1. 名谷教会
  2. 2013/05/05:聖日礼拝(旧音源)
2013-05-05 1:04:47

2013/05/05:聖日礼拝(旧音源)

2013/05/05 聖日礼拝(旧音源)




00:02
アーメン、アーメン、感謝します。
みなさん、おはようございます。
今日も、神様には栄光をお返し、私たちには素晴らしい恵みの時でありたいと願っております。
今日もですね、隣の方々と笑顔で、さわやかな声を持って、このように言いながら挨拶したいと思います。
ともに恵まれましょう、と。
握手をしながら挨拶しませんか。
ともに恵まれましょう。
はい、それでは一言お祈りいたします。
天皇、神様、今日も御末をお迎えして、
また、主の日に愛する兄弟姉妹たちが、
ともにはしません。
ともに皆がね、また御言葉につきます。
どうかしよう、
あなたの御言葉を、お一人一人の上に、その霊の上にしかお語りくださいますように、
お願いをいたします。
御手に頂けます。
聖礼様、生き廻って感度を与え、感化を与えて下さいますように。
イエス様の皆として、お祈りをいたします。
今日は、教会とは、その四、
聖霊に主導される共同体、という題を持て、
聖書科書は、先読んでいただきました、人の働き、第二章。
全体読みたかったんですけど、長いですので、四節までです。
今日はですね、鳥の話からお話ししたいと思いますが、
鳥の特徴の中で一つはですね、
たまうからですね、鳥が、例えばヒヨコがですね、パカッとやってですね、出てくると、
一番最初に自分の目に入ったその態度、
それを自分のお母さんと思い込む、そういう習性がある。
それをある学者は、刻印理論とですね、出したこともありますけれども、
例えばヒヨコがですね、皆さんを一番最初に見たら、
自分の本物のお母さんがいるんだけども、人について、
本物のままのところに行かない、という習性があるということです。
03:02
ところでですね、私たち人間も似たような傾向を持っていると思います。
例えば信仰生活のことですか。
はじめに信仰生活をした教会のですね、
全般的な特徴とか文化とか雰囲気に慣れて馴染んでですね、
愛着を持っていると思います。
ですから例的に、その教会がどんな教会によって、
その人の信仰水準と、あるいは信仰のカラーが決まる、と言っても過言ではないと思います。
例えば、はじめ最初信仰生活を持った教会のですね、
牧師先生がですね、メッセージをされるときにですね、
お笑い芸人みたいにですね、ものすごい笑わす、
そういう牧師先生のもとで信仰生活を長い間した人は、
あまり笑わさないメッセージがですね、心が敷かれないし、ということがあるかと思います。
ある教会がですね、学校みたいにですね、学びばっかり本当にとても重んじている教会は教室であって、
信者さんは学生みたいな教会は、みんなそういった教会になるでしょう。
あるいは教会がですね、救済、施しをですね、もう全面的にですね、本当にもう力を入れて働きますと、
その教会全体は、その救済、施し、施しをまずしんと、それは悪いという意味ではないんですよ。
それをとても重んじる教会、信者さんになるでしょう。
あるいは教会の全般的な礼拝とか、その集会の雰囲気がですね、とてもおぼすかで、とても静寂で、
そういった雰囲気文化の教会の中で育っていられた信者さんは、それになじむといって、
あるいはとても明るくて活動的で、そういう教会で初めて信仰生活を持った信者さんは、
そのようになることでしょう。私は日本に来てですね、まだまだ慣れたない少数のことがありますけれども、
九州にいたときにも、また去年と今年も静大学生会に出させてもらったんですけどね、
その中の一つの、これは特徴だなと思っていることが、その一つはですね、メインの講師の説教者先生がいらっしゃいますね。
司会の先生もいらっしゃるんですけど、司会の先生が結構長くですね、それが章例かコメントか説教かわからないんですけれども、
06:10
10分も20分もですね、お話をされるんですよ。まだ慣れていないんですね。
それでですね、九州にいるときにこういうことがあったりして、同じこういう清め派というんでしょうか、
同じ政界のですね、私がよく知っている若手の先生が司会だったんですね。
それでスクリューしながら話しているときに、今晩の司会で何を話せばいいかなって。
それで私は怒る方ですね。あなたは司会者でしょ。先生がされるから、そんな心配いらないじゃないかと。
司会者は信仰係だから信仰だけすればいいんだけど、そういうことを思ったことがあります。
ところが皆さん、信者は健康であり、また良いバランスを持った教会、
どこかの一方に偏りすぎていない教会で信仰生活を持つことがどれほど大きな恵みなのか、
最高の幸せだと言えるでしょう。神の恵みが川のように流れる。
御言葉と賛美と祈りに満ちた出会い。救いの魂のためにもう専念して走り続ける教会。
礼に行くとも日々新たにされる教会。私たちの妙谷教会がそのような教会でありたいと、そう願っております。
今日はその4番ですけれども、皆さん、神様はこの地上に教会をお立てになりました。
そしてさっきも信仰係にあったように、教会の頭として主イエス様を頭として下さいました。
ですから皆さん、主の教会は、ただ神様のために存在するものであります。
神の栄光のためにあるものが教会なのです。
もう一度お話します。教会は私のためにあるものではありません。
ただ唯一の神、主なる神様のためにあるものであるということです。
ですから皆さん、教会は会社のような利益集団でもあります。
部活のクラブでもあります。あるいはコーヒー団体でもあります。
09:02
あるいは、ガキをもて腕を振る舞う楽団でもあります。
教会はイエス・キリストを頭としてお仕えしています。
