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皆さんおはようございます。コスモスは綺麗な季節になりましたね。感謝します。今日も、主にあって、お互いに主が守ってくださって、一緒にですね、集まって礼拝できますことを感謝いたします。
創世記も33回目になりました。本当に主のお導きに感謝します。今日は25章、24節から34節のところから
神の祝福にあずかるとは、という題にして一緒にですね、主の御言葉の恵みにあずかりたいと思います。
今日のメッセージは、赤い荷物の事件についてです。イサクとリベカに
双子が生まれましたね。長男は
皮膚がですね、赤くて、全身、
毛衣のような
たくましい、きっとですね、たくましい男の子が生まれました。
それでその赤いという意味からですね、エサウと名付けられました。
ついに双子ですからね、次男は
そのお兄ちゃんの
かかとをですね、ぎゅっとつかんで生まれました。そしてヤコブと名付けられました。
普通の家庭の子供のように二人はですね、すくすくと成長していきました。
ところが今日の聖書に少しヒントが書かれていますが、このエサウとヤコブの人柄というか性格は
だいぶ違っていたんですね。お兄ちゃんのエサウは
聖書に書かれる通りを見ますと、匠な狩人、野の人でした。
狩りが好きでした。家にいるよりは野原に出て山に登ってですね、
そういったのが好きな人でした。一方でヤコブはどうですか。
穏やかな人で、天幕に住んでいたと
聖書はこの二人の様子を描写しています。
これをですね、人の性格ですからちょっと拡張して推測してみますと、おそらくですね
エサウは外交的で活動的で、積極的な性格の持ち主だっただろうなと思われます。
だから家にいる時間よりですね、外に出ている時間が多かったでしょうね。
だから彼はヤコブのように天幕におとなしくじっとね、少しよりは野原や山に出て狩りをするのが好きでしたし、また上手でした。
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一方でヤコブはですね、お兄ちゃんエサウとは違う性格の持ち主だったと思われます。
きっとですね、穏やかで受け身的で、ちょっとシャイな人だったのかもしれません。
狩りをするよりはお母さんのお手伝いをしてですね、料理をするのが好きだったのかもしれません。
こういうふうに二人は普通の男の子として成長しました。
しかしですね、この息子たちに対する親の態度に一つ落ち度がありました。
それを今日の28節を見ると、 イサクはエサウを愛していた。
寮の獲物を好んでいたからである。 しかしリベカはヤコブを愛していたとありました。
お父さんは長男を愛していて、お母さんは次男を愛して別れていました。
イサクはですね、その寮の獲物、お肉が好きだったんですね。
しかし母リベカは穏やかな穏やかで、天幕に自分と一緒にいてくれて、お手伝いもしてくれるヤコブを愛していたんですね。
いわゆる親の悲劇愛がここに描かれています。
この悲劇愛は後に、この家庭に大きな悲劇を招くもとになってしまいます。
その話はですね、また後にですね、お話をしたいと思いますが、
今日の聖書箇所は一つの事件に、出来事に注目しています。
ニモの事件です。赤いニモの事件。
一見見るとですね、食べ物にめくる事件のように見えますけれども、
実は非常に重大な結果をもたらす事件になります。
ある日のことでした。ヤコブはですね、いつものように家にいて、ニモのを煮ていました。
これにですね、ちょっと疑問が感じられますね。
これがその日、たまたま煮物を作っていたのか、
それとも兄エサウの好物のあの煮物を、
彼が家にそろそろ帰る時間に大体分かっていて、合わせて狙いを持ってですね、作ったのか。
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確かなことは分かりませんけれども、私はですね、個人的にですよ、
たまたまじゃなくて、狙いを持って作ったんじゃないかと、私はそう思うんですね。分かりませんけど。
そこにですね、ちょうどおいしい匂いもする。
その時、お兄ちゃんエサウが狩りから帰ってきました。
彼はもう疲れ切っていたんですね。もうお腹も空いて、ぺこぺこでした。
エサウがですね、家に帰ってきてみるとですね、なんと自分の大好物の赤い煮物があるのではないんですか。
それでですね、ヤコブに、俺は今もう疲れ切ってるんだから、その赤いものを食べさせてくれとですね、頼みました。
さあ、普通の家庭で普通の兄弟だったら、こういうふうに、こんな場面になるとですね、
普通だったらですよ、弟から先にですね、お兄ちゃん、もうお腹空いているんじゃない。
僕がこれを作ったんだから、もう食べてね、いっぱいあるから、たくさん食べていいよ。
そういうふうに言うのが普通じゃないですか。普通の兄弟間の会話でしょう。
しかしヤコブの会話は違いました。
彼にはずる賢い狙いがあったんです。
