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2018-12-16 38:07

2018/12/16:クリスマス・メッセージ(3)大きな光を見る

2018/12/16 聖日礼拝

尹善鎬牧師

イザヤ書 9:1-7

00:03
みなさん、おはようございます。
今日も礼拝にお越しいらっしゃいました。
それでは、メッセージの前にどのような方と挨拶しましょうか。
おはようございます。
一言お祈りします。
闇の中を歩んでいた民は、大きな光を見た。
死の影の地に住んでいた者たちの上に、光が出た。
アーメン。
神様、感謝します。
闇の中にいた私たち、苦しみの中にいた私たち、
そんな私たちの上に、大きな光を照らしてくださって、
罪許しあがない、救ってくださったその恵み、
それを増減するために、この地にお生まれになった、イエス様。
主よ、その恵みに預かっていること、本当に主よ、心から感謝します。
今日もこの礼拝を通して、私たちが大きな光を見る、
礼拝の日、誠実となりますように、主よ、祝福してください。
神様が帰る人一人もいなく、本当に癒し主、作り主、慰め主、本当のイエス様、
大きな光を見て、そのイエス様の愛とその命が私の内側にあふれ出ますように、
主よ、祝福してください。
聞いているうちに、神の声を聞き、イエス様にお出会いし、
精霊に満たされ、全ての悩み、苦しみ、涙が消え去り、癒やされ、恵まれますように、
主よ、祝福してください。
感謝して、イエス様の皆によってお祈り致します。
アーメン。
感謝します。
クリスマスメッセージ3回目になります。
大きな光を見る、大きな光を見る、というタイトルです。
お祈りにもありましたように、きのうは子どもクリスマス会が行われました。
皆さんのお祈りと、また幸福祈願を本当に心から感謝致します。
子どもだけで35人ぐらい、子どもたちが集まってきました。
03:05
金曜日チラシ配り、寒かったんですけれども、お手伝いしていただいて、
配ってですね、たくさんの子どもが来て、楽しい時もまたクリスマス、
あるいはイエス様、あるいは救いについて、メッセージを伝えることができて本当に感謝でした。
いろいろ、教団や教区、あるいは団体の先生方にお会いして、いろいろ話をしていますと、
クリスマスに限らなくても、子どものいろんな行事、イベントをしても、
なかなか子どもがこの頃は集まらない方ですね。
いろいろ宗教やそういうところが警戒されていると言いましょうかね。
あるいはいろんな事件事故が起きたりしますので、
親としては自分の子どもを守る気持ちだから、それは当然かもしれませんけれども、
だからどんどんどんどん伝導しにくい時代になってきているのだなと、そういうふうに思っております。
そんな中でも子どもたちがこの教会に35人ぐらいも来れたことは、
本当にある意味で不思議だなと、本当に感謝だな、神様の恵みにしか言えないところだと思っております。
放置がためのCSの先生方、あるいはお手伝いに来てくださった方々、
応援いただきくださった方々に、本当に心から感謝いたします。ありがとうございました。
今日、アドベント第三聖日を迎えて、
今日は旧約聖像のイエス様の預言の御言葉から、イエス様のお話をしていきたいと思います。
そして、イエス様の誕生が、私たちに何をもたらしてくれたんだろうか、
ということを今日の居鞘書から一緒に学んで、悟って、またその通りに歩んでいきたいと願います。
まずもう一度、一節と二節、居鞘書、旧約聖像の一節と二節を一緒に読みたいと思います。
一節、はい。
06:02
今日の旧約聖像の御言葉は、イエス様の誕生を預言した御言葉であります。
今日は大きく二つお話したいと思いますけれども、
イエス様がお生まれになったこと、それは、今日の一節、二節に書かれているように、
苦しみの中にいる人々、闇の中にいる人々のために、光としてイエス様がお生まれになったということなんです。
だって、日本の世間の話ですけれども、毎年年末になると、流行語が発表されるんですね。
皆さん、今年の流行語が何なのかご存知ですか?
