1. 名谷教会 podcast
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2023-07-02 38:38

2023/07/02:イエスこそ主

2023/07/02 聖日礼拝

加藤満牧師

使徒の働き 3:1-10


00:02
みなさん、おはようございます。
それでは、短くお祈りをしてから、ご一緒に御言葉に聞いていきたいと思います。お祈りをいたします。
愛する天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
死の御前へと私たちを招いてくださり、あなたの命の言葉を語りかけてくださり、その御言葉に今から深く聞こうとしております。
どうか主、御自身がそれぞれの心を開いてくださり、あなたの愛の深さを教えてください。
あなたは私たちに御自身の命を捧げるほどに愛してくださり、その復活された命、永遠の命を私たちに与えてくださり、私たちが永遠なる死と共に生きる人生を開いてくださいました。
あなたはもはや自分の二本足で立つのではない、私の恵みによって歩みなさい。
あなたは私たちに御自身の恵みにより頼みながら、生きる新たな人生を開いてくださったことをありがとうございます。
神様どうか御言葉によってお一人一人が恵まれ、またその恵みによって立つことができるよう代えにみてください。
今施設におられる方々、また体の痛みを覚えて家でこの音声を聞きながら礼拝を守っておられる方々、
また思いがここに向かず、あなた御自身を仰ぐことが今できない方々がいらっしゃいます。
お一人一人の命をあなたは覚えてくださり、お一人一人と共にいてくださっています。
どうかそのあなたを仰ぐひとときを豊かに祝してくださいますようにお願いいたします。
語るものの唇を清めてください。あなたの御用のためにどうか用いてくださいますようにお願いいたします。
これからのひとときをみてにゆだねをして、イエス様のお名前によってお祈りをいたします。アーメン。
私事で恐縮なのですけれども、私は実は大学を卒業してからすぐ新学校に行ったのではなくて、
1年間だけ重度身体障害を抱えておられる方の介護の仕事をさせていただきました。アルバイトだったんですけれども。
その職場では、私は来年新学校に行きたいと思っていますと常々伝えていたので、
ああ加藤は教会に行っているんだなということを皆さん知っていてくださったわけですけれども、
そういう流れからか、あるとき一人の利用者さんに事務所にいたときに呼び止められたんですね。
加藤さんちょっと神様のことを聞かせてくださいということを言われたんです。
その方は女性の方で、介護は基本同性同士がするので、私は初めてその方と話したんですけれども、
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とてもユーモアでとても立地的な方で、その方は生まれながらに脳性麻痺を抱えておられた方ですね。
生まれながらに車椅子に乗っておられる方。
聖書の話をしながら、神様の話をしながら突き進んでいくと、こういう話になりました。
神様がいるとすれば、私はなんでこんな体になったのということです。
神様がいるのであれば、私はなんでこんな体になったのと。
実に答えることに難しい話でした。
私はただ知っていることを話しました。
いや、人間には神様なぜですかと聞いても、そのなぜをすべて知りきることはおそらくできないのです。
でも確かのことは、神様はあなたを愛し、あなたを大切に思っておられるのです。
そしてあなたの苦しみをも、神様は良いことのために用いることができるお方なのです。
そういうことをお話をいたしました。
しかしその話の結果、その方は怒ってしまいました。
神が私を愛しているなら、なぜ私はこんな病を負うのか。
私は癒されたいのだと、そのように言われました。
今思えば実に、私自身配慮の足りない話し方をしたなということを反省させられるわけですけれども、
ただそこから私は一人のクリスチャンとして、
聖書の癒しの話をどう読んだらよいのかということが少しわからなくなったことがあります。
主は人を聖書の中で癒されるわけです。
しかしじゃあ、今私はこの歌詞を読んで、そのように病に痛んでいる人に何を語ることができるのだろうかと悩まされました。
今でも私は人が癒されること、神様が人を癒すことができると信じて祈ります。
それは本当に信じています。
