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2022-01-30 24:15

2022/01/30:創世記(41)ユダからイエス・キリストが出る

2022/01/30 聖日礼拝

尹善鎬牧師

創世記 -19


00:01
一言お祈りします。神様、感謝します。
今日もこのように主が、私たちの全ての災いから、守ってくださって、この礼拝の場に私たちを招いてくださいました。
ただ、私たちが、あなただけを見上げ、あなただけを褒めたたえ、あなただけに従うものとさせてください。
今ここに、人間の牧師ではなく、生きる主、神様がお立ちになって、語れる主の御言葉を聞く信仰を、私たちにお与えください。
そして、その信仰に生きる謙遜と、また悟る心を主が、聖霊によってお与えくださいますように、お願いいたします。
十日聖霊様、一人一人の魂に霊に触れてくださいますように、イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン
はい、では早速メッセージに入りたいと思います。
メッセージ、とても短いですので、集中して聞いていただけたらと思っております。
荘石41回、ユダからイエス・キリストが出る、というところであります。
今日はユダとその嫁、タマルに関するお話をしたいと思います。
もちろんユダはヤコブの息子の一人です。
ユダも成人して結婚して、息子娘がいました。
息子の名前はエル・オナ・シェラです。
そして長男エルの妻が今日登場するタマルです。
しかし長男エルは死にました。
当時の慣習、習わしがあってですね、
結婚した男兄弟の中で誰かが死んだら、
死んだ人の、もし結婚してね、結婚している兄弟の人が死んだ。
そしたら奥さんが山目になるわけですね。
子供がいない。
子供がいない。
そういった場合に、その他の兄弟が兄か弟がね、
死んだ人の兄か弟が山目になった、いわゆる兄嫁ですね。
兄嫁のところに入って、そして子孫を残すという習わしがありました。
03:03
その仕留めを果たすように。
38章、今日全部読んでいないんですけれども、
詳しいところは皆さんぜひね、お家に帰ってぜひお読みくださればと思います。
しかしですね、それをしようとしましたけれども、ことはうまくいかず、
夫エルは死んで、また山目になったタマルは子孫を残すことはできませんでした。
そしてかなり日が経ってある日、ユダは羊の群れの毛を狩りに、
キムナという町に登って行きました。
その時タマルはある人から、自分の首都が羊の毛を狩りにキムナに登って行く、
その話を耳にしました。
そこでタマルは、ある意味で異常な行動をしたわけです。
彼女はきかえして、エリムの入口に座っていました。
悠長の姿をしていたわけです。
ちょうどそこを通っていたユダは彼女を見て、
彼女がベールをかぶっていたから、自分の嫁だとは知らなかったんですね。
それで、あなたは心に入らせてほしいと言ってですね、ことが始まったわけです。
そこでタマルはユダに自分が憂愁のふりをしながら、印を求めました。
ユダは嫁なのを知らず、彼女が言う通りに、自分の印象と紐と杖を与えました。
それでユダは彼女のところに入って、そしてタマルは見ごもりました。
3ヶ月ほど経ちました。
また今度はユダの方に、嫁タマルが夫がいないのに、死んでいないのに退院をして、
しかも見ごもっているよ、ということが告げられました。
当時の習わしによって、ユダは怒って、あの女を引き出して焼き殺せと言ったんですね。
しかしその時、嫁タマルは自分が印として持っていたその印象、紐、杖を出してですね、
06:00
これが誰のものか調べてくださいとお願いしました。
当然、それがユダに伝えられたわけですね。
見たらユダは、それは自分のものなんですね、わかったわけです。
その時にユダはこう言いました。
あの女は私よりも正しい、私が彼女を我が子シェラに与えなかったせいだ。
それから時になって、そのタマルは双子を産みました。
その名前がペレツとゼラフです。
特にこのペレツという名前を覚えてほしいんですけれども、ペレツ。
こうしてユダに、長男エルは死にましたけれども、ユダに子孫が残るようになったわけです。
この物語を一見読んだらですね、なんと、
首都と嫁の恥ずかしい、恥のような物語じゃないですか。
もしこれが自分の祖先の話だったら、もう消したいところなんです。
隠したいところ、ばれないようにしたいところなんです。
ところが皆さん、このユダとタマルによって生まれた子孫、
特にこのペレツから、やがてダビデが生まれるんです。
聖書をちょっと開けますか、皆さん。
ルツキ、ルツキの四書を開いて、十二節、十八節。
客中のある聖書はですね、今日の二十三十八章の二十九節の下、
ペレツというところに、そこに客中で書かれていますけれども、
ルツキ四書、十二節から十八節のところで、十八節から、ご覧くださいますか。
私は見ますよ、十八節、四百七十七ページ。
