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2017-03-12 35:34

2017/03/12:わたしは神の作品(2)こうはなりたくない自分

2017/03/12 聖日礼拝

尹善鎬牧師

ヨハネの福音書 10:7-10

00:01
わたしは神の作品と題して、2、こうはなりたくない自分、ですと、メッセージをユン先生から語っていただきます。
皆さん、改めでおはようございます。今日も礼拝にようこそいらっしゃいました。それではメッセージの前に隣の方と挨拶をさせましょうか。
では、一言お祈りいたします。
わたしが来たのは、羊が命を得、またそれを豊かに持つためです。
アーメン、主よ、わたしたちに命を与えてくださる主よ、感謝いたします。
この朝も、あなたのあふれる命、光の命を、ここに集っているこの森の上に主を与えてくださいますように、お願いいたします。
語る者は主を隠してくださって、神ご自身の見所、また見声が、また英語が主を現れますように、主をどうぞお語りください。
神の部は起きていたします。
イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
はい、先週から新しいシリーズのメッセージが始まっています。
大きなタイトルは、私は神の作品。
今日はその2で、こうはなりたくない自分というタイトルです。
皆さん、私たちが普段、自分のことを考えて、たまにはこんな人になりたいなと思ったり、あるいは逆にこんな人にはなりたくないなと思ったりするかもしれないですね。
ところが今日のメッセージの結論から先に申しますと、
私たちは神様がデザインされた、こうなるはずの自分があるのです。
本来の自分、それは神様が作られた、神様がデザインされた、神様が望まれるキリストの姿の自分があるのですね。
03:13
この神様がデザインされた、こうなるはずの自分を取り戻すこと。
その自分になること、それに目指していくこと、そのために聖霊様に助けていただくことこそ、信仰の歩みではないでしょうか。
神様はですね、私たち一人一人を、とてもユニークな、尊い存在としてお作りになりました。
だからですね、私たちがそれぞれの人生が終わって、神の前に立ったときですね、
神様から、なぜあなたはモーゼにならなかったのか、なぜあなたはアブラムにならなかったか、
そういうように神様から責められることはないと思います。
しかし、これはあると思います。
私たちはそれぞれ自分として、キリストの身姿を求めて、もしいなかったならば、
もし成長にあまり関心がなかったならば、あるいはずっとずっとありのままであったならば、
神様から、なぜあなたはキリストの身姿にまで成長しなかったんだろうかと問われるでしょう。
ところが皆さん、政府が教える一つの真理があります。
神様は私たちを意図を持って、素晴らしい尊い存在としてデザインされましたけれども、
キリストの身姿として作られましたけれども、でも罪が入ってしまって、
罪のゆえにそのキリストの身姿を失ってしまっているんですね。
そのために私たちの内側には、本来の自分ではない自分のような自分が入り込んで住んでいるんです。
ですから、罪のゆえにこのような自分があると思います。
4つお話しできるかと思います。
1つ目は、見せかけの自分。
2番目は、こうあらねばと思う自分。
3番目は、他の人から求められる自分。
4番目は、神様はこう願っているのではないかと思う自分があると思います。
これらの自分はですね、実は本来の自分ではない。
神様のデザインでもなく、罪のゆえにその形が歪んだ、曲がっている自分なんですね。
06:07
しかし私たちは、聖霊様に助けていただいて、本来の自分、神様が喜ばれる自分に変えられていくこと。
真実の身姿を取り戻すならば、その人生には本当の喜び、本当の自由があるのではないでしょうか。
それが今日の御言葉、実教の実説です。
実教の実説をもう一度一緒にお読みしましょうか。
実説をもう一度お読みしたいと思います。
盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。
私が来たのは、羊が命を得、またそれを豊かに持つためです。
この後半の御言葉、よく皆さんご存知ですね。
イエス様が来られたのは何のためなんでしょうか。
それは、私たちみんなが、その神の命を得ること。
しかしそれはですね、もう豊かに持つためなんです。
それは死んだ後のことではないですね。