ただ同時にその癒されない痛みの中にいる人たちのことを思うと、どうしたらいいのかなと思わされることがあります。
これは正直申し上げまして、今朝このまま説教を話していっても何かの答えを出せるものではないです。
答えを今朝出せないと先に言っておきます。
ただ今朝お読みした歌書、読んでいただいた歌書というのは、まさに鮮やかに人が癒されるという歌書なんですね。
鮮やかに人が癒されるという歌書です。
先んじてまず私自身のこういう疑問を少し先に起きながら、この歌書を読んでいきたいなと、そう願いながらこの話をさせていただきました。
今朝から8月の末に向けて、私は一元考録を開きたいと願っています。
3章から7章の前半部分をちょっと見ていきたいと思っています。
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まさにそれは、聖霊なる神様が使徒たちに下った後、彼らが聖霊様とともにどのような働きをしていったのか、
そのことに少し目を止めていきたいと願っています。
さて、今朝読んでいただいた歌書は使徒の3章ですね。
読んでいただいてわかるとおり、ここの舞台はエルサレムの中心地の神殿という場所でした。
五巡節の祭りがペンテコ瀬であったので、まだその五巡節、仮入れの祭りが終わって間もない頃ですから、神殿にはぞろぞろ人が集まっていたと思います。
そしてこの午後3時というのは神殿のお祈りの時間です。
ですからイエス様の弟子の二人、ペテロとヨハネもその神殿の祈りに加わろうと、そう思って神殿にやってきたのだと思います。
その神殿の入り口の一つに、この美しの門という、とてもギリシャ風のきれいな門があるわけですけれども、
二人が神殿に入ろうとしたときに、その門の入り口に座っている男性が、施しを求めてきたわけですね。
わかりません。座りながらもしかしたら、どうか私を憐れんでくださいと言って手を差し伸べてきた、そういう光景なのかもしれません。
この男性に注目しますと、この人は二節に書いてありますが、生まれつきに足の不自由な人であったと書かれています。
さらっと読み飛ばしてしまいそうですけれども、この時代、生まれながらに歩くことができないというのは、
今以上にとても深刻な問題でした。歩けないということは仕事ができないです。
今みたいにハンディーがあっても働く場所があります。いや、そんなことはないです。働く場所がないですし、
働くことができないのであれば、社会保障によって支えられるということがあるかもしれませんが、当時はそういう保障もおそらくありません。
ですから、この男性を支える社会的なものは何もなくて、おそらくユダヤ人の人たちをお互いに助け合うという精神がしっかりある方々なので、
この男性はおそらく大人ですから、小さい頃から大きくなるまで、ご家族、親族、そういうところで支えながら、
この人は成長することができたのだと思います。ただし、それにも限界があるわけです。
ですから、もしかしたらせめて少しでも自分の食い口を稼いできてほしい、そういうことでこの門のところに座っていたということかもしれません。
私自身がちょっと気になるのは、この2節に、この足の不自由な人が宮の門に置いてもらっていたと書かれているんです。
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置いてもらっていたというこの動詞は、これは人間に対して使うんじゃなくて、物に対して使うんです。物をどこかに置くという動詞なんですね。
それは何かというと、おそらくこの人自身がもう人間ではなく物のように運ばれてきたということを意味しているのだと思います。
自分の生きたいように生きることができない、それは生まれながらにそうすることができない。
周囲の目にさらされ、日々誰かの行為に依存しなければ生きていけない。
私は全くこれと同じとは言いませんけれども、1年間介護の働きをさせていただきながら、
私は心傷者、体にハンディを抱えておられる方々の痛みを簡単にわかるって自分は言っちゃいけないんだなということを痛感させられました。
わからないんですよ。その体になってみなければわからない深い痛みというものがおそらくあるわけです。
この男性自身もきっとどれほどの痛みの中にあったかなと想像させられるわけです。
そこにペテロとヨハネが通りかかりました。
この男性からの施しの声を聞くペテロとヨハネは、まずどうしたかというと、4節にありますと、
ペテロとヨハネと共にその人を見つめて、そして私たちを見なさいと言ったという言葉です。