だから31節を見ると、今すぐ私にあなたの調子の権利を売ってくださいと言いました。
皆さん考えてみてください。
お腹が空いていて疲れ切っているお兄ちゃんに対して、あんまり言える内容の話だとは思えませんですか。
思えませんね。
例えば、バンナさんの皆さんがですね、会社からですね、仕事終わって家に帰ってきたんですよ。
そしたらね、もう疲れ切ってヘトヘトして、お腹もペコペコですよ。
ところが自分の大好物のカレーライスを奥さんが作っていたんですよ。
ところがですね、お腹が空いているからもうカレーライス食べさせてくれと言ったらですね、奥さんからですね、今すぐに私に10万円ください。
そうしないとあげられません。そんな奥さんはいないじゃないですか。
今ヤコブがですね、そういうふうに言っているわけなんですよ。
ヤコブは赤い荷物一皿と調子の権利を引き換えようとしている。
餌はですね、この時もうちょっと冷静になるべきでした。
しかしですね、彼はあまりにも疲れ切っているし、お腹もだいぶ空いていたので気を抜いてしまったんですね。
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もちろん最も根本的な過ちはあります。それはまたね、これから今から話をしますけれども。
彼はそのヤコブが引き換えようとしているあの調子の権利に対して、ヤコブの餌の話から、
普段彼が自分に授けられている調子の権利に対してどういうふうな考え方を態度を持っているのかが、
この32節にはっきりと出てくるんです。
餌は見てくれ、私は死にそうだ。調子の権利など私にとって何になろうと言いました。
調子の権利なんてもうそんなもう、もういらない、いらない、みたいなね。
どうでもいい。もうお前が持って、みたいな。
するとヤコブはですね、もう一度、今すぐ、もう2回もですね、今すぐ、今すぐですね、
私に誓ってくださいまで言うんですよ。急がせているような気がしますね。
餌は冷静さを失っていたのでしょうか。そんなにお腹が空いていたのでしょうか。
餌はヤコブに急かされた感じですね、ヤコブに誓いました。
こうして兄餌は自分の大事な調子の権利をヤコブに売ってしまいました。
皆さんこの事件はですね、ただのハプニング動画のようなものではないんですよ。
この餌の行動を34節はこういうふうに評価していることに注目すべきです。
34節の最後を見てくださいね、皆さん。
こうして餌は調子の権利を、どうしましたか。侮ったとあるんです。
調子の権利を侮ったと評価をしています。
これが餌の決定的な過ちであり罪です。
調子の権利について今から話をしていきますと、これは父から授けられる、
そしてそれを遡っていくと神様から授けられる祝福なんです。
その祝福に預かる権利が調子の権利です。
人の手で買ったり売ったりできるものではないんです。
しかし餌はこの調子の権利を侮ってしまった。
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軽んじてはしてしまったわけです。
その意味と重大性を、その価値をないがしろにしてしまったわけです。
これが彼の大きな過ちでした。
ヘブル人への手紙12章16節に、この餌を、この事件をこういうふうに評価しています。
聖書を開きましょうか。
ヘブル人への手紙を開きましょう。
ヘブル人への手紙12章16節。
新約聖書の455ページですね。
ヘブル人への手紙12章16節です。
そこ私がお呼びいたします。
また誰もいっぱいの食物と引き換えに、自分の調子の権利を売った餌をのように、
乱らなもの、俗悪なものにならないようにしなさい。
とあります。
ですから、餌が調子の権利を売ってしまった彼の行いは、
乱らな罪、俗悪な罪と、もう同等のレベルの深刻な過ち罪であるということなんです。
さあ、もう少し具体的にでは、この調子の権利について考えていきたいと思います。
ここにはですね、大きく3つの重要な意味があります。
1つは、父親の後を継いで一家の主人になる権利です。
だから父親の持っている全ての権利を法的に受け継ぐ権利を持つようになります。
2つ目は、父親の遺産を他の兄弟より2倍もらう権利が調子の権利です。
それから3番目が大事ですけれども、一家における妻子的な、大妻子の妻子ですね、
妻子的な役割が授けられる尊くて礼的な権利が調子の権利です。
これが、いわゆるこのアブラハム遺産や古墓、あの古代社会における一般的な調子の権利というものです。
どれを見てもですね、非常に重大な意味を持つ権利であることがわかります。
これをたったの荷物一皿で売ってしまったわけです。侮ってしまった。こんなに大事なこと。
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しかしですね、もっと深い意味がこのアブラハム遺産、ヤコブにありましたけれども、ヤコブに継がれるところのこの調子の権利に最も壮大な神の計画における意味があります。
