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では、もう一度、隣の方からお願いいたします。
それではお祈りしたいと思います。
私たちは神の作品であって、良い行いをするために、キリストイエスにあって造られたのです。
神は私たちが良い行いに歩むように、その良い行いもあらかじめ備えてくださったのです。
主よ、
私たちを、キリストの御姿、聖なる神様の御姿として作ってくださって、愛してくださって、守ってくださる主よ、
どうか、今日の御言葉を通して、私たちが神の御所を正しく知り、また悟って、
そしてその愛のうちに、主を仰ぎみる神行のうちに、愛のことができますように、
主をどうぞ御言葉による、聖霊様による悟りを与えてくださいますように、
イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
3月に入りまして、今日から新しいシリーズメッセージをさせていきたいと願っております。
大きなタイトルは色々考えましたけれども、
私は神の作品、私は神の作品という大きなテーマに、
今日はその1、神がなぜ私を作られたのかを知ろう、神がなぜ私を作られたのかを知ろうという題です。
このメッセージを準備するようになった動機と言いましょうか、神様からのメッセージがありました。
それは、私たちがイエス様にお会いして、そしてそのイエス様を信じる前と後、
信仰生活をしていく中で、自分自身に対して、あるいは人間関係において、あるいは神様との関係において、
信仰生活を妨げるものの中に、その中の1つは、
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神様が喜んでお作りになった自分自身を、神の目と神の心で理解していないこと、
それが神を愛すること、自分自身を愛すること、人を愛すること、信仰成長に妨げになっているということに結論に至るようになりました。
これは、私も個人の考えの結論ではなく、
聖書を読んでいく中で、牧草をする中で、祈りの中で、あるいは多くの講演や本を読む中で、
あるいは自分自身や皆さんの姿を見る中で、神様から示された、教えられたメッセージであります。
ですから、信仰生活を妨げるもの、神様が作られた美しい人間関係を妨げるもの、
あるいはキリストの御姿山で生存することを妨げるものがあるならば、それを取り除いていただきましょう。
ところがそれは、自分の力によってはできない。
だから、これを聖霊の助けによって除いていただくということであります。
そのためにはもちろん、御言葉と祈りはもちろん当然でありまして、
この課題について皆様にもそれぞれ悩みを抱えているのではないかなと思いますし、
これから共に祈っていただくこと、また悩んでいただくこと、そして聖霊の助けによって願うゴールは、
私たちお一人お一人が自分自身に対して聖書的で健康かつ健全なセルフイメージを持つこと、
そして自分と人を神様を喜んで愛すること、そして人々に神様に喜んでお仕えすること、
成長と幸福を味わい楽しむ人にならしていただこうということであります。
しかし皆さん、今日の一回のメッセージだけでは十分に満足できないかもしれません。
このシリーズメッセージはまだ決まっていないんですけれども、十回以上になるかなと思いますので、
そのメッセージの最後まで聴いていただき、あるいは共に考えていただいて、あるいは悩んでいただいて、
祈っていただいて、それで最後には神様が教えてくださる皆さんお一人お一人に、
個人的に神様が語ってくださる、教えてくださるその答えを掴んでいただきたいと願っております。
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ですから皆さん、主に期待して、御言葉に期待して、そしてこのメッセージを通してそのうちに私たちが変えられていくこと、
聖霊様によって、祈りによって、御言葉によって変えられていくこと、キリストの水型山で達していくことを期待して歩んでいきたいと願っております。
皆さん私が大人になってそれぞれ築くことがたくさんありますけれども、
その中の一つがあるならば、それは私はこういう人になりたいという自分、私という姿があると思うんですね。
こういう人になりたいという願う私の姿があるんです。
ところが皆さん、ここでこういう人になりたいといった、こういう人、自分が願う私というのは、
ただこの世から教えられているそういう歪んだ、曲がった考え方、価値観から見る目じゃなくて、
