1. 名谷教会
  2. 2015/08/09:聖日礼拝(旧音源)
2015-08-09 44:54

2015/08/09:聖日礼拝(旧音源)

2015/08/09 聖日礼拝(旧音源)




00:04
みなさん、おはようございます。よくいらっしゃいました。
今日も、朝から暑かったですけれども、また、でも、
あなた方に負けずに、こうして集まっていただいて、本当に感謝いたします。
それでは、今日もですね、見事に会える前に、隣の方々と挨拶しましょうか。よろしくお願いします。
はい、それでは一方祈りいたします。
天の来た神様、皆がね、賛美いたします。
えっと、こうして多くの方々が集まって、
共に礼拝できますことを、心から感謝いたします。
道化師よ、一人一人の心を、あなたが覚えて、
主の恵みでいただいて下さいますように、お願いをいたします。
主の豊かな御言葉による恵みと、この礼拝の中に、
我ら共におられる今の世の主が、
一人一人の心も、礼も、身体も、慰めあげまし、
癒し、祝福して下さいますように。
そして、帰り向きには、本当に天の力を、支援をいただきまして、
主よ、堂々と帰ろうとできますように。
主よ、我らを帰りみて、覚えて下さい。
主イエス、基礎の皆によってお祈りいたします。
はい。
人の働きのメッセージが続いています。
今日はですね、六章の一節から七節のところの箇所ですが、
こうしてみますと、昔の教会にも、あるいは今日の教会にも、
また教会だけではなく、私たち一人一人、
個人個人の人生に、いろんなことが起きたりすると思うんですね。
時には嬉しいことが起きたり、
03:00
時には何でと思えるような悲しいことも起きたり、
本当にですね、嬉しいことばかりあったらいいんですけれども、
そうではないんですね。
例えば教会の中のこと、この人の働きにもいろんなことが起きていますけれども、
教会は救われた神の民の集いですが、
同時にまだ罪の性癖を持っている人々の集いでもあるから、
いろんなことが起きたりすると思います。
エルサレム教会でもそうちょっと考えてみたら、
今日の見言葉にあるようにですね、
ますます次から次へ多くの人々が救われて、
そのエルサレム教会に集まってくるようになりました。
その中にはですね、
その前まであらゆる国に知らされていた人々が、
エルサレムに帰ってきた人々も大勢いたんですね。
例えばギリシャから、あるいはローマから、あるいはエジプトから、
あるいは小アジア、今トルコなんですね。
そこから帰ってきた人々が大勢いました。
またその中でですね、
もういろんな背景を持っている人々もいたわけなんですね。
いろんな出身、あるいはいろんな身分、あるいは金持ち、あるいは貧しい人々、
昔は奴隷だった人々、あるいは昔からずっと偉い人々、男性も女性も、
こういったですね、あらゆる人々が集まっている教会がエルサレム教会でした。
ところがこのようにですね、あらゆる国から帰ってきた人々、
またいろんな背景を持っている人々が集まっている教会に、
一つのトラブルが起きてしまいました。
今日の一説を見たらですね、
エルサレム教会にはギリシャから帰ってきたユダヤ人はギリシャ語を使っていたんですね。
そしてずっとユダヤに、イスラエに住んでいる人々は当然ヘブル語を使うわけなんですね。
その中に夫を亡くしたヤマメたちが大勢いたようです。
そして彼女たちは貧しくてですね、あのときは共同生活をしていたわけですから、
生活保護をもらってですね、給食の配給ももらって、それで暮らしていたわけなんです。
06:05
ところがなぜかですね、一説を見たら、
ギリシャ語を使うユダヤ人、つまりギリシャから帰国したそのユダヤ人たちが、
なぜかこのヘブル語を使う、そもそもこのイスラに住んでいたユダヤ人たちのヤマメたちに
差別をされたのか、あるいは名残にされたのか、それは知りませんが、
その毎日の配給で名残にされていたんですね。
まともに給食をもらっていなかった。そして苦情を申し立てました。
一見見たらですね、そんなつぶやきをしないでほしいと、そう思われるかもしれませんが、
このことはですね、深く探って考えてみたら、このところから私たちは教会において、
いや、教会だけではなく私たち人生において、とても大事な三つの原理を私たちは学ぶことができると思います。
今日はですね、その三つの原理を、教会生活、あるいは信仰生活、あるいは私たちの人生の中で、