2人はしっかりとその男性を見つめました。
これはもしかしたら、その人の深い痛み、その人の背景にあるものをじっくり見つめるかのように見つめたのかもしれません。
そして同時にこう言いました。私たちを見なさいと。
ペテロとヨハネも見つめますが、私たちを見つめなさいという。
この男性は5節に何かをもらえると期待してと書いていますから、きっとペテロとヨハネを見ているわけですけれども、
その視線はペテロとヨハネの懐に向いてたかもしれません。
彼が欲しいのは孤独心なのです。お金が欲しいんです。日々の生活をどうにか過ごすためのお金が欲しい。
しかし6節を見ていきますと、ペテロはまずこう言います。
金銀は私にはない。金銀は私にはない。
あなたがお金を求めているならば、私はそれをあげることができませんよというわけです。
あなたが求めているものを私はあげることができない。
でもこの男性を見つめているこのペテロは、実はおそらくこの男性が日ごとを過ごすための何かのお金以上に求めているものが何なのか。
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あなたが必要なものは本当はお金ではないでしょうということをおそらく知っているのです。
だからペテロは言いました。だからもっと別のものをあげましょうと。
しかし私にあるものをあげよう。なざれのイエス・キリストの名によって立ち上がり歩きなさいと。
イエスの名によってということは、
つまりこれはイエス様が、イエス様ご自身のメッセージを伝えたわけです。
まさにイエス様がその場所におられて、この葦名の人が目の前にいるならば何を言うのかという話をされたわけです。
イエス様がこの葦名の歩けない方に伝えた言葉は何かというと、たった一つです。歩きなさいです。立って歩きなさい。
ペテロは気づいていました。この男性にとって一番必要なものは何なのか。それはおそらく金銀ではない。
人の情けでもない。本当の必要なこと、それはおそらく自分自身の足で立ち上がって歩くということでした。
自分自身の足で立ち上がり歩く力ですね。そしてそれをあげようと言われる。
それがまさにこの箇所でイエス様からこの男性に対して告げられたメッセージだったわけです。
そう言ってそれだけではありません。ペテロはこの男性の手を取り、
そしてまるでそれはまさにイエス様がこの男性自身と手をつながるかのようにその手を取ってですね、
そしてそれを引き上げると7節の後半から8節の前半に書いてありますが、
するとたちまち彼の足とくるぶしが強くなり、踊り上がって立ち歩き出した。
そして歩いたり飛べ跳ねたりしながら神を賛美しつつ、二人と一緒に宮に入っていったと。
まさに出来事としては一瞬のことでしょう。
生まれながらに歩くという経験をしたことがないこの男性からするならば、
徐々に実感が湧いてきてきっとおおほと驚きながら、そこで喜んで飛び上がって賛美をしたという光景でしょうか。
そして歩いたり飛べ跳ねたりしながら彼は神を賛美をしていったということが書かれているわけです。
この男性の人生というのはおそらく大きく変わったわけですね。
それは何かというと、一つこの男性の人生によって大きく変わったのは何か。
それは、彼はおそらく誰かに依存して生きるということをしなくてよくなったということです。
15:00
これはとても大事なことです。
もはや誰かの顔色を恐れてこびながら生きる必要はなくなったということですね。
誰かが不機嫌だったとしても関係ない、私は私の人生を生きるのですと。
そういうふうに立ち上がる力を彼は得たということかもしれません。
またもう一つは、彼は歩くことができるようになったということです。
歩くことができるというのは、自分の意思でどこでも何でもできるということです。
人生を前に進める力を彼は得た。
そしてそのところで、彼はこれまで自分が歩けなかったから諦めてきたものを諦めずに
そこに向き合うような人生が開かれていったと言えるでしょう。
そして最後にもう一つあるのは、
彼はそのような人生を与えることのできる神というお方を知ったんですね。
彼は思えば神殿の入り口に座っていたわけです。
神を礼拝するための人たちは彼の横を通り過ぎていきました。
彼自身もそれに無関係ではなかったでしょう。
でも彼は信じれなかったのだと思います。
当時、体にハンディーがある人は神に穢れたものと思われて神殿で入る場所も限られていました。