それは神の救済歴史という観点です。
救済は救いを漢字で言うと救済と言いますね。救済史あるいは救済歴史という、この壮大な神の救済史という観点なんです。
神様はアブラハムをお選びになって、イスラエルという民族を始められました。
それはイスラエルを偉くするためじゃないんですよ。ただの道具として用いるために多くの民族の中で、国々の中でイスラエルがただ選ばれた、用いられただけです。それは何のためなんですか。
それはやがておいでになるイエス・キリストのための備えなんですね。その始めがアブラハムなんです。
だからアブラハムの子孫からイエス様がお生まれになるということになりますね。
ですから長子の権利、アブラハム遺作、ヤコブに受け継がれる、その祝福に預かるということは、ただ私がおじいちゃんのアブラハム、お父さんの遺作、それから俺が長子の権利を持つんだ、それぐらいの話じゃないです。
これはもう人類歴史の壮大な神の救いの歴史のための一員として用いられる、その祝福に預かる、正々堂々の権利なんです。
だからこの壮大な神の救いの歴史を上手するために、人として用いられということになるんです。
神の一員として入れていただく、本当に光栄な神の御業、その祝福に預かるということなんです。
ヤコブはこれを分かっていました。 だからこれを重んじていて、それを主体求めていたんですね。
ある解説にはヤコブが、お兄ちゃんより先にお母さんのお腹から出ようとして、お兄ちゃんのかかたを掴んだんじゃないかと、そんなように解説している本もあったりしますが、それは分かりませんね、本人じゃないとね。
天国に行って聞いてみたら分かるかもしれません。
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ヤコブはこれを重んじていたんです。しかしエサ王はこれを侮ったわけです。
だから皆さん、エサ王の過ちは、ちょっと一瞬疲れ切っていたから、その時だけちょっとだけうっかりして、
まあまあ誓っても後で話したらもう返してもらえだろう、そんな軽い話ではないんです。
さっき読みましたヘブルビテの手紙で評価しているように、乱らなもの、俗悪なものと同等に扱われているんです。これはもう肉的な罪にあたるということなんです。
エサ王は、神の祝福を侮るものでした。
神の壮大な救いの歴史の祝福に預かる意味が分からないものでした。
そんなものどうでもいいというふうに思うものでした。
今、もう目先のことを解決できればそれでいい。神の救いなんてどうでもいい関係ないみたいにですね。
しかし皆さん、このようなエサ王の態度は、この日だけの問題ではないでしょう。
先まで自分は長子の権利を大事にしていたんだけれど、この荷物を見た瞬間だけ、かろんじた、侮ったわけではありません。
普段から、ずっと前から彼はこの長子の権利をかろんじてきていたわけです。
普段から彼はそれを大事に思っていませんでした。
普段から侮っていた。普段からないがしろにしていたから、
普段の考え方がいざとしたときに、行動に現れてしまうということなんです。
皆さんそうでしょう。そうなんですよ。
私たちが普段神様に対してとか、あるいは皆さんのように礼拝に対してとか、あるいは誰か人に対して、
皆さんが普段持っている考え方、それがいざとしたときに、言葉に顔の表情に行いにも現れてばれてしまうんです。
いい意味として、悪い意味として。
結局、エサはアブラウムの子孫に授けられる神の救いの歴史の主曲に預かることができませんでした。
一方でヤコブについて考えていきたいと思います。
まず確かめたい点があります。
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ヤコブが神の救いの歴史の主曲に預かるようになったとしても、
その手に入れたあのやり方は、とても人間くさくてずる賢いやり方です。
どう見てもとても恵まれる光景ではありません。
奪い取ったと言えるでしょう。
だから、彼のそのやり方、人を欺くずる賢いあの生き方は、彼のヤコブの一生の間、彼を苦しめるもとになります。
人を欺くやり方で、彼はまた同じやり方で人に欺かれることになります。
それに対する神様の裁きは、ちゃんとなされます。
それから見てみたいのは、ヤコブは長子の権利をたっ飛んだというところです。
たっ飛んでいました。
その意味がわかっていました。
そして、なんとかしてあの主曲に預かりたいという願望が彼のうちにありました。
結果的に、全てを治めておられる神様は、アブラハムの子孫に授けられる祝福をエサではなく、ヤコブに授けられた。
そういうふうに神様の説理がなされたということになります。
だから、これも全て神の御手の中で、主権のもとでなされたことであります。
神の許しなしに行われることはありませんから。
ところで、この神の主曲に預かるということを、私たちの今の信仰生活に適応していきたいと思います。
神の主曲に預かるということについて学んでいますけれども、