これはペレツの経図である、このペレツが今言っているタマルの、
ユダとタマルの間から生まれた双子の一人ですね。
ペレツはヘツロンを生み、ヘツロンはラムを生み、ラムはアミナダブを生み、
アミナダブはナフションを生み、ナフションはサルマを生み、サルマはボアズを生み、
ボアズはオベデを生み、ボアズの奥さんがルツですね。
オベデを生み、オベデはエッサイを生み、エッサイはダビデを生んだとありますね。
不思議でしょう、皆さん。
09:00
そしてそのユダ、タマルの間からペレツ、そしてダビデ、やがてイエース・キュリストがお生まれになるということなんです。
マタイノ文書1章3節、前字幕を出してください。
さあ、ここを見てください。
ユダがタマルによってペレツとゼラフを生み、ペレツがヘツロンを生み、ヘツロンがアラムを生みとあります。
そしてですね、その子孫から16節、ヤコブがマリアの夫ヨセウを生んだ。
キリストと呼ばれるイエースはこのマリアからお生まれになったとあります。
ですからイエース様もこの体としての祖先の中に、もちろんダビデもいますけど、
今日のこのユダとタマルがいたということなんです。
ところがこれは、ユダとタマルのこの出来事がですね、聖書全体に流れている救いの歴史、それから福音の本質を示す非常に重要なお話なんです。
では少しですね、その話をしたいと思いますけれども、まず大前提としてのお話をしたいと思います。
それは私たちの神様は、私たち人間の良い事だけではなく、過ちや失敗や今日のユダとタマルのような恥、
罪さえもご自分の技のために、救いの歴史のために用いることのできるお方だということなんです。
いわゆる説理、神の説理です。
神様が人間の良い事しか使えない、そういう制約される神様ではないんです。
神様は人間の過ちも罪も今日のような恥みたいな話、過ちも神様はそれを用いることができるということなんですね。
そして実際に用いてくださるという話なんです。
ですから、今日の38章のユダとタマルの出来事は、確かに人間の恥であり過ちです。
この話がね、さっき言ったように自分の父親のことだったらですね、もう消したいところです。
そんな出来事さえも神様はお持ちになって、ご自身の救いの歴史を導いてゆかれるんだということなんですね。
もちろん、だから何でもしていいんですよというふうには皆さん思っていらっしゃらないと思いますけどね。
12:07
ですから、タマルは元々ですね、アブラムの子孫じゃないので、違法人なんですよ。
カナンの人なんです。
というのは、タマルのような違法人もイエス・キリストのケージに加わることができたし、
人間の恥の出来事さえも用いられたというメッセージが、実はこの創世記38章に書かれているわけです。
ところがですね、この聖書をお読みになっている方はお気づきだと思いますが、37章と39章は、
ヨセフの話なんですよ。ヨセフの話の中に突然この真ん中にポンとね、全然異質感のあるようなユダの話がここに挿入されているわけなんですね。
この神の意図があると思うんです。
これは実は福音の本質を表している物語なんです。
イエス・キリストによる福音は、救いの歴史は、もちろんイスラエル人だけではなく世界のどの民族・部族でも救われるという良き知らせなんです。
福音には、救いには差別がありません。
どんな人も受け入れられ、神の救いという偉大な祝福に預かることができるという話です。
皆さん、世の中の様子を見てみてください。
例えば、有名な名門高校大学に入るためには、いい成績が求められるでしょう。
東大に私が入りたいと、誰でもいいですよ、入ってくださいと。そんな学校はありません。
あるいは、成績があってもお金がなければ入れないんです。
普通の会社もそうでしょう。何倍も教授があって、落とされて落とされて何人かが入社できるということなんです。
社会の仕組みは、その能力、あるいは金銭の能力、あるいは何かの外見が求められる仕事は、美男美女じゃなければ受けることができない仕事もあります。
15:03
ところが皆さん、私たちの神様は、この創跡の中で、このユダとタマルのこの出来事を通して、私たちにこのようなメッセージを発信しておられるんです。
それは、誰でも私のもとに来なさい。私はどんな人も受け入れる。私が拒む人はいません。というメッセージなんです。
これが神様の恵みであり、イエス・キリストによる福音なんです。字幕を出してください。
ユハネの福音書7章37節に、こういう御言葉があります。
さて、祭りの終わりの大いなる日にイエスは立ち上がり、大きな声で言われた。
誰でも、誰でも、誰でもですよ。誰でも渇いているなら、私のもとに来て飲みなさい。
私は信じるものは聖書が言っている通り、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。と言われました。
私たちの父なる神様は、立派な人だけ来なさい、じゃないです。
