00:01
ありがとうございました。
あらためて皆さん、おはようございます。
先程も祈っていただきましたけれども、
九州に、あるいは山口に、大雨で大きな被害があったり、
多くの人々が命を亡くされたりしています。
一日も早く復旧ができて、これ以上人命の被害が出ないように、心から祈っております。
まだ決まっていないんですけれども、その中で、
今年の夏の特別感謝献金の中に、九州地方の被害支援のために、
少しでも寄附ができたらいいなと、そういうふうに考えております。
そうですね、いろんなことが起きている。
コロナ感染症、地震、あるいは豪雨、さまざまなことが発生している中で、
私たちの一日、今日という日は、ただで与えられたものではなくて、
本当に神様の恵みによって与えられた一日、また今日の命ということではないでしょうか。
神様が生かしてくださるから、私たちは生かされております。
だから信仰生活もできますし、だから職場生活もできますし、
だから食べていけるのであります。
そういうことを覚えですね。
常に感謝して、喜びに満ちあふれて歩んでいきたいと願うものであります。
一言短くお祈りします。
神様、私たちは本当に神様の恵みによって生かされております。
しかし人間は本当に傲慢なもので、人間が世界一であるかのように傲慢に振る舞っております。
主よ、そんな中で豪雨が降ってもそれを防ぐことはできないものです。
地震が起きてもそれを防ぐことはできない。
地震が起きてもそれを防ぐことはできない。
予測ができてもそれを防ぐことは誰もできません。
主よ、我々人間に謙遜の心を与えください。
そして本当に全てをお作りになった作り主のある神様を信じて、
この日本、この異教の国、この偶像の国が主よ、
あなたを信じ、あなたに立ちかけるその日が一日も早く来ますように、
どうかこの国を憐れんでください。
被災地のその上にもどうかあなたが憐れみを与えてくださって、
様々な方法を通して一日早く主よ、復旧ができますようにあなたがお助けください。
今日のこのこれからの御言葉をどうか神様が私たちの心の板に刻みつけてくださって、
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その御言葉を握りしめて生きるものとして、
決心を、また上階を我々にお与えくださいますように、
聞く耳を与えてくださって心を開かせてくださいますように、
イエス様の皆によってお祈りします。
アーメン。
今、私の福音書から、
イエス様の問い話、私たちへの問いかけというシリーズで7回のメッセージです。
私も改めてこのパトオヤ話のシリーズメッセージを指していただきながら、
新しくあるいは改めて発見したものは、
このマタイの福音書は天皇ミクニの福音書と名前を付けたいほど、
多くあるいはほとんどのパトオヤ話が、天皇ミクニとはというパトオヤ話なんですね。
マタイが神の霊感によって、特にこのユダヤ人向けで、
天皇ミクニは何なのか、それをとてもフォーカスを当てて、
イエス様のパトオヤ話を取り上げていると思います。
天皇ミクニについてですね、7回目になりますけれども、
願わくは私たちのこの普段の皆さん、日頃の関心があるいは祈りがですね、
自分自身を乗り越えて、自分自身の問題弱さを乗り越えて、
神のミクニのために祈り、そのために考え、もっと関心を持って、
天皇ミクニのために生きる私たちでありたいと、そういうふうに願っております。
今日もブドウ園の主人のことがテーマになりますけれども、
天皇ミクニ、それについて一緒に学んで、
天皇ミクニは神の国はどういう国なのか、分かっていただいて、
そしてそのミクニの民としてどう生きるべきかをですね、悟って、
また実践していきたいと願います。
今日の一節を見ますと、天皇ミクニは自分のブドウ園で働く老務者を雇いに
あさやく出かけた主人のように、ようなものですとね、
例え話が始まっていますけれども、
実はその19章の後半のところにですね、
イエス様がこの例え話を話された理由があったんですね、背景があるんですよ。
私たちが今の時代の聖書はこの20章、21章、この章がつけてありますが、
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写本にはですね、原本は見つかっていないので、写本にはこういう章はついてないんですよね。
だからこれは実は19章、20章はもう連なっているものなんです。
さあ、その背景をですね、まず今日話をしていきたいと思います。