キリストの父親によって救われあらなわれた神の家族が集まった信仰の共同体。
精霊様が導かれる精霊共同体だ、教会なんです。
皆さん、共同体ってどういうものでしょうか。
英語ではコミュニティというんですよね。それはこんなものだと思うんですね。
心を一つにして、同じ方向を向かって、同じ夢を見て、同じ目的を向かって、
共に歩んでいく、走り続ける、それが共同体ということです。
ですから皆さん、教会共同体は何か三宮の駅の前ですね、
政治家の講演を聞くために集まった群衆、群れではありません。
あるいは学校の先生から学問を、聖書という学問を学ぶために集まった学生の群れでもあります。
私たちは神の栄光のためにあるもの、神の聖なる皆のために集まっている、それが教会というものでしょう。
聖書ですね、一箇所、一緒にお開きしたいと思います。
旧約聖書の中にイザヤ書というところがあります。
イザヤ書第四十三章の七節、旧約聖書1194ページです。
旧約聖書1194ページ、イザヤ書第四十三章、七節、ではご一緒に読みましょう。
私の名で呼ばれたすべてのものは、私の栄光のために、私がこれを創造し、これを形作り、これを作った。アーメン。
ここにですね、誰のためですか。私の栄光のために、神様の栄光のために、すべてのものは作られたと言われます。
私たちの主の教会、神の栄光のために作られたということです。
12:00
ですから、その神の霊である、御霊である、聖霊様に導かれること、聖霊様が副じゃなくて、サーブじゃなくて、目に主導される教会、
それが正しい教会のアイデンティティと言えます。教会の本当の姿を、私たちは特に新約聖書の中でですね、
使徒の働きからよく学ぶ、また見学ことができます。この使徒の働きをですね、よく聖霊の働きあるいは聖霊行伝とも言われますけれども、
使徒の働きは第一章から最後の二十六章までにてもですね、聖霊から始まって聖霊で終わる、
聖霊様が人たちを働かせて、そして彼らが道具として器として用いられて、聖霊の恵みが拡散していくこと、その記録がこの使徒の働きなんですね。
そのところに、教会の在り方、在り様について、とても詳しく鮮やかにですね、記されて私たちに教えているわけなんです。
イエス様が御上天または徳天、弟子たちに聖霊様が約束された日様が下るまでに、エルサレムで留まって祈って待っていなさいと言われます。
それで弟子たちは、その他の使徒たちも集まって、祈って、祈って、祈って、もっぱら祈っていました。
従順に従った時に、やはて神の礼、御様が、今日の第二章のところにおいて、一人一人の上に激しい風が吹いてくるような、炎のような分かれた力が現れて、一人一人の上に留まりました。
満たされました。それで、新約における教会が誕生したわけなんです。
皆さん、教会の生まれは、教会の誕生は、この聖霊降臨から始まったわけです。
だから、聖霊降臨、聖霊十万なくしては、教会について話すことはできない。理解することもできない。立て上げていくこともできないということでしょう。
イエス様は、当時の制度的で形式的なイザヤ宗教とは全く違う、新しい信仰の強固体を立ててくださいました。
15:10
当時のイザヤ宗教は古くて無気力な宗教でした。
その代わりにイエス様は、全く新しい信仰によって、聖霊によって励む強固体を出発させてくださいました。
それは教会ということです。
ですから皆さん、教会が教会らしくなるために、いや新たに信者が信者らしくなるためには、この聖霊様に指導されるべきなんです。
何をするにしても、礼拝を捧げる時でも、奉仕をする時でも、伝道をする時でも、信仰によって、聖霊によって指導される時に、そこに本物の信仰の働きがなされるということです。
それが教会なんです。
ですから皆さん、教会の中で聖拝とか、宗学とか、司祭とか、エステスとか、あるいはフォドナムとか、様々な働きを皆さん、よく徹底してくださっていますけれども、
何をするにしても、信仰によって動かされる。
事故によって働くのではなく、聖霊様に指導されて、導かれて、奉仕をさせていただくものでありたいと、そう願った。
その中の今日は、聖霊に指導される教会の特徴、第一は、英語で言いますとダイナミックです。
皆さん、どこかで聞かれたことがあるかと思いますけれども、基礎行伝の、基礎の働きの一つの八節のところ、
キャラという言葉が出てきますが、その元の言葉はドゥナミスと言います。
ドゥナミスはギリシャ語でダイナマイトの言語、ダイナミックの言語がドゥナミスという言葉です。
ですから信者の上に、教会の上に、ドゥナミスが注がれて、信者も教会もダイナミックな教会信者になることが当然のことなんです。
その働きを一章から最後までよく読んでみてください。聖霊の働きはダイナミックなんです。
また、英語の基礎の働きもエクスと言うんですよね。働きが続く、行う、山火事のように、あるいは本当に大きな波のように広がって広がって広げ続けていくことが聖霊の小働きということです。
18:18
それが皆さん、聖霊様のキャラクターなんです。聖書は聖霊の感度によって書かれたものですから、聖霊ご自身は自分のキャラクターがどんなキャラクターなのか、よくご存知なんですよね。
だから、今日の2章の1節、2節において、聖霊の特徴、特性、キャラクターを激しい風、炎として教えてくださったわけなんです。
聖霊様だけではなく、私たちもそれぞれキャラクター、あるいは個性を持っておられると思うんですよね。
野谷に赴任してまいりまして、1ヶ月経ちまして、大体皆さんのキャラクター、個性を何とかわかってきたような、まだわからないようなそういうところですけれども、
皆さんの目には、私はどんなキャラクターを持っていると見えますか?沈んで落ち込んでいるときのように見えますか?あるいは何か不正解と活発なぼくしのように見えてしまいますか?