神の一番近いところでの礼拝は禁じられていたんです。
だから神は私のことなんか相手にしておられないだろう。
私のことなんか見てもおられないだろう。
見ていたとしても、神はこんな私をこういうふうに生んだ神は本当におられるのか。
でも彼は知ったわけです。神は生きておられる。神は生きておられる。
そして私を変える力を持っている神である。
神は私を生かすことのできる方なのだと。
彼は神様を賛美し、神様と共に立って歩き始めたというのがこの9節の歌唱だと思います。
ある先生がこういう書き方をされていました。
この使徒の働きの3章の1節から10節というものには教会の使命というものが書かれているのです。
興味深いなと思います。
教会とは一体何が起きる場所で何をすべき場所なのか。
これはこういうふうに説明をなさっていました。
教会はすべての人たち、自分だけでは生きられない、自分の足で立てない人に
シューイエスの歩きなさいというメッセージを伝え、
人々の手をつかんでシューイエスと手をつなぎ合わせる。
そのような使命を私たちは持っているのですと、そのように説明をなさった先生がいます。
教会は一人では立つことのできない人たち、そこにシューイエスの歩きなさいというメッセージを伝え、
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そして一人一人をシューイエスの手とつなぎ合わせる、そういう使命を持っているのだと。
確かにそう思います。
私たちは時折思うことは、宗教と聞きますと、宗教は何か、人を何かや誰かに依存させて
人間自身を骨抜きにするものだと思っちゃうんです。
でもそうではない、そういう宗教もありますけど、ただ聖書が語る神はそうではない。
神様はむしろこう言われるわけです。
立って歩きなさい、立って歩きなさいと。
それは言い方を変えるならば、神様があなたに与えた人生を自分の足でしっかり立ち歩きなさいということです。
神様があなたに与えた人生を自分の足でしっかり立ち歩きなさいと私たちに言われる。
神様を信じる、神様を信頼するということは、何か自分の考えを停止させて神様の奴隷になることではありません。
そうではないんです。
神様は人間をどこまでも奴隷とはなさいません。
むしろ何かの奴隷として囚われてしまった、何かの奴隷になってしまっている人間を解き放って、
そこから自由にして、神様の前に責任ある一人として扱うんです。
神様の前に責任のある一人一人として扱われるのです。
それはまさに、私たちもそうですが、親が子供を奴隷にしませんよね。
親は子供を奴隷にはしないわけです。
小さい頃はいろいろなことがわからなくて、サポートしながら道をこうやってやっていくかもしれませんけれども、
ただ、親が願うことは子供が親の前にも、人の前にも一人の責任を持って立つことのできる存在として生きていけるようになる、
まさに言い方を変えたら大人になるということです。大人になるように。
そのように神様は私たちを導かれる。大人になるという言葉はちょっと重たすぎるかもしれませんけれども、そうです。
そのため、私たちが神様を信じることもまた、自分自身の人生の責任に向き合うということを意味します。
責任放棄をすることを神様は願っておられるのではないんですね。
それは厳しいことかもしれませんが。
神様を信じるからこそ、私はもう何に対しても責任はなくて、全部神様に委ねたらいいんです。そういうことではおそらくないんです。
神様と共に生きるからこそ、神様が立って歩きなさいと言われるからこそ、
私たちは実は苦闘をしながら、神様と共にそれぞれの人生の責任に向き合っていくお互いである。
21:01
そう言えるのではないでしょうか。
それが一人一人が立って歩きなさいと言われることです。立って歩きなさいと。
しかしながらです。しかしながら、同時に申し上げますが、私みたいな若造語を言うまでもなく、
人生を立って歩いていくということは容易なことではないわけです。並大抵のことではないわけです。
しかしここでもう一つの言葉に注目をして、もう終わりに向かいたいと思いますが、
ここではただイエス様は立ち上がり歩きなさいと言われたわけではない。
なざれのイエスキリストの名によって立ち上がり歩きなさいと言われている。
なざれのイエスキリストの名によって。
私たちは自分の足で立ちなさいと招かれますが、しかし自分の足だけで歩きなさいと言われてはいないんです。
私たちはそのように自分の足で立って歩くときに、人生の様々な荒波にとらわれるわけです。