19章の27冊からご覧ください。
私はですね、特にこのペテロに関心が高いんですね。
この真鯛の君主には、ペテロがイエス様にどんな話をしたのか、
偉いことをした時もそれを正直に書いてますし、
時にはちょっと愚かな質問とかですね、そんなのもですね、隠さずにですね、
もうありのままで書いてあるんです。
さあ、27冊ご覧ください。19章の27冊。
ペテロがですね、イエス様にこういうふうに、答えなんだけれども、
尋ねている感じですね。
その時、ペテロはイエスに答えて言った。
ご覧ください。私たちは何もかも捨てて、あなたに従って参りました。
私たちは何がいただけるでしょうか、とですね、ペテロがイエス様に聞いたんです。
どういう意味ですか、皆さん。前を向いていただけますか。
ペテロはですね、元の職業は漁師さんで、魚を捕る。
で、一番先にアネレと、一番先にイエス様の弟子になったわけです。
そして福音書を見たら、彼は船も網も、自分の今までの仕事も親も全部捨てて、
イエス様についていった。一番の弟子なんですよね。
18キロだったら、一番に弟子になった人なんです、本当に。
ところが、ここにきてですね、ペテロはペテロの心の中に、いろんな思いの中にですね、こんな話なんですよ。
ちょっとですね、聖書はあまりにも丁寧に書かれているからね。
ちょっと荒っぽく言うと、イエス様、ほら、ご覧くださいよ。
私は網も捨てて、自分の仕事も捨てて、故郷もね、ふるさとも離れて、何もかも捨てて、あなたについてここまで来たんですよ。
何かイエス様、いただけるんでしょうか。
つまり、今イエス様に、自分がこれぐらいしたんだから、これぐらいはしてくれるでしょう、みたいにね、
駆け引きしているみたいに、交渉しているみたいな、このペテロの心の中に、私がこんなにしたんだから、
イエス様、これぐらいはしてくれるんですよね、みたいな、いわゆる保証心理が彼の中に動いているわけなんです。
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そこでイエス様は、ペテロの心を知らない方ではない。
それでですね、最初はちょっと変化球でですね、優しくですね、こういうふうにお答えになりました。
それが28節からですよ。ご覧ください、28節。
そこでイエスは彼らに言われた。
特に実はペテロにだけなんですよ。
誠にあなた方につけます。
よく改まって、人の子がその栄光の座につくとき、私に従ってきたあなた方も、
つまりペテロあなたも、他の弟子もね、十二の座について、イスラエルの十二の部族を裁くのです。
また私の名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、
つまりもうペテロよさん、ちょっと聞いてね、そんな話なんですね。
その幾倍も受け、また永遠の命を受け継ぎます。
そして最後にイエス様が一つ大事な話をつけました。
三十節、ただ先の者が後になり、後の者が先になることが多いのです。
どういう意味ですか。ペテロは先の者なんです。
一番に弟子になった。自分は一番に弟子になった。
そして他の者よりは私はたくさんの者を捨ててイエス様についてきたんだから、
イエス様、何をいただけるんですか。そういう真意が動いていた。
ところがイエス様はよく見抜かれて、先の者が後になり、後の者が先になりますよ。
どういう意味ですか。ペテロよく聞いてね。
あなたは先に弟子になったんだけれど、今のあなたのその考えは、
もうあなたが後の者になり得る危ないところですよ。
分かりますか。
未国はそういう保障心に交渉する国ではないんですよ。
ペテロを含めて弟子たちにイエス様は語られたわけなんです。
ペテロに知ってほしい。気づいてほしい。
あなたは確かに本当に老くしたんだけれども、
だからって何か得をするものはないんですか。保障はないんですか。
そういった保障する、そういう意識を考えを持っているならば、
あなたは後になりますよ。分かりますか。
ところがペテロが分からないんです。
もしそこでペテロが、主よ、私は本当に罪人です。
愚かな者ですと食い温めたら、この20章のこの例え話はなかったかもしれない。
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言わなくても分かるからね。
それでもペテロさんが気づいていないんですよ。
イエス様は突然なんでこんな話を、先の者は何なの、後の者は何なの。
もう分からない。気づいていない。