この三つの大事な原理をですね、ぜひ覚えていただきたいんですね。
まず第一の原理は、愛の原理です。愛の原理。
簡単に言いますですね、私たちは教会で、いや、教会だけではなく、
いろんな持ち場たちは家庭で、あるいは会社で、あるいは私たちの人生の中で、
神様を信じる信者として、すべてのことに当たるときにですね、
この愛の原理に基づいて、つららく動くということが求められていると思うんですね。
あの有名なヘンリーナウヘンという先生がいますが、彼がこう言いました。
愛はすべての価値より勝る真理だと言いました。その通りだと思います。
また、みなさんがよくご存知のですね、コリン島人への手紙13章の愛について書かれている箇所がありますね。
一緒にちょっと開きましょうか。
コリン、男子コリン島13章13節を開きたいと思います。
新約聖書337ページです。
09:09
それでは一本読みたいと思います。
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。
その中で一番優れているのは愛です。
いつまでも残るものは信仰、希望、愛が残るんですね。
しかし、その中で一番優れているものは愛であると聖書は教えています。
ですからみなさん、私たちが何か仕事にあたるとき、あるいは悲しいことが起きたとき、
あるいは何か解決しなくならない何かのトラブルや問題が起きたとき、
それを覚える原理は愛ということです。
エルサレム教会はいつも何か問題が起きたときに、トラブルがあるときに、
それを解決するその手は信仰の手であって、それは愛による道です。
エルサレム教会に小さな日々ができたんですね。
一日の恵みの中で信仰生活をしていくはずなんだけれども、その中に小さな日々ができてしまいました。
それはレボルドを使うイザヤ人の山目たちが、ギリシャ語を使うイザヤ人たちの山目を直たりにしたり、差別をしたりしました。
ですからここに愛の原理が欠けているということなんです。
背景や出身が違うということで、あるいは身分が違うということで差別ができたり、
そしてこの初代教会が最も大切にしてきたこの愛の原理が欠けてしまうようになったわけです。
もちろんそのような事態になったのは、それぞれの理由や言い訳があるかもしれません。
あまりにもこのエルサレム教会に信徒が増えて増えて、膨大に増えて、
ともに配給や奉仕がなかなか十分にできていなかったわけです。
12:03
それで今日の見言葉からわかるように、家様の十二人、ペペロとかヨハネとか彼らが、
もう祈る、また見言葉に励むべきなのにそれがなかなかできないで、
もう配給の仕事も、あるいはその当時は家の教会がたくさんありましたから、
その家の教会を啓発したり、あるいは病人を逃がしたり、祈ったり善祷したりして、
もう十二人が祈る暇がない、あるいは見言葉に励む暇がなくて、大変忙しかった。
なかなか組織的に、体系的に動いていなかったようです。
しかし、いずれにしても、いくら忙しくても、いくら仕事ならない仕事がたくさんあっても、
この愛の原理というものを忘れてはいけないということなんですね。
皆さん、私たちが何をするにしても、あるいは誰にするにしても、
一番優先にして、また一番大事にしなくてはならないことは、その価値は愛ということです。
言い換えますと、いつも私たちが持つべき焦点は、人であって愛であるべきである、と。
しばしば奉仕に熱心に当たっている人々、あるいは見言葉通りに強く生きようとする人々、
あるいは長い間人口生活をしてきた人々が、おかしやすい落とし穴のような、そういった一つの過ちの態度があります。
それは、これが良い、良くない、正しい、正しくない、この良し悪しを見分けるよう、見分けようとする、判断しようとする態度であります。
ところが、時々、これが良い、良くない、正しい、正しくない、それを判断することによって、
時には私たちはそれよりもっとも大事な愛を、あるいは使徒を失うことがあったりするということです。
もちろん、そうだとして、真理でないものを許してはいけないんですね。
また、罪と妥協してもいけません。妥協してもいいじゃないか、という話ではない。
15:02
真理でないものを許してはいけませんし、罪と妥協してはいけません。
しかし、それらの事柄を処理していくプロセスの中で、何かに当たる時に、