神様が私を見る、神様が人を見る、神様がこの世を見る、神様の目、神様の心を私たちが持つことであります。
ところがそれを持つために、得るためには確認しておきたいことが二つあります。
それは、罪のゆえに、殺さぬのゆえに、この世に入り込んだ、歪んだ価値観がいくつかありまして、
その中の二つが、私たちが神の目で自分自身の人を見ることを邪魔するものがあります。
その二つの中で、その一つは、いわゆる成功主義、あるいは成果主義というものです。成功、成果主義。
もう一つは、比較主義です。比較すること、比べることです。
これは、この世が持っている価値観として、私もこの世の中で生きているものとして、
いつの間にかそういった眼鏡をかけて、自分自身を見たり、人を見たり、兄妹を、姉妹を、教会を見たりするものであるかなと思います。
まず、この成果主義、成功主義について考えていただきましょう。
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だいたい、どういう基準で人を評価したり、判断したりするんでしょう。
何かの素晴らしい実績、業績をあげたら、素晴らしく成功したら、高く評価されます。
よい大学を卒業した者は、またよく評価される。このようになっています。職業を見てもそうでしょう。
こういう仕事を持っています。そうですか。ああいう仕事を持っています。素晴らしいですね。
そういうふうに評価したりします。あるいは、教会の中でもそういった考え方が、
私たちの知らずうちにそれが入り込んで、私たちが持っているかもしれない。
それで、教会を教会を比べる。
人としての教会の勃起は、とても素晴らしい勃起として評価される。だからあちらこちら、空間に好奇として招かれる。
ところが、ある田舎の、例えばですよ。田舎の2人3人勃起するオポジオネの勃起先生は、
そういうところに招かれることは、なかったかないかもしれません。
大きい教会の勃起は、素晴らしい勃起。小さい教会の勃起は、あまり素晴らしくない勃起。
そういうふうに見ている資格が、目が、私の中にあるかもしれない。
このように、成功、あるいは何かの業績、実績、仕事、職業、富、それをもって人を評価する、
こういった成功主義、成果的な考え方は、実は神の考えではない。
サタンが罪のゆえに人間の社会に植え付けてしまった、歪んだ思考であります。
もう一つは、資格をすることです。資格主義です。
サタンは私たちを常に煽ります。比べさせられる。
誰々の新しく家を買ったんだって、誰々のお父さんの給料がいくらだったって、
誰々の孫さんは東大入学したんだって、
ある教会が与えるものすごい大きな会堂を作らなくて、開けられる。
そして、高ぶったり、自分を責めたりする。
この成果主義と資格主義というものは、
サタンが巧妙に私たちの心の中に植え付けてしまった仕掛け、落とし、トラップというものなんです。
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サタンがクリサになった後にも、意外にこの仕掛けにかけられて、
心配する、強化する、強化される。
そして、高ぶったり、あるいは落下したり、避難したり、避難されたり、
感謝したり、感謝しなかったり、夫婦の間で、親との間で、あるいは教会の中、外で。
そういうことがあるのではないでしょう。
確かに申し上げますと、この資格主義、成果主義というものは、神の御心ではないでしょう。
後、サタンが巧妙に植え付けてあったやつだけが、その仕掛けにかかっているかもしれない。
ですから皆さん、私たちの人生の目的というものは、
ある特定の業績や経験や地位や職業にあるものではない。
人生において一番大切なのは、何をするかではなく、
何をしたかではなく、どんな人になるかということなんです。
神様が、私たちが生き生きと輝きながら生きることを願っておられます。
みんなそういうですね、輝く、そういう人生を生きることを主は願っておられます。
そして神様が愛おしておられる本来の私たちの姿、それはキリストの身姿なんですね。
神の子たちなんですよ。今もありのままではないですよ。
そのキリストの身姿へ、そこに私たちを変えてください。絶えず導いてくださっておられるということなんです。
ここで皆さんに一つ質問したいと思います。
皆さんは、神様は何でもお出来になる方と信じますか?信じますように。
そう信じるならば、これを覚えていただきたいと願います。
それは、神様には私たちをキリストの身姿にするために何でもできる、
たくさんの道具やたくさんの方法を持っておられる。