だからイエス様はこのブドウ園の話をして、もう一度話をするんです。
最後の結論が、この19章の30節と20章の16節は全く同じですね。
後の者が先になり、先の者が後になるという話。
この例え話、清楚よく皆さん、ご覧にながら話をしていきたいと思います。
ざっとこの例え話のストーリーを話をしましょう。
ブドウ園の持ち主がいました。
それでブドウ園に働いてもらうために人々を雇うわけなんですね。
それで1日の賃金は1でなりですよと決めて人を雇うわけなんです。
ところが朝9時に市場に出てみたら人々は何をしていたんですか。
聖書をご覧ください、皆さん。私のカゴには書いてないです。
3節、何もしないでいたわけなんです。朝9時ですよ。
朝9時にいわゆる人々が雇ってくれるかな、そういった人々が集まっている広場みたいなところに行ってみたら、
何もしないでそのままいるわけです。
そして彼らにもブドウ園に行って働きなさいと雇ってくれたわけです。
ところがこの主人はちょっと面白いって朝9時だけではなく、また何時ですか。
12時、4節ね。12時ごろとまた午後3時にも行ってみたらまた人々はどうですか。
また何もしていないでそのままいるわけなんですよ。遊んでいるわけなんです。
仕事がない、賃金がない、雇ってくれない、何にもできない状態の人々がそこにいたわけなんです。
それでこの主人は9時だけではなく、12時も午後3時も人を雇ってくれました。
皆さん、だいたい今も建築現場を見たらだいたい5時ぐらいになったらほぼ終わるんですね。
遅くても夏は6時ぐらいに終わるんだけれども。
このブドウ園の持ち主は6節ご覧ください。
また5時ごろに出かけてみると別の人たちが立っていたので彼らに言った。
聖書をご覧くださいよ。なぜ一日中仕事もしないでここにいるのですか。
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午後5時になったらその日が暮れますよ。夕日が暮れる。
その時になっても何もしていないでいるんです。
それでこの持ち主はどうしまっていたか。
午後5時にこの人々を雇ってくれて、ブドウ園に行って働きなさいと。不思議なんですよ。
午後5時から入ったら着替えて仕事をしようとしたら終わりかもしれない。
そしてその後もみんなに仕事が終わって一日の賃金を渡すわけなんです。
ところがこの持ち主は最後に来た人。そちら何時ですか皆さん。
たまには答えていいんですよ。たまには答えてほしい。
一人でいつも喋っていますから寂しいんですよ牧師は。
みなさん生きていらっしゃいますからね。
午後5時なんですよ。午後5時の人に一礼なりをくれたんですね。
そしたら一番先に来た、9時あるいはその前に来た人は、
あの5時に来た者たちが一礼なりをもらったなら、
俺は彼らより何枚も仕事をしたんだから、きっと5礼あるいは10礼なりもらえるかもしれないと思っていたんですね。
ところが自分たちも同じく一礼なりしかもらえなかったんです。
そしたら最初に来た者たちがどうしましたか。
一節ご覧ください。
そこで彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけていった。
もう腹が立ってしまってですね、
おいご主人様、俺らは朝早く来てですね、もう日焼けするほどですね、
この暑さで辛抱しながらこんなに働いたんですよ。
あの連中はたった1時間しか働いてなくって、
そこに一礼なりをもらって、
俺たちはもう何枚も1日10時間8時間働いたのに、
なんで一礼なりしかくれないんですか。
いったいあなたは何なんですか、みたいにね。
もう腹が立ってねえ、もう怒ってですね文句をつけた。
そしたら葡萄園の主人が言いました。
私は何も不当なことをしていません。
あなたは私と一礼なりということを約束して、ここで働いたわけでしょう。
自分のものを自分の思うようにするのは何が間違いですか。
そして最後16節、このように後のものが先になり、先のものが後になるのです。
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さあここで私たちはですね、この葡萄園の持ち主のところから、
天皇御国は神の国はどういう国なのか、
2つその法則というかその話をしたいと思います。
1つ目、天皇御国は恵みの世界です。
今日のタイトルは天皇御国御長の世界と申しました。
皆さん、神の御国は恵み御長によって建てられる国です。