皆さん、聖霊様のキャラクターは落ち込んで沈んで、あるいは沈む夕日ではないんです。
勢いよく昇ってくる朝日なんです。まるで大きな悩がらの滝のように、津波のように、台風のように、大勢に勢いよく働き続ける、それが聖霊のルナビス。
その聖霊に満たされた信者教会は、同じキャラクターを持つことが当然のことなんです。
聖霊に指導される教会は、ルナビスを持っています。大勢に勢いよく働きます。
子供がすくすくと伸びるように、植物がすくすくと伸びていくように、成長し続けるイメージ、それが聖霊に指導される教会なんです。
21:11
ペペロのことを皆さんご覧ください。彼はこの使徒の働き第2章、前と後、全く別次に変えられました。
前は、女の子供辺にあなたもイエス様と共にいたでしょう。そうでしょう。そうでしょう。
3回も怒られた時に、いや、知りません。全く関係ないです。知りません。臆病な者でした。失敗だらけの者でした。
そんな彼が、ルナビスの霊に満たされた時に、まるでルナビスの表裏となって、イエス様を殺したその人々の目の前で立って、
あなた方がイエス様を殺したものです。悔やかにて聖霊の御霊を受けなさいと、堂々と大胆に言える者になります。
そのルナビスはどこから来たのでしょうか。彼の決心ではありません。それは、上から注がれた聖霊の力だ。
そのペテロ、ピリ、ピ、ステファ、パオロ、彼らを通して、生きよゆく主の福音は前進して、前進していきました。
ですから皆さん、このような旺盛な活動、生きよゆい働きは、教養によるものではないんです。強いられてするものではないんです。
ルナビスの霊が注がれたから、ルナビス、ダイナミックな弟子、ダイナミックな教会になることは当たり前のことです。
人の働きにおける教会の福音の生きよゆいを誰も妨げることはできなかったんです。
ペテロが今日の大印象におけてメッセージをしたときに、三千人が救われました。その次は五千人が救われました。
あとは数えることができないほどだったので、もう聖書は多くの人々が無理に下死に加えられたと記されているんです。
これは自分の決心によって、あるいは人の力によってできることではあります。ルナビスの霊によってできるという。
ですから皆さん、教会が教会らしく、本物の教会のようになるために、信者が本物のツリーさんのようになるためには、
私たちは自分の価値観や、あるいは自分の文化や、自分が持っているものにこの聖書の御言葉、あるいは教会の有様をもう無理やりに当てはめるのではなく、
逆に私たちのすべてのものを手放して、聖書に自分の価値観や文化や様々なものを変えて、聖書に当てはめなければなりません。
24:15
聖書が教えている教会、聖書が教えているツリーさんの有様に変えられなければならない。
変えられるときに、本物の教会、本物のツリーさんになるということです。
ですから皆さん、正しい本物のツリーさんになるためには、周りを忘れなければならない。
文化を、人の目を意識すること、そこから乗り越えて、聖書の文化、天国の神にならなければならない。
私たちは、私はこの日本という兵庫という地上に足を立ってはいますけれども、天国の市民として、天国の文化に沿って歩んでいかなければならない。
ですから皆さん、私たちには私たちの役割があり、聖霊様は聖霊様の役割があるわけです。
ですから、聖霊十万の恵みを受けて、聖霊様が働く、聖霊に働いていただける、そのスペースを、その霊的な場を設けてさせなければならない。
何もかも、自分が全部やりきろうとするのではなく、奉仕をするにしても、自分が司祭になるのではなく、聖霊様が司祭になっていただく奉仕、霊派、クリスタルになっていただきたいと、そう願っております。
ですから皆さん、聖霊は神の霊ですから、聖霊様も神の仕事をする時が一番楽しい、一番うれしい、喜んでおられる。
ですから、聖霊十万のクリスチャンは、神の仕事をすることがしんどくありません。楽しいです。もっともっとやりたくて、やりたくていられないほどなんです。
教会に一回、二回、三回も来ても、疲れない。楽しく。遠くても、遠く感じられない。前は霊会の時が、休神のゆねむりの時間でしたけれども、今は眠らない。奉仕をすることが楽しく、疲れを感じられない。
27:00
この話は、先週お配りした朝日新聞の内容です。
恵まれて、聖霊十万になると、神のためには働くことが楽しいんですし、働くし、踊らずにはいられないとですね。
昨日も、昭和正解である兄弟が祈るときに、神を踊らずにはいられないよと恵みをお与えくださいと、ある兄弟が祈ったんですけれども、本当にそれが、偉大な教会になることです。
皆さん、神のために、霊会をするときに、教会に来るときに、ワクワクして、もう踊りながら教会に来ていらっしゃいますか。ああ、今日も行かなくならない。
そんな感じですか。
聖霊に満たされたクリスチャンは、その聖霊が一番やりたいことが、神をあだめること、霊会をすることなんです。
だから、私たちも同じく喜ぶ、楽しむ、ダイナミックに奉仕ができるということです。
