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2023-02-26 43:20

2023/02/26:受ける祝福と与える祝福

2023/02/26 聖日礼拝

福本行弘師

ヨハネの福音書 6:1-16


00:01
お祈りをお捧げいたします。
イエスは、こう言われたのは、ピリポを試すためであり、
ご自分が何をしようとしているのかを知っておられた。
ピリポはイエスに答えた、
一人一人が少しずつ取りにしても、200デナリのパンでは足りません。
ここに大麦のパン5つと、魚2匹を持っている少年がいます。
でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。
イエスはパンを取り、感謝の祈りを捧げてから、
座っている人たちに分け与えられた。
魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられた。
彼らが十分食べた時、イエスは弟子たちに言われた、
一つも無駄にならないように、余ったパン切れを見つめなさい。
愛する天皇父様、あなたの豊かな恵みと御愛を覚えまして、
心から感謝をお捧げいたします。
主の2023年2月26日大陽星日の朝を無事に迎えました。
主の恵みによりまして、今日も明沢教会にお満ち受くださって、
愛する兄弟姉妹たちとともに、あなたの御言葉を通して、
新しく天からの命のパンをいただき、あなたの恵みをいただいて、
ここから主とともに新しく出発することができる恩恵みを心から感謝をいたします。
今大村知役氏前に呼んでいただいた、
四年福音書の六章の御言葉から受ける祝福と与える祝福と題して、
あなたから与えられたメッセージを語らせていただきます。
03:03
祈っていただいたように、どうか聖霊によってあなたの御言葉を
できるだけわかりやすく、正しくお語りすることができますように、お助けください。
私たちはこの素晴らしい礼拝堂で、まことの神様を思い、
静かな程度も燃えるような思いを持って、あなた様をお礼拝できておりますが、
世界が思うときに、悲しい、つらい、本当にうめき戦争があり、恐ろしい病が蔓延し、
天変地異があり、まさに世の終わりの様相を見るような状況ではございます。
けれども、そうした当然たる現実の中に、神様が私たちを慰んでくださって、
御言葉によって、私たちが何をすべきかということよりも、どうあるべきかということを教えてくださいますから、
本当に心からあなたの皆を崇めております。
どうぞ日本だけでなくして、全世界のすべての人に、あなたの愛と許しと慰めを注いでくださって、
何とか多くの悩み、問題から、解放され救われる人々を、そこにも賢にも起こしてくださるように、
ひたすらにお祈りをいたします。
愛してやまないユン先生、半田先生、ご夫妻が、様々な痛みや、あるいは、
脳の中に新しく、新しい認知に派遣されることが決まりました。
これもまた神様の導きであると信じております。
どうか愛せる先生のお身体を守り、お支えくださって、
良きご夫子をなさいますように、そしてこの明谷教会には、
06:04
新しく加藤光先生、藍田先生、ご夫妻が使わされることも、
師の導きと信じて感謝をいたします。
今日は午後から明谷教会の教会紹介がございますが、
どうぞあなたの現在の中で豊かに祝福してください。
信仰と希望を持って、新しく立ち上がることができますように、
お道に下さることを併せてお願いをいたします。
今日の御言葉を心から感謝をいたします。
兄弟姉妹たちの心の内にある願いと感謝に合わせ、
愛するイエス様の尊いお名前によってお祈りをいたします。
アーメン。
今日の最初のポイントは、捧げて喜び豊かになった少年という、
これが最初のポイントであります。
教会学校でよく歌う賛美でありますが、
今捧げる備え物を主を清めて用いたまえ。
賛美があります。
これは私の個人的な想像ではありますが、
この少年、魚2匹と大麦のパン5つを持っていた少年でありますが、
たぶんお母さんがお弁当にこの子供に持たせたものではないかと思います。
そして、この少年は今でいう教会学校の生徒であったのではないかなと私は想像するのですが、
そして今でいう礼拝堂、当時は街道ですが、街道で行われる安息日の教会学校で、
