神様の後押し
今朝は、この読んでいただいた歌唱は、この「孟瀬の歌」と呼ばれます、新明紀32章の最後の方の歌唱を読んでいただきました。
この新明紀の32章は、「孟瀬の歌」と言われますけれども、これは何を言っているかというと、
くどいほどの後押しなんです、というならば。今までこういうことが大事だと語ってきた、それをもう一度、くどいぐらいに後押しをしているというのが、この32章です。
31章の流れを少しだけ、この前の流れを少し簡単に確認をしますと、孟瀬は語るべきことを語り切ったんです。
あなた方にはもう身教えを語り切った。そして語り切って、そのイスラエルの民と次の指導者のヨシュアに対して、孟瀬は励ましの言葉を送るわけです。
31章の6節あたりにありますが、「強くあれ、大しくありなさい。彼らを恐れてはならない、おののいてはならない。
あなたの神、主ご自身があなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」
そのように励ましの言葉を送るんです。大丈夫だ、主がおられるんだから、恐れずに生きなさいということを語る。
そのことを語って、そして私が教えた身教えを7年に一度しっかりと全部確認するんですよという教えまで、ちゃんと彼は語る、それが13節あたりまで書いています。
ただ、神明記のこの流れを見ていくと、ここで神明記が終わったら気持ちよく終われそうなものなのですけれども、実はそうはならなかった。
この孟瀬とヨシュアに対して、再度神様が語られる言葉があるんです。それが16節です。31章の16節。
神は孟瀬に言われた。
「みよ、あなたは間もなく先祖とともに眠りにつこうとしている。この民は入っていこうとしている地の異国の神々をしたい。
自分たちのうちで姻行を行い、私を捨てて、私がこの民と結んだ契約を破るというのです。」
ここまでにしておきます。この後も続きます。
ちょっと出花をくじくような神様の言葉が続くんです。
「さあ、行くぞ。大丈夫だ。」励ますのですけれども、神様がはっきりと言う。
「もうせよ、あなたが死んだら、この民は絶対に私を裏切る。そして、この契約を破棄するだろう。」という厳しい言葉を言われるんです。
そういう言葉を読むと、神様を、なんでこんなに民のことを信じていないんだ、神様の不信感が強いと思いがちですが、そうではないんです。
これは、40年間、イスラエルの民を愛し続けた神様が彼らを見て知った現実なんです。
40年間、この民を愛し続けられた神様だからこそ知っている現実なんです。
私たちもそうかもしれませんが、私と綾名先生は結婚して今まで5年目を迎えようとしていますが、
40年間一緒に歩んだ夫婦というのはきっと、お互いの良い面も悪い面も知っているんです。
それは周囲の人間が見る以上に、きっとお互いのことが見えているわけですよね。
それと同じなんですよ。
神様は真剣に愛してきた。だから見えているんです。
彼らが表向きに、さあ行こうと言って行くように見せながら、本当はあなたたちはそうじゃない。
そして私たちもそうですが、本当にその人を愛そうと思うのであれば、夫婦は外面じゃなくて本当の姿に向き合います。
神様もそうなんです。本当の民の姿に向き合う。
神様と民の姿
彼らの姿を変に誇張していいようにも見ない。
彼らの現実に向き合っていく。
そしてその現実を知っている神様が、本当に民を愛したい神様がいい加減に終わらせずに、
そういう彼らを知りながらも、彼らがそうであっても離れてしまわないために、私は一つの歌を贈ると言ったんです。
これを31章の19節というところでは、この歌をイスラエルのコナに対する私の証とすると神様は語られます。
この歌を私は民に対する証とする。
この歌は読んでいきますけれども、実は正直厳しい言葉がたくさん出てきます。
しかしそれは隠し事のない神様の嘆きの声なんですね。
しかし同時にこの歌を知って知ることは、しかしそうであってなおこの民を諦めきることができない、
ある種悲哀にも似たような神様の激しい愛の歌なんです。
私たちの中心というのは、神様の前にどう私が向き合うかということも大事ですが、
もう一つ大事にしなければならないことは、神様が我々にどう向き合い続けてくださっているかなんです。
そしてそれをこの歌を見ていけばよくわかります。
神が私たちにどう向き合い続けてくださっているのか。
そのようなところを読むときには改めて、私たちはある種教会の、
そして私たち自身の命の原点と言いましょうか、