ですから、聖霊に私たちは満たさらなければならない。
何をするにしても、聖霊に満たされて、神の栄光を褒めさせる、また、いろいろな教会でありたいと、そう願っております。
第二は、聖霊に主導される教会は、自由があります。
基礎拠点における教会の模範、原型を見ますと、その信者も全ての人々は、何かに強要されて、強いられて、嫌々な顔をしながら、何かのことをしたわけであります。
デュナミスの霊が注がれて、みんなが喜んで喜んで、自由に奉仕をさせてもらった。
ただ、聖霊の力によって働いたということです。
皆さん、職の働きを見ますと、3000人が5000人が救われたわけですから、エルサレム教会の信者さんは1万を超えたわけなんですよね。
でも、その中に組織とか形式とかはなかったんです、実は。
たった7人のうちみたいにですね、7人の羊さんしかいなかったんです。
でも、教会はさらにさらに全市して全市して、世界へ世界へ広がっていきました。
組織による、形式による力ではありません。
全く、聖霊の力によるものでした。
30:03
聖霊様が人々を動かされたくない。
主の霊があるところを、主がその御霊が導いてくださろうと。
ですから皆さん、組織より聖霊の力が最も素晴らしいです。
伝統より聖霊の力が最も素晴らしいです。
つまりは、お金の規模より聖霊の力の大きさがはるかに偉大なんです。
皆さん、考えていただきたい。
私たちは有限な存在です。
持っている能力も人生の長さも力も能力も全部有限です。
制限があるわけです。
ですから、この有限さの中に囲まれて、
その有限の能力、力を持ってすることができる働きは、
それも限られていることでしたね。
しかし、私には何も持っていないんですけれども、
全ての持ち主であられる、主をお父様として持ってあられる、
ジュナミスの力を持ってあられる聖霊が注がれている。
そうするならば、不可能はない。できないことはないということなんです。
使徒の働き第2章の箇所を見ていきたいと思うんですね。
42節をご覧ください。
使徒の働き第2章の42節。
私が読みますね。
そして彼らは、人たちの教えを固く守り、
交わりをし、パンを炊き、ここへ祈りをしていた。
そして、一度の頃に恐れが生じ、
人たちによって多くの不死解をすることが行われた。
信者となった者たちは、みな一緒にいて、
実際のものを共有にしていた。
そして資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じてみなに分配していた。
そして、毎日心を一つにして宮に集まり、
家でパンを炊き、喜びと真心を持って食事を共にし、
神を賛美し、すべてのために好意を持たせた。
しも、毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。
ここにですね、みなさん、
この人たちは、自分の教えを売って分配する。
毎日集まって、毎日ですよ、みなさん。
月に一回とか、週に一回ではありません。
毎日集まって賛美をして、毎日。
これをですね、お世話をしたから、あるいはキャンペーンをしたから、
33:03
あるいは誰かが電話を来て、今日おいでくださいませんか。
そうしたから、集まってほけてはないです。
自圧的に喜んで喜んで来て、
交わりを持ち、教えをいただき、奉仕をして、
自発的に喜んで奉仕をしてきました。
これが聖霊による働きなんです、みなさん。
聖書、もう一箇所見てみたいと思います。
第2コニント3の17節です。
新約聖書349ページ。
第2コニント第3章17節。
ご一緒にお読みしましょう。
主は御霊です。そして主の御霊のあるところには自由があります。
アメン。
みなさん、主の御霊のあるところには何がありますか。
主の御霊のあるところには自由があります。
御霊のあるところは教会です。御霊のあるところはクリスチャン、お祈り、お祈りです。
そこに自由があります。束縛じゃありません。形式がありません。伝統じゃありません。
拘束じゃありません。自由があります。
人の働きのシンドロムのように、大学から引き入られて集まるのではなく、
喜びを持って自圧的に褒めたたえたくて、奉仕をしたくて、賛美をしたくて、伝道をしたくて、
集まる群れ、それが聖霊に指導される教会なんです。
礼拝も、基督会も、奉仕も、伝道も、喜んで喜んで自圧的に集まる。
そのような教会でありたいんです。
みなさんもそう思いませんか。
今日は私が聖霊をお断りしたいです。
誓いをしたいです。誓いをしたいです。やらせてくださいとですね、
自圧的に喜んで奉仕をする教会でありたいと。
それで僕は、あなたは好きの主、あなたは好きの主、そのような教会でありたいです。
私が改正の仕事を早く、役にやりたいです。
あなたはあと10年待たなきゃならない。
そういうような教会でありたいと、そう願っております。
奉仕をしませんか。役にもしませんか。労働をしませんか。
私がスパンに行ったときにですね、アメリカのLAでロサンゼルスで、
