1. 名谷教会
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2023-11-05 39:33

2023/11/05:あなたのいのちを選びなさい


2023/11/05:聖日礼拝

加藤満牧師

申命記 -20


サマリー

教会の土壌の重要性と祝福と呪いの関係について考えます。このエピソードでは、「祝福と呪い」というテーマについてお話ししています。主の契約という言葉には、恵みの契約と誓いの誓約があり、神様とイスラエルの民の関係を表しています。また、失敗しても主のもとに戻ることができる道が用意されており、神様の言葉によって救われることができます。私たちは神様の恵みと愛に感動し、主を愛し、神の言葉を守りたいと思っています。自分自身を神様の恵みに委ねることが命であり、神様との関係に生きる中で、主を仰ぎ、勇気を持って命を選びたいと考えています。

00:01
一言、お祈りをさせていただきます。
誠にこの方こそ、あなたのいのちである。
父なる神様、今朝も私たちをあなたのいまいへと招いてくださってありがとうございます。
11月になりました。
気候も激しい変化でしたけれども、
徐々に私たちもそれに慣れながら、
冬の備えをしているところにありますが、
私たちのそれぞれの日々を主が支えてくださり、
守り続けてくださっていることをありがとうございます。
あなたは私たちを限りなく愛し抜いてくださいました。
あの十字架で流された血を私たちは仰ぐときに、
私のような罪人が、
あなたのあの流された十字架によって、
許され神のことされているのだという、
あなたの恵みを覚えて、
ただ感動し、ただ心を砕かれ、
あなたのいまいに跪くことしかできないものであることを思わされますが、
しかしよ、三日目に甦ってくださった主のいのちが、
今私たちとあり、
永遠なる主と共に、あなたは恵みによって歩みなさいと、
あなたの励ましと、あなたの勇気づきによって、
罪深くあろうとも、一歩一歩、
主と共に日々を歩める幸いを感謝いたします。
神様どうか、私たちは耳が閉じ、
見るべきものが見えないお互いであることを思いますが、
あなたがこのときにご臨在くださって、
主も病を利きます主をお語りくださいと、
あなたの御前に、砕けし喰いし魂をもって、
出て行くことができますように、
帰りみてください。お願いいたします。
本当に多くを祈っていただきました。
その祈りに主が応えてください。
施設におられる方々、また、
今ここに来たくて来れない方々、
家で礼拝を守っておられる方々の上に、
どうか主が豊かに臨んでくださいますように、
お願いいたします。
ここにいる私たち一人一人のうちにも、
あなたが届いてくださいますように。
あなたに期待をいたします。
主がこのときを導いてください。
イエス・キリストの皆によってお祈りをいたします。
アーメン。
秋になってまいりました。
先週は10月の末でしたけれども、
この教会では初めての試みとして、
野菜マルシェというものをさせていただきました。
とても盛況だったと思います。
私も帰ってあの野菜を食べて、
おいしいなと思って、いろんな料理に使いました。
堺さんの作ってくださった野菜、
無農薬野菜ということで、
本当に体が元気になったなという気がするんですけれども、
また先週はそれが終わった後も、
実は堺さんと来てくださった竹田さんと、
幼馴染の千恵子さんとサニーでお茶をしていて、
そのところに私も加えて、
少し私たち夫婦も加えていただいて、
皆さんと一緒に祈るときを持つことができました。
私はもうそれでやった甲斐があったなと思いました。
少しずつ少しずつこういう輪が広がればなと願っております。
実はですね、私自身も野菜を育てたことがあります。
というのも恥ずかしいぐらいで、
素人の園芸なんですけれども、
前の教会にいたときにちょっと場所を一部借りて、
野菜を育てました。
とてもいろんなことを勉強しました。
勉強になりました。
育てるために野菜にはどんな配慮が必要なのか、
どこまで関わり放っておくべきなのか。
でも一番勉強になったのは、
大事なのは土だということですね。土です。
どんな種も苗もそれに見合った土、