動かしてはならない一点が明らかになってくるような気がするのです。
そのことをご一緒に今朝確認をさせていただきたいと願っています。
このモーセの歌というのはどういう歌かと言いますと、
簡単にこの形を言っておきますが、この歌は
神様がイスラエルの民に対して訴えを起こしているという形の歌です。
神様がイスラエルの民に対して訴えを起こしているという歌です。
そして31章の28節や32章のこの歌の始めにも書いていますが、
天と地が出てきます。
この神が民を訴える、その神が民を訴える上で天と地がその承認として立っているという構成なんです。
ちょっとスケールが大きい話ですけれども、そういう形になっています。
この歌は長いんですけれども、何が言いたいかということは最初にはっきりとしているんです。
それは3節です。32章の3節。
誠に私は主の皆を告げ知らせる。栄光を私たちの神に来せよと言われます。
この歌が伝えたいことは2つ。
1つは神様ご自身の名、言い方を変えるならば神様のご人格です。
神様がどういうお方であるかということを告げ知らせることが目的の1つです。
そしてもう1つはそれを告げ知らせることによって、神様は素晴らしい、神様の栄光が賛美されること、それがこの歌の目的です。
では神様とは一体どういうお方だったでしょうか。
それは最初に語られます4節を読みしますと、主は言わ、主の御業は完全、誠に主の道は皆正しい。
主は真実な神で偽りがなく、正しい方、すぐな方であると言われます。
主は違和であると言われるんです。これ大事なんです。主が違和である。
違和というのは私たちが想像したら分かる通り、そこにあったら何年間もずっと形を下手したら千年を超えて形を留めるでしょう。
同じように違和というのは変わらないということ。違和というのは変わらないということであり、違和というのは安定してそこにいるということなんです。
普遍性と安定性の象徴なんです。それが主であるとここで言われます。
神様の真実さ、正しさ、愛というのは決して変わらない。
そして主は6節以降にありますが、主はイスラエルの父であり、そしてまた7節にはその主が恵み深いことは長老たちが世々において証をしてきています。
ちょっとさらっと見ていきますけれども、8節9節では神様はイスラエルの民をご自身の土地を譲る民として一方的な恵みによって選びましたよ。
神の選びについて語られます。
10節11節ではアレノの旅の中で神様は民を人身のように守られたということが言われる。
彼らを鷲の翼に乗せて導き出したということが言われる。
人身のように守るという表現は、これとてもいい表現ですね。
眼球に人って攻撃しづらいですよね。
こう来たらまぶたが閉じるわけです。
それと同じように、人身のようにあなたを守るというのは、神様の許しがなければ誰もあなたに触れることなどできないということを言っている。
そのぐらい私はしっかりとあなたのことを守ってきたと言っている。
そして13節14節ではこれまでの旅路で主は十分に民を満たしてこられたということが書いてある。
さらっと見ましたけれども、何が言いたいかというと、これが神様のご人格なんです。
神様というお方は奴隷から民を救い出すばかりか、
敵から民を守り続け、日々の賭けをあらゆる方法で満たされ続けた恵みの神様である。
そしてそのお方は自分を救いの岩だと言われるんです。
神様の厳しい言葉と愛の歌
私は決して変わらないということが神なんだと言われる。
変わらないし、40年間変わらなかったし、そしてこれからも変わるつもりはなかった。
そのような私であるということを神様ははっきりと言われるんですね。
しかしながら15節以降では、このイスラエルの民の姿について言われます。
15節だけお読みしますと、こういう言葉があります。
エシュルンは声を太った時、足で蹴った。
あなたは声を太り、頑丈で艶やかになり、自分の作った神を捨て、自分の救いの岩を軽んじたというのです。
エシュルンというのは、これはイスラエルの民の哀愁です。
イスラエルの民のことを言っているんです。その哀愁をですね。
神様の恵みによって彼らは40年間生きてきました。
そしてそれによって、ある種ここではあなた方声を太ったというのです。
恵みに恵みを受けてあなたたちを豊かになって、むしろ太ってしまって、
そして恵みの神である私を蹴り飛ばしたというのです。
蹴り飛ばした。
そして彼らは救いの岩である神を軽んじたというのです。
神は変わらないのに彼らがその神を蹴り飛ばしたというのです。