しかしイエスの名によって歩みなさいと招かれていることを覚えなければならない。
イエスの名、イエスの名。これは使徒の働きの3章から7章にかけて中心的に扱われるテーマです。
何度もイエスの名という言葉が出てまいります。
この男性が癒されたときですね、周囲の人々は実質に書いていますが、物も言えないほどに驚いたと書いてあります。
その通りですよね。奇跡が起きたわけですから。確かに奇跡が起きたのです。
しかし人々は気になりました。この奇跡の源泉は何なのだろうか。この奇跡は一体どこから起きているのだろうか。
彼らが語ったナザレのイエス・キリストの名とは、ナザレのイエス・キリストとは一体何者なのかということです。
このことをペテロはこの後3章の12節から26節までで延々とそのことを説明しています。
一個一個取り扱っていくと時間がかかるので、さらっとポイントだけ確認をしますと、ペテロがこの12節から26節で言っていることはおそらく3つです。
ナザレ、なぜイエス・キリストの名は人を癒すことができるのか。一つそれは、イエスはメシアだからです。イエスは救い主なのです。
そしてメシアというのは民を救うんです。これはそうなんです。メシアというのは民を救う者として現れます。
そしてイエスはメシアであることを明かしするために、神はイエス様をよみがえらせました。その復活の証人であると、彼らは何度もこの後も語ります。
そして二つ目、このイエスの技は、父なる神様の御計画であるということです。
24:01
イエス様の技というのは、イエス様が始めたわけではなくて、アブラハムから始まっている、もっと前からなんです、厳密に。
でもアブラハムから始まっているということが語られます。世界は新しくなるという絵本が書いてある通りなんです。
まさに世界の始めを語る場面から、アブラハムのあの時代から、神様はこの世界で苦しむ人々を救い、祝福すると御計画なさいました。
その結実がイエスキリストなのだと彼はここで語るわけです。
そして三つ目、今やメシアであるイエス様は天に挙げられ、世界の王となられました。
そこからイエス様はなおもこの世界を、そしてこの世界に生きる一人一人を、本来の人間の姿へと回復をさせていくのです。
これが祝福というものですね。
再び主は来られると、その中にも重ねて書かれています。
これらのようなまさに良き知らせ、まさにその良き知らせを実現するイエス様と共に働くため、私たちはここにいるんだとペテロは言ったわけですね。
ちょっとだけ使徒の働きを続けて読んでいくと、この騒ぎを聞きつけた神殿主導者たちがやってきました。
4章の7節というところには彼らがやってきて、ペテロたちにこう問いかけます。
失礼しますが、4章の7節というところにもちょっと読みしますと、
彼らお二人を真ん中に立たせて、お前たちは何の権威によって、また誰の名によってあのようなことをしたのかと尋問したと書いてあります。
ここでも少し説明がなされていますが、名というのは権威を表すんです。
その名によって語っていることが実現するということは、その名の背景に権威あるお方が生きているということを証明しているんです。
名は権威を表す。そしてまさにイエスの名によって私たちはしているんですと彼は答えます。
そして彼ら、この祭司たちと弁明をする中で、イエスはこの世界の王となられた。
だからこそ4章の12節。
この方以外には誰によっても救いはありません。
天の下でこの皆の他に私たちが救われるべきなは人間に与えられていないからです。
4章の12節で言われているわけです。
この方以外には誰によっても救いはない。
天の下でこの皆の他に私たちが救われるべきなは人間には与えられていない。
その通り、人の働きの書き方でいうと本当そうなんです。
イエスが天に昇られて王となられた。
この方こそがクリスチャンだけではない、ペテロたちだけではない、この世界に生きている全ての人々にとっての王となり主となられたんだということを言う。
27:06
だからこの方の他にと言われている。
使徒1章でイエス様が天に昇り、使徒の働きを見ていくと、実はそれ以降イエス様ってあまり登場してこないんですよね。
だからよくイエスキリストが使徒の働きで後退したんだみたいなことが言われますけども、いやそうではない。
そうではないんです。
イエス様はまさにペテロたちにこのように働かれたように、
聖霊なる神様を通して使徒たちと共にいて、いやまさに使徒たちの内にイエスキリストがおられて、