この非常に生きているうちに、その神様の命を得て、それを享受すること、味わうこと、喜び、楽しむことなんです。
ところが、それを騙すものがあります。
それを妨げるものがあります。
それは、罪のゆえに曲がった、歪んでしまった自分なんです。
そこから私たちは、キリストの身姿、本来の自分へ近づいていくこと。
この道のりが信仰の歩みだと思うんです。
まず一番目、見せかけの自分です。
この見せかけをする自分があるんです。
こういう造句があります。
軍人の話です。
隊員に昇格したばかりの軍人さんが、新しいオフィスに入りました。
下の一等兵が、自分の新しいオフィスに入った時に、その隊員が、自分は大事な重要人物であるかを見せたくて、将軍と電話をしているふりをしていました。
はい、了解しました。将軍、私にお待たせください。
そして勢いよく受話器を置いて入ってきた一等兵に、お前は何の用だと言った。
そしてその一等兵は、はい、電話線が故障していたため、修理に参りましたと答えたそうです。
09:01
わかりましたか。
ここの電話機を持って、ふりをしていた。
私たちは日頃、いろんな人に出会ったりするんです。
私もいろんな選手方や選挙主、いろんな人たちと出会ったりする。
ところがある人は、何かの分野に対して、俺はあなたよりたくさん知っているよと賢いなのと、そういう見せたくて、見せたくてたまらない人を会ったりしています。
こういう人たちと出会って話をしたりしたら、もう聞いている側が疲れてしまうんですね。
でももっと驚くことは、そう言っている人は、自分が何をやっているかことに気づいていないこと。
現代人は、実はみんな心の中に、何か隠さなくてもいい自分、見せかける必要のない自分、ありのままの自分でいられる居場所、受け入れられるその居場所をみんな願って絶望していると思うんですね。
ですから、教会こそ、そのような居場所であるべきだと思います。
見せかけをしなくてもいい場所、そういう人間関係の居場所であるべきである。
教会がそのような居場所であるときに、人々は希望を、光を、あるいは心の安らぎを、教会に来て、あるいはみなさんと触れ合って、その中にその居場所が、
ああ、ここなんだ。この世の中でたくさん隠して、仮面をかぶって、かぶって、かぶっているその自分を、ありのままの自分をあらゆる仕事ができる、受け入れられる、そして喜びと光を得るところが教会であるべきではないでしょうか。
そしてそれを見つけたらですね、喜んで使えるようになると思うんですね。
このような私たちの今の姿をよく知っておられるイエス様は、このように言われました。
マサイの国書11章28節、私が読みします。
すべて疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。私があなた方を休ませてあげます。
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教会こそ、イエス様の身元こそ、重荷を下ろすことのできる場所。
疲れた人が安らぎを得ることができる場所。希望を見出せる場所。自分が受け入れられる場所。
あるいは自分の話を聞いてくれる場所。
あるいは共に泣いてくれる信徒の仲間がいる場所。
共に喜んでくれる信徒の仲間がいる場所。そこが教会ではないでしょうか。
宮谷教会がそういう教会でありたいと切に願っております。
昨日も3月のママとの会が待たれました。
先生方として本当にいろいろ放送してくださって、背後で皆さんが祈ってくださって、
6人、7人ぐらいの子供を持っておられるお母さんたちが集まって、
いろいろいろんな子育ての悩みとか、あるいは夫婦の悩みとか、いろんな悩みを打ち明けることができるその居場所があって、
その中で慰められる、あるいは癒される、あるいは教えられる、あるいはいい仲間が、
大体30代のお母さんたちですけれど仲間ができて、
その中でそれが信徒へ教えられる、教えられるそういう恵みの場所があって、本当にいいなと感じさせております。
皆さん、そもそも私たちは神様の前では何の見せかけも必要ないんですね。
自分がなりたいと思っている自分に本当になろうとするのであれば、
まずは今の自分がどういうものなのかを正直に神の前に認めるところから始めなくてはならないと思います。
ですから、神の前に今の自分がどういうものなのかを正直に認める人になることが大事だと思う。
そしてその一つを実は幸せな人なんです。
例えば、木の前にあって、
主よ、私は傷ついた者です。主よ、私は壊れた者です。主よ、私は意地悪者です。主よ、私は見せかけ者です。