それがよくなければ育つことはできない。
坂井さんのお話も伺うと、やっぱり土の力に配慮しながら
私たち育てているんですとおっしゃっていました。
そういうことを頭に覚えながら、
私たちは先週、週の初めに九州での若手リトリートにも
参加してきたんですけれども、
そのときに重なるなと思ったある先生の言葉がありました。
それは、実は教会も大事なのは土壌なんですということを言われたんです。
教会も大事なのは土壌なんです。
野菜を育てるために大事なものが土であるなら、
教会もまた人が救われ、人が育てられていくために大事なのは、
これこれをするというプログラムも大事なんですけれども、
それ以上に根本的にその教会にある霊的土壌というんですかね、
そういうものが大切ですよと言われました。
教会は確かに畑ではないんです。
目に見えて土がひいてあるわけではないので、
とても比喩的な表現ですけれども、でもわからなくもないんです。
結局何をするにしても、
私たちは一体どのような土壌の中でそれを行っていくのか、
基礎となる価値観と言ってもよいでしょうかね。
そのようなものは一体何を私たちは持っているのかということが大事だということ。
極端なものの例えをするならば、私たちは人の思いを中心にしているのか、
神様の御心を大事にしているのかということだと思うんです。
そして土が悪いとき、何を植えても育たないように、
教会が何をしても何か駄目だなと思うときには、
実は振り返らなきゃいけないのはやっぱり土壌なんです。
もっと何かしようというよりかは、むしろ私たちは本当は何を信じているんだろうか、
土壌改善と言いましょうかね。
そのために少し土地を休ませる期間を設けることもいいでしょうし、
またその土を回復させるような肥料をまくこともいいでしょうね。
教会のある種霊的土壌を改善させるためにでは、
先生何が必要なんでしょうかということを私がその先生に聞いたときに、
その先生にはこう言われました。
それは祈りと御言葉ですよと。実に基本的なことです。
祈りと御言葉ですよと。
御言葉を通して育まれる神様との交わりを一人一人が中心としていますか。
一人一人が立ち、神様に祈り、応えていくんだという、
実にこれまで私たちがやってきたようなことですけれども、
そのようなことの中に、実は良い霊的土壌というのは育まれていくんだ、
教会の土壌を作るのだということです。
そしてそのような土壌の上に立つある種教会は、
身を結ぼうということも大事なんですが、
自ずと身が結ばれてくるということだというのですね。
思えば私自身も恩師である私先生親子にそう育てられました。
先生のところに何か相談しに行ったとしても最初に言われるのは、
三木くん、イエス様はあなたに何て言ったのです。
結局あなたは神様にまず聞きましたかということをいつも言われました。
大事なことだと思っています。
神様との関わりの中で慰められ、この時この場所で
神様を愛するってどういうことなんだろうということを考えていく。
そのような土壌の上に結ばれていく実があるというわけです。
祝福と呪いの関係
今朝は新明記の30章の15節から20節を読んでいただきましたが、
広く扱いたいのはこのちょっと前の27章から30章の範囲なんです。
これらは新明記の中でも大名詞と言ってもいいかもしれません。
祝福と呪いと呼ばれる箇所です。
あなたの前に私は祝福と呪いを置くという神様が言われた箇所ですね。
簡単に言うと、前まで読んできた12章から26章が
定めと置き手について具体的なことが書いてあって、
定めと置き手に対してあなたはどういう態度をとりますか。
置き手を守って祝福を得ますか。
置き手から逆らって呪いを得ますか。
そのことの選択が27章から30章に書いてあるという流れです。
そのある種、どちらを選ぶかという決断によって
大きくあなた方の歩みは左右をされますということが言われるわけです。
このことはあまり大げさのことではなかったわけですね。
なぜならこの祝福と呪いの記事の内容というのは
後に祈祷会でエレミア章を見てきましたけど
南ウダ王国の最後というのはまさにこの呪いの出来事の
そのままが実現していくということが書いてあります。
