1. 名谷教会
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2016-05-15 41:54

2016/05/14:母の祈り

2016/05/14 聖日礼拝

斎藤亘師

サムエル記第一 2:1-10


00:01
今朝は、斉藤先生より、母の祈りと題しまして、メッセージを取り継いでいただきます。
おはようございます。
久しぶりに立ちますとね、やはり緊張するもので。
しかし、ゆん先生が、鶴見玉子教会での大切なご奉仕を、
今朝と午後と、2回のご奉仕でもって、そこで奉仕されますので、
なんとかその一つの責任を、ご一緒に果たしたいと願っております。
私は、最初、先生から依頼を受けました時に、もう一つの聖書の歌詞を思い起こしとったんですが、
ところが、この5月の第二聖日は、これは花の日じゃない、母の日ということで、
私も長い間、そういう母の日の特別な礼拝を行ってまいりました。
で、私が勃開しておりました大阪の教会では、そこに赴任して早々に、何をしようか。
当時私も30代でしたし、見ますと皆さんほとんど20代、30代ですから、
母の日って言って、それに該当するような人はどんなんだろうか。
子供と言えばみんな小学校に入っているか入っていないかぐらいの、そういう子供たちですから。
彼らから見たらやっぱり親だから、母の日があってもいいんじゃないかなということで。
そして当時の教会が企画したのは、大福餅を作って、それをお母さんたちに贈りましょうという。
今それをやっているかどうかは覚えておりませんが、そういうことをやりました。
そのうちだんだんと変化しまして、大福餅はあまり人気がなかったんですね。
ですから餅をついて喜ぶのは、そういうお父さんたちで食べながら作るものですから。
そしていくうちにいろいろアイデアが加わってきまして、最終的には青年会がとん汁を作って、
そこにつきたての餅を入れて、そしてお母さんたちに振る舞う。これが好評でした。
そしてお土産に大福を2個ずつ、プラスチックの中に入れて、そしてお帰りいただくという。
そういうことをしておりましたから。
03:00
ですからその後、人丸協会に行きましても、そういうことをやったらどうなんだろうかなと思いましたけれども、
人数が何人多いものですから、違う形でやりましょうということで、
それぞれ協会は母の気にちなんだ行事をそこで行っているんじゃないかなと思います。
ただ、ことの起こりから考えますと、当時の平方希望協会がお母さんたちに花の一輪でもという、
それを無くして大福持ちというところに、日本の協会の一つの在り方があるかなと。
普通ですと、バラを1本、それぞれ奥さんにお母さんに渡す。
私も最初、母の日のことを知ったのは、たしか小学生の時だったんじゃないかな。
学校から、今度は母の日だからと言われて、そして10円を母親からもらってきて、
紙で作った赤いバラを、それを学校でもらって、そして母親に渡したという、
そんな記憶がかすかに残っております。
もう70年、少し前の話ですから。
そしていくうちに協会に行くようになって、この母の日の起こりというそれを聞いたときには、
ああ、そういうところから母の日が生まれてきたんだなと。
皆さん方はご承知と思いますが、
一人の女の子が、お母さんが天国に帰られた。
そのお母さんへの感謝と、神様がこんな素晴らしいお母さんを与えくださったということへの感謝を、
彼女は白いバラを教会に持ってきて、そして自分の気持ちを先生に伝えて、
そしてそれが教会で、ああ、これはいいことだということが始まりました。
その教会の中で行われた。
そしてそれを聞いた近隣のこの教会も、ああ、それじゃあそれをうちの教会でもやったら、
亡くなったお母さんだけじゃなくて、今お母さんを頑張ってやっているそういった人たちにもいいことじゃないだろうか。
やがてそれが知るだけではない、アメリカ全体に広がっていって。
国はこの5月の第二聖日を、これを母の日に決めましょう。
そういう経緯が物の本には記されております。
