00:01
アーメン、感謝します。いつも豊かに、聖課題の賛美を、ありがとうございます。
それではですね、今日も、言葉をいただく前に、隣の方々と笑顔で、ハァハァの声で、握手をしながら、挨拶をしたいと思います。
はい、よろしくお願いします。はい、どうもありがとうございます。
ですね、衆法の、小則の6番にですね、今月の推薦書というところがありますけれども、これからですね、なるべく月に1回、あるいは2月に1回ぐらいですね、
クリチャンの余裕本をですね、お勧めして、皆さんに読んでいただいてですね、ともに、我らの信仰が支えとしていけたらと、そう思っておりますが、
今日はこの最初の一冊ですが、本題は、教会は祈りでさせられる、という素晴らしい本です。
この本の書かれた方は、私の派遣協会が、プサニスヨンのという協会がありましたけれども、そこの出任国していらっしゃいましてですね、
35周年の記念本が韓国で出版されて、そのときにちょうど私がプサンに降りまして、私とまた他の韓国語が上手な姉妹たちとですね、
4人でですね、一緒に翻訳して出した本です。是非ですね、読みやすい、薄い、しかも安い。
ですから、読んでいただけたと思っております。そして読み終わられた方はですね、一行でも二行でもいいですし、なくてもいいです。
感想文を私の方に出してくださる方には、プレゼントさせていただきたいと思います。機材を持ってですね。
いつのまにかですね、寒いなと思ったところ、またいつのまにか暑くなったんですね。
本当に私も服を黒い服から赤い服で着替えたんですけれども。
5月はよくですね、家庭あるいは家族のことをですね、考えたりお祝いしたり感謝を表したりするところですが、
今日は教会役の礼拝もですね、母の日礼拝として捧げて、子どもたちもお方にもいっぱい来てですね、本当に感謝の時を待たせていただきました。
03:06
今日は福音が生きている家庭、福音が生きている家庭という対話を持ってですね、ともに教えていただきたいと思います。
この皆さん、家族、家庭の重要性は何度も繰り返して言っても、あるいは言われても過ぎることはないと思います。
私たちがいただいているこの救いというものは、トータル的な救いですね。自然人格的な救いです。
自然も、国も、社会も、あるいは職場も、学校も、家庭も、個人も、またあらゆる関係がこの罪から滅びから救われること、それがイエス・キリストによる救いであります。
ある問題を解くためには、その起源を探ってみることが重要だと思います。
今日の創世記、読んでいただきましたが、第2章、第3章にはですね、家族、家庭の起源について書かれています。
唯一の神、創造無し神様はアダムとエバオを作られ、そして人類はじめのですね、ファミリーが幸せなうちに始まりました。
でも、罪の家に夫婦の関係が壊れてしまいました。ひびが開いてしまったわけですね。
その以降、人間の世界には罪が入ってきた。
アダムとエバの関係も、またその子供をですね、お兄ちゃんカインと弟アベルの間に殺人という親子関係、兄弟関係にひびが入ってしまって、簡単に言えば悪くなってしまいました。
そのように失敗した我ら人間にお通しで出てこられて、救いを成してくださった。
簡単に言えば、これが福音ということです。
皆さん、私たちはですね、みんな弱さを抱えています。
06:00
誰でもですね、完全完璧な人はいないんですよね。
ですから、ある意味で家庭というスペースはですね、過ちや弱さや欠点とか、そういったものがですね、よくしょっちゅう暴かれる、現れるところだと思うんですね。
私たちは会社に行ったり、あるいは学校に行ったりしたらですね、そこではその関係を、良い関係を持とうとしてですね、
とても緊張したり、気を配ったりですね、しんどくても良い関係を持とうとですね、武力するんですよね。
でも家に来たら、家だからそういうこともありますけれども、緊張が溶けてですね、家族にですね、何というんですか、言葉や振る舞いや行いが荒くなったりするんです。
弱さがそのまま現れることが多くあります。
だから家族関係においては、痛みや傷などなどを、あるいは不幸を経験する場合が多くあろうと思います。
だからこそ家庭において、この福音が生きていて、福音が働いていて、その中に本当の家族関係、愛の関係に新たに作っていただかなければならない。
そしてそこで、回復とリアリティを私たちは経験していなければならないということです。
それでは福音が生きている家庭はどんなことでしょうか。
まず第一としては、福音が生きている家庭は、家族の間にこのため、お面をかぶらないことです。意味わかりますか、皆さん。