日本人の働きをしていらっしゃる選挙主とですね、マジュアルをされてもらったことがあります。
36:05
その先生から興味深い話を聞いたことがあります。
それが意外に言えるかどうかわからないんですが、大体そうです。
アメリカのLAで日本人も結構住んでいるでしょう。
日本の方は大体、外国に出ていきますと、そこでなかなか日本人の群れを、
その集団とかをなかなか作らないということです。立てない。
例えば何かの組織とか何かがあるとしたら、なかなか入ろうとしないということですよね。
好まないということです。その選挙主の話は。なぜですかと聞いてみたんですね。
そしたら、日本に住んでいるときには、学校も会社も社会も、
何か決まったとおりにギュッと縛られていないような、
いてような、そういう決まったとおりに動かなくてはならない。
なかなか柔軟性や自由や優柔な関係とか、きつくはない。
息苦しい。きつい。
だから、海外に出ていきますと、また日本人に出会って、そこに気を配らなきゃなっちゃう、気を落としなきゃなっちゃう。
そういうところが、なかなか好まないと。
すでに外国に出ている、出ておりてですね、信仰を持った日本人は、
大体青年であろうが、少年であろうが、婦人であろうが、
ありと自由な雰囲気で礼拝して、自由に信仰生活をできる教会に行って、そこで救われるということ。
日本の伝統的な、そんな雰囲気の教会には、なかなか日本人はいかない。
そのせいで、最初は本当にオーソドックスな礼拝のスタイルで、
日本はこうだから、日本人もこれを好むだろうと思って、日本の教会を同じ工夫として開拓を何年もやりましたけれども、一人も来ない。
それで一気に、いろいろ祈りながら工夫して、さまざまなリサーチをして、した結果、もう教会を全く変えたそうです。
それで自由に参事して、高速まわり、教会院という席とか、そういうこともあまりこだわらない。
そういうしていって、2年、3年経ってから、若い人や婦人の方とか、お母さんなど、赤ちゃんを連れて、
次から次に人々が来るという聖教を経験した話を聞きました。
皆さん、私たち人間の内側には、三玉、宗の形にとられて作られたものですから、その自由を求める、その性質を持っているからです。
39:10
この自由は法従ではありません。宗にある三玉が納めてくださる本物の自由なんです。
ですから、教理者になりますと、お金を飲むこともできますし、飲まないこともできます。でも、私たちは飲まない。
ある意味で、飲めないなら飲まないんです。自由が与えられて、意思を持って、死のために清い人生を送るために飲まないことなんです。
自由が与えられているということなんです。
ですから、教会の様々な働きや礼拝や奉仕やすべてのものが宗にあって、自由に働いていただきたいと、そう願っております。
皆さん、神の国の働きは、イエス様の働きだけを見ても、イエス様は何か計画を立てて、
今日の朝6時からこれをして、10時からこの人を出会って、12時はこの人を出会って、そういうふうに計画を立てて働かれたわけであります。
歩いて行かれて、ザワカイに出会いました。彼と彼を救って、彼の家に行って祝辞なさいました。
歩いて行かれるときに、セクリーム大統領に出会いました。彼の忍びに直してありました。
歩いて行かれるときに、一人の女性の人がイエス様の服の鈴だけ触ったら治る。
そういうときに彼女と対面して、彼女と時間を過ごされたわけです。
精霊に導かれて、精霊が導かれるまま、指導されるまま、従っていくこと、それがクリスチャンのライフスタイル、教会の在り方ではないでしょうか。
イエス様は歩いて行かれるときに、誰かに出会ったときに、ザワカイ、ちょっとごめんね。
今から私からじゃないから、ちょっとごめんね。大事に会いましょう。そんなことはなかったんです。
精霊に導かれて、主が出会わせてくださる方に、その人に、今、自分が出会わせた、それは主が出会わせてくださった魂だから、
その人に力を入れて、祈りを入れて、そういうふうにしていくこと、それが精霊に導かれることなんです。
私、明沢に来て、そういうことを少しずつ経験しているんですね。自分なりに、その日のその日の、しかとならない、しておかねならない働きがあるんですよね。
それで考えをしていたときに、電話がかかってきたり、あるいは先生、お会いしませんか。そうしたら、そういったものをすべて後にします。
42:00
人が起こってくださった方に出会い、そして共に祈り、共に祈ることをあげましょう。
精霊に導かれている人の内側には、柔軟性がある、自由があるんです。
自分の時間表通り動くのではなく、精霊の時間表通りに動く、クリスタル教会でありたいと、そう願っています。
そのためには、訓練が必要でしょう。今まで馴染んでいる、身についている、そういう自己中心。
計画通りに動かないと、違和感を感じる、不安を感じる、そういった修正を、そこから自由になる訓練が必要です。
教会の働きも同じです。もちろん、恋愛の順番とか、奉仕の働きとか、計画は立てますけれども、