そして一つ一つ変えてください。一つ一つ導いてください。
そして神様は決して先を急いでおられないということである。
それは私たちにしてみれば、イライラすることかもしれない。
しかし私たちがイライラしている、焦っているその最中でさえも、
神様は私たちの内に忍耐を生み出そうと働いておられる。
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諦めないで働きかけておられるということなんです。
どんなに長く時間がかかろうとも、神様は決してダクタしません。
失望しません。それどころか、私たちが成就するたびに大喜びしてください。
階段を登って、今日は一つの階段を上がることができた。
それを主は大喜びしてください。
神様だけが本来の私たち、すなわち最高に変えられた私たちの姿を、
神様は見ておられるんですね。ご存知でおられる。
そして私たち以上に、神様の方が私たちをそこに近づけることに関心を持っておられ、
喜んでおられるということなんです。
今日のエフェクトピザの手紙2章の10節をもう一度一緒に読みたいと思います。
10節を一緒に。
私たちは神の作品であって、良い行いをするために、キリストイエスにあって救われたのです。
神は私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。
皆さん、私たちはよく10節見たら、誰の作品ですか?
自分の作品ですか?いえ、違いますよ。神の作品なんです。
私は私の作品ではない。あなたはあなたの作品ではなくて、神様の作品です。
つまり神様は作ることも計画なさって、そしてお作りになって、そしてそれを素晴らしく人生を歩むように導いてくださる。
その全プロセスを神様は知っておられ、働かけてくださる、導いてくださる、助けてくださるということなんです。
私たちが作ろうと思ったのは神様であって、私たちがどういう人間になるはずなのかを知っているのも神様なんです。
そして神様は、私たちが行うことになっているたくさんの良い行いをも用意しておられるんですね。
今日もありますよ。よくこれまで10節ですね。その良い行いをもあらかじめ備えてくださっております。
しかしその良い行いというのは、主人や奥さん、あるいは会社の上司からこれをやって、
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そういうふうに渡される何かのメモではない、やるべきリストではない。
それは神様が私たちのうちに良い働きを、良い行いを備えてくださって、
そしてそれを通してキリストの身姿へ私たちを差し示してくださる道するべなんです。
もう一度申しますが、神様は、私たちみんなが生き生きと輝き、花咲くように作られます。
それは私たちが神様から命を受け取って、そして自分の内側に活力を、あるいはその力を、命を養って、
そしてそれが自分を超えて周りの人々に祝福をもたらすためなんです。
それはキリストの身姿に変えられていくことであって、それを神様が願っておられる。
そして実は私たちはこういう人になりたいと思っているそのゴールは、キリストの身姿、神の形ではないでしょうか。
皆さん、信じていただきたいことは、神様が皆さんお一人お一人を成長させてくださる。
それを喜んでおられる。そしてそれが神様にはできるということであります。
ピリピリとへの手紙、1章6節。新約聖書の382ページです。
ピリピリとへの手紙、1章6節。
それでこれを一緒にお読みしましょう。
あなた方のうちに良い働きを始められた方は、キリストイエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は固く信じているのです。アーメン。
皆さん、この御言葉をよくよくご覧いただきたいですね。
良い働きを誰が始めましたか。神様です。
私たちのうちに良い働きを始めたのは神様であって、そしてそれを完成させてくださるのも誰ですか。神様なんです。
ですから良い行い、良い働きというのは、私たちがイエス様のキリストの身姿として歩むこと。
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イエス様のように語り、イエス様のように考え、イエス様のように関係を持って、イエス様のように歩むこと、それを神様が始めてくださった。
そしてそれを完成させてくださるのも神様である。
だからある意味ですべては始めも終わりも神様の皮にあるわけなんです。
必ず始められた方は必ずそれを上手くするということであります。