だからその国の民も恵みの法則によって生きるものなんです。
さっきも言いましたようにですね、朝9時に行っても12時に行っても午後3時5時に行っても、
彼らは一生懸命働いてたんですか。
違いますよね。何もしないでいたんですよ。
仕事がない、賃金がない、誰も雇ってくれない、ある意味で無益な者たちでした。
ところが皆さんよく考えると、午後5時に雇われた人々のことを考えたらですね、
もう仕事が終わり頃なんですよ。
この持ち主の意図は何でしょうか。
私たちが持ち主だったら午後5時に雇うことをしないと思うんですよ。
本当にもう30分でもしないといけない仕事がたくさんあったから雇ってくれたんでしょうか。
違うと思うんですよ。
あの仕事のない人、賃金のない人、何もしないでもう冒頭している彼らに仕事を与え、
賃金を与えて、そして彼らがそのお金で家に行って食べていけるように、
いわゆるこの主人の行為配慮だったんです。
今この主人には働き人が必要なのではなく、
この働き人のために、この人々、労務者のために主人が会えて、彼らに仕事とお金を与えた。
ブドウ園の主人の配慮、行為なんです。
皆さんこれが恵みなんです。これが恩情で、これはグレイスというものなんです。
今日もね、343番賛美を歌いました。
ああ恵み、計り知りない恵み、そうなんです。
皆さん、恩情、恵みとは何でしょうか。
何ですか皆さん、恩情、恵み何ですか。
それは、もう受ける何の資格もないものに一方的にただで与えられる行為、
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これがいわゆる辞典的な辞書的な恵み、恩情の定義なんです。
これくらい皆さん覚えていてください。
ノンクリちゃんに恵みって何なの、そうだね、わからないね、それはダメなんです。
受ける何の資格もないものに一方的にただで与えられる神の行為、これが恵みなんです。
この雇われた人々は何もしていないままでした。
何もしないでいた、これが実は今日大事な一つの言葉です。
以前の私たちの状態でした。
神様が私たちを神の武道園に招いてくださるその前には、人生の一場で何もしないでいました。
もうただの時間、暇つぶしをしているだけでした。
一日一日何の意味もなく目標もないまま生きていた人たちでした。
一場に立っており何もしないでいたものが実は私たちなんです。
そんな私たちを主が一方的にただで行為をもって招いてくださった。
罪を許してくださった、憐れんでくださった、永遠の命を与えてくださった。
これが恵みなんです。
だから皆さん、神の国は恵みの世界なんです。
これが御国の法則なんです。
御国で生きる私たちの法則は恵みの法則である。
皆さんに一つお聞きしましょう。
皆さんの中で、私はイエス様を信じて救われるにあたるある程度十分な値打ち資格を持っていたと思われる方、手を挙げてみてください。
誰もいないんですね。
そうなんです。誰もいないんですよ。
誰もいない。
私たちは皆、神の怒りをそこから避けることができない者たちでした。
しかし神様はその怒りを免除してくださった。
罪を許してくださいました。
救ってくださいました。
永遠の命を与えてくださいました。
これだけ考えても、私たちは十分あふれる祝福を受けたものなんです。
だからどれくらい感謝しなければならないでしょうか。
24:01
もう、韓国の昔の賛美に、朝にも感謝、昼にも感謝、夜にも感謝、今日も感謝、明日も感謝みたいな、私が小さい時に歌った歌がありますけれど、本当にその通りなんです。
一日中感謝しても、今日も感謝して、明日も感謝して、朝にも、昼にも、夜にも感謝しても、私たちの感謝は足らないんです。
皆さんどうでしょうか。
皆さんはこの頃、本当に私が神のこの怒りから逃れて、そして罪を許されて神の子供になったこと、その救いのゆえに本当に感謝して感謝があふれていらっしゃいますでしょうか。
何事にも感謝していらっしゃるのでしょうか。
自分自身を正直に変えてみてください。
あるいは、今のあなたの皆さんの心はどうでしょうか。
今朝、教会に来られた時の皆さんの心はどうだったのでしょうか。
感謝にあふれていたのでしょうか。
私が自分自身のことをよく見るとですね、普段あんまり感謝のない人々がいるんだなと思います。
感謝があんまりないんです。
だから一日一日がもう、毎日が暗いんです。
神の光がない。
まるでこの一番に雇われた人々が主人に文句をつけるようにですね、考えの中に、唇の中に文句ばかり。
そこにはですね、とても大事なことを忘れているからなんです。