でも、精霊に導かれて、礼拝も奉仕も、基督会も、霊的な敏感を持って、その導きに、敏感に応答するクリスタル教会でありたいと、そう願っています。
その教会を、その信者を、主が持ちやすいんです。
堅い石のようなクリスタル教会ではなく、粘土のように、精霊様が作りたい、そのまま作られる教会信者でありたいと、そう願っています。
柔軟性を持ちましょう。自由さを持ちましょう。
例えば、礼拝をする時に、賛美を捧げている中で、精霊様が導かれると、その賛美を一回、二回、三回繰り返して賛美をすることもできるでしょう。
言葉を聞いていく中で、精霊に導かれますと、祈ることも、祈り始めることもできるでしょう。
静かに賛美をする、あるいは静かに祈ることもできるでしょう。声を立てて賛美を、声を立てて祈ることもできるでしょう。
精霊十万の恵みを受けた信者は、精霊十万の礼拝が、精霊十万の教会がどういうものなのか、
ですから皆さん、精霊様に思いっきり働いていただける、礼的なスペースを設けたいと、そう願っています。
ぎっしり詰まっていて、精霊様が配属しても、入ることができない、隙間がない。なかなか精霊様は、意地をよく、強力に働きにくいんでしょう。
ですから皆さん、制度や慣習、習慣、文化や伝統から、自由になっていただきたい。
45:05
御霊のあるところには自由があります。その自由は無秩序ではありません。精霊は皆さん、天地を作られました。
それは秩序をもって、ちゃんと作業をもって作られたわけなんです。
水もない土もないところに、空中に神様が草とか木を作られたわけなんです。
水もない土も先に、水も先に作られて、その上で木や土壌を作られて、秩序が立てられている。
ですから精霊様は、同じその創土の時におられたわけですから、秩序の御霊なんです。
だからその自由は、無秩序、法術の自由ではないんです。
ですから精霊に導かれますと、新しい人間が立てた秩序とは全く次元が違う恵みを味わうことができるということです。
精霊に指導される教会、精霊に指導されるクリスチャンは、自分を先頭に、精霊に指導される教会、クリスチャンは精霊様を先頭に立っていただいて、その後ろをついていく教会です。
3番目に行きましょう。精霊に指導される教会は、簡単に言いますと明るいです。
今日の、さっきも読みましたけれども、2章の後半の46節とか、そのところを見て、初代教会の雰囲気を読めると思うんですね。
このところを読んで、皆さん、暗いな、大変だなと思われますか。そうではないんですよね。明るいんですよ。
心をひとりにして、家でパンを先に、喜びと真心を持って食事を共にしたらしい。喜びを持っていました。喜びを持っていました。
精霊十万になると皆さん、毎日集まっても放置しても疲れないんです。精霊十万になっていないから、その二玉が働かれないから疲れる。
皆さん、教会は、礼拝は、イエス・キリストの復活をお祝いする祭りでなければならない。
フェスティバル、宴会でなければならない。喜びの日でなければならないんですよ。皆さん、想像していただきたい。
例えばですよ。皆さんの誰かのお家族が召されたとしましょう。前夜祭を行うとするときに、その方がパンと置き上げて、生きられたとしましょう。
48:04
そうしたら、みんな喜びを持って、引き上げて全部お寺に来て、父さんが本当に生きて、2日目に生きて、パーティーをするじゃないですか。喜ぶでしょう。
そのときにお父さんが死んでいる人はいないでしょう。喜ぶ、喜ぶ。
1週間、1ヶ月、何十年もお父さんが生き返ったその話を話し続けるじゃないですか。喜びを持って。
死の日は、死の日の礼拝は、死なれたイエス・キリスト様が、3日目によみがえられた復活を喜ぶ、楽しむ日が死の日であり、その日が礼拝式なんです。
もう一度言います。死の日は、礼拝は、復活なかったイエス・キリスト様を喜ぶ、楽しむ。
どうか皆さん、私の心が、あるいはこの教室が、礼拝がですね、本当によみがえられたイエス・キリスト様を喜ぶ、楽しむ、踊る礼拝でありたいと、そう願っております。
これは私の話ではありません。生徒の話です。そのところを言ってみましょう。
新明記、16章、14節。旧約聖書の中に、民俗記、その次に新明記があります。
14章、14節。333ページです。13、14節ですけれども、13は私が読みますね。
あなたの内場と、あなたの宅舎船からトイレが済んだとき、7日間、仮仰も、仮仰も祭りをしなければならない。
この祭りのときには、あなたもあなたの息子、娘、男女の奴隷、あなたの町が公民のうちにいるレビビト、在留国人、みなしご、ヤモメも、その次、一緒に共に喜びなさい。
7日間、仮仰の祭り、新約人も、礼拝と言っても同じです。喜びなさいとあります。
また見ましょう。同じ新明記の27章、7節。神様に和解の生贄を捧げるとき、礼拝をするときですよ。350ページです。
51:07
新明記27章、7節。ご一緒に3回。また、そこで和解の生贄を捧げて、それを食べ、あなたの神、主の前で喜びなさいと。