昔はイエス様が復活される前は土曜日でしたけれども、
教会学校に集まってこの少年も賛美をしながら、
心を込めて神様に礼拝を捧げていたのではないかなと思います。
09:01
そしてラビ、今でいう牧師でしょうかね、
先生からいつも教えられていたと思いますが、
神様の御用のためには喜びと感謝をもって捧げるという、
私たちも今日も主に期待しながら喜びと感謝をもってこの礼拝堂に集まっていると思います。
私もそうです。ワクワクと言いましょうか。
喜びと感謝をもってこの宮谷教会に使わせていただいておりますが、
そして神様に賛美を捧げたり、あるいはお祈りを捧げたり、
あるいはまた感謝の献金を捧げたり、
そして喜びと感謝があふれ新しくされて、
このところからそれぞれの持ち場立場に使わされているわけでありますが、
古人と大人の手紙の9章の5節から7節にこのような見言葉があるのは皆さんご存知かと思います。
古人と人への大人の手紙の9章の5節から7節に、
そこで私は教材たちに頼んで、先にそちらに行ってもらい、
あなた方が以前に約束していた祝福の贈り物をあらかじめ用意しておいてもらうことが必要だと思いました。
これは言うまでもなく献金ですね。捧げ物。
惜しみながらするのではなく、祝福の贈り物として用意してもらうためです。
私が伝えたいことはこうです。
わずかだけ巻くものは、わずかだけ借り入れ、豊かに巻くものは豊かに借り入れます。
私は6節の見言葉ですが、
12:00
一つは、わずか、わずかというのはちょっとだけ、小額だけという意味にもとれますし、
豊かに巻くものというのは、たくさんの金額を捧げるというようにもとれますが、
私はもっと大事なことは、量的なことよりも質的なことではないかなと思います。
というのは、7節に一人一人、いやいやながらではなく、しびられちでもなくとあります。
小約聖書、小約聖書にはこの箇所がけちけちすることなくという、ちょっと露骨な表現ですが、けちけちするなと。
公語約聖書では、しぶしぶすることなくと訳されております。
ですから、少なくても本当に喜びと感謝を持って、その人にとっては精一杯捧げる。
それは心で決めたとおりにしなさいという意味なんですね。精一杯しましょう。
神は喜んで与える人を愛してくださるからです。
この少年は本当に気まよく捧げた。けちけち、惜しみながらじゃなくて、
せっかくお母さんが作ってくれたおいしいお弁当を、神様のためにまた人々のために全部捧げた。
私はこの少年のその後のことは、どこにも聖書には述べられておりませんが、
彼も彼の家族も本当に祝福されたと思います。
この5つのパンと2匹の魚というのは、5プラス2というのは7という数になりますが、
聖書では7というのは、3もそうですが、完全数といいますね。
だからまさにその少年は喜んで、手放しで気まよく捧げた。
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私たちもこの少年に習いたいと思います。また習うべきではないかなと思います。
6章の6節に、ヨハネに帰りますが、
ご自分が何をしようとしているかを知っておられた。
イエス様はご自分が何をするのかを知っていた。
イエス様がご自分が何をしようとしているのかを知っておられたという言葉から教えられることは、
何をしておられたかというと、与える幸い、捧げる喜び。
今日のテーマのように、受けることも幸いですが、
しかし与える方が最も幸いなんだ、祝福なんだということをイエス様は知っておられた。
捧げる喜び。
そしてもう一つは、このわずかの食べ物で何千人という人たちを養ったことも素晴らしいですが、
イエス様のもっと深いく言いましょうか、もっとその本心、イエス様が目指すところはそれ以上のことであった。
人はファンのみで生きるのではないんだ。
人が本当の意味で人間らしく生きるためには、ファンだけでは不十分だ。
あるいはこの世のありとあらゆるものだけでは、人は本当に人間として人間らしく生きることはできないんだ。
そうではなくて、肉的なファンも必要、世の中にも必要なことはいっぱいあるけれども、
18:00
もっと素晴らしいのは神の御言葉で生きることである。神の御言葉を信じて生きることである。
座っている人たちに和歌を与えられた。望むだけ与えられた。