それは繰り返しになりますが、私たちは罪と徳のゆえに死んでいたものでした。
神の救いとこの世に神を礼拝することとは何の関係もない偶像の中に、異教の中にいた者たちでした。
救われるには何の資格も値打ちもなかったものでした。
こんなものを神様が一方的に、ただで招いて救って行為を施してくださるならば、
それを毎日目想するなら、考えるならば、私たちは感謝しなければならないんです。
もう暗くね、憂鬱に生きることはないんですよ。
神の恵みがあるのに。
それだけではなく、神の国は私たちを救ってくださるだけではなく、働き人にしてくださいました。
27:00
そして、生きるように仕事もくださいました。
様々な奉仕ができるようにしてくださいました。
私のような本当にダメな人間もしか、牧師としてくださった。
皆さん、役員に礼拝の奉仕者に、何よりこの世に神を礼拝できる特権の恵みをお渡しになりました。
これ以上の恵み、祝福がどこにあるのでしょうか、皆さん。
私は本当に感謝にあふれて、一日一日歩まなければならないと思いませんでしょうか。
皆さん、もし私たちがペテロのように、最初に雇われたこの人々のように、
私が神のために礼拝を捧げてあげていると、
私もこれぐらいは犠牲しているよ、
私はこれぐらい神のためにこんなに損しているよと、
そう思うならば、神の恵みは吹っ飛ばされて遠くに行っちゃってしまいます。
皆さん、私たちがここに来ているのは大きな恵みです。大きな特権です。
だから皆さん、寝ていてはいけませんよ。
礼拝の時に寝ているのは神様に対する冒涜なんです。覚えてください。
私たちが偉いから、偉いからここに来ているのではないんです。
神様が好意を施してくださるから、
許してくださるがここに私たちは来ているだけなんです。
ところがどうでしょうか。
昔は信じたばかりの時には、自分が病気から癒された時、何かの問題からすごく好かれた時には、
驚くばかりのアメイジングラス賛美を歌うんですよ。
ああ恵み、ああ恵みを歌うんですね。
ところが徐々に時間が経つにつれて、この恵みの法則は消えてしまって、
保証心理が心にいっぱいになって、恵みを忘れてしまって、
神様に駆け引きしようとするような思いが湧いてきて、
そこから教会生活があまり楽しくないんです。
信仰生活が楽しくない、教会に行くのが楽しくない。
恵みと喜びに溢れるよりは、文句や不満や怒りでいっぱいになっている。
なんでしょうか。
人に問題があると思うんだけど、そうではないんです。
問題は自分にあるんです。
自分の中に神の恵みの、この恵みに対する思いがどんどん薄くなって消えてしまって、
30:02
神様に何か文句をつける、この雇われた人のようになやけているんです。
こんなふうに思うんです。
神様、私がこんなに数十年も礼拝して、毎週献金して、奉仕をして、
そしたらちょっと金持ちにしてくださり、病気も癒してくださり、
家族も早く早く救ってくださったらよかったのに、
神様、そうしてくれないんですか。
なんで何もしてくれないんですか。
みたいに思ったりする私たちがここにあるんです。
恵みに対する考えは消えてしまって、
そして神様と交渉して仕事をする。
保証心理が作動する。
そしてこの魂が、霊が病んでしまうんです。
だから喜びが感謝がないんです。
教会に来るのも、喜びに恵みにあふれる人もいるんですけれども、
壮大な人もいる。
いつも遅れてしまいますし、寝てしまいますし、
感謝も喜びもあまりしないですし、
神に愛する喜びがあるよりは、
誰かがいるからあまり嫌だな、
逆にあの人がいるからあの人に会いに行こうかなと、
人が偶像になって人を礼拝しし、
教会に来ている現実が我々にある。
私たちはどうしたらいいんでしょうか。
解決の方法は一つしかありません。
神の身元に行くしかありません。
そして私たちの魂が本当に神に出会って、
神の恵みに一般にならなければならないんです。
本当に恵みを感謝して、
間違ったこの自分の主人意識、
私がこの教会にこんなにも奉仕した、こんなにも研究を捧げた、
こんなにも古い信徒なんだ、
こういう間違った主人意識、間違った犠牲意識、
間違った保証心理を私たちは捨てなければならない。
神の国は恵みによって動く世界なんです。
私の人生のこのブドウ園の主人なる神様が、
何もしないでいた私たち、
墨とトカニのゆえに死んでいた私たちを、
救ってくださった、招いてくださった、
その方のための生きる方、
その恵みを握りしめて、
主よ感謝します。