もう一つ見てみましょう。紙編118編24節、1026ページです。
ご一緒に3回。
これは主が設けられた日である、この日を楽しみ喜ぼう。
アメン。
皆さん、この日、今日ですよ。主の日ですよ。礼拝の日ですよ。この日は何をするんですか。楽しみ喜ぼうとあります。楽しみ喜ぼう。
皆さん、主の日は、礼拝は楽しみ喜ぼう日です。祭りの日です。日本語の訳はとてもいいですね。祭りなんです。
神戸はどんな祭りがあるんですかね。祭りの時に、みんなわぎわぎと、勢いと、もう本当にですね、祭りですよ。礼拝は祭りだけならない。
みんな細かで静寂で、口を悩んでですね、常人な顔をしていなければならない。
政府がどこにも、そういった礼拝の形式を教えているところは、実はありません。ある意味です。すべて人間が作り出した伝統に過ぎないことです。
聖書に注目していただきたい。聖書が何と教えているか、礼拝とはどういうものなのか、教会がどういうものなのかを教えている、そのところに応じて従っていきたいと、そう願っております。
私には夢があります。この教会の僕としての夢を持っております。
力与えられた夢です。礼拝においても、さまざまな方針においても、感動と感激と恵みが、喜びが満ちあふれる礼拝。
礼拝が終わった後、潮がサーッと引くようにみんな見る間に、ほんのり帰って、空っぽの階段になる教会ではなく、
この人の働きのように、毎日のように集まって、ともに祈り、ともに慰めよう、ともに正気を学ぶ、そのような教会でありたいと、そう願っております。
そのためには、教会にもまたそのようなスペースがあればいいんですよね。また、車を運んで来ても、自由に停める大きなスペースのある教会でありたい。
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夢を持って祈っていけば、死がなしと言っています。信じていただきたい。
ここから教会の話をしたいと思うんですけれども、4年間お世話した教会ですが、
最近、うちが離れるところから話が進んでいたところ、良い知らせを教えてもらったんですけれども、
教会が清掃して、教会学校の空間も足りない、食堂も狭くなって、駐車場も狭くなって、駐車場をもっと広いところを探していたんですよ。
役員と教会の先生方が来まして、もっと広いところを探していた。広報室をあそこがいいなと、そういうところがありました。
今の広い駐車場が57、50台で止められるんですかね、先生。
そのところの、実は真ん中の8室部ぐらい、100室部ぐらいは、実は長い間借りて使っていたんですね。
でもその真ん中のところ、持ち主が変わって、それを売りたい、でもとんでもない高い金額となったんですよ。
それでそれを買おうか、買いかと祈っていたところ、神様はその駐車場を購入するのではなく、不思議なところを実は導いてくださりました。
教会の建物があって、右にも左にも一個だけがくっついているんですけれども、
最初はこっちの右の家が家を売ろうかと、そういう話があります。教会に買ってほしいと。
それを進んでいくところが閉ざされた。
そのとき諦めて、また駐車場の広報室を探していたところ、不思議にも、むかちむかちながら反対ばかりしていた、この出て左の町の人さん、名前は忘れたんですけど、
その旦那さんが、役員藤田さんと言うんですけど、彼に買ってほしいと、引っ越していくから。
本当ですか?本当ですよ。ほんま。
それで話が進んでいきまして、お互いにいい値段で買うことを、購入することを決めたということを、教団のお知らせのそこを見て、
そこにして、その家は広いんですよ。おそらく八十十五台になると思うんですけれども、教会にくっついているから、
これから教会、学校とか、さまざまな2階建物ですから、そこで用いられる。
質が導かれるもの、そのときに、もし高くてもうしょうがない、買い回しをしたら、勝ったかもしれません。
それは悪いことではないんですけれども、祈りながら、教会のみんなが、主管牧師も役員のみなさんも、無理やりに押すのではなく、
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祈りながら、祈りながら、そして道を渡す。主がこっちに道を渡す。こっちに行って、また急転すると、またこっちに導かれていくときに、主が最後のものを用意している。
聖霊に主導される教会、主の御言葉に導かれていくときに、その先には主が最後のものを用意しておられるからです。
でも自分たちが、あ、いや、そっちじゃないと、勝手に他の方向に行って、今から最後の用意されているものを得ることができなくなってしまう。
教会の信者さんも、そのような愚かなことをしないでいていただきたいと。
聖霊に導かれる教会はですから、いつも肩こりがない。ストレスがないんです。
自分でしようと自分でするんじゃなくて、導かれるまま行っていいから明るいんです。
聖霊に導かれた人は明るいんです。
このような方々のお顔をご覧ください。明るいですか?