皆さん私たちもここから考えていきますけれども
私たちの土はどうでしょうかということです。
今朝皆さんと一緒に考えたいのは
私たちの教会の土や教会を構成する
私たち一人一人の土壌はどうでしょうか。
ある種私たちは今朝私たちの土に良いものをまくために
大切なものを何か確認をしていきたいと願っております。
さて本論に入っていきますが
この祝福と呪いというこの二つのことについて
確認をしていきたいと思います。
これはよく後でも言いますが
祝福と呪いというと横並びに書かれているので
祝福と呪いというのが平行的に
二つの選択肢が出されていると思うんですが
そうではないということを確認していきます。
この二つの関係は何かというと
これは祝福を願って呪いが語られているということです。
これは大事なことです。
祝福を願って呪いが語られているということです。
この27章から30章が祝福と呪いの箇所だとお話をいたしました。
確かにこの27章の前半を見るならば
神様はこのヨルダン川を渡った後
イスラエルの民がカナンの地の中心に入っていく中で
27章で大まかに書いてあるのは
一つの儀式をしなさいと言われるんです。
それはカナンの地に入っていったときに
部族を半分ずつに分断して
教会の土壌の改善
一つをゲリジム山の下に
もう一つをエバル山という
二つの山の下に連れて行きなさいと言うんです。
そのような状況の中で
呪いの宣言を確認するという儀式が行われるんですね。
それはなぜするかというと
ゲリジム山とエバル山という
カナンの地のどこに行っても
大概見える大きな山なんです。
この大きな山の二つを見るときに
祝福と呪いの道があると言われた
神様の契約を思い出すためです。
二つの道があるんです。
それを山を見たら
あなたたちを思い出しなさい。
神の前には祝福と呪いの道があるんだということを
思い出しなさい。
それをアーメンと繰り返しながら
民は受け入れるわけですね。
ただこの27章以降の祝福と呪いの記事を
さらっと一度読まれたことがある方は
わかるかもしれませんけれども
実は読んでいくと
祝福と呪いの記事の分量が全然違うんです。
祝福は短くて
呪いの箇所ってものすごく長く書いてあるんです。
おそらく3倍以上呪いの記事の方が長い。
私たちは思います
なんでこんなに呪いの言葉が長いのかと。
呪いの言葉というのは
あまり聞き障りがよくないわけですね。
誰しも呪いよりも祝福の言葉の方が聞きたいわけです。
でもこれは大事だったんです。
なぜ呪いの言葉が大事だったかというと
生々しく呪いのふさわさを語ることによって
神様はご自身の民が
私が今あなたに備えている祝福から
目をそらさないようにということを
注意深く語っておられるんです。
今あなた方に与えられている祝福から
背を背けてしまわないように
呪いの記事というのを実に長く生々しく語る。
先ほども申し上げましたけれども
祝福と呪いの選択
祝福と呪いというのは
実は横並びに書かれているわけではありません。
重さが同じなのではないんです。
私たちはこの横並びで考えると
時々祝福と呪いの道があるんだなと
人間がどちらかを選択することによって
神様は機械的に祝福もされるし
機械的に私たちを裁きもするんだ
みたいなことを思われますが
全くそうじゃないです。
そうではないんですね。
ちょっと一つの箇所を確認したいと思いますが
新明記の29章の10節から15節というところを
ちょっとお読みしますと
こういう言葉が書いてあります。
新明記の29章の10節から15節
お読みします。
29章の10節から
きょうあなたがたはみな
あなたがたの神主の前に立っている
すなわちあなたがたの部族の頭たち
長老たち、司たち、イスラエルのすべての人々
あなたがたの子供と妻
宿縁のうちにいる貴隆者
焚木を割る者から水を汲む者に至るまでいる
それはあなたの神主がきょうあなたと結ばれる
あなたの神主の契約と呪いの誓いとに
あなたがたが入るためであり
先に主があなたに約束されたように
またあなたの父祖
アブラハムイサクヤホブに誓われたように
きょうあなたを立てて
ご自分の民とし
またご自分があなたの神となられるためであり
しかし私はただあなたがたとだけ
この契約と呪いの誓いを結ぶのではない