使徒たちの手の技がイエスキリストの技となり、使徒たちが語る言葉がイエスキリストの言葉となり、
そのように人々を癒していった、使徒たちを通してイエス様が見えるようになったというのが使徒の働きの言葉です。
実に生き生きと、そう考えるならば実に生き生きと、イエス様はご自身のメッシャーとしての救いの御技を続けておられる。
そして、それは今私たち自身に対しても同じなのだということですね。
これは2000年前だけの話ではないわけです。
ペンテコステでもお話をいたしましたが、私たち自身が、私たち自身の内に確かに聖霊様が働かれている。
何かをしなければならない。聖霊様は既に私たちの内に働いておられる。
私たちを通してもイエス様がおられるんです。私たちを通してもイエス様は表されるんです。
そしてイエス様の言葉の代わりに私たち自身の言葉がイエス・キリストの語りかけになるわけです。
そして私たち自身の中にもまだなお残っている様々な葛藤や戦いがあったとしても、
メッシャーとしての救いの技を私たちの内にも今なお続けておられる。
今なお私たちはイエスの名を通し、人々を救い、立ち上がって歩きなさいと言われるイエス様の救いの技を共に担っている。
聖霊様によって私たちはその現実に生きているんですね。
イエス様が天におられて地上におられないじゃない。
目には見えないけど私たち一人一人の内側に私たちの周りにイエス様が生き生きと働いておられるんですよ。
これを何か思うと私なんかワクワクをしますがどうでしょうかね。
一つだけここまで見ておきながら最初の問いに戻ってもう終わりたいと思いますが、
そうはいいつつもと言いたくなる方もいらっしゃるかもしれません。
いやそうはいいつつも先生、癒してあるんですかと。
30:00
神は今なお働かれると言われるけれども、
この歩けない人が立ち上がったように今なお主はそういう技をなさるのですかと。
先ほど申し上げました私はそう信じて祈りますし、
人が癒されることも私たちは目にすることがありますから、
決してそれを信じないというわけではありませんが、
それでも祈りつつも変わらない痛みがある世界があるということも知っている。
一人の男性が仮にここで癒されたとしても、
エルサレムにはもっともっと病人がいたでしょう。
他の人々に神様は目を止めなかったのですか。
そう言われると非常に難しい問いかけだなと私自身も思わされます。
答えも出せません。
ただ一つのお話をしても終わりたいと思います。
私が以前講師をさせていただいた教会員の方から、
実は先ほど私に言ってくださった療養者の方と全く同じことを言われたことがあります。
神様が私を愛しているなら、なぜ私はこんな病を負うのか。
そうとある教会員の方に言われたことがあります。
この方は難病を患っておられました。
大まかに言うと、激痛の塊が体の中を日々移動するという病気なんです。
ある日は足が痛くて一日歩けないということがあって、
ある時は口とか顔面が痛くてその日一日ご飯が食べれないという
そういう症状に苛まれる方がいらっしゃいました。
その方と聖書を読んだ時に、イエス様がまさに病人を癒す箇所を一緒に言いました。
その時に先ほどの言葉も言われましたし、
そして言われました。
先生、こんなこと本当にあんのと。
私は信じられないということを言われました。
私はただそれはもう、ああそうですかとしか聞きようがない。
そして一緒に祈るということしか私はできないなと思わされました。
でもその方はですね、そういう病に苦しみながら、
それでもイエス様を大好きな方だったんですね。
イエス様のことが大好きだった。
ご自身が何病を抱えているにもかかわらず、
教会に来ているお一人一人に対して、近所の人に対して、
とても愛情深い方です。
よく教会にシフォンケーキを届けてくれました。
少なくとも、今はどうなっているか私は分かりませんが、
少なくとも私が移動するまで、その方の病気は治りませんでした。
けれどもこの方はイエス様を信じ、
そこにはきっと体のことだけを考えれば癒されていないんです。
体のことだけを考えれば癒されていないんです。
しかし、この方を見ていると、
33:02
でも何かが変わったということは認めざるを得ないんですね。
その方を見ると、
ああ、ここにイエス様がおられるという思いを何かさせられざるを得ない、
そういうことを思いました。
きっとそれは、もっと人間の根本的な部分、
そこに体と人間の根本的な部分って層の違いがあるのか
と言われたら難しいです。
