00:01
それでは一言お祈りをして、メッセージに入らせていただきます。お祈りをいたします。
天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
今朝もあなたに礼拝に招かれ、あなたを賛美し、あなたへ祈り、
あなたの言葉に養われ、新しい朝、新しい週を始めることができることを感謝をいたします。
あなたは限りない愛をもって、私たちを愛し抜いて下さいました。
その流された血をによって、私たちの罪を許し、それだけではなく復活の命、永遠の命を私たちへと与えて下さり、
永遠なる死と結ばれて、あなたと共に生きる新たな人生を始めて下さったことを感謝をいたします。
あなたはもはや自分の足ではない、私の恵みによって歩みなさいと、
あなたの恵みのご支配の中へと、私たちを今生かして下さっていることを感謝をいたします。
神様、私たちにはこの一週間様々な歩みがありました。
良いこともあれば、辛いこともあったでしょうし、また、もしかするならば、私たちはあなたに罪深いものであったかもしれません。
神様どうか、私たちの恵みをあなたは知っておられます。
あなたの見舞いに、くだけし悔し心を持って出ることができるよう助けて下さい。
私たちにはまた、ここにいない兄弟姉妹のことも覚えています。
今は施設に入られて顔も見えない方がいます。
その中にはもう連絡を取ることすら難しくなった方もいます。
神様どうか、お一人一人の命を平安で満たし、守っていて下さい。
体が痛んで、心が痛んで、ここに来ることができない方々もいらっしゃいます。
どうか神様、その痛みを慰めて下さい。
そして願わくば、一緒に顔を合わせることができる時を、またあなたが作って下さいますようにお願いいたします。
私たちはあなたを父と呼び、互いに兄弟姉妹と呼び合う神の家族ですから、
神様どうか、互いに愛し合う愛を主が支えて下さいますようにお願いいたします。
御言葉を聞こうとしています。
しもべはここにおります。どうか主をお語り下さい。
あなたへと開かれた心で、あなたからの言葉を聞くことができるよう、帰りに来て下さい。
これからの時をあなたへ期待して、イエス・キリストの皆によってお祈りをいたします。
アーメン
人を許すということは、簡単なことではありません。
03:11
それは言うまでもないことかもしれません。
以前読んだとある説教者の説教の中で、こういう話があってとても記憶しています。
時は第二次世界大戦が終わった直後のことです。
ヨーロッパの各国は戦争の傷を抱えながら、それでもある種未来を目指して復興へ舵を切り始めるわけですね。
教会もそうでした。
人々は教会に集い、そして教会で戦争の傷を互いに慰め合い、そして礼拝を再び始めるわけです。
二つの世界大戦というのは、本当に人間の愚かさを露呈しました。
人類をユートピアへと導いてくれると信じていた科学技術が戦争に投与されると、
実に30年のうちに1億人以上の方が命を失うという、人類史上勝ってないほどの悲惨な結果を生みました。
教会では悔い改めの祈りが祈られたそうです。
主よ私たちはユートピアを作ろうとしていたのかもしれませんが、実はそれはバベルの塔でしたと。
主よ私たちを憐れんでくださいと祈られたそうです。
人々は浴びるほどの神様からの慰めを渇望していました。
心も体も霊もズタズタに傷ついているからです。
そして礼拝の中で今私たちがしたように賛美をし、祈り、そして神様の言葉に聞こうとしている。
そして私たちと同じように主の祈りを祈り始めるわけです。
人々は祈りました。
神が来ますように、御心が天でなるごと口でもなりますように、私たちの日ごとの糧を今日もお与えくださいと。
しかし教会では実はその続きの祈りが続くときに沈黙が広がったということがある本で書かれていました。
そこまで祈った後、街道が沈黙に覆われる。
人々は次の言葉を祈ることがとてもつらい、いや祈れないのです。
それは今朝ご一緒に読んだ聖書の主の祈りの言葉です。
私たちの追い目を許しください。
私たちも私たちに追い目のある人たちを許しますと。
これが祈れない。
これはドイツでもそうですし、そのドイツと敵対したイギリスやフランスでも同様のことが起きたと言われています。
06:00
人々は飢えているわけです。
だから日ごとの糧は大きな声で願うことができるんです。