そうだね、だそうですよ。
わかりませんかね。さすが聖書ばかり読んでまして、テレビを見ないのでわからないんですね。
そうだね、と。
それはですね、東京オリンピックで日本のカーリング女子チームのメンバーたちが交わした言葉なんですね。
こちらが何というでしょう。そしたらそれを認めて受け入れる。そうだね、という言葉だそうです。
相手の意見を受け入れて、ことを優しく治めるようになるんだなと思いました。
さて、もしイエス様がお生まれになったあの時、今から2018年前のあのイスラエル、エルシャレム、ベスレムで、
もし今年の流行語が決まるならば、苦しみ闇ではないかなと。
イエス様がお生まれになった時代は、本当に苦しみと闇ばかりの時代でした。
ユダ、イスラエルはローマに国を侵略されて奪われて、もちろんさかのぼっていきますと、
南ユダが滅亡したのがビシ586年ですから、その時からイスラエルという国はもう地球上になかったんです。国がなかった。
そしてその後はまたローマに圧勝されますね。
皆さん、国を奪われる苦しみを皆さんご存知でしょうか。
王様がいっても王様ではないんです。主権が全くありません。
言葉もなくされない。年も財産もほとんど没収。
09:02
目に見えないその国の国民の精神までももう荒廃させられます。
希望が見えない。苦しみ、痛み、闇そのものなんです。
何百年もイスラエルの人々はそういう時代を生きてきたわけなんです。
おじいちゃんもお父さんも自分も子供もそういう時代を生きるしかないんです。
皆さん、想像してみてください。どんなに苦しいのでしょうか。
そんな時代、イスラエルのベスレムという小さな小さな町に神なるイエス様がお生まれになったということなんです。
今のような派手なイルミネーションがあって、道化一流のホテルでイエス様がお生まれになったわけではないんです。
イエス様は本当に今日の一節二節に書かれているように、
闇の中を歩んでいる民、死の陰の地に住んでいた彼らのためにイエス様がお生まれになりました。
苦しんでいる人々、病んでいる人々の癒し主となるためにイエス様がお生まれになりました。
それはあの時のこの時のそのユダヤ人だけのためではなく、私たちのためにも同じくイエス様がお生まれになって、
そして今もなお生きて私たちのそばにいてくださるということではないでしょうか。
私たちは誰しも人には言えない何らかの痛みや心の傷を抱きしめて歩んでいるかもしれません。
時には人には全部言えなくて一人で泣いたり一人で心を痛めたりするしかない日々を送る人もいるかもしれません。
しかしそんな時イエス様は光となるイエス様は私たちの心をすべて知ってくださって感じてくださって同行してくださって一緒に泣いてくださる。
12:06
一緒に心を痛めてくださる。
一緒に世を深じてくださる。
そして私たちのその闇の苦しみの傷や涙を拭い去ってくださる。
そしてそのところから起こして奮い立たせてくださる人がイエス・キリストです。
このアドベントを過ごしている私たち年末になると確かにいろいろ忙しい日々が送られているかもしれませんけれども
私にとって光となるイエス・キリスト。
私にとって本当に癒し主なるイエス様。
私の本当の自分みたいな友となるイエス・キリストと深いお交わりを深く持っていくこのクリスマスシーズンであったらいいなとそういう風に願います。
皆さんはどういう風にそのイエス様の癒しとか愛とか深いお交わりをどういう風に皆さんは感じて味わってそれを経験していらっしゃるんでしょうか。
どういう風にしているんでしょうか。もちろんこの礼拝も大事なことですけれどもね。
これをどうしてでしょう。
あるいは日々月曜日から土曜日まではどういう風に皆さんイエス様と本当に生きているそのイエス様と交わっていらっしゃるんでしょうか。
皆さんもそうでしょうけれども、私の場合は朝教会に来て装填して祈って、あるいは午前、もう誰も来ませんから、2階で生徒を呼んだりするときにイエス様が自分の心を触って触れてくださる。
そして理解してくださる。
時には辛い思いをするときもありますし、気落ちするときも、私もたまにはありますね。
15:05
そのときに少しは察知してください。
で、涙を拭い去ってくださる。
これですね、ぼーっとしている妄想ではないんです。
実際に語ってくださる、感じられる、わかってくるという恵みなんです。
アドベントを過ごしているこのときに、皆さん、乳和であり、心優しく温かいイエス様、慰めて本当の希望、本当の癒しを与えてくださるイエス様を深く考えていてください。
イエス様と深い交わりの中にも入り込んでください。
この教会の僕として本当に心から感謝していることは、皆さんの中では本当にイエス様のことを深く考えて、
思って、祈って、その方にお会いして、その愛と恵みを深く経験して、そしてその方と本当に親密な、美しい、うるわしい関係を持ち続けていらっしゃる方々がおられて、本当に僕として感謝しております。
だから僕は、私、みんながこの闇の中を歩んでいた民は大きな光を見た。