今日では教会歴ではありませんけれども、それに次ぐらいの大切な日として、
この母の日というのが一般に覚えられております。
私は5月の14日ということで、ああそうだ、それでは母のことに関する、
06:04
そういうこの聖書の言葉をご一緒に開いてはどうだろうかということで、
それで読んでいただきました、このサムウェル1の2章。
この祈りを通して私たちは改めて、この母に対する感謝を表していきたいと、
こう願って今朝このところを開きました。
聖書には、こういう母を題材にした記録というものが非常にかなめかなめているでしょうかね。
非常に大切なところでもって、そのお母さんの役割というのがどんなに必要か大切か、
それを教えている。その一つがこの箇所ではないだろうか。
当時のこのイスラエルというのは、せっかく神様がお与えなさったこの約束の地を収めるようになってきたんですけれども、
ところが、安泰しますとね、人間の気持ちというのは、いろんなところに向いてしまって、
神様に対する感謝よりも、何か違うことに興味を持ち出すのでしょうか。
そしてとうとうこのイスラエルは、まことの神様からだんだん離れがちになっていって、
そして自分たちが治めているその地方の土着宗教と言いましょうかね、
そういうことも抱き合わせにするようになってきて、神以外に何者も神としてはならないというね、
彼らが国をいただいたときに、神様との間でもって契約したその約束ごと、
これを彼らは忘れちゃった。
そうして天然バラバラになってしまった。
それで神様は、それではということで、その時代時代に、いわゆる死勝ちを起こしなさったんですね。
王政が惹かれているわけではありませんから、
そういう有能な器がそこに立てられて、そして彼らのもとでもって、
その地方があるいは国が守られるように神様が取り上げられてくださった。
それでも彼らはダメなんですね。すぐに右により左によってしまう。
そういうイスラエルにとってはね、せっかく約束のうちに自分たちが到達しながら、
ところが到達させてくださった神様を忘れてしまって、
そしていい加減な生活をするようになっていった。
ですから当時のこのイスラエルというのは、
イスラエルの歴史でもやはり非常に暗黒の時代とも言われている、
そういうこの時代なんですね。
で、そういう時代的な背景の中でもって、
09:05
この一人の女性の苦しみの祈りから、
やがてこの祈りが一人の大切な子を生み出すというのでしょうか。
文字通り生んでいくわけですけれども。
当時エルサレムではなくして、
シロというところまで行って、
そして彼らは自分たちの神様への感謝、
あるいは自分のうちにある祈りをそこでもって捧げるということをしておったんですね。
このレビ族に属する、
ハンナさんのご主人、
これは一章を少し、これを背景にして読んでいきませんと、
なぜ二章のこういう祈りが生まれたんだろうかという意味がぼやけてしまいますので、
ここにエルボナという、その奥さんがこのハンナさん、
ここにもハンナさんいらっしゃいますけど、
ところが当時のこのイスラエルというのは、こういったところも、
いくら時代が時代だといって、果たしてどうなんだろうかというならば、
第二夫人を持ったわけですよ。
で、本妻さんのこのハンナさんには子供さんがいなくてですね、
そして一緒にそこにおりますもう一人のこの夫人の方は、
それこそこう、ぽこんという表現はおかしいんですけども、
それこそくもなく子供たちがこの与えられます。
そうするとこの優位に立つのは、その第二夫人のようなそういう立場の彼女ですよ。
控えてこのハンナさんはですね、本当に自分は神様を信じてここまで来たのに、
なんで神様は私の祈りに応えてくださらないんだろうかという、
もうそういう涙のない日がないぐらいに、その第二夫人からは痛められる。
そして見れば向こうには本当に可愛い子供たちがおります。
そしてその家庭の方が非常に愛されている。
で、夫のエルカナもどちらかというとそういう風な方向に向いている時もある。
だから余計彼女は寂しく感じたんでしょうね。