日ごとの糧を主よどうか与えてください。
でも続く祈り、私たちの言葉で言えば、我らに罪を犯す者を我らが許すごとくと祈ることができない。
そうですよね。
どう考えても許せないわけです。
それはそうでしょう。
破壊された街はいつか復興するかもしれません。
今、飢えていても日ごとの糧を求めている私たちは、いつかは十分にご飯が食べれるようになるかもしれません。
でも戦争で失われた命は帰ってこないわけです。
戦争というものはあるし、そういうものなのでしょう。
終わった後も、生き残った人々の心を深くえぐり出し、その心の中に憎しみという大きな不才を植え付けるわけです。
それは目には見えないのだけれども、深く深く人の心を蝕んでいくわけです。
ただ先にちょっと戦争の話をしてしまいましたが、私たちもまた生きていく中で避けられない問題というのはおそらく、
人生のどこかにおいておった憎しみという不才、許せないという不才をどのように許すか、どのように手放すかということではないでしょうか。
これは実に簡単なことではないのです。
ある人がこういうふうに書いていました。
子供には何も教えずとも、傷つけられたら傷つけ返すということを知っている。
それだけに人間にとってある種、復習をするということは自然な行為なのだろうと。
そうであるならば、人を許すということは実に人間にとっては不自然な行為と言えるのかもしれない。
不自然な行為であるがゆえに、許すことに痛みが伴うがゆえに、私たちは許すことを諦めてしまうということがあるかもしれません。
ある種それは憎しみを懐にしまいながら、にこにこしながら生きていくということです。
それをおそらく人間は可能なんです。
人を許さないという思いを内に抱えながらも、表面的にはにこにこしながら生きていけるわけです。
おそらくこう思うかもしれません。いいじゃないですか。
それで誰かに迷惑をかけるものでもないのですからと。
では、私たちはそのような許せないという思いに蓋をし続けて生きていけばよいのでしょうか。
09:01
イエス様は今朝、そういう私たちに祈るように教えられるわけです。
私たちの追い目をお許しください。
私たちも私たちに追い目のある人たちを許しますと。
今朝はここまでの話を考えると、当然出てくる疑問が二つほどあるように思います。
一つは、なぜ私たちは許さなければならないのでしょうか。
許さずに生きてはいけないのでしょうか。なぜ許す必要があるのでしょう。
そしてもう一つは、もしも許す必要があるのであればでは、どうすれば私たちは許すことができるのでしょうか。
先に申し上げておきます。
人を許すことに明確な方程式があるわけではありません。
私も今日答えが明示できると思っていないです。
ただ、私たちは共に聖書の御言葉が語りかける言葉を聞きながら、問いかけられながら励まされる言葉に
ご一緒に耳を傾けていきたいと願っているわけです。
さて、一つ目のポイントを考えていきます。
なぜ私たちは許す必要があるのでしょうか。
最初に目を向けたいのはそういうことです。なぜ許すのか。
それはまず、今朝の主の祈りの言葉を注目するところから始めてみたいのです。
今日は6章の12節まで読んでいただきました。
何度も読んでいますが、私たちの追い目をお許しください。
私たちも私たちに追い目のある人たちを許しますと祈るようにイエス様は教えられました。
私たちが礼拝で祈る言葉であれば、我らに罪を犯す者を我らが許すごとく、我らの罪をも許したまえという言葉ですよね。
この祈りを私も昔から聞いていてあれと思っている箇所です。
と言いますのも、この祈りを聞いたら一朝してこういう印象を持たれるかもしれません。
それは、私に罪を犯す人を私は許しましたから、もしくは私が許しましたので、神様私の罪を許してくださいという言い方を変えるならば、条件文に近いと言いますかね。
私がこうしたから神様どうか許してくださいということを言われているように聞こえるわけです。
確かにそういうふうに聞こえるわけですね。
神に私の罪が許されることと、私が人の罪を許すこと、この祈りには2つの祈りが含まれていますが、
しかしこの2つの祈りをつないでいる言葉はじっくり考えるならば、おそらくやっぱり条件文ではないんですね。
12:05
条件文ではない。
聖書が語るように、神様の愛、神様の許しというのは無条件です。これは確かに無条件です。
