少し目を向けれたらと思っています。
さて、今日は死式の2章を読んでいただきましたが、
少し死式の始まりから確認をしていきますと、
先ほども申し上げました、これはヨシワ紀の続きです。
ヨシワ紀の最後というのは、
イスラエルの民がカナンの地を占領していくという話の中で、
晩年のヨシワの演説で終わった、そのようなものでしたけれども、
この死式で言うならば、
1章の例えば8節から書いている言葉、
このネゲブに進むだとか、デビルを占領するというのは、
これはヨシワ紀15章の内容がまんま記されています。
これは言わば、
イスラエルの民が順調にカナンを占領しているときの歴史が最初に描かれるのです。
見覚えがあるかと思います。
カレブの義理の息子のオテニエルがデビルという町を占領して、
そしてカレブの娘アクサが妻に与えられて泉を得たという話。
ヨシワ紀の15章、カレブの話をしたときに少しそこに触れました。
ただですね、死式はこのように順調であった歴史から、
少しずつほころびが生まれてきますよということが1章で描かれるのです。
それが1章の16節以降ですけれども、徐々にほころびが生まれてきます。
それは、カナンの地から彼らを追い払えなかったとか、追い払わなかったとか、
その土地に住み続けたという言葉で表現されていきます。
追い払えなかった、占領できなかったという言葉が、
16節以上はそれぞれの種族の占領のことが書かれているのですが、
例えばですね、17節以降をお読みしますと、こういうことが書いています。
ユダの兄弟シメオンと一緒に行って、サファテに住んでいたカナン人を討ち、
それを成立しその町にホルマという名を付けた。
ユダはガザとその地域、アシケロンとその地域、エクロンとその地域を攻め取った。
ユダと共におられたので、ユダは産地を占領した。
しかし、平地の住民は鉄の戦車を持っていたので、ユダは彼らを追い払えなかった。
追い払えなかったということが書かれていますね。
27節もちょっと読みましょうか。
マナフェはベテシアンとそこに属する村々、ターナクとそこに属する村々、
ドルの住民とそれに属する村々、イブレアムの住民とそれに属する村々、
メギドの住民とそれに属する村々は占領しなかった。
それでカナン人はその土地に住み続けたということが書いてあります。
追い払えなかった、占領できなかったというのには様々な理由があります。
鉄器を敵が持っていた。これ大きい問題なんですけどね。
鉄というのは当時最新兵器ですから、最新兵器を持っていたから占領できなかった。
確かにそうかもしれません。
相手が攻撃的だったから、いろんな事情がここにはありますが、
ただ問題は何かというと、そういうことを理由にして、
彼らが徐々に神様の言葉から離れていったということです。
徐々に離れていったんですね。
そもそもカナンの地に入るときに、神様がイスラエルの民に言った言葉がありました。
ちょっとだけ確認をさせてください。
神明記の7章の1節から6節というところにそのことが書かれています。
神明記の7章の1節から6節。神明記7章の1節から6節というところですね。
お読みいたしますと、旧約聖書の327ページの上の段にありますが、
神明記7章の1節からお読みしますと、こう書いています。
あなた方は入っていって所有しようとしている地に、
あなたの神主があなた方を導き入れるとき、
主はあなたよりも数多くまた強い七つの違法の民、
すなわちヒッタイト人、ギルカシ人、アモリ人、カナン人、ペリシ人、ヒビ人、およびエブス人はあなたの前から追い払われる。
あなたの神主が彼らをあなたに渡し、あなたがこれを討つとき、
あなたは彼らを必ず清拙しなければならない。
彼らと何の契約も結んではならない。
また彼らに憐れみを示してはならない。
また彼らと隕石関係に入ってはならない。
あなたの娘をその息子に討つがせたり、その娘をあなたの息子の妻としたりしてはならない。
というのは、彼らはあなたの息子を私から引き離し、他の神々に仕えさせ、
こうして主の怒りがあなた方に向かって燃え上がって、あなたを直ちに根絶やしにするからである。
むしろ彼らに対してこのようにしなければならない。
彼らの祭壇を打ち壊し、石の柱を打ち砕き、彼らのあしら像を切り倒し、彼らの彫像を火で焼かなければならない。
あなたはあなたの神、主の聖なる神だからである。
あなたの神、主は地の表のあらゆる民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされている。
