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2025-08-31 26:04

2025/08/31:神はあなたがたのうちに働いてくださいます

2025/08/31 聖日礼拝

仁科共子師

ピリピ人への手紙 2:1-18



サマリー

教区の講談交換礼拝が行われ、フィリピンの教会に宛てたパウロの手紙の内容を通じて、イエス・キリストの教えや信仰の大切さが語られています。また、信者が一つになって歩むことの重要性が強調され、神様の働きについても述べられています。 このエピソードでは、神が人々の内に働きかけることや、聖書に基づく信仰の確認について語られています。さらに、パウロやテモテ、エパフロディトのような同働者の存在が、教会としての使命を果たす上で重要であることも述べられています。

礼拝の開始
皆様、おはようございます。
一年に一度ですが、教区の講談交換礼拝ということで、
僕たちがそれぞれ他の教会にお尋ねをし、
御言葉の恵みを分かち合うということがなされています。
今日は、私もこの名谷教会にお使わしいただいて、
皆様と一緒に礼拝を捧げることができる恵みを感謝しております。
お祈りをいたします。
私たちを愛し、愛の御手をもって、私たちを守り、
日々導いていてくださる神様、
こうして、誠実を迎えることができ、
今日は特に、教区の講談交換の礼拝として、
旬にある交わりを深めるような礼拝を捧げることのできる、
この時を感謝をいたします。
名谷教会のお一人お一人の歩みを、
あなたが日々守り、導いておられることを信じ、
皆を崇めます。
また今日も、私たちにあなたの御言葉の恵みを与え、
新しく始まるこの一週間を御言葉の恵みによって支えられ、
またあなたを見上げて、あなたと共に歩むことのできる、
この時を感謝をいたします。
お一人お一人のうちに御言葉の悟りを与え、
あなたからの語りかけを受け取ることができるように、
あなたが導いてください。
イエス・キリストの皆によってお祈りをいたします。
アームン
フィリピン教会の状況
私たちは聖書からいつもいろいろなことを教えられ、
日々の歩みを導かれていると思います。
そして、新約聖書の中には手紙がいくつかあります。
パウロが書いた手紙が一番多いのですが、
そこにはイエス様を信じて教会が各地に建て上げられるようになって、
そこに集められたイエス様を信じる人たちが、
どのように生きていったらいいのか、
生活していったらいいのかということが教えられていると思います。
最初の頃の教会にはいろいろな問題がありました。
教会がどういうものかということが、
まだはっきりと形作られていないような時に、
イエス・キリストの体である教会とパウロは言いましたが、
そのような教会として作り上げられ、成長し、
イエス様の業のために使えるということがなされてきました。
今私たちは同じように伝えられ、
信じた人たちからまた伝えられ、
地域を越え、時代を越えて同じ恵みに預かり、
同じように与えられたこの場所で教会として、
イエス様の体として結び合わされ、成長し、
主の業に使えているということができます。
今日はその手紙の中の一つ、
パウロがフィリピンの教会の人たちにあてた手紙から、
同じように恵みをいただきたいと導かれています。
今までにもお聞きになったことがあると思いますが、
フィリピンの教会がどのようであったかという背景を
少し復習してみたいと思います。
パウロがフィリピンに行ってイエス様のことを伝えたのは、
第二回目の伝道旅行の時だったと、
イエス様の働き16章に書かれています。
そしてそのところで、パウロはまずリリアという
上人の女性と会い、その人たちにイエス様のことを伝え、
信じて、そしてそこからパウロがそのところで
イエス様を伝えるということが始められました。
その中には、もう皆さんもすぐに思い出せるお話ですが、
ローにとらえられた時に、そのローでカンシュと
彼の家族がイエス様を信じるようになるという
神様の恵みの噂がなされていきました。
そこからフィリピンにイエス様を信じる人たちが増えていき、
教会が立ち上げられていた。
いくつかの手紙の中で、特にパウロが手紙を送った教会には、
最初の頃の教会ですから、
どうやってその時代、その社会の中で、
イエス様を信じる生活をしていくかということが
はっきりとわからなくて迷ったり、
それ以前の習慣や考え方にとらわれたりということがありました。
ですから、それでいったり、あるいは
ふさわしくない行いをするということが起こってきたわけです。
パウロはその一つ一つの地域の教会、
また起こっている問題を取り上げて、
彼らがイエス様を信じるものにふさわしい生活をするようにと教えてきました。
その手紙の中で、このフィリピンの人たちにあてた手紙は
