1. 名谷教会
  2. 2013/01/01:聖日礼拝(旧音源)
2013-01-01 27:54

2013/01/01:聖日礼拝(旧音源)

2013/01/01 聖日礼拝(旧音源)


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今日は、聖歌隊の皆さんのご恩賜がお休みということで、非常に残念です。
ぜひ聴きたかったですが、来週また、来週次の日曜日にまた放出してくださるということで、
本当に毎週毎週、聖歌隊の皆さんが賛美を捧げてくださって、
そして賛美に恵まれて、私も講壇に立たせていただいてきました。
今日は、賛美はございませんけれども、準備しております御言葉を取り継がせていただきます。
先立ってもお話ししましたように、この御言葉は、
昨日とか示されたのではなく、ずっとそれこそ1ヶ月以上も前に、
この元旦礼拝にどこの箇所を語ったらいいんでしょうかという、
本当に短い祈りの中で示されて、この箇所が挙がったわけですから、
その時はこことこことという2箇所挙がったんですが、
もし昨日、明日の元旦礼拝のためにということであったら、
また違う箇所が挙がっていたのかもしれないんですけれども、
それは主のお導きとして、この2箇所、またさらに他の箇所も挙げられると思うんですが、
要するに元旦ということで新しい年を迎えるということをその時に思って、
新しいという、そういう言葉から神様が何か、聖書のお言葉をということで、
一つは愛科の三章の23節、24節に、
それは朝ごとに新しい神様の恵みと祝福と御愛は、また今日も、
そして今日でしかない神様の恵みが今日あって、
そしてまた新しい一日を迎える時に、神様の恵みがまたそこに新しいものとして備えていて下さる、
いつも新鮮な主の恵みが注がれるんだという、そういうことを示して下さっていると信じます。
そしてもう一つは、内なる人は日々新たにされています。
一年一年年を私たちが重ねていきますけれども、
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それと同時に赤ちゃんがどんどん育っていく時は、何かたくましくなっていくということを連想しますけれども、
これを書いているパウロにすれば、もうそれこそ万年に近い、そういう時であったとするならば、
自然の法則として、私たちは日々外なる人は衰えていきます。
見たら分かりますように。
しかし、内なる人は日々新たにされています、というパウロの深刻告白。
これは内にいます。
精霊がいつも湧き上がって、そして神様の恵みとまた導きがその時その時に湧いてくる。
それも尽きず新しく自分の内に湧き上がってくるという、そういうことをパウロはここでコリニトの人たちに語ったんだと思うんですね。
その二箇所を今日ここに挙げさせていただいたわけです。
一言お祈りをいたします。
天の神様、こうして元旦の朝、時と場所を一つにしてこのところに集いました。
そして礼拝を捧げています。
どうぞ御言葉を通して、またあなたが私たちに導きを与え、また新しい時にあなたが何をしてくださろうと思っているのか、
その主を仰ぎ、また主の御心を覚える時としてくださるように語るものを十字架に隠して、
主語自身がどうぞ一人一人にお語りくださって、御言葉が私たちの礼の糧となり、また導きとなりますように、
おえだねし旧キリストの皆によってお祈りをいたします。
アーメン。
2013年、神様がどのような業をなしてくださるのか、
そのための、これも2013年、妙谷教会の標語、そして聖句というのを挙げるようにということであります。
これもまた同じように、まだ年が明けていないのに、新年明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくと、
そういうのと同じように、まだ2013年来ていないうちから、神様が標語としてどういうものが挙げられるのでしょうか。
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あるいは、相応しい聖句は何でしょうかということで、
教団の方の標語、それは、御言葉を述べ伝えなさい。新七年、共同伝道の第七年目ということで、
聖句は御言葉を述べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまで寛容な心でよく教えて、せめ今しめ進めなさい。
もう一箇所が、あなた方は我が教人、私が選んだ我が子供である。
三谷教会の標語、神の栄光が現れるために、聖句は、神のなさることはすべて、時にかなって美しい。
もう一つは、すべてのことはあなた方のためであり、それは恵みがますます多くの人々に及んで、感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためです。
そのように挙げられています。
新しい時、これから私達は神様に先生いただいているわけですが、
少し2012年のこの一年を振り返るという、これも大事なことだと思うんですね。
あまりそれに時間を費やしたり、思いを費やす必要はないと思うんですが、
2013年で私達は、ガラテアビテへの手紙の中から、
三珠の実は愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、乳和、慈悲です。
その聖句が挙げられていたと思うんですね。
果たして私達のうちに、三珠の実がどれほどなったであろうか、
あるいは神様の恵みによってその実をならせていただいたことだろうかということも、
もう一度覚えることが必要であろうかと思うんです。
本来なら3ヶ月ごとぐらいに、三珠の実、聖句、それにどうだろうかというようなことも、
時々振り返りつつくればよかったんですが、