祝福と呪いの契約
きょうここで私たちの神主の前に
私たちとともに立っている者たちとも
きょう私たちとともにここにいない者たちとも
結ぶのであると書いています
繰り返し語られている言葉の中に
十二節と十四節にありますが
主の契約と呪いの誓いという言葉がある
この主の契約という言葉は
例えばお読みするだけですけど
神明記の七章の十二節というところには
主の契約は恵みの契約と言われています
恵みの契約です
ここで読んでいただいても分かりますが
契約と誓いという言葉で区別されているんです
これは重さが全然違うんです
契約という言葉を読むときに
私たちが思い浮かべるのは
こういうことだと思うんです
神様とイスラエルの民の契約というのは
エジプトから一方的な神様の恵みによって
イスラエルの民が解放されました
アレノの四十年のその恵みの豊かさによって
民は神様の恵みによって守り支えられてきました
民はこの神様まさに唯一の神である
神様の愛に感動し
次は神様に愛された私たちが
心を尽くし命を尽くし力を尽くして
あなたの神主を愛する
神明記の一番大事な言葉ですね
6章の5節ですけれども
そのことを命じられました
神様の愛の中に憩い
そして神様を愛して
神様の言葉立法に従っていく
これがイスラエルと神様の契約なんです
このことを考えるときに
神様は恵み深く
そして神様はイスラエルの民を
祝福することしか考えていないんです
これがベースなんですね
これがベースです
しかしながらこの契約は
行き去れる可能性があるわけです
このアレノの四十年で何度も起きてきました
神様が恵み深く民に日々関わるのだけれども
民はその神様の恵みを忘れて
違う方向を向き始める
仮に神様がどれほど愛し
祝福を注ぎたいと願われたとしても
その祝福を受け取らずに
背を向け続けるということならば
実は民はその祝福を受け取ることができない
祝福というのは受け取る手が必要なんです
私たちはルターはそれを信仰と言いましょう
信仰というのは祝福を受け取る手なんです
失敗と主への立ち返り
しかしそれができなければ
この長い呪いの箇所に書かれていることですけれども
神の注がれた祝福というのは
呪いに転じることがあるということです
私自身この箇所を読みながら思わされるのは
呪いの制約というのは横並びじゃないんですよ
何度も言いますが
これはある種警報器アラームみたいなものなんです
それは神様は民と契約を結ばれました
神様の願いは恵みと祝福の中で
ご自身の民が歩んでいかれることですね
しかしこれは私も含めてそうですが
誰しもそのようには歩むことができない時があるわけです
神様ご自身は仰ぐよりも
こちらの方が安心であるという
様々な形を変えた偶像というものがあります
そしてそれにある種目が向いて
心が奪われるということが私たちはあるわけです
でも神様はその時その時の度に
先ほどの山ですけれども
あの山を見なさいというために
あの二つの山を見せたわけですよね
あの山を見なさい
あなたは今
祝福と呪いどちらに立とうとしているのか
ということを思い出しなさいという
神様はその道は危険であると告げたわけです
そのことを通して
呪いの言葉を思い出すようにと
呪いの言葉というのは呪うこと自体が目的ではないんです
呪いの言葉というのは
神様ご自身という祝福から
民が離れないためのアラームなんです
そのことをまず確認をしなければならないと思います
神明記を読んできて私たちが改めて知ることは
祝福であったり恵みであったり
愛と呼ばれるものの源は
神様ご自身にあるということです
それは何度も何度も語られていることですね
私から離れてしまったら
イスラエルの民というのは
アレノで生きていけないんですよ
それは少しアレノという場所で生きていけない
食べ物も飲み物もないアレノです
また周囲には自分の命や財産を狙っている
悪が溢れている厳しいアレノなんです
そのような中で私を離れては生きることはできない
神様の願いというのは
ある種この厳しい世界の中で
これはアレノに限らずですけれども
私たちの世界においても
食べる飲むは私たちは困らないかもしれませんが
そして私は教会外の世界のことは
全部悪だということは全然思っていませんが