ローマ人へのお手紙の5章の8節というところに、こういう言葉があります。
私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、
神は私たちに対するご自分の愛を明らかにされています。
私たちがまだ罪人であったときや、神様の前に何一ついいことができないときに、
神は私たちを愛してくださっているのだ。
それがこの聖書が語る愛です。神様の愛です。
仮に私たちが神様の前に何一つ喜ばれない存在であったとしても、
神様が私たちを愛する愛というのは変わらない。そこは揺るがないわけです。
では、この2つの祈りです。
神様に私の罪が許されることと、私が人の罪を許すことの間には、
どのような繋がりがあるのでしょうか。
これはやはり繋がりがあるんですね。
2つのギリシャ語を見ると、やはりこれは2つを接続詞で結んでいますので、
これは繋がりがあるわけですが。
ただ、この繋がりがどういうものかというのは、実は本当に議論があります。
ただ1つ説得力があるのは、この祈りは6章の10節にあります
御国が来ますようにという祈りに囲われているんだという理解がやはり大事だということです。
神様の御支配との関係で考えるべきだということです。
先週も少しお話ししましたが、神様の御支配は日ごとの糧にも、
人を許すことにも、悪や試みから守られることも、
全部これは神様の御支配ということと関係をしているわけです。
この歌詞に関して言えば、こう読めるとも思うんですね。
こういう意味だと思うんです。
それは、罪人を愛し、無条件で許す神があなたの王であり、
あなたがその王の支配の中に生きている神の子であるならば、
その王にならうあなたは、人を許しているかどうかと無関係ではないということです。
もう一度言いますが、罪人を愛し、無条件で許す神があなたの王であり、
あなたがその王の支配の中に生きている神の子であるならば、
その王にならうあなた方は、あなた方もまた、
人を許しているかどうかと無関係ではないということです。
私たちは神様に罪を許された神の子を、それを私たちは喜ぶわけですが、
15:08
そして同時に私たちはやはり日々罪を許され続けるものなんです。
これは大事なことなんです。私たちは罪を許されたものなんです、すでに。
でも同時に日々過ちは繰り返すわけです。
でもそこで悔い改めながら、許され続けていく私たちなんですね。
人間である以上必ず失敗はするわけです。
でもその度に悔い改めて軌道修正をしながら生きていく、それでいいわけです。
ただこの祈りは、その軌道修正をするその棚の上に、
あなたの胸の中にある許せないという思いも起きなさいと私たちを招くわけです。
許すということ、それはまさに不自然な行為ですから、
胸の奥にしまっているということが多いかもしれません。
しかし、私たちも私たちに追い目のある人たちを許しますとまさに祈るときに、
私たちの中のまさにその許せない思いにこそ焦点が定まっているわけですね。
あなたはそれをどうするのかと、私たちは祈りの中で問われる。
しかし、人によって思うかもしれません。
いや、ほっといてくださいと。
これは私を傷つけたあの人と私の問題であって、
神様あなたにとやかく言われる筋合いなどないのですと、私たちは思うかもしれません。
しかし、そうともやはり言えないのです。
今朝読んでいただいた詩編の51編というところがあります。
この箇所は皆さんよくご存知かもしれません。
第二サムエル記の11章に書いていますが、
ダビデというまさに英雄であり王である男が、
バテシェバという一人の魅力的な女性と結婚したいがために、
バテシェバの夫を意図的に戦場で殺すという、
そのような罪を犯してしまったわけです。
このダビデの過ちというのはすぐさま明らかになり、
生まれるはずのダビデの子供はまさに死んでしまうということが起きています。
ちょっと冷静に考えるならば、
ダビデの犯した罪というのは、
おそらくそれは神様に対するものというよりかは、
第一義的にはそれはバテシェバに対する罪ですよね。
バテシェバとの関係、バテシェバ・ウリア夫妻との問題であるし、
そのようなふさわしくない行動を王である彼がしたということは、
18:01
ある種国民に対する責任をちゃんと果たせなかったという意味では、
国民との問題かもしれません。