だから、私たちは皆さん、本当に聖書を読んで、聖書に求める、御言葉に求める、親しむ。
それはもう、望むだけしはその御言葉を通して祝福を雨あられと注いでくださるんだ。
私が子供の頃に、ちょっと政治的な話して申し訳ないんですが、子供の頃に川上定太郎という、当時は社会党でありましたね。
もう今は社会党という政党はないですが、社会党の委員長にもなった方ですが、
私は子供の頃に、川上定太郎とか浅沼英次郎というのはもう、はっきりと嫌いだったんですね。
というのは、親が、親が、親ですから、親が親というのは、親が支持していた政党がそうではなかったから、
だから、親が支持している政党を、やっぱり子供を支持した方がいいなと思うと、そういうものがあったかもしれませんが、
ところが、川上定太郎という人が、ある本の中で証しておられたんですね。
こういう証です。
私が四、五歳の頃、川上定太郎さんですよ。私が四、五歳の頃、父親が、お父さんが、突然聖書を読み始めた。突然ですよ。聖書を読み始めた。
なぜだろうかな。これまでは、神とかキリスト教とか、行ったこともなければ、
僕の家は、そんなキリスト教とは全く無縁の家なのに、どうしてだろうなと思っていたら、
実はそのお父さんが、近所に種子さんという、ある事業をしていた人がおったんですが、かなりいい事業をしていたんですが、しかし、倒産してしまった。
21:12
その種子さんが、悩んで苦しんで、自らの命を断とうかな、自殺しようかなというところまで追い込まれた時に、ふとしたことで、種子さんが教会に行き始めた。
皆さんは、教会に出入りするという事は素晴らしい。それだけでも神の祝福はあるし、また約束されているんです。
その種子さんが、やがてイエス様を信じて、クリスチャンになった。救われて。
そしたら、この種子さんが、悲しみと悩みと苦しみの中にあるにもかかわらず、かつろとして、生き引きとして、ガラッとかかった。
それを見ていた川上浄太郎さんのお父さんは、これは何事があるに違いないということで、どうしたんですかと言ったら、
種子さんが、川上浄太郎さんのお父さんに明かされた。実は、かくかくしかぎかで、僕はクリスチャンになったんです。
そしたら、お父さんも偉いですね。そしたら、俺も聖書を読もうと、お父さんが、その時から聖書を読み始めた。
毎晩、五章、五章、と、読み始めた。
そして、浄太郎、お前も読めと言って、わかりましたと言って、この息子の浄太郎さんも、お父さんと一緒に声を出して、毎晩、五章ずつ、聖書を読み始めたそうです。
ずっと聖書、旧約聖書から読んでいましてね、歴代史に来た。もう名前ばっかり出てくるんです。
お父さん、こんなとこ読んでも何の私にもならんから、飛ばしていいって言ってたら、お父さんがもう、この息子しかりきさんが、とんでもないことを言うな。
聖書というものに、無駄な言葉は一つもない。わかっても、わからなくても、とにかく読めと言って、ずっと読んだそうですよ。
そして、やがてお父さんは亡くなるんですが、川上浄太郎さんとしては、生涯、聖書を読み続け、しかも、彼自身もイエス・キリストを信じて、クリスチャンになったということを、ある本で読みました。
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ちょっと、わからんもんやなぁと思ったんですが、皆さん、どうか、聖書を、皆さんは、読んでいらっしゃるし、また信じていらっしゃると思いますが、今まで通りではなくて、もっと熱心に、聖書を愛読してほしい。
私もそうだ。本当に皆さん、この雑然とした、混乱した世の中に、私たちは何を求め、そして何にすがり、何を信じて、これだと生きていけるのか、やっぱり、聖書だと思います。
さて、この少年が、きまえない少年だと言いましたが、皆さん、私たちの神様は、きまえない神様、きまえない、あの、ハンサムって言うでしょ、よくハンサム・ボーイとか、あの人、ハンサムやね、と言いますが、皆さん、ハンサムというのは、大体、私たちの間では、男前とかね、ダンディーとかと言いますが、
元の意味は、ハンサムというのは、きまえがいいという意味なんですね。きまえがいい。それがどんなね、美男子でも、けしん坊はハンサムじゃない。ハンサムって、それは、ブサイクだ、ブズです。