そういうことを少し象徴的な言葉として、
この七節にですね、毎年このようにして彼女が主の宮に登って行くたびに、
フェニンナは彼女を苛立たせた、こう書いてあります。
12:02
神戸学生賞の方では、そこではですね、そういう表現じゃなくて、
行く年も、行く、同じ意味なんですけどもね、行く年も、そして過ぎ去るその日もというような、
そういうことで非常に詩的な表現がされておりまして。
で、私も覚えておいたらよかったんですけども、
こうして年は暮れ、年は明けた。
こうして年は暮れ、年は明けた。
ですからもういつもこの毎年と書いてある通りなんです。
彼女にはもう涙のない年、涙のない日はないっていうぐらいに、
非常にそういう点では、彼女の心というのは本当に真摯に見られた。
これちょっと暖房が入ってるんじゃないでしょうかね。
あったかい風が来るんですけど。
それで、そういう中でもって彼女はその行く日もそういう厳しい、寂しい、
そして一体夫はどっちを向いてくれてるんだろうかっていうことが、
もう一つ理解に苦しむような毎日が続く。
この実節に、半田の心は痛んでいた。
彼女は朱に乗って激しく泣いたとこあります。
これがもう当時の半田さんの立場なんです。
神様はそうした祈りを帰り見られないのか、
そうした祈りにお答えにならないのか、というと決してそうではない。
実は彼女のその祈りの様子が、この実節がそういう風に印しておりますけども、
ついてその十一節を見ますと、一生の十一節ですね。
そして誓願を立てて言った。
万君の主よ、もしあなたが十一節の悩みを帰り見て、私を心に留め、
この十一節を忘れず、この十一節に男の子を捧げて下さいますなら、
私はその子の一生を主にお捧げします。
そしてその子の頭に紙反りを当てません。
そういうこの神様との間でもって、契約の祈りと言いましょうか、
そういう祈りを捧げた。
もう神様何とかして下さいという、そういう思いですよね。
15:01
しかし彼女が、一人二人三人、子供が生まれてくるならまだしょうがない。
何もない。そういう中から一体どうしたらいいでしょうか。
しかもその悩みは毎年のことです。
そしてそれをあざけるように、このペンギンの方がですね、
そういうふうに自分を軽蔑してくるという中で、彼女はもうこれしか祈りがない。
神様との間でもって取引をしたわけではありませんが、
この祈りの本筋は、すべて自分自身を神様に委ねるということなくして、
この祈りは捧げられなかったと言ってもよろしいと思いますよ。
せっかく与えられた子をね、神様に捧げちゃう。
これは数世紀を見てまいりますと、アブラームの奥さんのサラさんも同じような心境遭遇道を歩んだと思いますよ。
彼女も子を持つことができない奥さんでした。
それが余計ですね、彼女を苦しめた。
けれどもその苦しみの中から、やがて神様はこのサラさんを帰りみて、そして遺作を与えなさった。
ところが神様の要求は、その遺作を捧げなさい。
せっかく与えられた子を捧げる。
あんなさんは、あるいはそういうようなことも自分の思いの中に入れて、
たとえ神様がお与えくださったとしても、それは主のものだから、
それは主にお捧げしますという、そういう思い。
これはね、本当に自分自身を神様にお依頼しないと生まれてこない祈り。
と言ってもいいんじゃないかなと思いますよ。
神様は、そういう祈りを、このあんなさんを通して捧げた時に、
その祈りに神様はお答えなさった。
私は、後のこのサムエルという偉大な預言者を見てまいりますとね、
このような預言者の誕生には、
こういうお母さんのあんなさんの献身の祈りがあったと言って間違いないと思いますね。
この祈りがあったればこそ、偉大な器がそこで持って誕生していくわけです。
言うならばこの祈りこそが、サムエル自身を育てていく。
あるいは育てた、とも言ってもよろしいと思う。
18:03
このようなあんなさんの捨て身となった祈り、あるいは委ね切った祈り、
それがあったということを私たちは、祈りの大切な姿勢として見逃してはならない。
何でもかんでも答えてくださないという、