地の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照ったと、この光となるイエス様が、この生生博れている文字だけのイエス様ではなく、本当に私の魂を、身体を、精神を全てを照らしてくださる大きな光のイエス様を毎日見る私たちでありたい。
皆さんもそういう風に願っていらっしゃるでしょうか。願ってください。求めてください。そして、行けば行くほど、大きな光となるイエス様との関係がもっともっと深くなる。もっともっと、もう、親密になる。親しくなる。その深みの中にもう入り込む。そういう私たちでありたい。
そのために、イエス様は大きな光としておいでになりました。遠い遠いイエス様ではなく、本当に毎日、一瞬、もう瞬間瞬間、感じて、分かって、体験して、味わって、そうするイエス様との関係でありたい。
18:18
そういう気持ちでありたいと切に願います。
反映してくださるんですね。そしてその次ですよ。
イエス様は私たちに本当の喜びを与えてくださる。
それは、常しい、じゃなくて増し加える、溢れるほど喜びで満たしてくださるということです。それは礼儀的な喜びだけではないんです。
もう普通の喜びなんです。生きる喜び、礼拝する喜び、それを私が増し加えてくださるんですね。
皆さん、私が喜びとしたら、この礼儀的な喜びだけ考えがちなんですけれども、イエス様は神様とともに、私たちの体も、礼も、魂も、精神も、心も、感情も、すべてをお作りになった方、そうですよね。
その方が聖書のあらゆるところに、喜びなさい、喜びなさい、喜びなさい、喜んでいなさい、喜んでいなさい、何度も何度も語っておられる。
そしてその喜びは、源氏がどこから来るのか。イエス・キリストから来るということなんです。
3カ所、聖書を読みたいと思います。同じイザヤ書ですけれども、61章1節から3節です。私の聖書では1226ページです。
21:21
1節、2節私は読みますので、3節ご一緒に読みましょう。
1節、神である主の礼が私の上にある。主は私に油を注ぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心を傷ついた者を癒すために私を使わさせた。
とらわれ人には快報を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と我々の神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、
主恩の悲しむ者たちに灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の該当を付けさせるためである。
彼らは義の菓子の木、栄光をあらわす主の植木と呼ばれよう。アメン。
これもイエス様のことですが、三節御覧下さい。
主恩の悲しむ者たちに灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の該当を付けさせるためである。
つまり皆さん、イエス様は私たちの悲しみの代わりに喜びの油を与えるため、憂いの心の代わりに賛美の該当を付けさせるためにイエス様がお生まれになった。
私の人で来られた。これがクリスマスの本当の意味ではないでしょう。
ですから皆さん、イエス様に出会った人は、イエス様を信じる人は、行けば行くほど、信じれば信じるほど、どんどんどんどん、その人の内面から外面から喜びが溢れ出てくるんですよ、皆さん。
喜びがもう溢れる、溢れるんですよ。
どうですか、皆さん。隣の方の顔をご覧下さい。お互い見合って下さい。
喜びが溢れてますか?悲しみが溢れてますか?明るいですか?超明るいですか?超暗いですか?
皆さん、そうなんですよ。イエス様を信じれば信じるほど、イエス様が喜びをくださるから、癒やしてくださる、慰めてくださる、満たしてくださるから、喜びが溢れ出るはずなんですよ。
24:03
疲れることがない。しんどいことがない。
一人の婦人の証をしたいと思いますけれども、我が家のために妙大に許可へのことを忘れずに祈ってくださる富山市の許可へのある婦人の50後半ぐらいの方、ファンさんという方ですけれども、2年前から乳がんの診断を受けました。
それは当然、病院で治療を受けますけれども、放射線の治療や薬の治療をしながら、ちょっとふっくらした顔をしてましたけれども、だいぶ痩せて、神女性なのに神の剣もほとんど抜けて、いつもニットの帽子をかぶって、そういう治療をしている中で、
でも不思議に、その方は抗がん治療を受けながらも乳がんの女性コーラスが富山にあるそうなんですね。
その乳がん、患者さんだけのコーラスなんです。
コーラスに限って、子どもの小児がんと言いますかね、そういう子どものためのチャリティー、音楽会を開いたり、あるいはもっとひどいがんの病棟を回りながら、そのコーラスを、音楽を聴かせたり。
それだけではなく、本当にその彼女に、富山に行くたんびに会いますけれども、もう痛みがないわけではないんだけれども、その感じずに日々を送っているというふうに明かしをしてくれます。