少し違っているんですね。
問題を指摘し、それを戒め、このようにしなさいという
そういう内容はあまり記されていません。
それよりも感謝とあらわし、
喜びをともにしてくださいという言葉が
繰り返し語られています。
今読んでいただいた2章のところ、最初には
ですからという接続詞で始まっています。
それはその前の1章で書かれている
パウロが語ったことを受けて
ですからあなたたちはこのようにしてくださいと進めていくわけです。
1章の最後の26節だけをちょっと見てみると
かつて私について見て、今また私について聞いているのと同じ苦闘を
あなた方は経験しているのですとあります。
イエス様を信じる人たちがその時代、社会の中で
理解されなかったり受け入れられなかったり
また時にはその信じる信仰を反対されたり
妨げられたりということが起こってきていました。
パウロはそのような中で他の弟子たちとともに
イエス様を述べ伝えていったわけですが
信じた人たちも同じようにその時代の社会や
そこに生きる人たちとの摩擦やすれ違い
信仰の戦いと言ってもいいようなことが起こってきたわけです。
パウロが苦闘しながらイエス様の技を
イエス様を伝えることをしていたように
イエス様を信じたフィリピンの教会の人たちも
同じような苦しみ、戦いがあるということを
パウロは取り上げています。
神の働き
けれどもそのような苦しみの中にあって
あなた方はこのようにしなさいと進めていくんですね。
2章の2節
あなた方は同じ思いとなり
同じ愛の心を持ち
心を合わせ思いを一つにして
私の喜びを満たしてください。
パウロがここで私の喜びを満たしてくださいと言ったのは
フィリピンの神徒の人たちが
パウロの働き、パウロのなすことを
いつも覚えて祈り
そして様々なものを持って支えていたということがあるからです。
それはパウロにとって慰めとなり喜びでした。
さらにあなた方が同じ思いとなり
同じ愛の心を持ち
心を合わせ思いを一つにしていくとき
私の喜びはさらに豊かになり
満たされていくと言っているんですね。
パウロがこのように語ったことを見るとき
フィリピンの教会の中にも
一つになれないような
一致できないような出来事があったのではないかと考えられます。
けれどもパウロはそのことを厳しく咎めてはいません。
それよりも
同じ思いを同じ愛の心を持ちなさいと進めているんですね。
そしてあなた方の間に愛の慰めが
キリストにあって励ましがあり
愛の慰めがあり
御霊の交わりがあり
愛情と憐れみがあるならとまず語っています。
それが大切なことであり
あなた方はそうしていると思うけれども
これからもそのようにして歩みなさいということを
彼は進めているんですね。
そして減り下って
他の人を自分よりも優れた人と思いなさいということを進めます。
それが思いを一つにし
愛を一つにして
心を合わせていくために
大切なことだからです。
そしてこれらのことを語って
パウロはキリストイエスの内にあるこの思いを
あなた方の間でも抱きなさいとあります。
それは
減り下って
謙遜に
自分のことだけではなく
他の人たちのことを変えりみる
そういう思い
そういう心ですね。
以前の他の訳では
キリストの心を心としなさいという訳が
使われています。
イエス・キリストの心を自分の心として
共に
信仰の歩みを歩んでいく
そのような生き方をしなさいと言うんですね。
そしてそれを抱きなさいとありますから
持っていなさいということですし
一人一人が持っているというだけではなく
あなた方の間でもとありますから
互いにそのような思いで
互いを思いやりながら
心を合わせていきなさいと
勧めているんですね。
そしてここでパウロは
イエス様がどのように
歩まれたかということを取り上げていきます。
キリストは神の見姿であられるのに
神としての在り方を捨てられないとは考えず
ご自分を虚しくして
下辺の姿をとり
人間と同じようになられました。
人としての姿をもって現れ
自らを低くして死にまで
それも十字架の死にまで従われました。
イエス様が人としてこの世に生きてくださり
従われたのは父なる神様です。
神様の願われること
ご計画されたことに従い
人としてこの地上で
その使命を果たされた
全うされたということを
パウロは言っているんですね。
神であられたのに
神としての形
その姿を離れて
人間の姿をとり
人間として生きてくださった。
以前私が読んだ本の中には
これをイエス・キリストの
自己否定という表現がありました。
でもよく考えてみると
イエス様は決して
人として生きられた自分を
否定しているわけではないと思うんですね。
それは否定しているという言葉を使おうとするなら
神であることをやめて
そこを離れて
人として生きてくださった
ということを言っていると思います。