そういうことないままに一年が過ぎてしまったことを申し訳なく思っております。
三珠の実、精霊によって私達が、それこそ日々新たに私達のうちにそれを形作っていただいて、
愛、そして喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、乳和、慈悲、
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その三珠の実は果たして私のうちになっただろうか、あるいはそれを求めてきただろうかというようなことを覚えつつ、
その一年を過ごしたわけですが、もうその年が終わったから、それはもう過去のものであってよいということではないと思うんですね。
その聖句と三珠の実を求めていくということをベースに、
またそこに次の新しい神様の望んでおられることを上積みしていく、
あるいは並行して進んでいくという、そういうことを御神様は願っておられることと思うんです。
この新しいという聖句にちなんで、さらに四篇の五十一篇の中にも新しいということが記されていました。
四篇の五十一篇の十節から十二節ですが、
神よ私に清い心を作り、揺るがない霊を私のうちに新しくしてください。
私をあなたの御前から投げ捨てず、あなたの精霊を私から取り去らないでください。
あなたの救いの喜びを私に返し、喜んで使える霊が私を支えますように。
この四篇を謳ったと言われるダビデ自身が大変な罪を犯し、
そしてそれを指摘され、死の御前に喰いて、そして与えられたこの四篇だと言われています。
彼自身の心の叫びとして、彼は何度も私の罪を除いて仕込めてください。
そして私を君の名を目から解き放ってください。
そして願わくは神よ私に清い心を作り、と彼は願ったわけであります。
清い心それは神ですが作り得ないその心でありますから、
神よ私に清い心を作ってください。
この作るということは、最初に神様が天地創造をなさった時の光あれよと言われると、そこに光ができた。
要するに神様のお言葉によって全てのものができた。
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神は御言葉によって作られた、天地創造された時の作るという言葉と同じであるわけです。
ですから清い心を私の内に作ってくださいという、それは神にしかできない技である、そのことを表した言葉であろうと考えます。
神よ私に清い心を作り、揺るがない霊を私の内に新しくしてください。
もちろんこれまでもこのような揺るがない霊、精霊、そして神の霊が私の内にありました。
しかしもう一度、神創造として新しくそこに清い心を作ってください。
新しく、もう一度というような、そういう思いがここに表されているわけですね。
私はあなたの御前から投げ捨てず、あなたの精霊を私から取り去らないでください。
あなたの救いの喜びを私に返し、喜んで使える霊が私を支えますように。
この詩編のこの歌詞も何度も何度も読み返し、そしてこのダビデが祈った祈りにはこの詩編が私の詩編となるように。
そこまで私たちがこの御言葉の中に入ることができるように、神様がそのように導いてくださるようにと願うわけであります。
もう一箇所は第2コリントビトへの手紙の5章の17節ですけれども、351ページの第2コリントの5章の17節。
誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく作られたものです。古いものは過ぎ去って、いよすべてが新しくなりました。
ここには2箇所、その人は新しく作られたもの、すべてが新しくなりましたと、新しくという言葉が繰り返されて出てきます。
個人的なことで申し訳ないんですけれども、私自身が洗礼を受けました時に与えられた御言葉がこの御言葉でした。
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いわゆる私自身が与えられたというよりも、洗礼の受洗のお祝いに聖書をいただきました。その聖書を開いた一番最初の余白のところにこの御言葉が添えられていたわけですね。
おそらくがあなたに受洗にあってこの御言葉がふさわしいだろうということでこの御制服を与えてくださった。そのことをもう一度思うわけであります。
誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく作られたものです。新創造。そして古いものは過ぎ去ってみよ、すべてが新しくなりました。
誰でも、どんな人でもという、これは非常に大事なことでありますし、聖書を通して貫かれている一つの神様の見思いであります。
どんな人でも新しく作られることが可能である。もう一度やり直すことができる。今までのものはなかったものとしてまた新しく生まれたものとしてそこから歩み出すことができるという。
ただ一つの条件があるとするならば、それはキリストのうちにあるなら、そうではなく何とか自分で新しくなろう。誰か私を新しくしてくれる人はいないだろうかと探す。
あるいはこういうことをすればもう一度やり直せるんじゃないだろうか。そういうことも必要な時もありますが、それらがすべてそれで可能かどうかという保証はないわけですけれども。
しかし御言葉が私たちにすべての者に言っていることは、どんな人でも誰でもキリストのうちにあるなら、キリストと共にあるなら、
私がキリストを受け入れて、そしてキリストにより頼むならば、どんな人も誰でも新しい創造者がそこに誕生するのだ、新しく作り変えられるのだということを言うわけであります。
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古いものは過ぎ去って、によすべてが新しくなりました。古いものがすべていけないということではありません。古き良きものがありますし、それは大切にもしなければなりません。