そして16節以上に書いてあるのは、民は簡単に自分の支柱に収まる異教の神々ですね。
偶像を信じてそこに暗がいをしていったということが書いてある。
18節にはあなたは自分を生んだ岩をおろそかにし、
生みの苦しみをした神を忘れてしまった。
忘れてしまったとまで言わせています。
実にこれはルカの15章のフォート息子の話に似ているような話だなと思わされます。
ここに神様の苦悩というものがあるのです。
イスラエルの民は40年の間、私たちも見てきて知っていますけれども、
何かが足りなくて文句を言うということはあったはずなんです。
ああ肉が食べたい、ああ敵がやってきた、神はこんなところで私たちを殺すのか。
だから神様はその度に欠けたら彼らに足りないものを与えてきました。
守りを与えていろいろなものを満たしてきた。
しかし一方で満たしに満たして太っていったら彼らは神を捨てる。
足りなくては不平を言い、満たされては傍慢になる。
足りなくては不平を言い、満たされては傍慢になる。
これがイスラエルの民だと神様は知っておられたのです。
ある種これが40年間神様が知っている民の本性でした。
まあ親からするならば本当につらいですね。
じゃあ一体どうしてやればよかったのかと思いますか。
しかしそういうような民になってしまった。
そして19節から25節というのはある種これは神様の判決文なんですね。
その結果どうするのか。
19節20節
主は見て彼らを突き放された。主の息子と娘たちへの怒りのゆえに主は言われた。
私は顔を彼らから隠し彼らの終わりがどうなるかを見よう。
彼らはねじれた世代真実のない子らであるからだ。
彼らは神でない者を私の妬みを引き落とし
彼らの虚しい者で私の怒りを燃えさせたと言われます。
判決文は何かと言いますと
私はこのイスラエルの民を裁くと言われます。
ただここで書いてあるのは裁きというのは
神様が何か手を出すということというよりかは
ここでの表現は見顔を隠すということです。
見顔を隠され
救いの岩としてずっとそばにいて守ってきた神様が裁くというのは何かというと
そこから離れるということです。
当たり前のように神様が守ってきた恵みが
その祝福が民から引いていったということです。
そしたらどうなるか。
彼らは本当は生きていけないのです。
でもそこで神様はそうされたという
傲慢ゆえに救いの岩を軽んじた民のもとから
救いの岩が離れていきます。
神様は冷たいお方なのでしょうか。
でもそうではない。
先に救いの岩であるお方を軽んじたのはどっちだったかということです。
そのことを覚えなければならないと思う。
神様は変わらない。
神様は変わらない。
神の存在と民の態度
この事実は大きな慰めです。
そうですよね。
神は救いの岩だと言われるときに
私たちは本当に励まされます。
私は変わらないのだと。
しかしともすれば私たちもまた
神様がそこにおられるということを
当たり前にしすぎてしまうという嫌いがあるのではないかなと
これは自戒を込めていますが
そう思います。
軽んじてしまうということがもしかしたら
あるのかもしれないなと。
実家にいたら親のありがたみがわからない
出てから初めて親のありがたみがわかるということがあるかもしれませんが
それと同じようなことなのかもしれません。
日々主が支え主によって守られて生きているということは
何と素晴らしいことであったかということが
実は失わなければ民はわからなかった。
でも彼らが本当にいた場所は豊かだったわけです。
神がそこにいて救いの岩として立っているということは
どれほど豊かなことであったか
きっと日々感謝すべきことだったのでしょう。
しかし神様は蹴飛ばされ忘れられたら
心を痛め怒り狂う父親のように生きておられるんです。
そのように生きておられる。
神様は心が揺れ動かない神だなんて聖書には書いていません。
揺れ動くんです。民に裏切られたら。
でもそのような神でいる。
神様はきっとあの宝刀息子の父親のように
神様を我が子にずっと思い出してほしいわけです。
父の家で当たり前のように恵まれていた日々があった
でもそれは決して当たり前ではない。
私があなたを愛していた愛がその根本にあっただろうと
それを思い出してほしい。
いつもここに帰ってきてほしい。
先ほどさらっと読んでしまいましたが
6節の御言葉はやはり大事ですね。
主はあなたを作った父ではないか。
主はあなたを作り上げ、あなたを固く立てた方ではないか。
あなたを生み、あなたを育て、固く立ててきたのは私だ。
それを忘れないでくれ。