愛すること、不安いような態度をとること、包み込むこと、待つこと、我慢すること、そのような態度を持つこと、
それが愛の原因なんです。
皆さん、先週の一休間、あるいはつい最近のことを思い出してみてください。
何か皆さん、家族と、あるいはどこかの誰かと、私ですね、何かの、それがいいことであれ、
よくないことであれ、それを解決していく中で、私たちは神様を信じる人々として、
愛の原因に基づいて、それらを処理したり解決したりしてきたんでした。
せいと、先のコリントビの手紙をもう一度開きたいと思います。
第一コリント13章。もう真っ赤で、4節から7節を一緒に読みたいと思います。336ページです。
では4節から一緒に読みたいと思います。
愛は寛容であり、愛は親切です。また、人を妬みません。愛は自慢せず、傲慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。
すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。アーメン。
いかがでしょうか、みなさん。
この御言葉を読むときに、私はですね、自分の愛はどんなものなのかと考えさせられますね。
寛容なのか、親切なのか、自慢しないか、傲慢にならないのか、我慢するのか、信じるのか、期待して耐え忍ぶか、自分の愛は一体どういうものなのか、考えさせられます。
18:07
私もこの御言葉を、メッセージをですね、準備しながら深く深く考えされました。そして反省し、悔やだめました。
自分にも、なんと、愛が欠けているんじゃないか。本当にまだまだ愛が足りないものだと。
時には寛容も、時には親切も、時には我慢することも、時には信じることも、時には耐え忍ぶことも、まだまだ本当に足りないものだなと、すごく考えさせられました。
みなさん、この愛の原理をぜひ覚えていただきたい。
最近ですね、どこからでしょうか、この前午後の礼拝のご用で行かせていただきました、神戸教会の阪先生と、またたまに明大に教会にお目になっている博先生。
それから元町に神戸、その名を読みますと恩恵教会、恵み教会の本という先生がいてですね、
4人の先生が月に1回、2回集まって、基督会とまた神戸区の生徒のマナージをですね、し始めました。
先々日、集いがあってですね、マナージをして、その分かっちゃう中で、神戸教会の阪先生がこう言いました。
この先生、他の先生から聞いた話なんですね。
教会の神戸の中で、たまにでもこの先生にですね、何かちょっと不満のような、つぶやきのような、そういう話を聞くと、
その先生はですね、その話がそのまま聞こえるんじゃなくて、まるで自動通訳になっているようにですね、
それがつぶやきとか不満の言葉のように聞こえるんじゃなくて、
先生、私をもっと愛してほしいとか、私にもっと感情を持ってほしいとか、先生の愛がほしいんですよ、
そういうふうに聞こえるという話を、他の先生の中でですね、阪先生がいてですね、4人がですね、みんなですね、
うなずいてですね、挨拶をしてですね、話をしてですね、それぞれそのうちにですね、
読書の学びでしたけれども、急に自分がですね、どれほど足りないとこしなのかですね、
反省の番になってですね、本当に涙をもって祈る、集いで終わったんですけどね。
21:05
愛する皆さん、愛の原理を覚えてまいりましょう。
これが正しいか正しくないか、これがいいか悪いか、それを判断する前に、
もちろん時には解決させられないことがあるかもしれませんが、
その中で私たちが逃がしてはいけないこと、忘れてはいけないことは、愛、愛することです。
土下庄丹教会がですね、愛に満ちた教会であり、そのためにもちろんですね、私から、
また皆さんお一人お一人が、愛に満ちた信徒になることではないでしょうか。
私みんなが寛容であって、親切であって、自慢しないで、我慢して、礼儀に反しないで、
自分の利益を求めないで、怒らないで、人のした悪を思わないで、不正を喜ばないで、真を喜ぶ信徒である。
不思議にもですね、我々人間はですね、人のした悪はですね、よくも覚えるんですね。
人間はですね、暴却の動物といわれる。よく忘れるからですね、私は生きていないと思うんですよ。
もしですね、ここにですね、50、60、70、それぞれですね、年齢の方々がいらっしゃいますけれども、
例えば70年間自分が経験したこと、自分がやったこと、それが良いことであれ、悪いことであれ、