そういう時に、そういう必要な祈りがあります。
けれどもその祈りというのは、いかに自分自身を神様にお任せしていくか。
祈りを通して神様に対する信仰信頼というものがそこで養われていって、
そしてそれはやがて自分自身も含めて与えられたものすらも全部それは主のものですという、
そういう祈りがこうした大切な答えとしてのサムエルの誕生につながっていく。
ご承知のようにこのサムエルは大泣き、この国でありましたイスラエルという、
そしてそのためにもうみんなバラバラ。
けれども神様はね、神の言葉を取り継ぐ預言者をもって国を治めるということにおいてそれを良しとされていたんです。
けれども人々はね、よその国を見るとやっぱりそこでは王様が建てられる。
そういう国は勢いがあって、そういう勢いのあるこの周囲のこの国々にいつも脅かされてきている。
だから私たちも王様がいるんだということで彼らはですね、半分くれたみたいなことでもって、
この神様にこの、言うならばサムエルにですね、もうにじり寄っていくわけですよ。
何とか私たちにも王様を与えてくれ。
サムエルは王を必要とするあなた方の気持ちは分かった。
しかしその必要ということの中には、あなた方の負うべき責任もある。払うべき犠牲もある。
そのことを踏まえてのその願いなのか、という事を聞いたらですね、当時の彼らは、
ああもう何でも従いますから言ってください、というようなことでもって彼らは、
ついにですね、自分たちの願いを押し出していって、そしてサムエルを通して、やがてその国に王が誕生する。
イスラエルの最初の王として選ばれたのが、サウルという王様ですよ。
彼は確かに国を治めました。
けれども権力が財力が力が自分に集中し始めた時に、あたかもそれは自分が獲得したかのように錯覚しましてね、
そして自分を立てなさった神様を忘れるわけですよ。
神様の前にはいい加減な生活をして、そして自分の地位や自分の富だけを、自分の力だけを保護する、というようなことに彼は落ちていった。
21:05
そしてついに神様はこのサウルを引きづけて、そしてその後にダベデというですね、この人を盾になった。
サムエルはサウルの時はそういう神様から言われて、そして非常に体格のいい彼を任命したわけです。
ところが神様の選びがそこではないということを知った時に一体誰ですか。
そしたらそのところの末っ子、どこにいるかわからないようなですね、そのダベデに神様の目が止まったんです。
そしてこのダベデがやがて本格的なイスラエルの王として国を統一し、そしてダベデ王国という国を治めていくわけですよ。
サムエルという人のこの働きというのはですね、そういうふうに人々の声を聞きながら神様の心を伝えていくという、
そういう預言者と祭司と兼ね備えたようなそういう働きをしていった。
そしてその最初のイスラエルの国づくりのために彼はどんなに大きな働きをしたかということがそこにあるわけです。
このサムエルという人をそこに生み出したのが、文字通り生んだのがですね、このハンナさんなんですね。
繰り返していますけれども、彼女の本当にいざにきった、任せた、祈りがそういう大切な身をそこで持って結ばせた。
そしてこの2章の3節を見ますと、ここではですね、彼女の祈りがそこにあります。
高ぶって多くのことを語ってはなりません。大平な言葉を口から出してはなりません。
まことにしは全てを知る神、その見わさは確かです。とあります。
私はこの最初の方のですね、時間を気にしながら今、多くのことを語ってはなりませんと言うんですから、
あまり時間をオーバーしてはならないな、久しぶりなものですから、ついつい余計なことを言い出してですね、余分な時間をとっちまうかわかりませんが、どうぞこの罪を犯さないようにお祈りください。
大切なことは、ここにまことにしは全てを知る神、と書いてあります。
自分の心中、思い悩んできた自分のその思いというもの。
夫はなかなかこれを理解できないですね。
まあ夫としての責任というのは、神さんの良い心を求めながら、奥さんの心もしっかりと聞いていかないとならないのだなと、難しいなといつも思いながらおりますけれども、