そのことを言われる。
神の新しい考えと契約の継続
さて、後半の26節以降に進んでいきますけれども
ただ、この26節から
モンスの歌というのは少し方向性がガラッと変わるというか
ここが転換点です。
26節からは
私は思ったから始まるんです。
私は思った。
ここから神様の新しい考えというものが展開をされていきます。
26節を見ますと
私は思った。
彼らを一掃し、人々から彼らの記憶を消してしまおうと。
もしも私が敵の罵りを気にかけなかったら
彼らを苦しめる者どもが誤解してはいけない。
我々の手で勝ったのだ。
これは皆主がしたことではないと言うといけないと
26節、27節に書いています。
神様は民を嘆かれました。
神様はもう彼らを消し去り忘れてしまおうとまで思われます。
そこまで心を痛められます。
しかし踏みとどまられるのは27節なんです。
この27節の訳は難しいんです。
これは教会教徒やいろんな訳を私も並べてみましたが
実に難しい箇所です。
ただ調べまして
恐らくこういう噛み砕くとこういうニュアンスの言葉なんです。
こういうことですね。
イスラエルの民が
もしも敵に滅ぼされたならば
その時敵はこう言うだろう
私たちの力でイスラエルを倒した。
そして救いの岩である神は何もしなかった。
しかしそう誤解されることが
私には何よりも辛い、何よりも嫌だ
ということが言われているのではないか
と私は読みます。
なぜでしょうか。
神様がなんでこんなことを禁断するかというと
それはご自身の名に反するからです。
ご自身のご人格に反するからです。
1章の1節あたりのあの言葉につながるんです。
矛盾するようですけれども
神様というお方は
民を消し去りたいほど怒っているんです。
これは怒っているんです。
しかし一方では
ご自身の名において
私は民の救いの岩となると
ご自身で約束をされた以上
そのご自身の名を偽ることを
神様は決してなされない。
ご自身の性格を決して偽られない。
お聞きになられたことあるかもしれません。
神様がご自身で立った契約に対して
民がどれほど不忠実であったとしても
私は忠実であり続ける。
それを旧約聖書では
ヘセドという言葉で言いますし
言い換えるのは
これは憐れみという言葉なんです。
憐れみなんです。
主は民がどれほど不忠実になったとしても
私は決してあなたたちとの契約を破らないと言われる。
そしてその契約で言われているんです。
私はあなた方の救いの岩となると。
だから決してそれを偽られない。
神様がイスラエルを愛しておられるのは
彼らが優れているからではない。
これは神明記の中で何度か繰り返されてきた内容です。
彼らはうなじが固い。
裏切ることは分かっている。
けれどもなぜそれでも神様は愛されるのか。
それは理由は一つです。
民がどうこうじゃない。
相手がどうであったとしても
私はあなた方を愛すると
神様ご自身が決められたからです。
そこにしか根拠がない。
ちょっとだけパラパラ開いて申し訳ないですが
神明記の7章の7節から8節というところを
ちょっとだけお読みしますと
神の力と存在の主張
そういう内容のことが書いてあります。
神明記の7章の7節から8節というところを
お読みしますと
こういう言葉です。
お読みします。
主があなた方を主体
あなた方を選ばれたのは
あなた方がどの民よりも数が多かったからではない。
事実はあなた方はあらゆる民のうちで
最も数が少なかった。
しかし主があなた方を愛されたから
またあなた方の父祖たちに誓った誓いを守られたから
主は力強い御手を持ってあなた方を導き出し
奴隷の家からエジプトの王ファラオの手から
あなた方を贖い出されたのである。
書かれていることはそういうことです。
主があなた方を愛され
主はその御契約を破られなかったから
あなた方はなおも今も主に愛されている。
この28節以降を少しこれも一個一個見てくださいね。
紙砕いてさらっと見ていきますと
28節から35節に書いていることはこういうことですね。
イスラエルの民というのは実に資料が欠けている。
私という救いの岩から離れて
どういう最後を迎えるかすら分かってはいない。
でもこれまで一人が千人を討ち
二人が万人を討てたというのは
私という岩が
イスラエルの民を手放さずに守ってきたからではないか。
敵が崇める偶像という岩は
本当の救いの岩では決してない。
そしてそのことは敵も認めているではないか。
この敵はかつてのソドムとゴモラのように
毒々しい身しか結ばないけれども
その身も神は覚えている。