それをですね、24時間ずっと頭の中にそれが思いつくとしたら、それはもう精神病になるかもしれませんね。
でも、忘れるんですよ。忘れる。ところがですね、何か人にやられた悪は、よくも覚える。
それを覚えないこと、忘れることが愛なんです。
政治はそこまで私たちに求めているんですね。
エルセレム教会は、その愛が欠けていること、愛の原理をいつの間にか忘れていた。
そしてそれをやり直すことに、みんなそれを。
そしてそれを解決するにあたってですね、2つの原理がここに現れてくるんですね。
それは優先順位という原理です。優先順位の原理。
エルセレム教会には、家様の12の弟子。
24:05
イスカリオテは死んだてですから、彼の代わりに待っててやという人が弟子に加えられました。
その12弟子がいわゆる使徒なんですね。使徒。
そしてその使徒の教えるような人々が多く弟子がいて、そしてまた一般信徒のような人々が大勢いたわけなんですね。
ところがですね、その当時はよく共同生活をしてですね、食事も配給したりですね、いろいろ一緒に暮らして、一緒に信仰生活をしていました。
だから当時ですね、人々が増えるにつれて、しなさならない方針も増えたわけなんですね。
例えば給食当番、掃除当番、受付当番、文案の当番とか、あるいは礼拝もするからですね、祈りの当番、朗読の当番、説教の当番、それぞれですね、決まってですね、回っていましたけれども、
なぜかこの法律には、あまりにもやもめの人々が大勢いてですね、給食のあれがうまく回されていなかったんですね。
それでですね、もう祈りと御言葉に専念しなくならない人たちもですね、この繁殖の法事をもうしなくならなかった。
そしてそれがですね、もう1日2日、例えば1ヶ月、1年2年続くと、どんなことが起こるんでしょうか。
私は当然、祈りと御言葉に専念して、その御言葉を取り継ぐ者をして働かなくならないんだけれども、祈りを軽くしてしまって、名残にしてしまって、
そうすると教会の中に目どみが変わってしまう、枯れてしまうことになることです。
それでその12日とは、これを解決することにしないと。それはどういう解決策だったんでしょうか。
3節、4節をご覧ください。私は読みますね。2節から私は読みますね。
そこで12日とは、弟子たち全員を呼び集めて、こう言った。
私たちが神の言葉を後回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。
そこで兄弟たち、あなた方の中から、身霊と知恵とに満ちた評判の良い人たち7人を選びなさい。
27:00
私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。
そして私たちは、もっぱら祈りと御言葉の奉仕に励むことにしますと。
優先順位に従って、この問題を解決することにしました。
もちろん人たちが最中の仕事に当たるのが、悪いとかそういうことではないんですね。
人は人として、弟子は弟子として、すべき優先順位のことがあるということです。
そして7人を選びました。
そして彼らを暗示してですね、立てました。
その人々の名前が御説に出てくるんですね。
ステファノ、ピリポ、プロポロ、ニカノル、テモ、バルメナ、アンテオケの懐中者ニコラオ。
この名前を見て、またここにアンテオケの懐中者と書いてあるように、
この7人の人々はステファノとかピリポのようなユダヤ人もありましたが、
このニコラオとかニカノルのような、いわゆる他の国から帰ってきた人々も、
7人のうちに選ばれて質疑に立たされたということです。
皆さん、何をお話ししたいのかといいますと、教会の働きを解決するとき、
あるいは皆さん自分自身の人生のことを何か課題を、
あるいは資源を知らないこと、あるいは話すことを解決しようとするときに、
まず私たちが覚えるべきことは、この解決の優先順位は何なのか。
自分はまず何をすべきなのかを覚えること。
12人、彼らがまずすべきことは何でしょうか。
それは祈りとニコ、神様に祈り、神とのために鳥なし、教会のために祈り、
神の国と神の日のために祈ることなんですね。
皆さん、この優先順位のこの原理というものは、
私たちが何か問題や、あるいは試練や、あるいは悲しいこと、あるいは病気とか、
あるいはこれから取り組んでいかならない様々なことからに与えるときに、