この聖書の神様は、誰よりもきまえがいい。その証拠として、まず、巫女イエス様を私たちにプレゼントしてくださった。これ、皆さん、この一つだけでも、きまえがいいなと思いますよ。神の一人が、イエスを私たちに賜ったと。
それから、この巫女イエス様が、十字架で私たちの罪のために、惜しげもなく、それこそ、ケチケチじゃない。惜しみ流れではない。渋々じゃない。本当に、もう、ぞっくん私たちに惚れ込んで、全部捧げたと。
しかも、地獄の底まで下ってくださった。何と、皆さん、きまえがいい一種でしょうか。そして、復活して、永遠の命まで私たちにくださったという。皆さん、これほどきまえのいい神様は、どこにもいらっしゃらないですね。
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そして、私たちに聖霊もくださった。皆さん、私たち、私もそうですが、私たちクリスチャンが、クリスチャンとして、この複雑な時代の中で信仰を持って生き続けていくことができるのは、神の御言葉とともに、聖霊様のおかげなんですね。聖霊様。
私たちは、もっと御言葉とともに、御聖霊様をもっともっとあがめていくべきではないかなと思います。分け隔てしない。誰に対してもきまえのいい、ハンサムな神様であるということ。
貧しい山目がレプター2枚を捧げた。たったレプター2枚というのは、本当に皆さん、わずかですね。でも、彼女にとってはそれが全財産だった。それを惜しげもなく捧げた。
私たちもこの山目に習いたいと思いますが、3つ目のポイントは、血の恵みは尽きることがない。なお余ったもので十二の籠がいっぱいになった。
イエス様の救いは完璧。もう一筋の水漏りもない。完全な愛と許しの福音がイエス・キリスト教の本髄です。
そして、なおあり余ったとは思いますが、天国はまだまだ空席がいっぱいあるのではないかと思います。黄金のシートがまだまだ用意されている。
もっともっと大勢の人たちが救われて、天のみくらに凱旋してくれることを主は願っておられる。天国は激しく襲われているという言葉がありますが、空席がまだまだいっぱいある。
30:06
日本の教会も全部の教会を回ったわけではありませんが、空席がまだまだいっぱいあるのではないか。それ以上に天国には空席がいっぱいあるのではないか。ということを私たちは忘れないで祈って、いろいろな方法を持って伝説したいと思います。明かしをしてまいりたいと思います。
昨日午後、この教会の教会倉庫に私も資料を3度ほど読みました。立派な資料です。そして、本年度の新年度の計画を読みましたら、素晴らしいですね。
これで家族や親しい方や声をかけている人が救われなかったら、これはもう神様の責任ではないか。そんなこと言ったらできませんけどね。素晴らしい計画ですね。
神様がその計画に則ってと言いましょうか、働いてくださったら、宮波教会の新しい年度を一つのお話をして終わりたいと思いますが、この方は67歳でイエス様を信じて救われた方、その人の証をお話したいと思いますが、
この方は山根裕樹という弁護士さんで、67歳で明確な救いになつかった。彼は東大の法学部を卒業してから司法試験に合格して、日本全国各地で検事や判事を歴任、
そして現在の最高裁判所にあたる当時の大宣言判事を得て退官して、その後大阪で弁護士として活躍しておられた方であります。
その山根弁護士が昭和34年、大阪クリスタルクルセイドが行われた際、ボブ・ピアス博士の気の出るようなメッセージ、実はこのボブ・ピアスのクルセイドに私も行っていた。
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そして私はこの博士のメッセージに圧倒された。この人は一体何者なんだろうか。そのボブ・ピアス博士のメッセージと共に、バンケット、いわゆる晩餐会で赤字されたアメリカのビル・ジョーンズという実業家の誠実な赤字を聞いて、
この山根さんはこれで行こうと決心したそうですよ。そして教会生活を始めてその年、クリスマスに先例をお受けになった。
皆さん、こうだと思うときはもうそれは神の時ですからね。もうあれやこれやと迷う必要ない。こうだ、そうだ。そして先例を受けてクリスチャーになった山根弁護士がそこから新しい人生を歩み始めた。