神様の御言葉は語られますと、必ずその通りになります。祝福の言葉も捌きの言葉も。
ですから皆さん、誰に期待したらいいんでしょうか。神様に期待したら祈りはないでしょうか。
神様が始めてくださった。その神様が私たちの内側にあってキリストの身姿に変えてくださる。
それを必ず完成してくださるということを神様に期待しようではありませんか。
ですからある意味ですね、イライラすることもありませんし、自分を責めることも、人を非難することもないんですよ、それは。
でも、油断はしてはいけない。サタンは狙っているんですから。
神様が私たちを制御させてくださるとき、私たちは変わります。変えられているのではないでしょうか。
しかしここで通りきているということがあります。それは、キリストの身姿に変えられていくんですよ。
でも、変えられて私が他の人になるわけではないです。変えられても、私は私だって、あなたはあなたです。
例えば、植物で例えてみたいと思います。どんぐりの木がありますよね。どんぐりは成長すると枷の木になりますね。
でも、成長したといってどんぐりの木がバラになるわけではないです。
成長してそれが健康な枷の木になるか、貧弱な枷の木になるか、どっちかなんです。
枷の木は枷の木なんです。いくら枷の木が貧弱であっても、その枷の木が雑草になることはないんです。そうですよね、皆さん。
私はキリストの身姿へ変えられていくんですけれども、私は私、あなたはあなたなんです。
成長している健康な自分か、衰弱している自分か、どっちかなんです。
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神様は皆さん、私たちを、皆さんお一人お一人を他の人にするために、皆さんを、私を救ったのではありません。
神様は私の気質もあらかじめ決めておられました。
持って生まれた才能や魂物も神様が決めておられました。
ある人にはこういう分野の特定の情熱や願いも与えられました。
ある人には違う分野への情熱や願いも、神様が与えてくださりました。
私たちの精神も心も体も神様が計画して作られたものなんです。
それが罪のゆえに歪んでいる。それを正していただくことなんですね。
だから私たちは、自分らしさというものは、神様によってデザインされた想像のあの時の姿なんです。
だから自分らしさを痒くしていただくことなんですけれども、
その自分らしさとは、罪あるありのままの自分ではなく、今のままの自分ではなく、
キリストのいい姿。キリストのいい姿を意味して、そこに変えられていくんです。
これを知り合いの僕先生の奥さんが清津くんに書き込んだあることです。
今日のメッセージと不思議にもちょっと関連があるかと思ってお話したいと思います。
僕主人が書いたことを前提として、皆さん聴いていただきたいと思います。
僕主人に対する過度な期待も問題ですけれども、僕主に対する過度な期待も問題だと思います。
まるで自分の夫や妻に対しても完璧であることを期待しながら、
よくよく他人と比べるなら、決して幸せな結婚生活にはなれないでしょう。
僕主も僕主人も完璧なものはいません。
基礎行伝を学んでいるうちに、初代教会の指導者たちも互いにスタイルも違うし、
時には葛藤もあり、時には言い争いもして別れたりしました。
すべての僕会社、僕主人は皆スタイルも違うし、気質も違うし、神の召しも違う。
うまくできることがあれば、うまくできないこともあります。
うまくできることに対しては感謝し、褒めてあげ、
うまくできないことに対しては寛容を示し、祈ってあげればいいのではないでしょうか。
僕会社を目指して作られて用いられる人は神様ですから、
いつも何事に対しても、もっともっとこういう落とし穴に押し入らないように気をつけましょう。
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違うスタイルも認めてあげましょう。
神様がこの人をAとして作れたのに、すっきりにBとCと比べるのをやめましょう。
AはAらしい時、BはBらしい時、一番幸せですから。
過度な期待という思いにおろして、喜んで働きをしましょう。
私は私だから、という書き込みでした。
もちろんその先生はカウンセリングの働きもしておられる牧匠人ですけれども、
その牧匠人も凄いの中でこういう話をしたようで、それを書き込みました。
皆さん、私たちは教会の中で現役に成長しましょうということを言葉をよく言ったりします。
しかし、現役に成長するならば、他の人にならなければならないことではないんです。