まず何をもってそれを解決しようとするのか、その問題だと思うんですね。
30:03
皆さん、もう一度、最近皆さんの身の回りに起きたことを覚え出してみてください。
それらを解決するときに、あるいは何かを決めるときに、一番先に皆さんは何をしてから、
それに当たって、あるいはそれを取り組んで、あるいはそれを解決したんです。
私たちは手に持って優先順位を立ててしなければならないことがあります。
それはまず祈りという言葉です。
自由に人だけではありません。
本日だと人、あるいは是非といった区別はありませんから、何が来ても、
まず祈りを持って、まず人の見舞いに来て、指令を付して、そして祈って、
それから答えていただいて、その答えを持って、それを持って取り組み、あるいはやっていくことが必要なのではないでしょうか。
これを忘れてはいけません。
信仰においての優先順位は、自分自身が先に立ってしまうことをしないことです。
先走りをしないことなんです。
私たちは失敗してしまったり、あるいはもっとひどく問題がひどくなったり、なかなか解決できていない、
そこにはですね、実は根本的な問題がありまして、
それは祈るより、二言をいただくより、自分自身が先に立ってしまったからではないでしょうか。
それを悟ること、それが実は幸せな信仰生活を持っていく必要です。
三つ目に行きます。
三つ目の原因は聖霊十万の原因であります。
三説とですね、それから五説をもう一つ一緒に読みたいと思います。
まず三説を一緒に見ましょうか。
今日の箇所の三説です。
そこで兄弟たち、あなた方の中から慈悲と知恵とに満ちた正版の良い人たち七人を選びなさい。
私たちはその人たちをこの仕事にあたらせることにします。
それから五説。
この提案は全員の承認をするところとなり、彼らは信仰と聖霊とに満ちた人ステファノ及びフィリッポ、プロコロ、ニカノル、テモ、パルベナ、アンテオケの最終者ニコラオを選びとあります。
33:17
皆さんここにですね、七人の仕事を立てるときに選ぶときのその記事は何でしたか。
見たまと知恵に満ちた正版の良い人、それを五説は信仰と聖霊に満ちた人と言いました。
他の記事はないんですよ皆さん。
聖霊に満ちているのか。
この人が神の知恵に満ちている人なのか。
正版の良い人なのか。
信仰と聖霊に満ちている人なのか。
それが全ての基準です。
この箇所がですね、私たちの教団は執事じゃなくて役員と言われていますけれども、その役員制度の元祖がこの六人なんですね。
どんな人を立てたんでしょうか。
信仰と聖霊に満ちた人を与えます。
この記事には長い間信仰生活をしたのか。
良い仕事を持っているのか。
金持ちなのか。
貧しい人なのか。
大学を卒業したのか。
古い先祖なのか。
コロベの人なのか。
シャッポロの人なのか。
そういった基準はないです。
見たまと知恵に満ちた人。
信仰と聖霊に満ちた人。
これが唯一の基準です。
皆さん、私たちがこのような御言葉を読むときに、預かるときに、
だから私は役員にしないほうがいいんじゃないかと思ってほしくないんですね。
能動的に積極的に言うと、私にもこのような貧困と聖霊の満たしをくださって、
この使命、この役割を果たせるように、全くできるようにしよう。
助けてくださいと能動的に祈ってほしいんですね。
ところが皆さん、他のものではなく、なぜ見たまと知恵に満ちた人を主義として与えたんでしょうか。
もっと能力のある人、背景も良くて、政治家とか議員とか、そういった人々、経験が豊富で、
そういった人々を立てたらよかったんじゃないでしょうか。
いえ、そうであります。
36:01
教会の働きだけではなく、私たちの人生の全ての事柄は、
実は神の知恵を持たなければ、一つも解決できないから。
時には人間の考えとか、人間の経験とか、あるいは人間の知識がいくら豊富であっても、
それが神の仕事を妨げることがあったりするから。
神の仕事を、神の奉仕を、本当によく担える神の働き人の条件は、
見たまと知恵に満ちることなんです。
つまり、見たまと信仰に知恵に満たしていただくことだから、自分をなくすことなんですね。
空っぽにすることなんです。
何かによってそれが埋まっていると、溢れていると、見たまが入り込む、できました。
神の知恵が入り込む、それもできました。
信仰に満たされることはできないんです。
もう既に自分の考えで、自分の経験で、自分の知識で、世のものでも、