私たちは神の人として、普段神の主曲に預かるために、私たちはどれだけ心も身も主に捧げているかということです。
その中で、何より強調してお話をしたいことは、礼拝・祈り・御言葉について、私たちはどれだけ心も身も捧げているだろうかという問いです。
まず、礼拝について、短くお話をしたいと思います。
今日もいろいろなことがありますが、皆さんはすべてを後にして、ここに礼拝を大事にして、たっとんでここに集まっていらっしゃいます。
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それは本当に素晴らしいことであります。
神の主曲に預かる人は、礼拝を命のように大事にします。
神の人は、餌をのように決して礼拝を軽んじません。
なぜなら、礼拝は神の人が、神の恵みや主曲に預かる最も重要な手段だからです。
だから皆さん、神の主曲に預かっている人は、普段から礼拝に清く備えます。
何より、礼拝を第一にします。
妥協しません。
礼拝を第二、第三にすることはありません。
彼の人生に、神様を礼拝することより重要なことはありません。
それから、礼拝を捧げる心と身体の姿勢は、謙遜で正しいです。
心から主を賛美して、神の声に耳を傾けます。
神をたっ飛ぶ心や身体の姿勢で、礼拝を捧げます。
それから、捧げ物においても、本当に精一杯のものを捧げます。
それが、普段の生き方に備えられています。
もちろん、成長する段階もありますし、成熟していくことでしょう。
だから、神の祝福に預かる人は、
月曜日から土曜日、日曜日も、前日が神の礼拝に備える日々になります。
また、神の人は、人においても、神の祝福に預かっている人らしく行います。
祈りの重要性、祈りの力を信じるから、祈りをとても大事にします。
祈りなしには何もしない、というようなキャッチフレーズを持っています。
一人で祈り、共に集まって祈ります。
祈りを学び、祈りを実践します。
新約聖書のヤコブの手紙に書いたヤコブの使徒は、ニックネームがあります。
皆さんご存知ですか?
ラクダの膝と呼ばれます。
ラクダが膝を曲げるのではないですか。
それほどヤコブの長老、使徒は祈りの人だったのです。
あまりにも膝を曲げて、膝をまづいて、祈る人だったから、
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あの初代の人々はヤコブ、使徒、長老と呼ばれますが、
彼はラクダの膝と呼ばれます。
皆さんの膝はラクダの膝のようですか。
もちろん、膝が痛いからかかめませんよという方もおられるかもしれませんが、
心の膝は常に神の前にかかんで祈っているのでしょう。
神の祝福に預かる人の祈りの手帳には、たくさんの人の気と課題が書かれていて、
そのために日々祈ります。
だから、5分ほどとか30分、足りません、足りません。
1時間祈っても時間が足らないんです。
たくさんの人のために祈るわけですから。
その祈りが応えられるのをよく目にして、神を褒めたたえる人なんです。
神の祝福に預かる人は、自分のためじゃなくて、
もう、兄弟姉妹のために、あるいは皆さんのように、
牧師のために、この日本のために、社会のために、ひたすら祈り込む人なんです。
そして、その祈りが応えられる神の答えを自分の目で見て、主を褒めたたえる人なんです。
それが神の祝福に預かる人です。
また、神の祝福に預かっている人は、聖書の御言葉をたっ飛びます。
毎日、聖書を開いて、礼の糧をいただいています。
神の御言葉を食べないのは、最も恐ろしい罪だと考えます。
聖書の御言葉を軽んじることは、神のメッセージを軽んじることになり、
結局、メッセージの発信者である神様を軽んじることになるからです。
だから、神の祝福に預かる人は、聖書の御言葉こそ命だと考えているから、
日々、聖書を読むこと、牧草をすること、学ぶことをとても喜び楽しみます。
神の人は、この聖書の御言葉を噛みしめて、それから味わえる深い味わいがわかる人だから、これをやめられません。
もう、読みたくなるんです。
その味がわかるから、恵みがわかるからなんですね。
そして、御言葉から、実生活における大事な教訓や知恵をいただいているから、とても賢い人です。
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その人には、天の知恵や神の知恵があります。
だから、このような生徒が多い教会こそ、幸せな教会であり、道徳をもちらえるようになるでしょう。
メッセージを終わりたいと思います。
普段の生き方、考え方が、その人の実際の信仰の様子であり、力なのです。
この朝、神様から問われています。
あなたは、神の主局に預かりたいですか?
神の壮大な救済歴史の主局に預かりたいですか?
それにふさわしい生き方や考え方をしていますか?
神様のこの問いに、主よ、はい、そうです。
あなたがご存知です。と答えられる私たちでありたいと願います。
お祈りしましょう。