罪を犯した人間には、アダムだけではありません。
私たちも同じですけど、何か過ちとか、何か失敗した、あるいは罪を犯した人間の心の中にやってくるというものは、恐れまた恥ずかしさということなんですよね。
漱石の今日の御言葉を読んでいただきましたけれども、アダムとエババですね、神様はこの実だけは、この木の実だけは食べてはいけないと禁じられます。
でもそれはですね、私たちもですね、これをしないで、見ないで、見たくなりますよね。それをやりたく、変わりたくなりますよね。
アダムはもうそれを食べてしまいました。その後彼らの心の中にやってきたのは恐れでした。それで彼らは木の後ろに自分たちの実を隠してしまった。
09:17
また、罪を犯す前には裸でやっても美しいと思ったのに、罪を犯した後は、お互いのこと、あるいは自分の身を、体を見てですね、恥を、恥ずかしさを感じて、木の葉っぱでですね、隠そうとした。
このように、罪を犯した人間は、過ちを犯した人間は、その恥ずかしさ、恥、恐れを隠そうとする兼ねをかぶるということです。
例えばですね、私たちは自分を隠すために、自分の失敗、弱さ、そういったことを隠すためにですね、嘘をついたりします。
ただ、その心深いところを見たら、嘘をつくということはですね、拒絶されること、拒まれること、捨てられることに対する恐れがあるんです。
だから、嘘というものは、偽りというものは、一つの自己仮面なんです。
その仮面をかぶってですね、自分の弱さや失敗や恥ずかしさ、そういったところを隠したいんです。その仮面なんです。
それですね、アダムもエヴァもですね、そうでした。
その心存像、今の渡崎も同じです。よく見られる偽り、嘘はですね、責任転嫁という、責任転嫁、自分の過ちを他人になすりつけるということですよね。
お前のせいだ。私の悪くない。あなたが悪い。皆さん、家族で夫婦の関係でいかがですか。あるいは親等の関係でいかがですか。何かのトラブルが起きました。
そうすると、あなたがちゃんと知ったらよかったのに、こうしたんだからこうなったよとかですね。
われらはですね、実は自分が間違っている。だけども、自分は悪くないと思い、この稽古は私たちにあるのではないか。
正直にですね、率直にですね、その過ちを認めればいいんですけれども、その責任を相手に、旦那さんに、奥さんに、あるいは子供に、あるいは親のせいにします。
あるいは神様に、あるいは今も事態が悪いから、こういう日本は何とか、条件に、状況にそれを転換しようとすることが、私たちの心の中にある。
12:07
さあ、アダムとエバのことを見てみましょう。アダムとエバがですね、その善悪を知る木の実を取って食べたんですね。
そして神様が、神様が食われました。何でそれを食べたの?したらですね、母が何と言いましたか。
ヘビが食べてみてと言われて食べました。私は悪くありません。あのヘビのせいですよ。すべてはヘビのせいですよ、とですね、なじりつけている。
ヘビに、アダムはいかんでしたか。アダムはどうでしたか。アダムはですね、あのエバが、妻がもう食べてほしいと言われて食べました。私は悪くありません。彼女のせいです。
すべては他人のせいにするんですよね。これを私たちは自己疑いと言います。私たちはですね、みんなこのあまりにもですね、優しくこの自己疑いを言い張ったりします。
さあ、家庭のところを考えていただきたいと思います。皆さんは本当に立派な素晴らしい家庭、夫婦関係を持っていらっしゃるんですよね。
さあ、考えてみましょう。男性の場合、夫の場合はですね、朝から晩までですね、もう家族のために死ぬほどですね、死にそうほどヘトヘトになるほど、もう自分は一生懸命働いた。
家族のために死ぬほど仕事をして、そういった犠牲を思う、犠牲を果たせる男性が主に生きる自己疑いの衣があります。
それで、何かあったら、私はこんなに一生懸命働いて、朝から晩までもう丁寧、この後も仕事をしているのに、70歳まで仕事をしているのに、で、立たせる。それが男性が被っている自己疑いという衣です。
では、奥さんの方はないでしょうか。奥さんの方はですね、あんまり多くもない、この生税の給料を持って家事をして、面倒を見て、洗濯をして、工事をして、食事の準備をして、もう私も家で、本当、この犠牲は半端じゃないですよ。
あなただけがファイトで苦労しているんじゃない。私も家で苦労している。といった奥さんの方が着ている自己疑いという衣があります。
みんなですね、旦那さんも奥さんも、それぞれ自己疑いという服を着て、それで自分を隠そう、自分を防御する、相手を責める、このような姿を通して、とても深刻な、ひどい問題がもたらされると思います。