24:06
この女さんはね、夫が理解してくれない。
そういうことも焦りになっていたんですよ。
本当に悩みだったんです。
けれども、彼女は、夫も理解してくれない。誰も理解してくれない。
けれども、あなたこそが私の全てをご存知です、と言って。
言うなら、神様の前に開き直りと言っているでしょうかね。
夫もだめと言って排斥したわけじゃないんですよ。
けれども、そこには限界があります。
けれども、限界を超えた私たちのうちに働くのは、そして私のことをよく知ってくださっているのは、あなたですから、そのあなたに全てをお委ねします、という、こういう信仰。
やはりこの信仰が、やはり幼児期の、幼児期と言いましても、このサムエルは幼児期はですね、お母さんの元にいなかったんですから、
けれどもしかし、彼女のそういう信仰が、自分の元から離れてはいても、しかしその信仰とその祈りは、その幼子サムエルの中にしっかりと実を結んでいったのではないか。
私はやっぱり、サムエルの生涯を見てまいりますと、全てをご存知の神への祈りというのが、そのままサムエルにですね、受け継がれているな、という、
そういう幼少幼少をサムエルの生涯に、彼の言葉の中に、働きの中に見ることができます。
このように、この祈りに見る神様へに対する、そういう祈りが確信となって、そして彼女は、その時から変わっていくわけです。
この一章の方では、彼女が祈る祈りに対して、この妻子が、それに対して答えていくんですが、この一章の二十六節、
ハンナは言った、おお、妻子様、あなたは生きておられます。妻子様、私は勝って、あなたのそばに立って主に祈った女でございます。
この妻子さんは、その時はですね、もうこのハンナさんのそれを思い出すことができないぐらいに、
ああ、そんな人も来てたのかな、というような調子だったんでしょうか。しかし、彼女はですね、神様が自分のうちに働いてくださるということを信じたときに、祈ったときに、彼女は確信を持つことができた。
27:09
そして、改めて、この妻子の前に立ったときに、私は勝って祈った女です。それでこの二十七節、この子のために私は祈ったのです。主は私がお願いしたとおり、私の願いを叶えてくださいました。
それで私もまた、この子を主にお渡しします。この子は一生涯、主に渡されたものです。こうして、身体はそこで主を礼拝をした、と書いてありますね。
その前に、この十八節の方を前後しましたけれども、この十八節の方を見ますと、彼女は明日めがあなたの御声に預かることができますようにと言った。それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔はもはや依然のようではなかった、と書いてあるんですね。
来る日も来る日も、何の喜びも、また恵みも感謝も持てなかった、この彼女は。やはりこの妻子との間の中で持てかわしたその言葉。そこから彼女はですね、やっとこの信仰を二人持つことができた。
そして、主の前にですね、それを持つことができた時に、その時から依然の彼女ではなかった、と。そしてその証拠が、今読みました、この後半の私は神様がお渡しくださった時に、その子の全てをお委ねします、と祈りました。
そしてそこで出会いました、と。こう一生は結んでいるわけです。このやりとりの中でもって私たちがしっかりと納めて理解をしていかなければなりませんのは、神様はそういう私たちのことの全てをご存知だ、と。
やはりそこに、この華さんの落ち着きどころ、彼女は今までもう冷静を失ってしまったかのような、もう心がじっちり乱れ、どこにも誰にもわかってもらえないような、そういう狂う土地も狂う土地も育った、そういう彼女がですね、この時から変わった。
そして彼女のうちには、自分の思いが優先してあれやこれや悩むんじゃなくて、私を知っていらっしゃるこのお方に私は全てを託していこう、神様がお渡しくださったものは全部神様にお返ししていこう、そういう思いでその信仰というものが結んだ時に、彼女はそこで改めて神様はですね、礼拝をした、ということです。