しかしダビデはそうとは考えなかったわけです。
詩編の51編をお読みになられると、ちょっと読んでみますが、
詩編の51編を一節から少し読んでいきますと、
神よ、私を憐れんでください。
あなたの恵みに従って私のそむきを拭い去ってください。
あなたの豊かな憐れみによって私の戸賀を私からすっかり洗い去り、
私の罪から私を清めてください。
まことに私は自分のそむきを知っています。
私の罪はいつも私の目の前にあります。
私はあなたに、ただあなたの前に罪あるものです。
私はあなたの目に悪であることを行いました。
ですからあなたが宣告するとき、あなたは正しく、
裁くときあなたは清くあられます。
ここまでにさせていただきます。
ダビデは人と人との関係の間にある罪、
人に対して自分が誤って犯してしまった罪を、
それは私とあの人の関係ですよね、で消化しなかった。
それは神様の前に立たされている、
神様の前にある私の罪なのだと彼は言う。
私はあなたに、ただあなたの前に罪あるものですと彼は言うわけです。
それはある意味、
罪が神様の御心から的を外れたという歩みが、
根本的なことでは神様との交わりを歪めるもの、
神様の御心を痛めるものなのだ、
そういうことを彼が理解していたということです。
神様との関係を痛めてしまう。
誰かを許さない、確かにそれは、
私を傷つけたあの人と私の問題かもしれません。
しかし神様は私たちの神なんです、あなたの神なのです。
その神様があなたの許せない心を見て、
心を痛めるということは確かにその通りだと思うのですね。
ただしもうちょっと突っ込んで考えます。
人を許さないこと、それはなぜ危険なのか。
もっと危険な問題をはらんでいます。
それはこう言えると思います。
人を許さない憎しみが、
人の心を憎しみが歪ませ、
そして交わりを破壊するということです。
一箇所だけ旧約聖書の言葉を意味したいのです。
21:05
真言の26章の26節というところを
お開きいただけるでしょうか。
真言の26章の26節というところです。
読ませていただきます。
真言の26章の26節。
憎しみはうまくごまかし隠せても、
彼の悪はつどいの中に現れるという言葉です。
憎しみはうまくごまかし隠せても、
彼の悪はつどいの中で現れる。
真言の言葉って、私は時に鋭いなと思います。
素朴でありながら人間の真理を鋭く突き刺す言葉だと思います。
憎しみは隠すことができる。
しかしそれは隠すことができても、
その憎しみが私たちに生み出す苦々しさは
つまり人と人との交わりの中で露見するということです。
それを破壊するということです。
それはある意味、教会のつどいからと言えるかもしれませんし、
またもっと小さな単位で言えば、
例えば夫婦関係であったり、親子関係であったり、
職場の人間関係において、
私たちのうちに隠し続ける憎しみが
その交わりを破壊してしまうということが起こり得るということです。
ちょっとだけあまり生々しくならないように話そうと思いますが、
このような仕事をしているとよく出会う事例としてあるのは、
子育てのネグレットの問題です。
そして家庭内暴力、DVの問題です。
これはどこでも聞きます。
これは言いにくいことですが、
まさにクリスチャンの家庭の中でも、そういうことは問題をはらんでいます。
いえ、むしろそのようなことが、
罪だと自覚をしている方々だからこそ、
恥ずかしくて表に出せないということで、
クリスチャンのご家庭の中にあるDVというのは、
むしろ顕在化しづらいという問題があります。
そういう話を至るところで聞きます。
なぜそういうことが起きるのか、
簡単に理由づけをすることはできないのですが、
一つあることは、それは、
そのようなことをしてしまう加害者である当人は、
同時に被害者であるということです。
つまり、自分自身が傷つけられた傷があり、
それが許せないわけです。
24:00
それに怒り続けているわけです。
その怒りをうちにためているわけです。
それを自覚しているか、無自覚なのか、
でも抑えていて、
でもそれがいざ親しくなって、
自分のそういう緊張感を解いて、
自分よりも力が弱い人間がそばにいると、
その怒りを放出してしまうわけです。
バンと手を出してしまう。
それはまさに自覚的にかもしれませんが、
多くは無自覚なんですね。