でも時折私たちは悪に絡み取られるわけです
その中で深く傷つくということをしてしまうことがあります
神様の命と呪いというその道を知りながらも
ああ間違った選択をしていたなということに
気づかされることもあります
けれども神様の願いというのは
ある種そのような厳しい世界の中を突破するのは
ただ神ご自身
愛と恵みと祝福の源である
このお方によるんだということに
気づいてほしいということなんです
私から離れてはあなたたちは立ち寄せない
そしてさっき三十章の御言葉を祈りの前に読みましたが
私があなた方の命であると
神様は言われましたね
だから背を向けず私を愛しなさい
これ誤解がないように言いますが
毎週礼拝に来れないとダメだとかそういうことじゃないです
日々の中で私たちが置かれているところにおいて
背を向けず私を愛しなさい
私の恵みはあなたに十分である
父なる神様から離れて私たちは何事も成し得ない
そう聞くと堅苦しく聞こえるかもしれませんが
しかしあのイエス様ですら
ヨハネの福音書でそう言っておられるんです
子は父がしておられることを見て行う以外には
自分からは何も行うことはできません
イエス様は毎朝朝一人で静まって
寂しいところに行かれましたね
イエス様自身が一番欠如を知っていたんです
神を離れては私は何一つこの御業を成すことができない
イエス様ご自身がそうであられた
いわゆる私たちはと思わされます
私たちは生きる神様に背を向けてはいかなる身を結ぶことすらできない
そのことを少し覚えなければならないと思わされるのです
ただ二つ目のポイントに進んでいきますが
もう私も含め何度も何度も
でも私たち人間というのは
この死を選ぶということに失敗いたします
大切な選択肢を誤ってしまうということがあります
それは私たち誰しも経験することですが
しかし新明記の30章というところに進めていきますと
ここには大切なことが二つ書いてあるわけです
新明記の30章というところ
30章の一節からちょっと読んでいきますが
このような言葉が書いてあります
30章の一節からお読みいたします
私があなたの前に置いた祝福と呪い
これらすべてのことがあなたに臨み
あなたの神主があなたをそこへ追い散らした
すべての国々の中で
あなたが我に還り
あなたの神主に立ち返り
私が今日あなたに命じるとおりに
あなたもあなたの子供たちも
心を尽くし命を尽くし
神様の言葉と近さ
見声に聞き従うなら
あなたの神主はあなたを元通りにし
あなたを憐れみ
あなたの神主があなたを散らした先の
あらゆる民の中から再びあなたを集められる
たとえあなたが天の果てに追いやられていても
あなたの神主はそこからあなたを集め
そこからあなたを連れ戻されると
ここまでにいたしますが
祝福と呪いがある
それによって散らされた国々の民
しかしあなたの神主に立ち返り
見声に聞き従うなら
あなたは全てを元通りにすると語られる
私自身は旧約聖書を読んでいて好きなのは
神様というのは人間の失敗を
先に計算に入れているということです
神様というお方は人間の失敗を
理解されるお方だということです
なかなかそう思われないんですね
旧約聖書の神様って厳しい神様なんでしょう
厳格なお方なんでしょう
でも立法を読んだらよくわかります
立法は最初から人が罪を犯したら
どうやったら神の元に立ち返れるか
というルールを定めるんです
最初から定めているんです
人間が失敗しないなんて神様は思っていないんです
失敗はするんですよ
でも大事なのは失敗がどう起こるかじゃないんです
そこから主の見前に
主の元へと目を向けることができるかということです
神様は人間の醜さや汚れを表に出さないけれども
本当は神を過論じている
そういうある種本心ですね
それらをご存じで
失敗したら立ち直る道
悔い改めの道を常に用意をされます
失敗しないに越したことはないのですけれども
私たちは失敗をします
けれども失敗自体が問題ではありません
問題は失敗してなおも
自分自身というものを手放すことができずに
主の元へ帰ってこれないということです
あなたの神主に立ち返り
主が今日あなたに命じるとおり
あなたもあなたの子供たちも
心を尽くし命を尽くし
見声に聞き従うなら