こんな私を救ってくださった恵みを、
この偶像の国で、この異教の国で、
こんな私を神の子供としてくださった恵みを、
主よ感謝します。
その恵みによって、
33:01
歩まなければならないのでしょうか。
2番目、神の国は企画意識ではなく、
共同体の世界なんです。
例えば同じに戻りますと、
先に雇われた人々は、
あと5時から雇われた人と比べるんです。
あれ、1時間しか働いていないのに、
1で何をもらった。
私は彼らよりもっと8時間も働いたのに、
何で同じなのと比較するんですね。
私はもっと良い待遇をもらうべきなんだと、
いわゆる犠牲心理、保障心理が心の中にいっぱいあるんです。
私はたくさん働いたんだから。
だから文句をつけて、怒って、ぶつけているんです。
皆さん、神の国は、
日本語にはどうしても適切な言葉がないんだけど、
いい意味で仲間、ファミリー意識、
共同体意識を持つ、それが神の国なんです。
しかしここでは、先に雇われた人々は、
もう比べるんですね。
比較するんですよ。
競争意識を持っているんです。
そうすると、ハッピーにならないんです。
喜びは消えてしまうんですね。
イエス様を信じて、信仰生活をしていきながらも、
祈って奉仕をしながらも、比較をする。
どっちかになる。
比較して、私はダメだ、で避けてしまう。
比較して、私は偉い、そして傲慢になる。
得意な顔をする。
どっちかになってしまう。
神を恋愛することに対しても、
祈りに対しても、奉仕に対しても、
いつも自分は人にどう見られるか、どう言われるか、
人と比べる。
そして落ち込むか、傲慢になるか。
神の御国はそういう国じゃないんです。
御国は、神の国は、こういった比較意識や競争意識じゃなくて、
この本当の意味でファミリー意識、
共同体意識を持って生きるところなんです。
いわゆる同僚意識ですね、本当に。
神と一人一人が喜びと感謝を持って、
自分より人を称えてあげる。
自分より兄弟姉妹たちが恵まれるようにお仕えする。
自分より兄弟姉妹たちがもっと成熟して成長できるように、
もう下辺になってお仕えする。
こういった共同体意識、本当のファミリー意識、
そこが十字架の精神であり、
36:01
恵みの共同体なんです。
教会はこの地上で御国を一番最もよく表すところですし、
表さなければならないところなんです。
だから本当の同僚意識、仲間意識、共同体意識を持っていれば、
もう私よりあの人が本当によく熱心でやっても、
うまく祈っても、進化が成長しても、
それを妬む、引きずり下ろすじゃなくて、
感謝にあふれる、喜びにあふれるんです。
天国は感謝と喜びがあふれますが、
地獄は妬みと恨みがあふれます。
だから比べることはないんです。
比べて傲慢になることもありませんし、
比べて落胆する、落ち込むこともないんです。
生き方を変えなければならない。
私の魂が癒せるためには、
本当に同僚意識にあふれている、
本当に愛の恵みであふれている教会は、
この未国的な教会には、
兄弟姉妹たちの奉仕に感謝する、恵まれる、
あるいは兄弟姉妹たちの美しい証をしたら、
そしたら本当に恵まれる。
そして神に栄光をお返しするんです。
しかしそうでない地獄のような教会では、
誰かが言い証をしたら、私もするのに、
先生はあの人だけ愛してくれるし、
私のことは聞いてくれないし、
ネタに引きずり下ろす。
地獄のようなところなんです。
私たちは何もしないでいたものでした。
主はこんな私たちをしもべとして雇ってくれました。
神の民としてくださいました。
そのことを覚えて、
ああ恵み、主の恵みを覚えて、
こんなものも救ってくださって、
未国の民としてくださった神様、感謝します。
そのことを覚えてですね、
恵みによって生きるものでありたいです。
そして兄弟姉妹たちのためにお使いする。
イエス様が弟子たちの足を洗ってくださったように、
本当に自分は何者でもない。
教会に褒めたたえられる、
礼賛されるべき方は神様他にはありません。
いくら素晴らしい牧師であろうが、
いくら素晴らしい信徒であろうが、
あるいは自分をよく見てくれる信徒であろうが、
人間が私が憧れる、礼賛する相手になるとき、
39:04
その時からはその人の礼拝は礼拝でなくなってしまう。
褒めたたえられるべき方はただ神様お一人だけなんです。
名前が残るべき方は神様お一人だけなんです。
それを私たちは忘れてはいけない。
神の御国は島田として謙遜と感謝と喜びをもって、
首都・教会に仕える私たちでありたいと思います。
お祈りしましょう。