豊かな人だけ来なさい。金持ちだけ来なさい。大学卒業していないと来れません。
どこどこの国の人じゃないとダメですよ、とか。そんな神様じゃないんですよ。分け隔てることのない神様なんですね。
立派な人であろうが、みすぼらしい人であろうが、豊かな人であろうが、乏しい人であろうが、
健康な人であろうが、病弱な人であろうが、若い人であろうが、お年寄りであろうが、
どんな人も分け隔てることなく近づく者であれば、誰にでも救いのみ手を差し伸べてくださるお方なんです。
だから今日、私たちがここに来て、礼拝をできるということなんですよ、皆さん。
それを忘れないでほしいんですね。
この恵みを本当に感じて覚えている信徒は、クリスチャンは、高ぼることができないんですよ、しないんですよ。
傲慢になれません。
なぜなら、ここに入れること、あるいは私のようなものが、僕としてメッセージを取り透かしていただけることは、
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もう神様が許してくださるからできるんじゃないですか、皆さん。
私だけ思うんですかね。
許されているから、ここに私たちがいるわけなんです。
それを忘れないでほしいんですね。
その神様が、どんな人も許されてくださるし、抱きしめてくださるから、私たちはここにいるわけなんです。
ユダダ・タマールの出来事が、私たちに教えるメッセージはこれです。
イエス・キリストが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。
字幕を出してください。
マタイの訓書9章13節を見ると、イエス様がこう言われました。
私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです、と言われました。
今日のユダのような人、タマールのような人、ヤコボのような人、私たちのような罪人を、
汚れの多い人、傲慢な人、賭けだらけの私たちを招くために、イエス様が、世の中の法則の中にこういうものがあると思います。
何かを人に、あるいは何かのビジネスに投資をするでしょう。
それがお金であろうが何であろう。
投資をするときには、その相手が対象に価値があると考えられる人やビジネスや会社に投資をするんです。
そうでしょう、皆さん。
有能な人に、善と有望な人物や将来性のあるビジネスやプロジェクトや会社に投資をするんです。
例えば、大学生にスカラシップで奨学金をあげるでしょう。
そういう団体が多くあるんじゃないですか。
そういう団体が成績がとても悪くて、そういう人にはなかなか奨学金をくれないんですよ。
ある程度有能な学生、成績がある程度のレベル以上にならないと、ある意味でその団体も投資するわけなんですね。
投資をしてくれないんですよ。
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価値がある人や有能な人やそういった団体、ビジネスなどなどに、世の中は投資をするんです。
当たり前と思うでしょう、皆さん。
価値のないような人や会社、あまり将来性のないそういう会社、ビジネスに投資する人なんていないんですよ。
まるで皆さん、メッセージもそろそろ終わりますけれども、まるで割れたバケツ、あるいは穴の開いたバケツとか、最近は壺をあまり使わないんですけど、
そういうバケツとか壺に穴が開いて割れている。そこに水を入れたらどうなりますか。漏れてしまうんですよ。たまらないでしょ。
もう注いかけても漏れてしまうから、無駄だと思うから、割れたバケツに、割れた壺に、穴の開いた壺やバケツに水を入れる人はいないんですね。
穴の開いているように割れているように、そのバケツや壺に水をずっとずっと入れる人がいるならば、その人を指して私たちは、もうアホだな、愚かだなと言うでしょう。
なんで割れているバケツに水を入れるんですか、と言うんじゃないですか。でしょ、皆さん。しかし、皆さん、よく聞いていてほしいです。
愛する天皇父なる神様は、実は、穴の開いたバケツのような私たち、割れた壺のような私たち、ゆだたまるのように欠けだらけの私たち、
そんな私たちに割れているように、穴が開いているように、ずっとずっと恵みの水を、救いの水を注ぎかけ続けてくださっておられるんですよ、皆さん。
穴の開けっぱなしのような私たち、ひびがたくさん生えている私たち、割れたままの私たちですけれども、また、ある意味で何の保障も得られないような私ですけれども、なかなか変わらない堅くなな私たちに、悟りにくい私たちに、傲慢な私たちに、
愛する天皇父なる神様は、ずっとずっと命の水を、恵みの水を、救いの水を注ぎかけてくださっておられる愚かな神様なんです。
この愚かさのように見える神様の限りなき恵みがあるがゆえに、私たちが生かされて礼拝させていただいております。お祈りしましょう。
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