30:27
私たちの礼拝においての私たちのこの大切な姿勢も、やはりここにたくさんの学ぶことがありますよね。
礼拝に来て神様に祈りながら、また神様から御言葉が与えられながら、そして私たちは何をすべきか、示されたことにおいて私たちが神様に本当に感謝した時に、そこにこういう礼拝が始まるんだなと思います。
そしてそれは彼女の祈りのように、なぜならば私のすべてのことを神様、あなたは御存知だからです。
私たちが礼拝に来る一週間のいろんな生活の中で傷つくこともあります。
あるいは傷を与えてしまったこともあります。
あるいはどうしたらいいだろうかというような事柄でもって思い悩むこともあるのが私たちの日常です。
けれども私たちはそういう自信の思いを持ちながら、神様と言って向き直って、そしてあなたは私の愛にできたすべてを御存知、私はその御存知のあたりに礼拝します、というこういう礼拝ですね。
そしてもう一つの大切なそれは、これは2章の9節の方ですが、
主は生徒たちの足を守られます。悪者どもは闇の中に滅びゆせます。まことに人は己の力によって勝てません。
申し上げたいことは、神様は私たちのことを全部御存知、と同時に神様は私たちの足を守られるということは、私たちの日常生活、もう些細なことで何であれ、
とにかくあなたは私がどこへ行くにも、何をしてても、どういうことで悩んでいても、けれどもあなたは私の足を守られる。もちろん悪い道に立とうとするような足になってしまうこともありますよ。
けれどもそういうことも含めて、そういう横島な道に行かないように、神様あなたは私をいつも守ってくださる。
私はこうした半田さんの祈りを読んでいきますと、神様はそれこそは些細なことでも私たちを守ってくださる。
33:13
ある教会の信者さんが、私が行くので何とかこの車を用意しておきます。
その前任者の方の名に変更が何か詳しいか知りませんけれども、その手付きをしようと思っていたら、その必要な書類がですね、どこへ行ってしまったのか見当たらない。
それで彼は奥さんに、あれなかっただろうかどうだっただろうかといってですね、いろいろ話すんですか一緒に探すんですかなかなか見当たらない。
そしてとうとう最後にね、じゃあやっぱりお祈りしようかと。
二人でお祈りするということは滅多になかったそうですよ。
けれどもどうしてもそこでもっと見つからないと、あとサイトボクシングが来た時に困るだろうからということでお祈りしたそうですよ。
そしたらですね、探したはずのそこに置いてあった。
で彼はね、後でもって教えてました。
そういう二人で祈ることのない私たちに神様がね、何とか二人でもってお祈りをする機会をそういう形でもってお与え下さったんだろうかということをカナエと話をしたんです。
そしてカナエも、ああそうだ、これからやっぱりお祈りしていこうという風にその時から変わりましたということで教えてもらえた。
そういう風に、ささいなことなんですけどね。
けれどもこのご夫婦にとってはね、やはりその生活の中にもって一大確信と言いましょうか。
それこそ夫婦がそこでもっとお祈りしだしたっていう。
そのために神様がいたずらされたわけじゃないんですけども、必要な書類をちょっとそこに置いておいて。
目隠しされたかないようにですね、なかなか二人で探しながら見当たらないでやっていくうちにお祈りしようっていうところに行って祈ることができたっていうことが、
もちろん祈ったから神様は答えてくださったんですけどもね。
しかし祈ることのできるお互いの関係を夫婦をそこでもって作ってくださったんじゃないかっていう、そういうお証のことを思い出します。
神様は私たちをあらゆることから守ってくださる。
つらいことも何もかも、私のことを何もかも知っていらっしゃる。
そういう私を、それこそ私の足を守られるっていう言葉に象徴されるように、本当に神様は全てを守られる。
私は最後にもう一人の一人と言いましょうか、ローマがキリスト教を自分たちのこの国の宗教にしようっていう風にですね、コンスタント・チノムルでしたか、国が変わった。