時が来たら神はイスラエルのために復讐をなされる。
復讐と報復は主のもの。
私はなおも救いの岩である。
そういうことがさらっと言いましたけど
そういうことが書かれているわけです。
そして今日読んでいただきましたこの36節から38節は
何が書いてあるかというと
主は見た目をかばい死の下ベラを憐れまれると言われます。
ご自身の民をかばい憐れまれる主は
そしてこう言われるんです主は言われる
彼らの神々はどこにいるのか
彼らが身を裂けた岩はどこにあるのか
彼らの生贄の死亡を喰らい
注ぎの武道書を飲んだ者どもはどこにいるのか
彼らを立たせてあなた方を助けさせ
あなた方の隠れ場とならせよと言われる。
これは何を言っているのかというと
イスラエルの民に向かって言っているんです。
この16節17節で
異なる神々に自分たちを捧げて
神を忘れた民に対して
あなた方が頼りあなた方を守ると言っていた
あの偶像はどこに行ったのか
あなた方がそれを色々なものを捧げてきて
あなた方の隠れ場となるといった
あの偶像はどこに行ったのか
いやどこにもいないだろうと言っている。
どこにもいないだろう
それはそうだろう
いい加減にしなさいと怒る父親のように
そりゃそうだろうと
なぜなら偶像は神ではない
生きてはいない
そして39節に言われる
今見よ私、私こそがそれであると言うんです
私の他に神はいない
私は殺しまた生かす
私は傷つけまた癒す
私の手からは誰も救い出せないと
ここで言われる
これは原文のヘブル語を読んでも
私だという言葉があえて何度もちゃんと出てきます
主語がちゃんと書かれる
私だ私だ私だ私だ
ここがこの後で一番言いたいことなんです
民は自分の神々を願って見ていくでしょう
でもそれは神じゃない
神は私だ私だ私だ私だ私だと繰り返す
私が神なんだということを言うんですね
殺し生かし傷つけ癒す
これは殺したい傷つけたいということではない
彼らが頼ってきた偶像とは違い
私は力を持つ神なのだということを言っている
生きている神なのだということをはっきりと言うのです
そしてむしろ仮にあなたイスラエルの民が
私たちが死に近くて傷ついているならば
そこに命を与え癒すこともできる神なのだと
ここではっきりと言っているのです
神には力がある
そして39節から42節にこの私という言葉が
何度も強調されていますけれども
ここがまさにくどいんですね
何度も何度も
私が神だ私が生きている
私だ私だ私だ私だ
忘れるなと思っている
私こそが神であなた方を導いてきた
救いの岩なんだということをはっきりと語る
声太り足毛にされたとしても
もう消し去りたいと思うほどに傷ついたとしても
神様は言われるのです
私はあなたの救いの岩であることをなおもやめない
私はここに立ち続けるだから
あなたはもう私から目をそらすな
あなたもここに立ち続けなさい
神が私がここにいるんだ
私こそあなたの神なのだと
ここまである種愛に痛みながらも
それでも私を見なさいと招かれる神様など
この世界のどこにもいないんです
これだから聖なる神なんです
素晴らしいですね
モーセの歌の主題というものを
ある先生はモーセの歌の主題は
21節だとお話をされました
21節をお読みしますと
彼らは神でないもので私の妬みを引き起こし
彼らの虚しいもので私の怒りを燃えさせた
神は妬みによって
憎いからじゃないんですよ
この歌は神が妬むほどの愛の賛歌なんです
足毛にされようとも傷つけられようとも
でも私だ私だ
何度も何度もそう語る
神様の愛の歌なんです
モーセはこの歌を閉じて
イスラエルの全体に対してこの言葉を語りました
今日の中心にさせていただきましたが
42章の47節
これはあなた方にとって空虚な言葉ではなく
あなた方の命であるからだと彼は語ります
命であると
これとはモーセを通して
神様が語られた立法であり
そしてこの歌の内容もそうでしょう
しかしこの二つが示しているのは
生ける神様を仰ぐ信仰
生きておられる神様ご自身です
生きておられる神様ご自身です
このお方を見て仰ぎなさい
ここに命がある
命の何かではなくて
モーセはここで命って言ったんです
命そのものがここにいる
命そのものがこのお方にある
ここにいる
ここからあなた方は動かしてはならない
ここが動いてはならない
一点だと言わんばかりんです
モーセはこの生ける神様を
しっかりと見つめ結びつくこと
それがあなた方の命そのものなのだと
表現をいたしました
そして彼は最後
イスラエルの十二部族を祝福して
この後モーセの祝福が33章に続いていきますけれども