自分が悪いことをしたと気づくことすらできないわけです。
悲劇ですよね。
そのような、自分が本当は傷つけたくない、
傷つけてはいけない人を、
無自覚のうちに傷つけてしまう。
そしてこのような傷は、
世代を越えて連鎖するわけです。
あなたを傷つけた人はまた誰かに傷つけられた。
あなたを傷つけたその誰かの上はまた、
誰かに傷つけられている。
許せない、許せない、許せない。
怒り、怒りがうちにある中で、
世代を越えて連鎖していくということが、
おそらく今の時代は特にあふれているのだと思います。
余談かもしれませんが、
私自身の話をしますと、
私は綾名先生に、
もしも私が手を挙げたら、
誰にでも言っていいということを言っています。
それは言っているんです。
私も人間なんです。
私も過ち得るわけです。
そしてもしかしたら、私の中にも
苦い思いが無自覚の中にあって、
それに何かに触れられると、
まさに傷口に塩を塗られたときに、
何を振り払うかのように、
誰かを傷つけてしまうということが起こり得るわけです。
でもそのときに私は大事な人を守らなければならない。
だから周りの人たちに安心を見張ってもらうということを
することもあるわけです。
そしてまさにそういうことを、
もしも起きてしまったときに
考えなければならないことは、
自分の隠し持った苦い根は、
自分の許せないという思いは、
その怒りは一体どこから来ているのかということです。
どこからそれは来ているのか。
一つ目のポイントもありますが、
なぜ私たちは許す必要があるのでしょうか。
それは神様の前に罪だからです。
ただもう一つ言えることは、
憎しみはうまくごまかし隠せても、
彼の悪は強いの中で現れるからです。
憎しみは人の心をゆがめ、
そして時に無自覚に、
無慈悲に交わりを破壊する。
自分の愛する人たちを、
27:00
悲しい事実ですけれども、
傷つけてしまうからです。
そして何よりもそのような状況を見て、
神様がどれほど心を痛められるかということです。
ですから私たちは、
私たちも私たちに
御夢のある人たちを許しますという祈りを
無視してはならない。
許すこと、和解することを
ある意味諦めてはならない。
もしも許しがもたらされるのであれば、
実はそれはおそらくあなたが引き継いできた
何世代にも渡る呪いのような怒りが解かれる。
そこでストップがかかるということを
意味するのだと思うのです。
さて、続きを考えていきます。
では、私たちはどうすれば許すことができるのでしょうか。
これは本当に難しい問題です。
先ほど申し上げたように、
これに明確な方程式を提示できるものはないのです。
ただ聖書の言葉に聞いていきたいと願っております。
もう少し主の祈りの言葉に目を傾けます。
後半部分です。
私たちも私たちに御夢のある人たちを
許しますとこの祈りは教えられています。
この祈りは一体誰に対して
許すことを要求しているのでしょうか。
言い換えるならば、
この許しなさいと言われている人は
加害者なのか被害者なのかということです。
考えてみるならばそれは当然、
許しますなので被害者、
傷つけられた側が許すということを示唆しているわけです。
先ほどのダビデのような
加害者が許しを乞うということは
厳しい言い方ですが当然のことです。
さっきのDVの話ではないですが、
加害者が同時に被害者であったという
過去があるかもしれません。
傷つける側には傷つける側の理由は
確かにあるのだと思います。
ただ厳しい言い方ですが、
どんな理由があろうとも
どれほどあなたが傷ついてきたとしても
それが誰かを傷つけていい理由には絶対にならない。
決してならないのです。
許してほしいという勇気を持って
謝罪することはあるし必要なわけです。
しかしこの祈りは
被害者の側に呼びかけています。
それは傷ついたあなたが
傷つけたあの人を許しなさい。
和解へと踏み出しなさいという言葉です。
ただここでも難しいのです。
何が難しいかと言いますと
私たちは大概、相手を許すときには
30:01
相手がつぶなうことを要求します。
許しますよ。
でもまずあの人が
私に謝ってくれるならねと
私たちは思うわけです。
しかし実に難しいのは
あなたを傷つけた相手が
あなたが願ったように
謝罪をしてくれるとは限らないということです。
ちょっとだけ旧約聖書の話を少しだけ言いますと