そのようなイエス様と同じように
同じ思いで
この地上にあって
イエス様を信じるものとして
生活しなさいということを
パウロは勧めているんですね。
そしてそのように
喧騒に減り下って
神ではなく人として
この地上に生きてくださった
イエス様
私たちの身代わりとして
その命を捧げられ
私たちが
神様のもとに
生きることのできる
永遠の命を与えるために
死んで復活してくださった
そのイエス様を
信なる神様は
栄光を与え
人々が褒めたたえるように
されたと言うんですね。
このイエス様の姿を述べて
こういうわけですから
愛する者たち
あなた方がいつも従順であったように
私が共にいるときだけでなく
私がいない今は
なおさら従順になり
恐れおののいて
自分の救いを達成するように
努めなさいと進めます。
パオロが一緒にいたり
教えたりしているときは
ああそうなんだと
いつも覚えていましめられ
またその道を
正しい生活を歩むことが
できたのだと思います。
けれどもパオロはずっと
一緒にいたわけではありません。
一緒にいない今は
なおさらこの神様に
信頼してイエス様のように
その思いを持っていきなさい
ということを
勧めているんですね。
そして彼は
このことを行わせてくださるのは
神様だと言いました。
私たちも
この聖書の言葉を読むとき
教えられるとき
ああそうだな、そういう約束があるんだな
その通りにしていけばいいんだな
と思うんですね。
でも実際に
毎日の生活の中で
何がどれだけできるかということを
考えてみると
なかなかそううまくはいかない
と思う毎日ではないでしょうか。
パオロは
あなた方自身が
そのことを心にとめ
働かせる必要はあるけれども
自分が努力して
それを達成するのではない
ということを続いて
語っていきます。
13節に神は
御心のままにあなた方の
うちに働いて
志を立てさせ
ことを行わせてくださる
方です。神様が
このことをしてくださる
神の働きかけ
志を立てるという
この表現ですが
口語訳では願いを起こさせ
という表現になっています。
また
聖書教会の教導訳では
御心のままに望ませ
と神様の
願われるように
あなた方に思い
願いを与えてくださると
言うんですね。そして
それを実現に至らせて
くださる、行わせて
くださるのは神様だと
言うんですね。
私たちがどんなに努力しても
できるものではないけれども
神様は私たちに
働きかけて
神様の
願われる通りに生きたい
生きようとする思いを
与えてくださって
それを実現させて
くださる、行うことが
できるようにしてくださると
教えているんです。
私たちは今どんな風に
この神様の恵みを
いただいている
でしょうか。毎日
イエス様のことを思い
聖書の言葉を通して
イエス様がどんな
風に生きられたか
その姿に思いをあて
また神様は
私の心の内に
どんな思いを与えて
くださっているのだろうかと
日々思い巡らしていく
そういう
時間が大切だと思うんですね。
そして
そのように生きていく
あなた方は
傷のない神の子供となって
世の光として
同働者の存在
輝くとパウロは
言いました。
パウロがそう思っていただけではなく
神様がそのようにして
くださっているという信仰の
確信を持って
フィリピンの人たちを教えたんですね。
イエス様の
思いを持って
イエス様と同じ心で生きていく
今お読みしませんでしたが
その18節からの
後の2章の
後半のところに
パウロはイエス様の
思いを持って生きていく
イエス様に仕える人たちを
二人挙げています。
一人はテモテです。
パウロは
テモテをあなた方のところに
贈ろうと思います。
それはパウロが行くことができないので
私の代わりに
テモテを使わせますと
テモテは
私と同じ心になって
真実にあなた方のことを
心配している
そういう人だと言うんですね。
パウロは行けないけれども
パウロと同じ心で
フィリピンの人たちを心配している
そのテモテを
あなた方のところに贈りますと
言いました。
またフィリピンの人たちは
テモテがこの任に
ふさわしい人
あなた方の働きをするのに
ふさわしい人だということを
知っているはずだと
パウロは言っています。
さらにパウロにとって
このテモテは
子が父に使えるように
私とともに福音のために
奉仕してきましたと
パウロとともに働く人
同働者という言葉を
使うことがありますが
パウロと一緒に働く
キリストの心を持っている
人だと言うんですね。
もう一人パウロが名前を挙げたのは
エパフロディトという人です。
彼に対して
パウロは
私の兄弟、同働者、
戦友
あなた方の使者で
私の必要に仕えてくれた
このエパフロディトという人は
フィリピンの教会にいた人ですが
フィリピンの教会が
献金を持ってパウロの働きを
支えようとしたとき
この手紙を届けたということが