15:17
それでなかなか夫婦関係が幸せになれないこともあります。自分自身のことをですね、正直に向き合っていただきたいです。自分は今、文先生が語っていることを、一つも当たらないと思わないでほしいです。
皆さん、福音が生きている家庭は、その仮面をかぶらない、恥ずかしいと思わない、自分をそのままありのままで表す、隠さないこと、それが福音が語る夫婦関係、家庭の姿なんです。
皆さん、福音ってどういうものでしょうか。様々な定義があるかと思いますけれども、今日の観点から見ますと、福音というものは、神様が十字架を通して、自ら私たちの罪を、汚れたところ、恥のところを覆ってくださったこと、かばしてくださったこと、それが福音の恵みなんです。
福音の御言葉、九詩の定義ですね、二十一節ですが、アダムとヤバダは罪を犯してしまいました。神様を恐れてしまいました。お互いのこと、自分の体を見て恥ずかしいと思いました。
そのところ、彼らは木の葉っぱで体を隠そうとしました。しかし、その葉っぱというものは枯れてしまう。永遠なものではない。その時に神様が二十一節、一緒にですね、読んでいただきたいと思います。三章二十一節ですよ。
三愛。神である主は、アダムとその妻のために、革の衣を作り、彼らに知せてくださった。これが福音です。彼らの恥を、彼らの恐れを、彼らの汚れたところを、完璧に、完全に覆ってくださった。
それでないことにしてくださる。覚えることもない。それが福音というものです。
ですから、福音を経験した人、十字架の恵みを経験した人は、誰から何と言われても、福音の中で自由なんです。
18:03
誤ちを知っても失敗してもですね、言われても憎ともしない。主が覆ってくださるし、許してくださるから、大丈夫なんです。
ですから皆さん、家庭の中でも、この十字架の恵みによって、福音によって、主が私たちのすべての怪我を、恥を、恐れを、汚れたところ、様々なところを覆ってくださったように、夫婦の間でも、親子の間でも、相手のことを覆ってかけること、それが福音が生きている家庭なんです。
皆さん、私たちは、キリストの十字架の恵みによって、私たちの罪が覆われました。
そしてですね、聖父の言葉では、あがなうという言葉です。同じ意味です。覆うという意味です。無心に等しい、我らを許す福音。私に真の自由を与えてくださったその福音。
この福音を経験したクリスチャン、この福音を育ったクリスチャンは、隠すこともありません。責めることもしません。人のせいにもしない。覆って、でも知らないようにする。許す。自分から先に謝る。ということが、福音が生きている家庭なんです。
まずは、男性の方、あるいはお父さんの方々にお話をしたいと思います。
まずは、家族において、自分の過ちとか失敗とか弱さとか、男性は自分の弱さを見せてこないんですよね。
でも、家族の間でその弱さを正直に言い表すことが、奥さんに、あるいは子供に、あるいは親に自分の足りなさ、弱さを認めて、時にはまた許しを求めること、謝ることを、それが福音が生きている家庭の仕方。
自分の足りないと許してほしいと告白する。それが福音が生きている家庭なんです。
今日出会いにおいでになった男性の皆さんはいかがでしょうか。普段奥さんの方によくこういうふうに表していらっしゃるでしょうか。
21:06
あるクリスタルの旦那さん、こんな方あんまりいないと思うんですけれども、旦那さんは会社とかでは、ほんとに他の女性の社員はとっても親切で優しいんですけれども、
家に帰ってきたら奥さんには急に愛想がなくなってしまう。まず奥さんに、また家族に親切にしてください。ただの礼儀ではありません。
生徒には、私たちは誰に対してもお姉さまに使えるように使えなさいとあります。これも使えるということです。親切にしてください。
私、日本に来て、時々びっくりすることは、奥さんの方をよごとくに君とかお前とか、そういうふうに呼び方をするクリスタルの男性を見てびっくりしたんですけれども、
それは聖書的ではありません。よくないです。全ての人は、神の形に似せて作られた、高価で尊い存在です。その人の礼儀は、神の形が宿っている。
ですから、尊重し合うことがとても大事です。神様が私たちを尊重してくださるんですよね。許して、許して、待っていてください。それは尊重から始まったことです。
奥さんを尊重してください。そうすれば皆さんも尊重してもらえるでしょう。
今度は奥さんの方です。奥さんの方はみんな大丈夫でしょうか。どうでしょうか。
また奥さんの方もですね、自分の余計なプライドを下ろして、自分の仮面を外して、妻として、お母さんとして最善を尽くしていなかったこと。