本来和解というものには
償いが必要なんですね。
ちょうど今、総展で読んできていますが
朱雀・エジプト紀の22章なんかは
まさにそういうことが書いてあります。
何度かお話ししていますが
旧約聖書で与えられた立法というのは
まさに神様と人が
そして人と人とが
共に生きるためのルールを
神様が与えてくれたわけです。
共に生きるために必要なのは
朱雀・エジプト紀に書いてあるような
罰則規定なんです。
人間だから絶対に失敗するんですよ。
でも失敗をして
誰かに対してあなたが損害を与えたときに
あなたはこういう形で
償わなければならないと
神様が定めているんです。
あれはなぜ大事かというと
失敗をしました。
でもその失敗に対して
こういうふうに償いました。
償われた側は
その償いを受けたら
相手を許さなければいけないんです。
それによって
ごめんなさい、許しますで
和解が成立するんですね。
これがなかったら
傷つけられた側は
無限にその賠償を請求しますし
傷つけた側はどう償っていいか
わからないということになるかもしれません。
ですから和解は
償いがあれば
和解というものには
仕方がないわけです。
しかし先ほど申し上げました
現実問題、私たちが
直面するのは
自分を傷つけた相手が
自分に償わないということです。
自分は傷ついたのだけれども
相手には悪気がない。
いいえ、むしろ
これはあなたのために
やったんだから、とか
こんなことぐらいで傷つく
あなたが悪い、だとか
そういうことを言われたら
許そうとしてもとてもじゃないけど
許せないわけです。
そして許せない私たちの心に
築き上げられていく高い壁は何かというと
きっと許しますよと
でもその前に
私を傷つけてきた
これまでのことをちゃんと
一個一個あなたが謝罪をしてくれるなら
私は許します。
そのような駆け引きが
私たちの中に生まれる。
しかし
残酷かもしれませんが
悪気がない人はいつまでも償いません。
和解のプロセスが
そこで停止してしまうわけです。
33:00
そして
ある種
私たちはその相手へと失望し
その相手を諦めるという方法で
いろんなことを
解決していくのかもしれません。
しかし私は
この許しということに
もう少し考える余地があると思うのです。
それは
こう言えると思うんですね。
許すということを考えるときに
許す行為の
主導権は
相手の出方にあるのか
それとも
私自身のうちにあるのか
どっちかということです。
許すときに
その主導権は
相手がこうしたらということに
主導権があるのか
もしくは私が許し始めるという
どっちなのかということです。
そしておそらくそれは
許す側の私たちにあるのです。
許す側の私たちにあるのです。
許せないと思っている
自分自身にある
わけです。
なぜかというと
これは聖書から
言わせていただくとしか言えないのですが
なぜなら
私たちの神は
許しを呼ぶ
言葉を聞く前に
走り寄って抱きしめてしまうような
神だからです。
ルカの福音書の15章に
宝塔息子という
話がございます。
もう細かく話すまでもないかもしれませんが
ただちょっとその言葉だけを
見ておきます。ルカの福音書の
15章の18節というところを
見ておきます。
18節からをちょっと
読みしますとこういう言葉があります。
ルカの福音書
15章の18節から
ちょっと読みします。
立って父のところに行こう
そしてこう言おう
お父さん私は天に
対し罪を犯し
あなたの前に罪あるものです
もう息子と呼ばれる資格はありません
雇い人の一人にしてください
こうして彼は立ち上がって
自分の父のもとへと向かった
ところが
まだ家までは遠かったのに
父親は彼を
見つけてかわいそうに思い
駆け寄って彼の首を
抱き口づけした
息子は父に言った
お父さん私は
天に対して罪を犯し
あなたの前に
罪あるものです
もう息子と呼ばれる資格はありません
ところが父親は
下辺たちに言った
急いで一番良い衣を持ってきて
この子に着せなさい
手に指輪をはめ足に履物を履かせなさい
そしてこうやった格子を引いてきて
ほぐりなさい食べて祝おう
この息子は死んでいたのに
いなくなっていたのに
見つかったのだから
36:00
こうして彼らは宿縁を始めたと
あります
神と私たちは違う
そう言ってしまえばそこまでなのですが
しかし神を
見るならば
神の許しは