溢れて溢れて一般になっているから、神の霊が、神の知恵が入るも好きじゃないです。
皆さん、何かにも一般になっているうちは、他のものを引けることができないんです。
教会の働きも、人種の働きも、同じことではないです。
特に私が、教会の働きをするにあたって、最も優先するべきことは、
身霊と神の知恵によって、それを解決していくことです。
人間の知識、人間の経験、人間の考え、あるいは人々の助言が優先されたり、先走りしては。
教会は神の教会です。
家様、家者ですから、そこには、一般的な原理、あるいは常識的な原理より勝る、
神の見たまの原理、天の知恵の原理が、そこに働かなければならないんです。
39:03
愛の原理、優先順位の原理、それから聖霊十魔の原理が働かれて、その結果はどういうことが起きたのでしょうか。
7つを一緒に読みたいと思います。
5・1・7・3
こう言って、神の言葉は、ますます広まっていき、エルサレムで弟子の数が非常に増えていった。
そして多くの祭司たちが次々に信仰に入った。
皆さん、最初の頭の言葉は何ですか。
こうしてですね、こうして。
こうしては、何をどうしてという言葉でしょう。
それは、愛の原理に基づいて、神道と教会を愛して、
優先順位を守って、それにふさわしい人々をたてて、
法師にあたらせて、使命を全うして、
神骨と聖霊十魔な人々をたてて、
こうしましたら、どんなことが起きたのでしょうか。
この聖書は何を証しているのでしょうか。
神の言葉はますます広まっていきました。
エルサレムで弟子の数が非常に増えていきました。
そして多くの祭司たち、この祭司たちはどのような人々でしょうか。
キリスト教を迫害した人々です。
イエス様を十字架につけたあの人々です。
キリスト教をキリストをもう嫌った人々がですね、
なんと次々に信仰に入りました。
皆さん本当に不思議だと思いませんでしょうか。
一見見ましたらですね、日常的な事柄を解決しただけなんです。
一つ一つトラブルを解決しただけなんですね。
しかしそこに愛の原理によって、信仰の原理によって、
御霊の原理によって、それに基づいて、それを取り組んで解決したから、
その結果は本当に驚き事でした。
これですね、単なる素晴らしいリバイオンが起きたからではないです。
御言葉が、神の言葉が広まっていったということなんです。
皆さんこの時代は、この清水の時代は、神様を拒む時代です。迫害する時代です。
しかし不思議にも、そのような時代に、神の言葉が滅ぼされていくのではなく、
42:01
どんどん弱くなっていくのではなく、力を失ってしまうのではなく、
不思議にもですね、ますます広まっていきました。
ますます広まっていきました。
その根底には何があったんでしょうか。
人間が先走りをしないこと。
愛の原理を守ること。
まず、その御前に触れ落ちて祈ること。
神様の原理に従うこと。
それらを一つ一つやっていく時に、
放っていく時に、そこに神の御言葉が広まっていく、
素晴らしい神の働きが起きたわけなんですね。
皆さん、私たちもこのような神の御業が見たいんです。
皆さんお祈りお祈りの方々が、
愛の原理に基づいて、
信仰の原理に基づいて、
三魂の精霊十魔の原理に基づいて、
法師に当たったり、問題を解決していったり、
歩んでいく時に、神の御業が現れてくるんです。
最初たちが信仰に入ったことのように、
今この日本で教会を反対する人々、
ありは知らない人々、
あるいは笑う人々、
無関心な人々、
その人々が、
私たちが本当にこの愛の原理によって、
信仰の原理、三魂の原理によって、
愛を見続けていく時に、
神の御言葉が浸透して入り込んでいくんですね。
そして神の聖なる御言葉によって、
この世が清められること、
魂が救われること、
何より本当に嬉しいことは、
神の御言葉がこの世に起こったということなんですね。
勝利をおしゃべったということなんですね。
どうか皆さん、祈ってまいります。
そして何をするにしても、
愛を持って、
祈りを持って、
精霊充満になってですね、
全てのことを、
それを取り組んだり、
あるいはそれを当たってですね、
やっていきたいと思います。
その時に、
神の御言葉がますます広まっていく、
神の御業を共に見てまいりましょう。
お祈りいたします。
44:54

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