この手紙の中で分かります。
そしてこの人は
フィリピンの教会の人たちのことを思い
パウロとともに働き
そして
フィリピンの教会の人たちに
使えるために
命の危険を犯したような
忠実な人だと
パウロは言っているんですね。
教会の使命
そして
この手紙を読んでいくと
分かるのですが
フィリピンの教会の人たちみんなが
パウロとともに
イエス様の働きに
使える同働者と言えるということです。
教会全体が
パウロとともに働き
イエスキリストの
述べ伝えられ
信じる人たちが
起こされるように
共に祈り
パウロを支え
というのが言えます。
主のために働く
教会として与えられた
使命を果たすというのは
一人ではできないことです。
パウロの伝道旅行にも
この時はシラスという
同伴者、相棒と
言っていいでしょうか、いました。
またそれぞれのところで
一緒に
使える人たちがいて
その旅行、伝道を支えてきました。
また一緒には
何もしないけれども
祈りと献金を持って
あるいは時には人を使わせて
支えてきた人たちがいます。
いろいろな
能力、いろいろな
背景を持った人たちが
心を一つにして
パウロとともに
宣教の働きに
仕えていたというんですね。
けれども
私たちはいろいろ自分とは
違う人たちと心を
支えるというのは難しいことだ
というのも現実の中で
感じていると思うんですね。
私は
先ほど紹介していただいたように
クリスタンの
NPOで地域
開発のために
働いていた時期があります。
その働きは
世界中からいろいろな専門家の
人たちが集まって
専門的な技術や知識を
必要としている
地域を助ける
支援するという働きでした。
世界の各地から
クリスタンの専門家が
集まってきます。
みんなイエス様のことを
思い、そして
イエス様に使えるように
自分に与えられた知識を
技術を必要とする人に
使えようとして
集まってきました。
長期に1年、2年と
加わる人もいましたし
その時々のトレーニングに応じて
1週間、2週間、
1ヶ月というふうに
加わってくる人もいました。
そういう短い期間が
多さかけて
加わってくる人たち
その人たちと長期にいる人たちが
一つのチームとなって
いろいろな専門技術の
働きを支援していくんですけれども
それまで会ったこともない人
ただクリスタンであって
このような働きに
神様が使わせてくださるという
信仰を持って
加わってきた人たちです。
クリスタンだからといって
どんな人とも
うまくやっていけるとは限りません。
時には
専門職が
同じだと言っても
国によって
システムが違ったり
やり方が違ったりということがあります。
それを自分は
これがいいんだと主張するだけではなく
お互いのことを
話し合い
それぞれに与えられた
知識や技術をどのようにして
協力し
使っていったら
その土地の人たちの役に立つか
ということを考えていくんです。
短いトレーニングが
終わった後に
現地の人たちから何度も言われたことは
あなたたちは本当に
今まで知らない人だったんですか?
もう何年も前から
一緒に働いていた人たちのようです。
という風に言われるんです。
それは
一人一人
自分の専門技術は
神様から与えられたという信仰とともに
他の人たちも
同じように
導かれて
私たちは今、協力をして
この地の必要に
応えるんだという
謙遜な
お互いを大切に思う
心で協力していくときに
それまで会ったこともない
一緒に仕事を
したこともない人たちが
一つの本当に
心のつながったチームとして
働くことができるんです。
私たちは教会にあって
もちろん教会で
導かれて長い方も
また短い期間である方も
おられるかもしれません。
けれども、私たちに
与えられているイエス様による
命の恵み
神様から
与えられる愛は
変わらないんです。
この時代もそうであったように
今の私たちも
キリストに会って励まし
愛の慰めを与え
御霊の交わりをもって
愛情と
憐れみのある生活をする。
そうして
同じ思いとなり
同じ愛の心を持ち
心を合わせ
思いを一つにして
教会に与えられている
使命を果たさせていただきたい
と願います。
そしてそのことを
させてくださるのは神様だ
ということを
大切なこととして
忘れないようにして
自分で頑張る、あるいは他の人を
知った激励するというのではなくて
お互いの
違いを大切な
神様が与えられた
賜物の違いだ
経験の違いだと受け止めて
互いを理解し
支え合うことに
目を向けていきたいと思います。
私たちのうちに
精霊が与えられており
精霊を通して
神様の御心を知り
御心にかなう歩みを
させてくださる
その神様を
御理解して歩みたいと願います。
お祈りをいたします。
26:04

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