本当に心から愛していなかったこと。自分の失敗や過ちや、あるいは高ぶりがあったのにも、なかなか謝らなかったこととか。みんな足りない人間です。
ですから自分の過ちを認めて謝る奥さんでありたいと、そう願っております。
そうしてお互いが家様に仕えるように仕え合うときに、そこに福音が生きているんです。皆さんの家庭には福音が生きていますか。
皆さん、家族関係のこの確信というものは、親密さということです。
24:05
今日の総席2章25節を一緒に読んでいただけますか。2章の25節です。3ページですね。
ご一緒に3回。子とその妻は二人とも裸であったが、ただいま恥ずかしいと思わなかった。これが親密さと言っています。
裸でありましたけれども、恥ずかしいと思わなかった。これほど親密感を持っていました。
皆さん、家庭の中でも同じです。夫婦の間、親子の間、この福音にある種にある親密さを感じるときに、そこに本当の幸せ、楽しみ、満足、安定感があるわけです。
この親密さというものがくれるエネルギーですね。ものすごい大きなことなんです。
皆さん、夫婦が例えば結婚して30年、40年、皆さんは何年くらいになられたんでしょうかね。私は今年96年結婚してから今年で17年に入ったわけですね。
夫婦がいくら長く50年一緒に暮らしていても、その中に親密感がなかなかない。そうすると幸せも楽しみも満足感もなくなってしまうんですよね。
分かるときには親密から来る愛で生きるんですけれども、歳をとっていくと親密感じゃなくて義務感を持って生きる。分かれるわけにはいかないから。笑っている方は。
死に死に、身体も心も霊も一致になって親密になる夫婦でありたいと願っております。
特にミシンザの奥さんとかミシンザの旦那さんの夫、奥さんの皆さん、旦那さんと本当に種にある親密な夫婦の関係であるように祈りながら支援をいただいて、そういう関係を持っていただきたいと願っております。
ところが、この親密さというものを長い時間ずっといれば、それが親密な関係だと言えるでしょうか。そうではないと思います。
27:01
短い時間であっても、心を尽くして、思いを尽くして使えて愛すれば、そこから親密な関係になります。
今の時代に少なくないクリスチャンであろうが、ノンクリスチャンであろうが、みんな我ら人間の中には様々な痛みを感じている。
その中の大きな一つの理由を挙げるならば、その親密感がなくなったということです。
夫婦の間にも親密感がなかなかない。だから寂しい、孤独なんです。旦那さんが会館に出勤したか帰ってきたか関心もなく、その言葉も出せてくれない。
奥さんがヘアスタイルが変わったかどうか、それも気づいていない。関心がない。親密感がないということなんですよね。
ですから、お互いに夫婦の間、また親子の間でもそうですよ。親子の間でもよく褒めて。
また人間というものは、この付近質を通して、そこから親密感が湧いてきますし、そこから愛を感じられるものです。
ですからよく外したり、また手を取ったり、食べたりですね。
そういうふうに、その親密感の愛を表していただきたいと。
うちは私と旦那を比べて、旦那より私のほうがよく愛を表すタイプなんですね。
私のほうから外したりするんですけどね。母親でもいじれんしでもですね。
一つの屋根で夫婦が暮らしていても、家族が暮らしていても、この親密感が。
だから孤独、寂しという大きな大きな病気が、さらにさらにもっともっと寂しくさせることがあるということです。
福音が生きている糧は、お互いの自分の過ちを認める。
そうやって言い表す、告白する。
もう既に火が覆ってかさった、ゆるってかさったから大丈夫なんです。
皆さん、私密を持ち始めたら、その私密というものにですね、あくれがですね、その隙間に付け入ってしまうんです。
夫婦の間でも、親子の間でもそうです。
30:00
だから隠すこと、私密というものは、暗闇です。闇です。光ではありません。
闇というものは関係を壊す。
隠すというものは、ひどい孤立感、あるいはもっとひどくなる場合は、精神病までもたらす恐ろしさが、その隠す私密というものにあります。
宗旨、キリスト様は光です。
次に行きましょう。
第二ですけれども、福音が生きている過程は、過ちを覆います。過ちを覆います。
今日の制服箇所を見てみましょう。三章の七節をご覧ください。
一緒にですね、読みたいと思います。三章、七節。
このように、ありがとうございます。
ここにですね、目が開かれという言葉があります。明るくなった。
今までは見てなかったものが、見えるようになった、そういう意味ですよね。
しかし、神様に対しては目が暗くなりました。