神の側に常に主導権があるわけです
許す側に
主導権があるわけです
神を知らないといい
神を傷つけ続ける
人々神の前に罪人であり
何一つ喜ぶことのできない人々
それを神は
まず許すと動き始めるのです
走り寄って抱きしめる父親
謝罪すらできていないのに
神が私たちを抱きしめた
信仰とはこの事実を
受け入れること以外に何もないです
神がまず私を愛し許したんだ
それを私は受け入れます
それだけなんです信仰って
そしてパウロはこの
神の許しに習い許し合うようにと
エペストビトの手紙で書いている
エペストの4章の32節に
互いに親切にし
優しい心で許し合いなさい
神もキリストにおいて
あなた方を許して
くださったのですと言われる
死の祈りは私たちに言います
私たちに御意味のある
人たちを許しますと
神が許すということに
主導権を持ったように
私たちもそれに習いますと
習いなさいと
でも思います
なんで傷つけられているのに
私から許さなきゃならないんだと
そういう思いがある種
吹き荒れるでしょう
でも
つらいことですが
そうでもしなければいつまでも
私たちは自分の内に握っている
憎しみを手放せないんです
あなた自身の心が
憎しみによって蝕まれないように
許すという行為の主導権は
相手にあるのではない
それはいつでも神が許したように
私の側にある
ということを
私たちは勧められる
ただ一つだけここから
お断りを入れていきますが
お願いがあります
ここまで私がクトクトと言いましたが
許すということを
ぜひ焦らないでいただきたいのです
私も実に注意深く話そうと
試みていますが
人を許すということ
盛れたものが和解をするということは
実に大変です
そして時間がかかる
デリケートな問題です
ある種一生をかけてでも
許せるかどうか
そのようなレベルの話でも
あり得ます
一つだけ映画の話をして
39:00
終わりたいと思います
皆さんは
韓国の映画で
シークレットサンシャインという映画を
ご覧になられた方いらっしゃるでしょうか
2007年に出た映画ですが
とてもつらい映画です
それは
許しについての映画です
少しストーリーを
お話ししますと
ある親子が
田舎町に引っ越してくるのです
お父さんは
交通事故で亡くなって
母一人子一人の母子家庭が
田舎町で生活を始めるわけです
母親からするならば
希望は
この息子の姿です
息子が笑顔でいてくれるならば
私はどれだけでも頑張れる
そういう母親です
この母親は
田舎の町に行くと
いろいろバカにされるわけですよね
よそ者が来てと
でもそのバカにされるのにも
ある種
立ち向かうために
いや私は実はお金持ちなんだ
という嘘をつきながら
生きていくわけです
息子が誘拐犯に
さらわれるのですね
その誘拐犯はまさにこの母親が
ついていたお金持ちという
この家はお金持ちなんだという
言葉を信じて
子供を誘拐してしまいます
身のしろ金を要求される
でも払うお金はないのです
最終的に
犯人は捕まるのですが
その息子は
殺されてしまうわけです
母親は
息承珍するわけですね
葬儀のシーンは
痛ましくて涙すら流すことのできない
母親の姿がいる
でもその母親の
近所にいる人にクリスチャンがいて
ぜひあなた教会に行きましょうよ
と誘うんです
教会に行って
そのお母さんは痛みを慰める
集会みたいなのに出て
そこで初めて涙を流すんですよ
そこで涙を流して
そこでお母さんは
イエス様を信じるんです
イエス様を信じるんですけれども
そのお母さんは
今までのことから
逆振りするかのように
熱心なクリスチャンになっていくんですね
熱心なクリスチャンになって
ある日問われるんです
イエスが
罪人を許したように
私も
あの人を許さなければならないのではないだろうか
そう彼女は思って
彼女を思って
息子を殺したその犯人に
刑務所に会いに行くんですよ
花束を持って
言うんです
私は息子の死を通し
神様の愛を知りました
ここに来たのは
あなたにもこの愛と恵みを伝えるためですと
するとその犯人は
穏やかな顔をしているんですよ
42:00
すごく穏やかな顔をしている
そして言うんですね
あなたの口から
その言葉が聞けてよかった
ありがとう
私はこの刑務所でキリストを信じたのです
私は
神は私のような罪人までを愛し
私の罪を
その不才を
全く許してくださいました