暗いですか?
皆さん、奉仕をするときも、伝道をするときも、私、御言葉にしてですね、本当にいきなりでしたけれども、一回はですね、一週間、三週間過ぎましたけれども、
朝も昼も夜も、みんなですね、喜んで。私、電話一本したことはありません。電話番号も知りませんし。
でもみんな喜んで、喜んで奉仕をして、祈って。
皆さん、うまくいっている教会は信者さんの顔さえ見ればわかります。
皆さんのお顔を見て、あなたなら私の教会に行きたい、そういう顔でありたい、そう願っております。
最後に一つだけお話したいと思います。
ですから、聖霊にも御指示に、導きに敏感でありましょう。敏感でありましょう。
神の神は、聖霊の導きを受けるものであります。
常に導きを求めることです。
三十年やったことだとしても、あるいは去年したことであっても、また今年になって、あるいは来年になって、またお尋ねして、お尋ねして、導かれていくときに、最後のものが用意されている。
そのためには、祈るしかありません。
祈って、祈って、お尋ねするしかないのです。
どんな人が聖霊十万になりますか?
祈るクリスタル。
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祈るクリスタル。
ですから、何より、すべてのクリスタルは、もう言うまでもなく、特に教会で様々な奉仕をしていらっしゃる方々は、もっともっと祈っていただきたいと、そう願っております。
祈って、まるで電波時計がですね、電波をいつもとっているから、直ちに時刻になっているように、聖霊に電波を張って、いつも受けていきたいと、そう願っております。
最後です。聖霊に敏感になって、聖霊に指導される教会の生き方をするためには、徹底に悔い改めなければなりません。
徹底した悔い改めなしには、聖霊の働きも、リバイバルも、自分の上にも、教会の上にも起きません。
長崎二朝三十八節を私がお読みします。
そこで、セセロは彼らに答えた。悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を許していただくために、ジエス・キリストの名によって、バッテスマを受けなさい。
そうすれば、たまももとして、聖霊を受けるでしょう。
聖霊を受けることは、何から始まりましたか?悔い改めから。
逆に言いますと、悔い改めなくしては、聖霊を受けることができません。
また、自分自身の傲慢や頑固さ、あるいはこの世のものを好む心、あるいは向かい、あるいは無情、怠惰、自己中心、踏破心等々。
キリストの十字架の身元に、すべて一切を下ろして、徹底に悔い改めましょう。
無双解除することです。
聖霊は聖なる御霊ですから、悔い改めのないところには、聖なる御霊が働くわけがないのでしょう。
日々、キリストの十字架の身元に立ってきて、使い罪をおこかやおの罪を悔い改めて悔い改めてありまえ。
聖霊に満たされて、教会も私たちも、聖霊に導かれる、指導される最高の教会でありたいと、そう願っております。
お祈りしましょう。
今日の御言葉を覚えてですね、本当に主よ、私、まず自分自身を、教会を、明らかに教会を、
聖霊に指導される、聖霊に満たされる、聖霊ゆうまの教会、本当に喜びに満たされ、明るに自由に満たされる教会と信者とならせていただいたとしね、
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願いを持って、切な心を持って、祈っていきたいと思います。では御一生にお祈りいたしましょう。
ハレルヤシタ神様、あなたの恵み御心ながら開会いたします。
今日も神様があなたの一人一人に、本当に主よ、あなたの御言葉を語ってくださいました。
どうか主よ、あなたの一人一人にどうぞ主よ、あなたの御言葉を持って、本当に神様、あなたの素晴らしい恵みを伝えてくださいますように、
お願いいたします。
聖霊に導かれる、聖霊に指導されて、聖霊様が導かれるままに、
従います、従いますと従っていく教会、また本当に一生そのような屈辱でありますように、
どうぞ神様、あなたが導いてくださいますように、よろしくお願いいたします。
どうぞ神様、我らが興味のない教会か、本当に神の恵みが神より流れ、煽りに散る、
本当に聖霊様が行き巡って働いてくださる教会でありますように、
どうぞ神様、我らの願望の捨てたらものを手を離して、今本当に満たされて歩んできますように、
どうぞ神様、助けに導いてください、よろしくお願いいたします。
一言お祈りいたします。
愛する聖霊様、本当にそうです。
ルナミスの霊が注がれて、ダイナミックなルナミスの持っているクリーチャー、
ルナミスを持っている教会とならしてくださいますように、お願いいたします。
主の栄光のために、福音の源氏のために、
明堂の教会よ、教会の教会さんたちよ、道家さんたちよ、
あなたに取り扱われて、
そして本当に聖霊に、柔軟に、自由に、柔らかく、
用いられる教会、クリーチャーとして、
死を知り、作り変えてくださいますように、よろしくお願いいたします。
三方爆破にさせ、上様も皆によって、お祈りをいたします。
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