反面、人の欠点とか、過ちとかに対しては、目が開かれてしまいました。
罪を犯す前にはですね、裸だったんですよね。でも恥ずかしいと思わなかったんですよ。
相手を見ても、自分の体を見ても。でも、罪を犯した後は、それを自分も相手のことも恥と思って隠そうとした。
今まではそれは、弱点でも過ちでもなかったものが、過ちとして、弱点として目に入ってきた。
罪を犯す前には、愛を持って感情を持ってですね、これは私の肉の肉、骨の骨とですね、
本当にもう人類最高の褒め言葉が、このですね、アダムの言葉から出てきたわけですけれども、
その罪を犯した後は、責めたり指摘したりする目に、心に帰ってしまったということです。
冒頭にお話ししましたけれども、福音の恵みが、覆ってくださる恵みが福音の恵みなんですよ。
この、ばらしたり、暴いたりすることは、福音の恵みではありません。
皆さん、私たちはクリスタルになっちゃうものしねえ、弱いものですから、
33:03
過ち、失敗、罪を犯したりしまいますよ。
みんな、完璧な人は一人もいません。私も完璧ではありません。
夫婦の間で喧嘩を持ったり、子供ですね、本当に神の愛を持って愛してくれなかったり、
あるいは様々なですね、罪を犯すわけなんです。
しかし、神様は私たちの全ての罪を覆ってくださる。ないことにしてくださる。
ですから、家庭の関係においても、覆って差し上げることが、それが福音が言っている家庭なんですよ。
ですから、家庭のですね、過ちとか失敗とか弱さとか、そういったものをですね、
責めて責めて責めてするんじゃなくて、知っていても知らないふりをする。
分かっていても分かっていないように接する。許す。覆うこと。
それが福音が生きている家庭の仕方なんです。
福音が生きていない、福音が死んでいる家庭はですね、互いのですね、過ちを、欠点を、弱さをですね、暴く。
まるでですね、なんか小さなですね、鮮やかな失敗をしたりですね、まるでですね、昔の犯罪記録手帳を出してですね、
10年前、20年前、結婚の時からちょっと失敗したことですね、それをですね、繰り返して繰り返して繰り返して、
引きのほうが前で、引きの毛まで、それを、それは福音が生きていない。
私はですね、妻にですね、本当に感謝していることが一つありますけれども、うち3人の子供がいるんですね。
3人が生まれるときですね、真ん中のひびょんちゃんだけ私一緒にいてですね、2人の子は一緒に病院にいなかったんですよ、そばに。
ちょうどのときはですね、それは本当にもう私の悪かったところですけど、1月3日ですよね、私そのとき会社員でした。
それでその前の就任は生まれただろうとですね、休みを取って待っていたんだけど、生まれてこなかった。
それでこの日が私の覚えでは土曜日だったと思うんですけれども、会社がですね、新年の予算や決算、ものすごく忙しかったんです。
それで出勤をしてですね、会社に行って、午前中はですね、電話してどうなったかどうなったか、まだまだ。
それでですね、お昼が過ぎて、それをものすごく忙しくて、さっぱり忘れてしまったんですよ。
36:00
忘れてしまってですね、夜7時くらいになったかなって、もう、なってですね、はぁっ。
で、電話したらですね、うちの母がですね、もう生まれたよ、言ってですね、もう生まれていた。
3番目の子もですね、生まれるときにですね、6月ですけれども、生まれるだろうと思って考えてですね、
生まれるときに、教会の私は、バイブルカレッジという教会の聖書家役の担当の牧師ですね、夏に定期巡礼に行くことだったんです。
私はもう団長だから、行くしかないんですよね。
で、延ばして延ばして、あんまり書かない、切ってですね、決めたんですね。
でも生まれてこなかったんですよ。
それで出発の日に、私は釜山から陰村空港にいたときに出色生まれて、2人ともそばにいてなかったんですね。
夫としてはね、生涯お発表しなくならないことですけど、
彼女のことはそのことに私に一度も、あなたはそのときに一緒にいてくれなかったよなとか、
そういうふうに言われたことがないことですね。
本当に感謝して、ありがたく思っておりますけれども、
皆さん、私たちはみんな弱いわけです。弱さが欠いています。
家族の間で、子供に対しても、親に対しても、夫婦の間に対しても、弱さを負って差し上げましたね。
それが目踏みなんです。
政府の中にある下部が、主人に今のことをお好みで換算しますと、約6千万円ぐらいのお金を、借金を免除してもらいました。
その下部が6千万円の借金を免除してもらったんですよ。
でも、免除した下部が出て行って、街に行って、自分にたった6万円ぐらいの借金を持っている仲間を出会って、