かかぶっています。固くなな者です。主よ、この者を、こうはなりたくないんです。主よ、私を変えてください。
まず、自分自身の今の自分を神の見前に正直にさらけ出して、
15:04
そして分け渡して認めるところから変えられるこの恵みが始まると信じます。
2番目は、こうあらねばと思う自分があります。
こんな人にならなくてはならないと思って、とても頑張っている自分が多いかなと思います。
それがなぜなのか、誰から言われたからなのか、あるいは自分の思い込みなのか、それは知りませんけれども、
そういうふうに思って、あまりにも頑張っているクリスチャンも少なくないんじゃないかなと思います。
世界的に有名な作者である天源直遠という先生がいらっしゃいますけれども、その先生はこう言いました。
霊的な偉大さとは、他の者よりも優れていることとは何の関係もありません。
確認がどれだけ最高の自分になれるかの問題です。
それぞれが他の人と比べて、私はAさんより優れている、私はBさんよりちょっとダメだなと、
そういう比べられて、この霊的な偉大さがそこから始まる、生じるものではなく、
実は神様が作ってくださった最高の自分になれるか、そこにかかっているということなんです。
そうだと思います。本当にそうだと思います。
私たち一人一人がどれだけ神様がデザインされた最高の自分、そこに達していけるだろうか、との問題だと思います。
いつの間にか私たちは皆、こうあるべきと思っている自分を持っているかもしれません。
僕たちは、あるいは神徒は、あるいは法医者は、こうあるべきだと。
ところがですね、それが必ずしも神様の御心と一致しないかもしれません。
神様は今日の御言葉にありますように、私が来たのは、主が命を得る、それを豊かに持つためなんです。
何かの拘束を、縛りを与えるために、イエス様が来られたわけではないんですね。
そのために救ってくださったわけではないんです。
以前は罪の鎖なんだけれども、今からは神の鎖が私を縛るために救ってくださったわけではありません。
18:00
その鎖から本当の自由を与えるために私を救ってくださったわけなんです。
その自由を必要にやって、喜び楽しむことが信仰ではないんですよ。
ですから私は自分自身を自分で縛ってもいけませんし、人を縛ってもいけないと思うんですね。
御様にあるところには何がありますか。自由があるんです。聖書の御言葉。
あるクリスタル夫婦の話です。本で読んだ話ですけれども。
とても活動的で、おしゃべりが好きで、とても社交的で、自分から積極的に働くのが好きな夫が、
逆に一人でいるのがとても好きで、多くの人たちと一緒にいるのがとても苦手な女性と結婚をします。
どうなるんでしょう、皆さん。こういう夫婦は。
その奥さんにとっては、一人で時間を過ごすのがとても自然なことなんですね。
それでその奥さんはよくよく一人で静まって、本を読んだり祈ったりすることがとても好きです。
旦那さんとおしゃべりするとか、あるいは夫婦が寝室で話したことなどにはあんまり興味がない。
そんなに霊的なものではないと思うみたいです。
一方では夫は一人でいることが苦手なんだから、その妻の奥さんの姿を見て、逆に自分は十分に祈っていないように感じてしまいます。
だから彼はよくよく人たちに出会って、その人たちを励ましたり、その人の話を聞いたりすること、
その優れた神の賜物があるんですけれども、それがなかなか生かされていない。
そうするならば、皆さん、どれが神様が願うそれぞれの賜物が生かされる人生なのでしょう。
アメリカのChristian Todayというクリスチャン雑誌があります。日本語はネット版があります。
そこにこういう記事がありました。アメリカの教会のことですけれども、
アメリカの教会の牧師やあるいは教会のリーダーを対象にして、アンケート調査をしました。
その中でこういう項目がありました。
あなたは教会のリーダーとして、リーダーはこうならなければならないという圧迫感を感じていますか?と質問をした方です。
ところが、はいと答えた教会の牧師とか教会のリーダーの中で、はいと答えた割合が89%だったそうです。
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牧師はこうならなければならない。リーダーはあるよね。役員はこうならない。そういう圧迫感を。
彼がある意味、健康に自分を持っていくことももちろんあると思うんですよ。全く否定するわけではありませんが、
でも、副作用みたいに、その思いのせいで、いつも本来の自分とは違った自分になろうと頑張りすぎる自分がまたあるかもしれない。