そんなしんどい日々の中でも、毎週の礼拝、女性の集会、時には早朝にも、毎週の金曜日の夜の基礎会も、教会でのあるいろいろ弟子訓練にも、そこにも参加する。
もう熱心すぎて、旦那さんも栗さん、私も知っているパクさんですけれども、そのパクさんが、もう歩道を走っていいんじゃないと、止めさせられるほどくらい熱心である。周りから、あんなにしても、もう倒れたら死んだらどうでしょうと言われるほどだったそうです。
でも、あの姉妹はそれを気にしない。毎日毎日を本当に大切しながら、祈ること、宗を牧草すること、賛美して、御言葉を聞いて、もう一日何時間も何時間もメッセージを聞いて、そういうふうに日々を送っている、治療していく。
私が最初にですね、2年前でしょうかね、毎年秋にセミナーに行くんですけれども、そのときに会ったときに、確かに顔は痩せていて、帽子もかぶっていましたけれども、顔はめっちゃ明るいんです。私より明るい。
27:14
ユン先生でね、闇も欠けたない。悲しみも影もシワもない。もう天使みたい。喜んでいたんです。
それをですね、私は聞きました。治療していて大変しんどいですけれども、しんどくないですか、大丈夫ですかと聞いたらですね、彼女が先生ね、不思議にもですね、もうきっとしんどくないんですよ。
むしろ家に何もしないで休んでいたらしんどいんだけれども、教会に来ようとと思って着替えしようとしたら、もう力が湧いてくる。バスに乗って教会に行くことが、とてももう帽子をかぶっているだけで、全然病気の人じゃないように自分自身がそういうふうに考えられる。
そして教会に来ても礼拝して賛美して訓練をして清掃学びをして、みんな周りからあなたはもう癌の患者さんじゃないよねとそういうふうに言われる。
2、3年経って今はどうなっているんでしょうか。もう神の影は普通に伸びて、元気でその乳がんも感知して、もっと元気になって教会に仕えている。
この前は見たら、ぽきぽきは武山の平穏ですごいビーチがありますけれどもね、そこに行ってですね、ローマ教発祥を暗唱しながらロボ伝道をしていました。とても元気でした。
皆さん本当に晴れるような日だったでしょうか。一生は生きておられる。一生は生きておられる。
イエス様はあなたたちは皆さんを癒やしただけではなく、喜びを幾倍も満たしてくださる。その生きるイエス様に毎日お出会いしてください。
毎日イエス様と深いお交わりをお持ちください。イエス様と会話をしてください。
イエス様と会話をしてください。
今日の御言葉に、闇の中を歩んでいた民は大きな光を見たとあるんじゃないでしょうか。
30:01
イエス様を信じ私たちは毎日この大きな光が見たいんです。大きな光が見たい。
そして大きな光を見た私たちが先に慰められて、癒やされて、喜びがあふれ出て生きている私たちが、今度は誰かの友となり、
周りの誰かの病んでいる苦しんでいる人々の涙を拭い拭いて差し上げる人になりたい。
誰かの光になって差し上げたい。
時には何も言わなくても苦しみの中にある人々のためにとりなって背後で祈ってあげる。
時には会って抱きしめて愛して。
その時にイエス様の光が私を通してその人にそれが照らされるわけなんです。
そうしますと凍った人の心が溶け去ってそこに真理が恵みの光が入っていくんじゃないでしょうか。
ぜひこのクリスマスシーズンに私にとって生きるイエス・キリストその大きな光を見るクリスマスでありたい。
大きな光を見る。
そしてイエス様に癒していただく。
慰めていただく。
納めていただく。
そしてイエス様が来られるその日まで賛美して喜びのうちに歩んでいこうではないでしょうか。
イエス様は生きておられます。
最後に私がよく聴いてちょっと音痴感もありますけどよく歌う。
賛美があります。
その歌詞がですね。
ひじんちゃん歌詞出してください。
いい賛美の歌詞があってですね。
そして紹介してまた一緒に聴いたり歌ってみたいと思いますけれども。
賛美の歌詞はご覧ください。
主がそばにいるから。
竹中という姉妹のゴスペラの賛美の歌詞です。
主は身手を伸ばして涙を拭い、つまづきから敷き上げて下さる。
33:04
命の地へ導く。
これを二回繰り返しますね。
主は身手を伸ばして涙を拭い、つまづきから敷き上げて下さる。
命の地へ導く。
晴れるや主を愛して歌は絶えず感謝捧げ苦しい時さえ賛美をする主がそばにいるから。
こういう賛美です。
ちょっと流してください。
ちょっと聴きましょう。
時にはたくさんの言葉より一曲の賛美がですね。
一緒に歌ってみましょう皆さん。
いかがでしょうか皆さん。
37:12
イエス様は生きておられます。
振り込んでありながらもまさにまるでイエス様が自分には死んだ神のように
そういう風に暮らしているフリスタンが少なくないかもしれません。
主は身手を伸ばして涙を拭い、つまづきから敷き上げて下さる。
そして命の地へ導くその主と交わりをする。
毎日大きな光を見るそばにいるイエス様。
それを体験し味わい会話をする。
そういう信仰の我々でありたいと切に願います。
お祈りします。
38:07

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