お金に返して、そのことを見た人々が、主人にそれを言ったんですね。
あの司令は、下部が6千万円の借金を免除してもらったのに、たった6万円の借金を持っている自分の仲間を牢屋に入れてしまいました。
それで、その下部は主人に借金も返した。それで、その本人も牢屋に入れられたということは、聖書に使われている。
39:02
皆さん、私たちは神様に返すことができない、返済できない借金をないことにしていただきました。
罪というもの、自分が死なだるを得ない、その罪のないかを主が免除してくれたんですよ。キリスの死を通して。
ですから、私たちが許せない罪はない。許せない過ちはないということなんですよね。
だから、覆うこと、それが福音が生きている糧。
ですから、福音が生きている糧は、お互いに愛し合う、使い合う、それを今日の御言葉で言いますと、
過ちを、弱さを覆って、それが福音が生きている糧です。
ペテルの第一の手紙、四の八節を読みます。私が読みますね。
何よりもまず互いに熱に愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。
福音が明確に書かれているんです。愛は多くの罪を覆うことなんですよ。
ですから、神様の福音は、神の愛から始まったわけなんですよね。
皆さん、福音が人をもっともっと強く変えます。福音が生きている糧には、覆う恵みがあります。
政府の中にも、皆さん、宝刀息子の話を皆さんよくお存知でしょうね。それも覆う福音の恵みなんです。
弟息子が自分の遺産として受ける自分の分を前向いてもらって、社会に出て、もう無駄遣いをしてしまいました。
ボロボロ人生になって帰ってきたんですね。
その息子を、お父さんが彼の服も一番良い服で着替えて、そして指輪もはめて、靴も新品の靴で履き替えてくれた。
その場面は、まさに福音なんですよ。
彼が恥ずかしく思わないように、彼の心も体も心の全てのことを覆ってくれた。これが完璧な福音の光景なんです。
神様が私たちの罪を、弱さを覆ってくださったから、今私たちが生きているということです。
皆さん、どうか夫婦の間で、親子の間で、家族の関係の中で、子も覆うことをぜひ皆さん適応して、実践していただきたいと思います。
42:04
そうしていきますと、家族に本当の恵み、幸せが起こるでしょう。
3番目に行きましょう。
福音が生きている家庭は、健康な、英語で言いますと、セルフイメージを持ちます。自我相というんでしょうかね。健康なセルフイメージを持ちます。
皆さん、今日の聖書を見てみますと、罪によって人は恥ずかしさを感じたわけなんです。
また、相手に対する裁き、責めることが起きてきました。
そして、神様に対する恐れを感じて、自分の無価値さ、自分はもう駄目な人間だと、そういうふうに恐れを感じさせられた。
それは、罪から来たものなんですね。
だから、相手を見るときに、心が嬉しくないんですよ。
それで、自分を隠そうとしたんですね。
皆さん、私たちは、全ての人々は、神様の傑作品なんです。
商品ではありません。
一つ一つ、愛を持って、愛を込めて作られた、最後の作品、傑作品なんです。
しかし、罪のゆえに、人と比べること、あるいは比べられたり、そういうようなことを通して、劣等感や優越感を持つようになりました。
神様の形に見せて作られた、高価で、御言葉にありまして、あなた、私の目には、高価で尊いとはありません。
みんな、高価で尊い存在です。
でも、罪のゆえに、人と比べたり、あるいは比べられたりして、劣等感、あるいは優越感を持つようになって、
セルフイメージが崩れてしまいます。
例えば、生徒の中に、女性部が出てきますね。
十二の兄弟がいました。
お父さんは、特に下から二番目の女性部が大好き。
いつも褒めたことでしょう。
お兄さんに、あの女性部を見て、お前はなんでこんなにしているの?
女性部にしたらいいじゃないか。
そういうふうに比べられたでしょう。
その中で、お兄ちゃんたちが持っていた、その感情は何でしたか?
怒りでした。
それで、あの女性部を殺そう、亡くそう。
それで、女性部を奴隷に売ってしまったわけなんです。
皆さん、特に教会では、なかなか比べたりすることは、私たちはしないんですけれども、
45:02
冒頭でお話ししましたように、家族の中で、家庭の中ではよく比べたりするんですよね。
例えば、兄弟を比べたりですね。
お兄ちゃんはこうなのに、あなたはこうなの?とか。
誰々さんの、誰々はこういう性質が良くて、東大に入ったのに。
夫婦の間でもそうですよね。
比べられることが好きな人、好む人、いらっしゃいますか?