33章の言葉だけ読みますが
26節から29節をちょっとだけ
お読みしていきたいと思います
無神明記の33章の26節から29節
お読みいたしますとこういう言葉です
33章の26節から
エシュルンよ
神に並ぶものは他にない
神はあなたを助けるため天に乗り
異光のうちに雲に乗られる
いにしえより神は住まう家
下には永遠の腕がある
神はあなたの前から敵を追い払い
ねだやしにせよと命じられた
こうしてイスラエルは安らかに住まい
ヤコブの泉だけが穀物と
新しいぶどう酒の血を満たす
天も露も滴らす
幸いなイスラエルよ
誰があなたのような
主に救われた民であろうか
主はあなたを助ける盾
あなたの勝利の剣
敵はあなたに屈し
あなたは彼らの背を踏みつけると
幸せなイスラエルの民よと
そう言われる
幸いなイスラエルよと
誰があなたのように
主に救われた民であろうか
そういう民があるだろうか
幸いだと言われる
この幸いだという呼びかけを
私たちは今朝
私たち自身に当てはめてもよいのです
幸いなる何々よ
幸いなる加藤光よ
幸いなる明谷教会よ
そう言われて叱る立場に
私たちは置かれている
主の民なんです
そして言われます
神様は私たちの
この教会の救いの岩なのだと
大事なことは
私たちの命は
私たち自身の信仰の歩みの中に
そしてこの教会の中に
生きておられる神様を仰ぎ
恐れそして愛し
生き生きとした信仰がある
ということなのではないでしょうか
先日めて言えば
それは神との関係と言えるかもしれません
生ける主を前に
私たちは一人一人が生きているのか
最近奏天祈祷会で
詩編を読み始めました
私は奏天をしながら
この前の金曜日が
詩編の4編だったんですけど
ある言葉を見て
目が離せなくなりました
詩編の第4編の6節から8節
私たちの群れにおいてはまた
とても大切な言葉かもしれませんが
詩編の4編の6節から8節を読みしますと
こういう言葉です
多くの者が言っています
誰が我々に
良い目を見させてくれるのかと
主よどうか
あなたの見顔の光を
私たちの上に照らしてください
あなたは喜びを
私の心にくださいます
それは彼らに
穀物と新しい葡萄酒が
豊かにある時にも勝っています
平安のうちに私は身を横たえ
すぐ眠りにつきます
主よただあなただけが
私を住ませてください
どうか
見顔の光を
私たちの上に照らしてください
先ほど見ました
神明記の中で神の裁きとは何なのか
神が見顔を隠される
でもその見顔を隠された原因は
どこにあったのか
民が救いの岩である神を
軽んじたという一点です
私たちはある種
良い原点を持っている
教団であり群れかなと思わされます
私たちの教団もまた
生ける種を前に生き続けてきたんですよ
私自身があなたと共に生き
あなた方に平安を与えようと
でも種が生かれないならば
私たちを生かせないでください
生ける種がそこに立っておられないならば
私たちはそこに立っていくことはできない
それは一緒なんですよね
見顔の光を私たちに輝かしてください
そこに種が立っておられて
見顔の光を照らして
種の光のうちに生きていけることこそが
私たちの喜びであり
命なんだということを
告白して私たちは生きてきているはずなんですよ
そうではないでしょうか
そうであるならば
私たちは神明記の言葉を持って
また再確認をしたいと思うのです
神ご自身にことを命がある
これはあなた方にとって
空虚な言葉ではなく
あなた方の命であるからだと言われます
命であるからだ
懐かしいですが
福山先生に生きた信仰という題で語っていただきました
その言葉がずっと捉えています
そうだ
教会において私たちにおいて
結局大事なのは生きた信仰ですよ
生きた信仰というのは何なのか
彫像のような神の前にひざまずく信仰じゃないんです
そこに生きて立っておられる
今も私たちを生きて祝福し導かれる
神様の前に立っている信仰です
生きておられる種の前に立つ信仰です
生きた信仰と原点の学び
神様は言われます
変わらない私は救いの岩であるという
そのような神様の愛
そしてその愛の深みまで受け取って
私たちは心を尽くし
命を尽くし
力を尽くして
あなたの神主を愛しなさいと
神様は招いてくださいました
生ける種がおられます
そのお方を目当てに
日々種を愛していきたい
このお方こそ
このお方自身こそ
私たちが動かしてはならない原点なんです
このお方の前に私たちは立ちたい
これはあなた方にとって空虚な言葉ではなく
あなた方の命であるからだ
一言お祈りをいたします