しかしここでパウロが言っている古いものは過ぎ去って、それは新しく生まれたものがこれから新しく歩み出そうとするときに、それを妨げるようなもの、あるいは古いものに縛られて前に進み出すことができないような、
そういうものがあるとするならば、そういう古いものは主によって取り除いていただくことができる。そして新しく作られたもの、生まれたものとしてもう一度そこからキリストの自由にあって進み出すことができる、そのことをパウロは言ったわけであります。
誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく作られたもの、古いもの、自分の過去にあった罪とは、そして新しく歩み出そうとするものを妨げるような、そういうものの一切、それは肉の働くと聖書は言うわけですけれども、
そのようなものも全部キリストにあって取り除かれ、そして解放されて、そこからまた新しく歩み出せばいい。そうするときに、見よ、すべてが新しくなりました。
おそらくそこに建っていた建物も、あるいは道を行くすべてのものは同じだと思います。あるいは出会う人もその人たちは同じ人だと思います。
その瞬間にみんなが様変わりするということはありません。しかしキリストにあって新しく作られたもの、古いものが全部その内から取り除かれたその人が変えられることによって、その人の見るものは全部違って見える。
全部新しいものとしてその人にとっては見えるという、その体験と信仰告白がここに書かれてあるわけですね。こういう経験をした人は多くいると聞いてます。
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証の中でそのようなことは何度も聞きました。自分は今まで宝石、ダイヤモンド、ルビー、そういうものを高価なものとして持っていました。
しかしいろんなところを通ったその人がイエス様と出会う。それこそキリストにあって新しく作られた。
外側は変わってませんけれども内側に種の新しい見業が起こったときにそのダイヤモンドが単なる炭素の塊にしか見えなかったとおっしゃいました。
ダイヤモンドはダイヤモンドなんですけれども今までと違う見る目をそこに与えられて、彼女はそこからまた新しい愛をしたということ。
そういうお証を何度も聞きました。それは一つの例ですけれども、なかなか私たちが新しいものを求めて、そして古いものを何とか処理したいという、そういう思いは誰しも持っていると思うんですね。
ある人がお家の片付けをしたいということで、とにかく古いものとか貯めていたものがたくさんあって、この機会に新しくなろう。
そして、いわゆる片付けの講座を受けたり、ダニシャリというようなそういうものも教えていただいて、どうするかというと、柵を三つ用意しなさいと言うんですね。
一つは、もうこれは古いもの、いらないもの、捨てるものということで、そこにそれを入れましょう。もう一つは、やはりどうしても必要なものがあります。今日、明日使うものは捨てられないということで、それを一つ用意しましょう。
もう一つは、どちらかまだ決めかねない、どちらともわからないので、保留するという、そういう箱を用意しなさい。それによって仕分けをしていくのがいいんじゃないかというわけですね。
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そして結局、保留しておく箱が一番たくさんたまっていたということで、全然新しくなれないということで、そういうことであります。
けれども、やはり私たちは古いもの、いらないもの、それはそういう片付けということではなくて、私のうちにある妨げになるようなもの、せっかくうちにあるものが新しくされて、そしていよいよここから歩み出そうとするものにとっては、
キリストにあってそれを取り除いていただく。古いものは全部取り除いていただく。もちろん過去にあったそういう傷であるとか、いろんなその人でしかわからないいろんな悩みだとか、人には打ち明けえないそのような都がとか、いろいろあろうかと思います。
それは神様ご自身が知っていてくださるその方に委ねて、それがキリストのうちにあるならば、イエス様だったらそのことはわかってくださる。あるいはイエス様にしかわかってもらえない。
そのことをすべて告白して、このイエス様が私を新しくし、また古いもののすべてを清めて、傷を癒して、そして作り変えて、全部新しくして、そして歩むように。
さあ、一人でここから歩むんだよという、そういうことはイエス様はなさいません。新しく生まれたものも弱いものでありますし、まだまだ至らないそういうもの、キリストのうちにあるならばその人は新しく作られたものであり、また新しくされたものはキリストとともにこれからも歩んでいてください。
イエス様はどんな時にも見捨てず、見放さず、共にいてくださるインマヌエルのお方ですから、このお方に委ねて、そしてこの新しい一年、一日一日をこのお方と共に歩ませていただきたい。
お祈りをいたします。
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引き締めてここからお使いをしてくださるようにお願いいたします。
主の恵みは朝ごとに新しい新たな愛は尽きることはありません。たとい私たちは補となる人は衰えていきますけれども、うちにある精霊は日々新たにされて尽きることのない御霊の命が私たちに沸き上がります。
どうぞ主よ、これからもお一人お一人と伴って、これからの日々を恵みまた支えてくださいますよう、真摯お枝にして主キリストのお名前によってお祈りいたします。
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