いらっしゃらないです。
誰々の旦那さんは給料も高くて、誰々の旦那さんはダイヤも買ってくれただって?とか。
誰々の奥さんは料理も上手で、でも君は本当に足で作ったの?とか。
誰々の奥さんはスラリとして、あなたはね。
比べて比べられて、人は変えることはありません。
むしろ、低いセルフイメージをもたらされる。
自画像、セルフイメージが、髪の形が歪んでしまいます。
だから小さい時に比べられて育った子供は、大人になって低い自尊心を持つようになります。
皆さん、福音が生きている家庭は、お互いが健康なセルフイメージを持ちます。
神様がその子供を、あるいは旦那さんの奥さんの親を、最後のものとして、
価値あるものとして、遠方という存在として、神様が認めてくださるんですよ。
だから私たちがそれを見避けてみてはいけないんです。
いい大学に行かなくていいんです。出国なくていいんです。
みんな出世して、みんな成功して、みんな今日美人になる。
そうすると、私たちが愛することができる相手が誰がいるのでしょうか?
いないですよね。
条件を持って愛したり、好んだりするじゃない。
神様は私たちの条件を見ていないんですよね。見てくださらないんですよ。
つくれたら、その私の形があなたの中には宿っている。
だから私はあなたを高価で、尊いものとして認めているんだよ。
それが福音です。
だから皆さん、福音によって弱さを徹底を、罪を覆ってくださる福音によって、
48:05
私たちの夫婦の関係が、親子関係が、あるいは兄弟関係が本当の意味で回復され、癒されるように求めて、祈って、
また私たちが人間として努力すべきことは、努力していきましょう。
福音が生きている過程には、神の恵みがあふれ流れましょう。
大恵みがあふれ流れましょう。
緩きの恵みがあふれ流れましょう。
それが本当の意味の愛なんです。
私の目にはあなたは高価で尊い。
私はあなたを愛している。
この神様の目線で、私たちも旦那様、親を、あるいは教会の兄弟姉妹たちを愛して、誓えていこうではありませんか。
どうか皆さん、まずは自分自身が恵まれるように、
そして福音が自分の中に働いて、自分を支えてくださって、
それでこの家族は、家庭が、福音が生きている真の幸せな家庭でありたいと、そう願っております。
お祈りします。
今日の御言葉を覚えてですね、大人の祈りを今しばらくご一緒にお祈りしたいと思います。
まずはですね、死の未来に自分自身の弱さを、また本当に神様の愛をもって、
愛していなかった、許していなかった、あるいは責めたりばっかりしていた、私たちの過ち、罪を、高ぶりを、死の未来に食い当ててあげましょう。
またこれからは本当に神様が支えてくださったように、
愛してくださったように、またその身をもって愛をあらわしてくださったように、
私たちも夫婦の間で、親子の間で、兄弟の間で、あるいは教会の兄弟姉妹の間でですね、
本当にイエス様が支えてくださるように、支えて、愛して、許して、
この追う恵みが川のようにあふれ流れるようにですね、この答えをもってですね、
それぞれ今しばらく祈っていきたいと思います。お祈りいたしましょう。
神様、あなたの恵みが起こるから、私たちの全てのことを追ってくださいました。
愛してくださいました。許してくださいました。
夫婦の間で、家族の間で、兄弟姉妹の間で追う恵みがありますように、
51:05
助けを導いてください。
本当にあなたの恵みがありますように、本当に福音が生きている家庭でありますように、
助けを導いてください。
お願いをいたします。
お父さん、お母さん、お母さん、家庭において、本当にイエスキリストの恵みによる、
十字架の許しによる恵みがありますように、
そして母の神、親の神、兄弟の神が治りまして、
どうぞ神様、あなたが私を導いてください。
あなたの恵みがありますように、どうぞ主よ、本当にあなたの恵みを僕らに感謝いたします。
どうぞ神様、夫婦の関係が本当にしわらくなりますように、
親の関係がありますように、その落ち着いた、福をつけたそのところが癒されますように、
神様、あなたを許して、回復して、治ってくださいますように、お願いをいたします。
どうぞ主よ、家庭の中で福音を味わえる、福音が溢れ流れる家庭でありますように、
どうぞ一人の家族の家庭を、夫婦の間を、どうぞ主よ、あなたが本当に回復してくださいますように、
恵みによって返されますように、どうぞ主よ、我らを憐れんでください。
一言お祈りします。
私の目にはあなたは高価で尊し、私はあなたを愛している。
二言お感謝します。