言われていますのは、必ず清拙しなさいということ。
この命令は実に残酷ですね。
どう見ても残酷です。
ただ、神様は喜んで清拙を命令されているのかと言ったら、そうではない。
大切な目的があるということも確認いたしました。
それは、イスラエルの民にとって危険なものを立たなければならない。
彼らの最大の危険は、このカナンの人々と交わるときに、
彼らが他の神々に使えるという偶像崇拝が起こるという危険性ですね。
そのことを神様はとても警戒されていました。
カナンの文化、価値観が流入すれば、民はすぐ偶像崇拝に陥る、そのことが目に見えていた。
これはしっかり申し上げておかなければならないのは、
これは、イスラエルの民を祝福の基とするという、神様のご計画があってなされている特別な命令です。
私はカナンの地をあなたに与えるという契約を私は破らなかった。
しかしあなた方は私の声に聞き従わなかった。
そのようなことが起きている。
そして今やそれによって入ってくる偶像というものが、
あなた方にとって今後大きな足枷というか罠になるということをここで言うのです。
思います。
なぜこのように順調にイスラエルの民は主に従ってきたのに、
こういうほころびが徐々に生まれてきてしまったのでしょうか。
そのことの原因は2章の7節に書いてあります。
2章の7節。
ヨシュアがいた間、また主がイスラエルのために行われた全ての大いなる業を見て、
ヨシュアより長生きした長老たちがいた間、民は主に仕えたというのです。
民がこれまで主に仕えてきたのは、
主に従う人たち、もしくは主に従いなさいと励ます人たちがいたから主に従ってきたということが明らかになった。
でもそれはちょっと厳しいことをするならば、
人を見て自分の信仰を立てているということでしょうね。
人を見ている信仰と言えるのかもしれません。
ヨシュア紀の最後にヨシアはこのことを警戒してはっきり言いました。
私と私の家は主に使える。
他の誰が何と言おうとも私が死んでも、
あなた方はあなた方の責任で主に従わなければならない。
主に従うというのは一人一人の応答ですね。
そのようにヨシアは迫りましたが、しかしその迫りは届かなかったということがこの2章の7節に書いてあるのです。
そして2章のこの6節から、今日読んでいただきましたが、この18節にかけては、
この後、詩式の中で何度も何度も繰り返される詩式のパターンについて書かれています。
簡単に見ていきますと、一個一個見ませんが、4つの段階があるのです。
第一に民は、指導者がいなくなると民は主の目の前に悪を行う。
自分たちを導いてくれる指導者がいなくなったら、すぐに彼らは神様を捨てる。
それが一つ目のパターンです。
そして第二に起こることは、それを見て主が怒られるということです。
主の怒りというのは、主が直接何か手を下すということじゃないです。
2章の3節に書いてある通り、主が敵を追い払わなくなるということです。
守らなくなるということです。
主の守りがなければ、イスラエルは弱いのです。
だから主がその手を引かれると、彼らは諸外国の圧力に苦しみ始める。
そして第三に起こることは、彼らが叫び声を上げるということです。
聖書の箇所だけ言っていきますと、叫び声を上げるというのは、
2章の14節、15節にそういうことが書いてある。
彼らを大いに苦しんだ。
叫び声を上げる、苦しんだというのは、とにかく助けを求めるということです。
悔やあらためるということではないです。
彼らはとにかく叫ぶ。主を助けてください。
そして第四に起きることは、その叫びを聞いた神様は、
民に憐れみの心を動かして、今日の18節にお読みしました。
2章の18節。
主が彼らのために裁きつかさを起こした時、主は裁きつかさと共におられ、
その裁きつかさが生きている間、彼らを敵の手から救われた。
これは圧迫し、支えたげる者を前にして彼らが憂いたので、
主が憐れまれたからであると。
神様は憐れみの心を動かして裁きつかさを起こし、民を救い出されます。
裁きつかさというのは戦いの指導者ですね。
憐れみの心というのは何かというと、想像していただいたらいいんですけど、
子供の苦しみを見て、いてもたってもいられない親の気持ちだと思っていただいたらいいです。
子供が苦しむ姿を見て、いてもたってもいられない親の気持ちだと思っていただいたらいいです。
イスラエルが苦しむんです。
苦しむ子供を見た時に、突き放す方法もあるかもしれませんが、
やはりどうにかしてこの子を助けたいという思いは、私たちも抱くことでしょう。
どうして放っておけるだろうか。