その言葉を聞きながら
映画は上手だなと思いました
母親の顔が崩れていくんですね
神は
あなたの罪を
許したのですか
穏やかに犯人は言います
はい、私は涙ながらに悔い改め
神様が私に触れ
私の心には
打ち鳴る平安が訪れました
私は毎朝祈りによって
一日をはじめ
眠る前にも祈ります
そしてあなたのことを祈っています
あなたが今日来てくれたのも
祈りの結果だと思いますと
犯人はそう言うんです
これを聞いて
そのお母さんと一緒にいていた
お母さんはその状況を見て
気絶するんですね
そこから
そのお母さんは
気が狂い始めると
言いますか
そうなっていくんですね
それならなぜ
私の息子は死ななければならなかったのか
母親は一転して
教会の活動を妨害するようになります
私の息子は
死ななければならなかったのか
母親は一転して
教会の活動を妨害するようになります
聖書に書かれている
聖書に罪と書かれていることを
次々と行い始めます
そして最終的には
自殺を図るわけです
その映画が
書いている様子が
すごく皮肉に満ちていましたね
お母さんがそうやって
おかしくなっていくのを
教会の人たちは
何でか分からないんですよ
え?あなたもう罪許されたでしょ
だからあなた許しに行ったんでしょ
何でそのことで
あなたはそんなに傷つくんですか
あの人が救われてハッピーじゃないですか
そうじゃないんです
そうじゃない
皮肉なほどに
その人の許せないという痛みに
誰も寄り添うことができない
痛みというのは
本人にしか分からない
本人にしか分からない
説教の最初に申し上げました
許すということは簡単なことではありません
いや何十年もかけて
物によっては何十年も
いや一生かけて
私たちはそれに取り組まなければならないことがあるのかもしれません
私は皆さんが
45:01
どのような痛みを抱えているのか
正直分かりません
だからここで私も
簡単に許しなさいと言っていいかどうか
実はものすごく悩んで
ここで話しています
ただそのように悩みながら
なおも私がここで
語りうることがあるとすれば
私自身が思わされたのは
十字架を
見上げるしかないなということです
イエス様が十字架に
かかられたときにこのように叫ばれました
我が神我が神
どうして私をお見捨てになられたのですかと
神を何故ですか
神を何故ですか
神を何故私を見捨てたのですか
そう叫ぶ巫女イエス様が
おられる
それは
神を嘆く
私たちとともにイエスはいることが
できるということです
何故ですか
神を何故
私の愛する人は
奪われなければならなかったのでしょうか
それは人に対する怒りというか
むしろ神様への怒りになっているのかもしれません
何故ですか
何故許さなければならないのですか
しかしそのイエス様が
言われるのです
私たちの追い目を許しください
追い目のある人たちを許します
私はこの6章の12節を
読みながら
眺めながら
これは簡単に許せという
すすめ
そういうわけでもないと思うんですね
何故と叫んだ
イエス様が私たちの主なのです
そしてそれは
何故許さなければならないのかと
叫ぶ私たちを
受け入れ合いし
それを私たちを抱き止める
イエスはキリストなのです
私たちが許すときには
まさに不自然なことをするわけですから
許そうとしたら心がギシギシと
痛みます
涙を流します
何故許さなければならないのですか
でもそのような私たちを抱き止めながら
共に涙を流すイエスがいるのです
そして
この祈りは
そのような私たちを抱き止めながら
イエスが
私たちを許しの方向へと
一歩一歩招き入れる祈りだと思うんです
簡単に許せるならば
もう何十年も悩んでいないでしょう
しかしイエス様は
私たちを愛するがゆえに
私たちの人生が憎しみの苦みに
蝕まれてしまわないように
許すということを教えられた
人を許すということは
簡単なことではありません
そんなことは言うまでもないことなのかもしれません
しかし私たちは
毎週主の祈りを祈ります
48:01
私たちの多い目を許しください
私たちも私たちに
多い目のある人たちを許します
この祈りは
なぜ許さなければならないのかと
怒り
嘆き叫ぶ私たちを抱き止めながら
共に涙を流すイエス様と
共に
イエス様が進める許しの道へと
一歩一歩歩いていくための祈りなんです
私たちは
私は少なくともそのように信じています
一言祈ります