それは現役に成長するというものは一体どういうものでしょうか。
それは方向が変わることです。
この世に向かっていた自分が神に向かって歩むことなんです。
さあ、生徒に代表的なパウロ先生の例えを例えて話をさせてみましょう。
家様に出会う前のパウロはどういう人だったんでしょうか。
とても短気で、とても情熱的で、そして先頭に立って人々を迫害する気がった熱狂党でした。
とても熱い人でした。
ところがパウロ先生、あのパウロが家様に出会った後はどうなんでしょうか。
同じく短気で、情熱的で、人々のために自分自身をまろまろ捧げるもう熱い信者になりました。
パウロが家様に出会ってペテロになったわけではありません。
ユハネが家様に出会ってパウロになったわけではありません。
生徒はどこを見ても、家様がパウロに、あなたはユハネにならないんだろう、あなたはユハネにならないんだろうとおっしゃっています。
みなさん考えてみてください。神様がみなさんを救うようになりました。
救っておかれて、後から見てそれを捨てるようなことはなさらないでしょう。
そんなことがあるならば、捨てる瞬間から神様は神様でなくなってしまいます。
生徒そのものが失敗だから。
みなさん、私たちが変えられていくこと、成熟するということは他の人になるためではありません。
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私たちが変えられていくこと、変えられるということは、神様が作られた最高の私、キュリサの身姿になることです。
そして神様は、その身姿にあささきを導いて、助けて、守ってくださる、導いてくださる、愛してくださる。
時には勲会もいましでもしてくださるということです。
このような神の手を持った上で、第二コリント5章17節を一緒に読みたいと思います。
第二コリント5章17節。新約聖書の351ページです。
17節を一緒に読みましょう。
誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく作られたものです。
みよ、すべてが新しくなりました。
誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく作られたものです。
古いものは尽き去って、みよ、すべてが新しくなりました。
皆さん、神様は私たちを信頼入れ替えじゃなくて、取り替えるのではなく、贖いたいのです。贖うのです。救うのです。
神様は私たちをために忍耐と喜びをもって、成長させてくださっています。
今も、この出会っているうちも、神様は私たちを作り変えておられるんですよ。
神様は作業中なんですよ、皆さん。
このゴールは、キリストの御姿としての自分なんです。
もう一箇所開けたいと思いますが、殺された人への手紙、3章10節です。393ページです。
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よろしいですか。10節を一緒に読みましょう。
新しい人を来たのです。新しい人は作り口の形に似せられて、ますます新しくされ、真の父に至るのです。
アーメン。ここに明確に書かれています。新しい人は何でしょうか。作り口の形に似せられたものなんです。
キリストの御姿、神様の御姿へ私たちは近づいていくことであります。
メッセージを終わりたいと思います。
皆さん、おいとりおいとりは神様の素晴らしい作品です。
だから、ありのまま、いがのままでいいというのではなくて、キリストの御姿へ変えられていく。
その働きを、主が来てくださる。そして、主がそれを完成してくださる。
その主に期待して歩むこと。それが信仰性化してやるということであります。
最後に一つだけ、今日はここまでにしたいと思いますが、最後に皆さんにお願いしたいことがあります。
それは、さっきも申し上げたように、今回の1回目続きで急いで結論を出そうとしないでいただきたい。
例えば、帰って、ほら、先日先生が相手でしょと言ったり、
人を判断したり、あるいは自分を判断したりしないでいただきたい。
でも、シリーズの説教を料理に例えるならば、今日は鍋に水を入れたぐらいだけなんです。
まだまだ作っていません。答えは、このシリーズのメッセージの終わり、1になるかだし分かりません。
祈って、本当に自分自身のためにも準備させていきたいと願っておりますが、
終わり頃、神様が、私、一人一人に何かの確実な答えを教えてくださるに違いないと信じます。
主に期待して、祈って、備えていきたいと思います。
では、お祈りしましょう。