神様はイスラエルがどんな状況にあっても、どんな窮地からでも、その叫びを聞いたら救い出されるんですね。
神様はイスラエルをご自身の子供として愛しておられるからです。
これは今もそうかなと思います。
余談ですが、イスラエルのために祈るということを大事にしているキリスト兄弟団という教団がございます。
その先生の話を最近聞いた時に、私たちは今でもイスラエルのために祈っていると。
でも最近のイスラエルの行動は、主の目にかなうものだと到底思えない。
思うことは、ただ主が彼らのうちに働きかけて、彼らが主の喜ばれる選択をすることを願っていますと言っていました。
そういうことを私たちも願わずにはいられません。
さて、このパターンがあるんです。
いわば、サバキツカサが死んだ後、民は目の前に悪を行う。
主が怒り、敵の手に渡される。民が叫び声を上げる。
神様はサバキツカサを送ってイスラエルを救う。
でもサバキツカサが死んだ後、また民は主の目に悪を行うという、このじゅんぐりのパターンがこの詩式に描かれています。
しかも、19節に書いてありますが、サバキツカサが死ぬと彼らは戻って、先祖たちよりも一層堕落したと書いています。
一層堕落したということは、前のパターンよりもだんだん悪くなっていくということです。
下り螺旋状にだんだん状況が悪化していく。
悔いを改めたとしても、もっともっと悪くなっていくというのが、実は詩式の描かれ方です。
詩式イデオンとサムソンという人物を順に見ていくと、それがよくわかります。
だんだん悪化していって、詩式の最後に描かれるのは、イスラエルの民から完全に立法が失われた姿です。
神を愛し隣人を愛するという姿が、完全に崩壊した世界が詩式の最後に描かれます。
さて、説明が少し長くなりましたが、そのような負の連鎖を描く詩式なんですが、
読みつつ、私自身にいたたまれなくなる気持ちがします。
なぜなら、詩式に描かれるこのパターンというのは、一言ではないなと思うからです。
私自身のうちにあるなと思うからです。
私たちもそうかもしれません。
もうしないと願いながら、何度も同じ過ちを繰り返してしまうということが、私たちはあります。
ここがダメなんだとわかっていて、これを変えなければとわかっているんだけれども、なかなか変われない自分がいます。
そういう自分にがっかりすることもありますね。
そして、私は本当にダメなんだという自責から逃れられなくなるということもあるでしょう。
けれども、私は今朝この詩式を見るときに、そういう人間の現実だけじゃなくて、
そういう人間を神様はどのように見ておられるかということをやはり覚えなければならない。
2つ言えると思います。
1つ。そのような人間を見ながら、神様はそれでもご自身の哀れみを変えられないということです。
これは大事なことです。
神様の哀れみは変わらないということです。
哀れみというのは何か、先ほど申し上げましたが、それは子供の苦しみを見ていてもたってもいられない親の気持ちです。
簡単に言うとそういうことです。
先に申し上げますと、イスラエルの民はこの詩式の中で何度も同じ過ちを繰り返します。
それはもっともっとひどくなっていきます。
でも、よくよく読んでいくときに思うことは、神様はそれでもその民に対する哀れみは変わらない。
痛むんですよ。神様はものすごくそのことを痛むんです。
痛むし、もうこの人たちを滅ぼしてしまいたいということまでに、神様は痛むんです。
痛むけれども、最後までその哀れみを手放されないんですね。
痛みながら、けれどもその哀れみは最後までも尽きない。
私たちもそうなんですけれども、私たちはそれぞれ悪い方向にはいつでも変わり得るわけです。
そして自分の悪いところは変わりたいと思いながら変えられない罪人であるということはそういうことかもしれません。
その中でそういう自分に悲しむ私たちがいますが、
けれども、神様の哀れみというのは、そういう私たちの現実を見て腹渡が揺さぶられるということです。
放っておけないということです。
そういう中で悲しんでいる私たちを、いや、私はあなたのために何かがしたい。
それが神様の哀れみ、そしてそれは変わらないということが、知識を見ていてよくわかります。
そしてもう一つ、第二に言えることは、神様はそういう私たちの愛を待っておられるということです。
それがこの、読んでいただいた二十二節の心見るという言葉の中に出てまいります。
この心見るという言葉が、
私識の二章の二十二節、そして三章の一節、三章の四節というところにも繰り返し出てまいります。
主は民を心見る。