しかし、体だけではないところに、
種の癒しの技がなされたのだと、
私はやっぱりそこで見て思わされるんですよ。
ああ、何かこの人のうちに癒しの技が起きている。
私が見る限り、少なくともこの方は立って歩いておられるように見えました。
それは難病を抱えながら、病に苦しみながら、
しかしそれでも神に与えられている人生を懸命に、
神の愛を私の手の技でできるところに表そう、
そういうふうに生きている姿を私は見させていただきました。
それをどう評価するのか皆さんにお任せします。
ただ、私はやっぱり神様が人を変えるんだな、
癒すんだなということをやっぱりちょっと思わされるんですね。
私自身も正直言ってそうでした。
ちょっとだけ簡単に私のおかしをしますと、
私は実は高校生あたりまで大分ヤンキーではないです。
ちょっと荒れててですね、心の中が。
思っていました。
父親はクリスチャンなのに、何でうつ病を抱えるんだろうと。
私は父ほど祈る人を見たことがないです。
でも家で祈っている父親はだんだん病気がひどくなっていくわけです。
兄と姉はさまざまな問題を起こしまして、
そのために母親が駆けずり回るということをしていてですね、
クリスチャンホームなんですよ。
でも神様は何で私の家をこういうふうにするんだろうと思って、
実はずっと神様に怒っていました。
でもあるときキャンプに行ってですね、
そのキャンプの中で先生と一対一で話したんですね。
その時にその先生が言われたのは、
私の怒りをとにかく黙って聞いてくれたんですよ、まず。
イエス様がこう出ているよりも君の気持ちを知りたいと言って、
私の怒りを全部聞いてくれたんです。
私はそこでだいぶ怒ったと思います。
そしてイエス・キリストなんか信じられないとそこで言いました。
でもその先生がこそっと言ってくれたことは、
そのカウンセリングで一言だけだったんですよ。
加藤君、君の心の傷はイエス様が癒すことができる。
だから一緒に祈ろうと言ってくれたんです。
それだけだったんです。
それだけで私の心はだいぶ不思議に捉えられたんですよ。
それで何かが変わったわけではなくて、
その後も不思議といろんなことがあって救われていくわけですけれども、
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でもその中で一つ確かなことは、
あの先生が言った通りだったんですよ。
イエス様があなたを癒すことができる。
だから祈ろうと、それだけでした。
じゃあお前の父親の病気は治ったのかも。
そうでもないです。今でも家庭の中にはいろいろあるし、
父親も病気なのだけれども。
ただ、じゃあ神は癒しの技を、救いの技を成していないと私は思うのかと言ったら、
そうだったら牧師なんかやってないですね。
神は生きておられて、私を癒し、私の家庭をなおも癒し、
そこに力を持っておられる方である。
そう私は思っているからここに立っています。
私自身もおそらく、そして皆さんもそうでしょう。
イエス様を信じ、すべてが変わった、そう賛美します。
しかし変わらなかったこともあるのかもしれません。
変わらなかったこともあるかもしれない。
けれども確かに私たちが証ができることは、
イエスキリストは私を慰め、癒してくださった。
人生のどこかでそういう技を成してくださった。
そして囚われている何かから解放をし、
皆によって立って歩きなさいと言われ、
私たち自身も皆によって立って歩くものとされたお互いであると思うんですね。
イエスこそ世界の王、イエスこそ私の主であると認めた、
その時から私たちの人生はそのように変えられたはずなんです。
その権威あるお方が、イエスの名によって祈る私たちとともに今も生きておられます。
私たち一人一人をとらえる痛みからなおも救い、救い続けてくださっているんです。
今朝の御言葉も終わります。
今朝の御言葉というのは、ここにいる私たち一人一人に主が今朝私たちに語りかけている言葉なんです。
なざれのイエスキリストの名によって立ち上がり歩きなさい。
なざれのイエスキリストの名によって立ち上がり歩きなさい。
イエスキリスト、この方はここにいる私たち一人一人の主なんですね。
イエス様は私たちを癒すことができる。
苦闘しながら、悩みながら、どうなのと悩みながら、
でもこのお方を御一緒に仰いでいきたいと願っております。
一言お祈りをしてメッセージを終わります。
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