その山根弁護士がある年、大阪女学院で行われた講演会で次のような証をされた。山根弁護士の証ですよ。私は弁護士をしていますが、仕事の面で随分と難事件に出会って頭を悩ますことがたくさんあります。
そのためにこの頃では毎朝お祈りの中で事件の関係者のためにお祈りをしています。私は教えられるんですね。皆さんいかがですか。こんなことをお祈りしても何もならんとかね。
こんなことをお祈りしてどうなるのか、皆さんそんなことを言ったり思ったことはございませんか。でもどんなことでも、私自身も自分自身がこんなことを祈ってもとてもではないかということでも祈る。
36:13
彼は、この弁護士はどんなことでもお祈りをして始めた。これまでは一つ一つの仕事が重いとなって苦しくて苦しくてどうしようもない、買い難いような思いをいつも持っていたのですが、信仰を持って神様に祈り始めてからは仕事に自信がついて事件処理の結果、うまく進んでおります。
神様のなせ技でしょうね。ですから私は思います。経済的なことも、医学的なことも、何でもとにかくまことの神様に祈ってみる。
そして彼がね、山根弁護士が、深いお祈りの中で全てを神様にお祈りしていく時に、神様は必ず私たちの祈りに応えてくださるという体験をたくさん持っています。
全く感謝なことです。私は今年68歳ですが、なぜもっと早くキリストを信じるようにならなかったのかとずいぶん後悔しております。
私は明治の末から大正の始めにかけて、学生時代を過ごしました。当時、指名断章先生や内村勘蔵先生がまだ御存命であった頃のことです。
私が教えを受けようと思えば機会は十分あったのです。でもつくづく私は、若い時にキリストを信じなかったことを後悔しております。
ここで最後に皆さんにお願いしたいことは、皆様方のご家庭には若い世代の方がたくさんおられることだと思います。
その若い方々が一日でも早くイエス・キリストを知り信じて救われることを私は心から願ってやりません。
彼はその涙を流しながらそう明かしたりだそうです。確かに若ければ若いほど若い時にイエス様を信じたらそれは素晴らしいと思います。
39:08
若い人がみんなそうであってほしいなと願うのは私だけではないと思いますね。自分の子供も孫も、あの人の子供もみんな本当に早く信じてほしいなと。
でも、年老いてからであっても心出しを新しくしてキリストを知って救われて生きることはさらに素晴らしいと思います。
マタイの20章のお話を皆さんご存知だと思いますが、天国の労働者の例え話があります。
朝5時に仕事が与えられて、雇われた人も夕方の5時ごろ来てその仕事を与えられて、雇われて仕事をした人もみんな同じ賃金をもらった。
朝5時から早く来た人が不公平じゃないかと食ってかかったようですけども、しかしそうではないんだ。最後のものにも痛かな祝福を与える。
山根弁護士は実にこのイエス様の例え話のお話を辞で言ったように思います。
どうか、これからは私の皆さんへの願いです。
どうか、明治谷教会の皆様、皆さんの家庭に若い人たちや小さな子供たち、お孫さんたちがいらっしゃると思いますが、
若い方々も小さな子供たちも年配の方々もどなたも本当にイエス様を信じて救われてほしいなと。
その人がどんな職業であっても、どんな宗教であっても、どんな肩書やあるいはどんな過去であったとしても全く関係ございません。
皆イエス様を信じて、救われた悔いのない幸せな人生を送ってほしいな、あるいは幸せな家庭を築き上げてほしいなと、願って読めない次第でございます。
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今年度の明治谷教会の歩み、主にある兄弟姉妹たちに期待をしておりますけれども、それ以上に私は、この気前のいい誠の神様にまず期待をしております。
神は今年、この明治谷教会の中にどんな素晴らしい聖人の宮座を起こしてくださるか、私も主にあって楽しみにしております。
またお祈りしております。
どうぞ、皆さんの現実、皆さんの現場はどのような状況か、詳しいことは私は存じませんが、正しいとはっきり言えることは、
皆さんの家庭に、皆さんと共に、この神様がいつも一緒であるということを信じてまいりたいと思います。お祈りいたします。
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