急いで墓を離れ弟子たちに知らせに走っていった。
もちろんこの密会の言葉に彼女たちは驚きびっくりしたのですが、同時に大変喜んだ。あの朱家様がよみがえりなさった。そして今生きておられるんだというその言葉に喜びとともに走って墓から出ていったということ。そのことが書いてあるわけです。
私たちこのイースターを迎えてこの聖書の言葉を読んでいくときに一つのことを示されることがあります。私たちはかつて自分自身を振り返ってみてもそうです。
あれほどまでに聖書の言葉に、聖書の言葉それは神の言葉、その言葉に植えかわき、そして御言葉を呼ぶために感動し、そして時には涙を流し、そして力をいただいて、そして励まされて教会を出た。
そして日々の生活の中でいつもその御言葉が私の支えであり慰めであった。しかしそういう私であったそのものが3年、5年、10年、15年、20年していくうちに、あの言葉に、聖書のお言葉に感動しなくなっている自分に気づくときがあります。
私たちはもう一度取り戻したいと思うんですね。
彼女たちがこの見つかりの言葉にこれほどびっくりして、あれほど感動し、そして喜んだその思い、かつての自分もそうであった。
あの頃の自分にもう一度戻ることができるならばそうしていただきたい。
聖書のお言葉にもう一度感動できる。そしてこのお言葉にすがって、そしていつも主のお言葉が、たとえそれが見つかりの言葉であっても、聖書のお言葉として私たちに日々の生活の中に迫ってくるほどのそのような関わりをこれからももう一度持たせていただきたい。
そう願うわけです。
彼女たちは震え上がり、そして気も動転するほどの衝撃を受けて、そして恐ろしくあったが喜びのうちにその墓を出ていったということ。
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これがイースターの朝の出来事であった。それはこの二千年来変わらず私たちが守ってきたイースターの礼拝でありますし、日々の信仰の生活の原点であるわけです。
夫人たちは大喜びで出ていった。ですからイースターというのは喜びのとき、主のよみがえりを喜び祝うときである。ですから私たちはハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤと賛美するわけですね。
夫人たちのその主はよみがえられたと密会が言っていた。そして自分たちが言ったけれども、確かに主のお体はなかった。それは主はよみがえられたからだと信じた夫人たちはそれを弟子たちに伝えた。
やがて弟子たちもこのことを信じて、そしてこのよみがえりの主を伝えるために全世界に出ていったというわけであります。
このよみがえりの主は私たちが最も恐れる死を打ち破った。死に打ち勝ったお方である。そして信じる者に永遠の命の保障となってくださった。
私たちは聖書に書かれてあることを読み、そしてそれを聞く。しかしそれは何人もできることですが、そこから二手に分かれるわけです。
それを聞き、主はよみがえられた。そして聖書にもそのように書かれてある。それを知って、そしてそのまま生きていくのか。しかしそうではなく、私たちはそれを信じて、そしてこの主のよみがえりを私の主として生きていくのか。
そこで大きく二手に分かれていくわけです。
私はいつも自分自身もそう思うし、人々にも言うんですが、私たちが今こうしていることは宗教というものではないと思うんです。
私は皆さんに知ってほしいのは、私たちが聖書を読み、そして信仰に預かって生きるということですね。私たちは生き方を聖書から学んでいるのだ。そして信仰というものを私たちの生涯の柱に据えて、そして生きていくのだ。
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ですから私たちはイエス様から、あるいは聖書から生き方を教えていただいている。どう生きていくのか。何を頼りに生きていくのか。そのことをこのイースターでも教えられるわけです。
主のよみがえりを信じて生きていくのか。あるいはそれはただ聖書が書いてある文字として見ていくのか。そのことによってその人の生涯は変わっていくわけです。生き方が変わっていくということ。そのことを私たちはもう一度このイースターでも覚えたいと思うんです。
そして主が十字架にかかられる前に既におっしゃっていたあの言葉を思い出す。それがまたイースターの時であろうかと思うんです。主はこう言われた。私はよみがえりです。命です。私を信じる者は死んでも生きるのです。
この言葉をもう一度私の支えの言葉として。そして私たちが永遠の命に向かっていくその力の言葉としてこれを覚えたいと思います。お祈りをして聖三式をいただきましょう。
あの方はよみがえられました。ここにはおられません。天皇神様、今日イースターの礼拝の中においてくださることを心から感謝をいたします。主はよみがえって今も私たちとともに生きておられるということ。
このよみがえりの主をこれからも信じて歩んでいくことができるように私たちを支えてください。そしてどんな大きな重い石のような困難があってもそれを取り抜けてくださることのできるこの復活の主により頼んで生きていくことができるように。
そしてこのよみがえりの主を多くの人々に伝えることができるように私たちをも用いてください。教会の上に大いなる祝福がありますように。イエス様の尊い皆によってお祈りをいたします。アーメン。