36:06
その頃に一人の若い青年、若い青年はおかしいんですが、彼は一生懸命その道を進んで歩んでいた。
けども、一体人生って何なんだろうか、聖書にも触れてきましたし、いろんなことに彼は追求してきたんですが分からない。
彼はもう思い悩んで、人生ってのは快楽こそが人生の目的かなということで、
それこそですね、そういう道にも落ちていった。
けどもこのオーガシンっていうこの人のお母さん、モニカって方ですが、この方はもうその幼い時からこのオーガシンマエシ、彼が本当に神様に祝福されたそういう人になるようにと、祈りの中でもって育ててきた。
ところがその祈りとは逆の方向に息子がどんどんどんどん離れていく。
花さんと同じように、彼女は教会に行ってもミサを捧げていても、祈りなくしてそのミサに預かることはなかったぐらいに、もうそこには何の喜びも見えだせなかった。
祈れば祈るほどなんか息子が離れていくっていう、そんな思いだった。
そしたらその教会のアムロシウスという監督が彼女に目を止めて、モニカさん、あなたの悩みは全部神様がご存知だって。
あなたの涙を神様は決して見忘れたりはしないっていうことを言われた。
それがね、このお母さんのモニカさんの心に留まった。
ですから、そういう励ましをいただきながらでも、しかし息子はもう全然方向違うところに行く。
そういう中でもって彼女の葛藤が始まったんですけども、しかしその祈りはやがて応えられてくる。
どこに向かっても何の喜びも力を見出せなかった彼はですね、会う時も疲れてしまって、そしてどうしていいかわかんない。
そしたら遠くで子供が遊んでいるその歌声が聞こえてきた。
トールレゲっていうですね、やはり鳥って嫁っていうそういう風歌のようなその歌が聞こえてきた。
大橋主婦はふっとこう立ち上がって、起き上がって。
目に留まったのがその母親がですね、自分が離れる時に、これを私だと思ってこの聖書をよく読むように。
もうその開いたことはない。
けども彼はですね、その聖書を手にして、そしてそれを開いた。
その時、彼の心の中に働いたのは、ローマ人への手紙の、ここちょっと開きましょうか。
12章の方ですね。
39:20
あ、失礼しました。13章ですね。
13章のこの12節から読みますと、310ページです。
ここに、夜は更けて昼が近づきました。
ですから私たちは闇の業を打ち捨てて、光の部分をつけようではありませんか。
勇気をめいて因乱行色争い。
妬みの生活ではなく、ひるまらしい正しい生き方をしようではありませんか。
宗イエスキリストを来なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。
この歌詞をですね、彼は開いた。びっくりした。
そしてこの言葉が、まさにその時の自分自身のこの実態だった。
もう来る日も来る日も快楽の道しかなかった。
そして結婚もしていないその相手の女性から子を持つというようなこともですね、産ませるというような、そんな生活までやってしまった。
そこに彼の中に光が入ったのがこの御言葉だったそうです。
彼はそこに立ち上がってね、本当に神様申し訳ない。
その後彼は聖オーガシンと変えられていく、そういう優れた指導者になっていくわけです。
こういう器が誕生するにも、お母さんの涙の祈りがあった。
非常に私はそこにサムエルさんと共通したのを見出します。
そして母親というのは力強いもんだな、そのオーガシンの父親はどういう人なのか、見ててこないんですよ。
サムエルさんのお父さんはどんな人なのか、あまりですね、聖書はそういう存在をそこに記しておりません。
けれどもしかし、こうした女性型の祈りと信仰が大切な時期に大切なその時代に必要な器をそこで持って起こしていく。
神様という方は本当に素晴らしい方。私たちの祈りにこんなにまでしてお答えくださる方なんだ。
長くなりましたけれども、ご一緒に神様に対して感謝の祈りをお伝えいたしましょう。
ありがとうございました。
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