神様、アダムとエヴァの恥を、彼らの恐れを覆ってくださったように、
主は、我らの弱さを、日々だらけを、ありのまま受け入れてください。
許してください。
覆ってくださった恵みを、心から感謝いたします。
どうか主よ、神様が家庭を作ってくださいました。
その中にあたたちがおるわけです。
夫婦の間で、主よどうか、いつも謙遜に仕え合うことができますように、
自分自身をいつも祝福して、相手を戦って、本当に愛し合うことができますように、
家様が身をもって死なせるほど愛させたように、
愛し仕える夫婦の関係でありますように、
どうか引き寄せた親子の関係でも、本当に家様に仕えるように、
相手を、親を、子供を愛し続けることができますように、
愛し作ることができますように、
本当に父との、家族の、あるいは教会の兄弟一人の中にいる神の形を見ることができますように、
高価で尊い存在であることを見ることができますように、
そしてそのように接し、愛し、仕えることができますように、
どうぞ主よ、自分自身を、我ら自分自身を主が変えてくださいますようにお願いをいたします。
様々な傷を持っている方々、本当に必要つらい思いを持っている方々、
54:05
あるいは一人暮らしをしている方々、あるいは親子の関係でなかなか本当にうまくいっていない方々、
夫婦の間で本当に信任感がなくなって、本当に愛が冷めている方々、
そういった方々がいるならば主よ、どうかあなたが憐れんでください。
福音は全ての関係を解雇してくださる。
全ての関係を解雇してくださる。
全ての関係を解雇してくださる。
最高のものへと最善のものへと解雇してくださる恵みであることを信じます。
どうか主よ、あなたの福音を持って、イエス・キリストの十字架を持って、私たちを直してください。
劣等感や、あるいは優越感、あるいは本当に低いセルフイメージを、
あるいは心の傷を失敗した経験を、
本当に問題や、あるいは別境や様々な問題を、本当にこの暗い暗いこの気持ちから、
主は、あなたは高価で尊いと状況を見るんじゃない、環境を見るんじゃない。
尊く、高価のものとして主は受け入れてくださる、愛してくださる。
その愛に主よ、私たちが王として、
その愛によって癒される、回復されるものとして、主よどうか、あなたが憐れてください。
どうか主よ、本当に家庭が、家庭の中にあなたのリバイバルが起きますように、
どうぞ主よ、あなたが憐れてください。
お幸せでください。
主よ、どうか本当に、主のこの明大に教会を感謝いたします。
愛する方々たちが、愛を持って仕えて、本当に熱心に、朝も昼も一日中、
そのために奉仕させて仕えている兄弟姉妹たちよ、本当に主よ感謝いたします。
彼らのその奉仕を通して、その愛を通して、本当に主の教会が固く立て上げられますように、
どうぞ主よ、役人の一人一人、また奉仕者の一人一人よ、本当に主よ感謝いたします。
本当に全てのものを尽くして、主を愛し、教会を愛するその心を、
主よどうか、あなたが喜んで受け取ってくださることを、本当に主よ信じ感謝いたします。
我々が主のために、この町の福音のために順心して参りますので、
どうぞ主よ、あなたが憐れんで助けて、導いて下さいますようにお願いをいたします。
どうぞ主よ感謝いたします。
みくとおばは感謝して、家様の皆によってお祈りいたします。
一言ですね、メッセージの中で忘れてしまったんですけど、
一言ですね、本当にこれはみくとおばによって皆さんにお勧めしたいことでありますけれども、
神戸に来る前ですね、ある晩でした。
晩中ですね、子供たちが寝ていただいてですね、私にですね、
自分の、それは悪いことではないんですけれども、自分が本当に、
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簡単に言えば謝って、本当に真剣にですね、謝ってくださったんですね。
自分が愛してなかった、許してなかった、そういう風にですね、真剣にですね、謝ってくださったことがあって、
もう私も謝ってですね、さらにさらに夫婦関係がよくなったわけですけれども、
皆さん、今晩でもいいと思います。
夫婦の間で、あるいは親御の間でですね、いよいよ皆さんがまだまだ謝っていない、
何かの心の中の、何かの一隅にあるかす、塊がもしも小さなものでももしあるならば、
それをそのまま放っておかないでですね、謝って、そしてその中で、
父が祝してくださるその恵みをぜひ味わっていただきたい。
そうから不思議な回復が、恵みが起きてきました。
これは御言葉の恵みですから、皆さんにお勧めしたいと思います。
以上です。