こちらの皆さんは、礼的正義において、何々すべきという言葉は重要なんです。
例えば、仏会の御言葉を守るべきであること。礼拝を守るべきであること。宗を愛するべきであること。それは大事なことなんですよ。
それを否定しているわけではありません。ところが皆さん、本当は従いたくないんだけれども、
従うべきなんだから、仕方がなくて従っているならば、神様は喜ばれるでしょうか。喜ばれないでしょう。
例えば、家で子供にちょっと掃除してもらいたいと。あまり喜んだ顔をしないで適当に掃除していたら、お父さんからの気持ちはどうなんでしょう。喜ばないでしょう。同じなんですよ。
神様が願う私たちの姿は、仕方がなくてやる、仕方がなくて捧げる、あるいは仕方がなくて守る気にもなくて喜んで進んで、
仏を愛して、礼拝して、あるいは奉祥して、あるいは捧げて、あるいは伝道する姿ではないでしょう。
神様は、私たちの生命に支えられた神様の御言葉を守ることとか、あるいは神様を愛すること、人を愛すること、一緒に仕えることを、私たちが喜んで進んでやることを願っておられる。
3番目。他の人から求められる自分があります。
誰もが私たちにこう変わってほしいと思っている人が、私たちの周りにはたくさんいるかなと思います。
例えば、奥さんは旦那さんにもっと家事や子育てに関心を持ってほしいと思っていたりするでしょう。
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逆に、旦那さんは奥さんにもっと優しい妻になってほしいとか、そう思うかもしれません。
あるいは、世の中の新聞を見てもテレビを見ても、いろんなコマーシャルがある。
実はその背後には、こういう考え方があると思うんですね。
例えば、クレジット会社の会社は、私たちにもっと借金を作ればいいと思っているかもしれない。
食堂は、私たちがもっと外食すればいいと思っているかもしれない。
私たちにこうなってほしい、こう変わってほしい、こうしてほしいという、求めている人々が周りに大勢いるかと思います。
いわゆる、他の人から期待されている自分がある。
しかし、本当の人生は、神様が願われる人生は、人たちから求められて形作られる自分じゃなくて、
神様が私に期待しておられる自分になることではないでしょうか。
もちろんですね、信仰の先輩とか、信仰の人から、あるいはメント社から賢く知恵を、アドバイスを受けることは大事です。
ところが、もしもですね、他の人から求められている自分になるために印象を送るならば、その人は決して幸せにはなれないと思うんですね。
そこには疲れてしまう自分、あるいはその人の機会に応募できなかったため落ち込んでしまう自分、自分を責める自分、
そういう自分しかないと思うんですね。
神様は私たちに命を与えるため、それを得てそれを持って豊かに持つために来られました。
だから私たちのこの目はいつも、ジース・キリストの身姿を見上げること、そして神様の見所が何であるかをそれを知ること、教えられて、そしてそれに目指していくべきではないでしょうか。
この生徒は聖霊様が助けてくださるんです。
わけなら、聖霊様は神の霊であられますから、その方が私たちが行くべき道を目指すべきところを教えてくださる。
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そしてそうできなくて悲しんでいる私たちと共に、悲しんで泣いてくださる聖霊様が共にいてくださる。
そして助けてくださって、生徒としてくださる聖霊様が共にいてくださる。
3番目、神様はこう願っているのではないかと思う自分があると思います。
アメリカに宗教専門調査機関があります。昔から有名なバーナー・グループとありますけれども、最近こういう調査をして発表しました。
人々の霊的成長を助けるときに一番困るのは、ほとんどの人が霊的に成熟するとは、
生徒的に規則を守るために頑張って努力することだと思っていることがわかりました。
もちろんアメリカの場合ですけれども、他の国とそんなに変わらないかもしれないなと思います。
規則を守るもの、それが信仰成長、霊的成長に一番大事なものだ。
あるいは逆にそれができていないから自分は困っていると思っている人が少なくないということなんですね。
皆さん考えていただきたいです。神様が望まれる私たちは、自分はどんなものなんでしょうか。
神様が望んでおられるあなたの姿はどんなものなんでしょうか。