あなたの神主はあなたを元通りにし
あなたを哀れみ
あなたの神主があなたを散らした先の
あらゆる民の中から
再びあなたを集められると語られる
この言葉重たいなと思わされております
主があなたをご自身の祝福で
満たしたいと願われていても
祝福の道を拒絶する人がいるならば
その方を祝福することは
神様は無理やりその人を
方向転換させることはできないのです
神様のもう方へ振り返るという作業は
精霊様が確かに助けてくださるのです
けれども決めるのは私たち自身です
精霊様に支えられながら
しかし今主のもとに私は立ち返ろうという決断は
私たちそれぞれのものです
そのことは覚えたいと思うのです
そして第二に大事なことは
三十章の11節から14節に書いてありますけれども
ちょっとこの歌詞もお読みいたします
三十章の11節から読みます
誠に私が今日あなたに命じるこの命令は
あなたにとって難しすぎるものではなく
遠くかけ離れたものでもない
これは天にあるわけではないので
誰が私たちのために天に登り
それを取ってきて私たちが行えるように
聞かせてくれるのかと言わなくてよい
またこれは海の彼方にあるわけではないので
誰が私たちのために海の彼方に渡り
それを取ってきて私たちが行えるように
聞かせてくれるのかと言わなくてよい
誠に御言葉はあなたのすぐ近くにあり
あなたの口にあり
あなたの心にあって
あなたはこれを行うことができる
先週も確認しましたが
神様の言葉というのは聖書の言葉のことですね
2000年以上たってなお神様の言葉は
聖書の言葉はそれを通して
多くの人々を救い続け
本当に人を作り変え
癒し続けています
なおも聖書の言葉というのは
人を癒し続けることができるわけです
なぜなら聖書の言葉を通して語られる神というお方は
今も生きておられるからですね
これは本当に大事なんですね
今も主は生きておられる
モーセはこれもまた恵みだなと言うんです
本来であれば神様というお方は遠いんですよ
どの話を聞いてもそうですけど
天におられて人間を奴隷的に扱う神々が
この時代の神々です
でもそうではない
天に昇らすとも海の果てに生かすとも
神の言葉を知ることができる
なぜなら神は私たちのすぐ近くにいるじゃないか
というのです
幕屋の中に
神は近くにまで来ておられるではないか
そしてその神がご自身の意思を
言葉に残してくださったではないか
私たちはそれに触れられるように
読んで知ることができるように
神様はそれを私たちに与えてくださった
これは恵みなんだ
そのようにして神様は私たちと交わろうとされる
それはまさに命令されたから従うような
主人と奴隷のような関係ではないんです
神様の恵みと愛に感動
そうすればこうなるというような
何か取引のような交わりでもない
あなたの口にあり
あなたの心にあってこれを行うと
十四節に語ります
口と心
口というのは具体的に語る言葉でしょう
それは外に出る行動でしょう
でも心というのは私たちの内ですよ
内に身言葉が触れる
心が動く交わりなんです
そのようなものでしかない私たちを
このようなものでしかない私たちを
神様はどれほど恵み深く
導いてきてくださったのか
何度もこういうお話をしてしまって恐縮ですが
神様の恵みと愛に私たちは感動するんですよ
感動するんです
主はこのようなもののためにと
やっぱり感動をして驚いて
そしてこの主のために
おきてを守りたいということを願われたんです
主のために私はこの言葉を守りたい
呪われないために滅ぼされないために
神の言葉を守りましょうじゃないんです
主はこんなに愛にあふれて
恵み深く関わられる神なのだから
主を仰ぎ命を選ぶ勇気
私たちはこの言葉を守りたい
主を愛したいな
それが健全な信仰じゃないでしょうかね
堅苦しくない恐れではない
愛に感動をして主を愛したい
それが私たちの信仰ですよね
そのような中で気づかれる交わりが
神様のまさに愛の温かさが生きかうような
血の通った愛の関係なんです
それが立法の言葉
神の言葉を通して気づかれる
私たちの生きた関係ですよね
生きた神様との関係ですね
神様は今なおそうする力を与えてくださるんです
さっきも言いましたが
祈りと御言葉
これはルーターの時代からずっと言われていますが