それは主にあって命を得て、身様にあるところに自由があるように、主にあって自由に主に仕える、人に仕えるその人生なんです。
チコ・パウロはこのように言いました。
ガラティア・ヴィトリの手紙3章12節ですけれども、これをまずは神科学語をお読みしまして、
そのあとはまたメッセージバイブルという聖書がありますけれども、その訳もちょっと紹介したいと思います。
ガラティア・ヴィトリの手紙3章12節、私が読み出します。
ガラティア・ヴィトリの手紙3章12節、しかし立法は信仰によるのではありません。立法を行うものは、この立法によって生きるのです。
これがですね、神科学説ですけれども、メッセージバイブルはこう訳しています。
規則を守っているからといって、それで信仰によって生きるようになるのではありません。
ひたすら規則を守ることに重視するだけになります。とあります。
また第2コミット3の6節には、文字は殺し、御様は生かしますという御言葉があります。
30:08
規則に従うこと、イエス様に従うことには、天と地ほどの違いがあります。
それなら、正しい心、信仰心、信仰の心を育てる、神を愛する心を育てることなきに、形だけの規則に従うことは可能な中です。いくらでも可能なんですね。
イエス様は、今日の御言葉で何と言われたのでしょうか。
もう一度申しますと、私が来たのは、あなた方が命を得るためなんです。
イエス様が来ていても、私が来たのは、あなた方が規則を守るために来たのではと言われていないです。
霊的生徒とは、イエス様が考えられるように考えることではなく、
イエス様が言われるように言うこと、
イエス様が人に仕えられるように仕え、
イエス様が愛するように愛することではないでしょうか。
最後に、私が成るはずの自分があります。
これこそ、神様がデザインされた、神様が望まれる、私たちの成るべきの自分なんです。
そこに目指していきたいんです。
それが本来の自分なんです。
でも、罪のゆえに本来の自分を失っているんです。
本来の自分が欠けていたり、曲がっていたりするかもしれない。
それを回復していくこと、取り戻すこと、それこそ霊的生徒ではないでしょうか。
決して変わらない嬉しいお知らせがあります。
それは、神様は私たちが生徒することを望んでおられることです。
そして、その成長を、私たちの成長を神様はあきらめないことなんです。
これが一番嬉しいニュースではないでしょうか。
願っておられる、してくださる、あきらめない。
ヒトファウルは、エペソビズの手紙4の16節に、
キリストにあってあたなわれた教会が、生徒として愛の内に立てられるのです、と言いました。
16つを全部読みますと、こういう言葉ですね。
キリストによって、体全体は一つ一つの部分が、その力量にふさわしく働く力により、
また、備えられたあらゆる結び目によって、
しっかりと組み合わされ、結び合わされ、生徒として愛の内に立てられるのです。
33:06
これこそ、私たちが目指すべき自分の仕方である。
変えられるべき自分の仕方であることなんですね。
皆さん、神様は、私たちが本来の私たちになって、花咲くことを望んでおられます。
なぜなら、自分の本来の姿のお花をきれいに咲いて、
そうすればですね、自分を通して、周りにたくわき香りを放つことができる。
様々な花咲くようになったら、多くの人々を助ける、励ます、取り成すことができるでしょう。
そして、多くの人々が自分を通して、その人も花咲くことができるようになるからなんです。
ですから、逆に言いますと、神様がデザインされた自分、
真実の見姿を失っているそのままであれば、自分も損ね、周りの人々も損なんです。
なぜなら、自分を通して祝福されるべきのはずの人々が祝福されないんです。
なぜなら、自分らしく神様のデザインされた花咲いていないからです。
神様は、私たちがキリストの見姿まで製造していって、変えられていって、
そして自分も命を得る、それを喜び楽しむ、
そしてその自分を通して周りの人々も祝福され、喜びを得、命を得ることを主は願っておられます。
そのために、私たちは生きるのです。
別世紀を終わりたいと思います。
皆さん、愛している皆さん、ともにキリストの見姿を願っていこうではありませんか。
私たちが、皆さんがキリストの見姿に近づければ近づくほど、
自分も周りの人も神の喜びを得る、命を得る、そこまで精霊に助けていただいて、
そしてキリストの見姿を目指して、言葉も行いも人格も品性も変えられていこうではありませんか。お祈りします。
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