でも何か目新しいことはないのかと思われながらも
でも基本的にはやっぱりここしかないです
祈りと御言葉ですよ
この祈りと御言葉が私たちの土壌を豊かにしていく
目の前の現実はあれのです
手元には十分なものはないでしょう
けれども昼は雲の柱
夜は火の柱である主が進まれるならば
私たちは行こう
私たちは先には何があるか分からないけれども
あの主が
あのお方が私たちの前に一歩進んでくださるならば
何はなくても大丈夫だと思えるのが信仰ですよ
主がどうにかしてくださるんだ
私たちはだから行こう
なぜなら私の手元には何もなくとも
主の恵みというのは十分なのだ
それを40年間彼らは教えられ続けたんです
主の恵みは十分なのだ
このようなただ主の恵みに自分自身を委ねていく歩みこそ
命と呼ばれる道筋なのではないでしょうか
今日読んでいただいた30章の15節から20節も読んでいきますと
もう読んでいただきましたので
もう1回19節だけ読みしますと
私は今日あなた方に対して天と地を承認として立てる
私は命と死、祝福と呪いをあなたの前に置く
あなたは命を選びなさい
あなたもあなたの子孫も生き
あなたの神主を愛し見越えに聞き従い主にすがるためであると
あなたは命を選びなさい
言い換えるならばそれは
主の恵みに自分自身を委ねなさい
自分自身が何か何かというところから
主に振り返れないのではなくて
自分自身を主の恵みへと委ねなさい
そしてその中で神様を愛するという決断を
日々の中で一歩一歩行っていきなさい
それは神の言葉に従うということもそうですが
実面実面といえばイエス様が立法の中で大事だと言われたのは
神を愛し隣人を愛しなさいですよ
そういう技に一歩一歩地道に取り組んでいきなさい
神様の愛は私たちが道を踏み外そうとも変わりません
今の自分がどうあってもその恵みが
恵みの主に自分を委ね神様を愛するという決断を
所々で行っていく
それが命ですね
これは単なる象徴的な意味ではないんです
私たちの命そのものに関わることです
そして大事なことはいつも今日である今であると
そのことが繰り返し言われますね
19節20節にも私は今日と何度も繰り返されます
今主の見声を聞くならば
あなたは命を選びなさいと
いつも家庭の中で仕事の中で
私たちは主を仰いでいることでしょう
日々のことで心を占められていきますけれども
しかしやはりそれでも覚えたいのは
その中で天が開かれている
主との関係に生きる
主を仰ぎ命を選んでいく
そういう中で私たちの大地が耕され
豊かなものになっていくということがあるのではないでしょうか
時にどれが主を愛する道かわからないということが
私たちにはあります
道に迷うことってよくありますよね
その時のためにいるのを私は教会だと思っています
神の家族そしてまた牧師はそのためにいます
今朝は清算式をこれから取り行います
清算式というのは方向転換の時です
主に背を向けていた私
心を背けていた私に対して
今から私たちは
巫女がその私のために割かれた体と
血の象徴を飲もうとしています
それは堂々と主を信じているから食べるのではないんです
主に背いている
そのような私であることを自覚する時に
そしてそうであるにもかかわらず
私は自分自身を手放せないと
その矛盾の中で悩む時に
そのようなあなたのために
私はあの十字架で体を裂いて血を流したのだと言われる
イエスキリストのパンとぶどう汁を私たちは飲む
矛盾をしていて
自分自身を作り変えることすらできない私たち
でもそのために私はあの十字架に進んだのだと
そう言われるイエス様のパンとぶどう汁を飲む時に
私たちは感動をします
主の慈愛に触れて感動をして私たちは悔いを改めるんです
怖いから悔いを改めるのではない
そんなものですらも愛し抜いてくださった
主の愛に感動をして私たちは悔いを改める
そのような時になればと願っています
今は恵みの時、今は救いの日です
主に支えられて今という時に
私たちは互いに命を選び取る勇気を持たせていただきたいのです
私は命と死、祝福と呪いをあなたの前に置く
あなたは命を選びなさい
一言お祈りをいたします
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