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2018-03-25 33:40

2018/03/25:イエスを主と信じる信仰

2018/03/25 聖日礼拝
尹善鎬牧師
マルコの福音書 11:1~11

00:01
はい、それでは一言お祈りさせていただきます。神様、感謝いたします。
教会はイエス様が頭であられまして、私たちはその各機関である、各部分である、
私たち一人一人が教会であると同時に、またこの群れが教会であること、主を覚えてお互いに支え合って、祈り合って、助け合って、
御訓いのために歩むことができますように。そして私たちが全うすべきことを、神の力をいただきまして全うできますように、
主を我ら一人一人を用いて祝してくださいますようにお願いをいたします。今から神の御言葉を取り付かせていただきますけれども、
主をどうぞ、あなた様が一人一人にお語りくださり、また悟りを与えてくださって導いてくださいますようにお願いをいたします。
感謝して、イエス様の皆によってお祈りいたします。アーメン。
あのね、一ヶ月ほどほとんど日本語を使っていませんでしたので、口が錆びて書いてしまいました。
向こうの西洋の業界の日本語部の一郎光月先生と会って、あの時以外にですね、本を読むこと以外には日本語全然しゃべってなくてですね。
でも不思議に向こうにいてディレクトレーションするときに時々日本語が出てしまってですね、中途半端になっていますので、皆さんご理解くださいますようにお願いいたします。
今日は開かれています御言葉から、イエスを主と信じる信仰、イエスを主と信じる信仰という題にして御言葉を、その恵みをお受けしたいと思いますけれども、
教会歴から言いますと、今日は、今日からイエス様がエルサレムの町に入られて、そしてイエス様の受難が始まるこの一周なんですね。
それで今日のこの聖日を後の時代になって、その教会の人々が主浪の主日、英語ではファームサンデーと言いますね。
それはイエス様がエルサレムに入られたときに、多くの人々が主浪の葉っぱや枝を持ってですね、道に敷いたりそれを振ったりしてイエス様を迎えた。
そうから主浪の主日、ファームサンデーと言います。
さあ、今日はこの主浪の主日、そして月曜日から受難主、そして来る聖日はイースターになりますので、この教会歴に沿ってですね、
今日は主浪の主日のメッセージ、そして明日からは金曜日まで受難主の祈祷会が行われますので、その一日一日、またイエス様の歩みをたどり着きながら見事ばいただきまして、いよいよイースターにですね、向かっていきたいと思います。
03:14
さあ、それですね、イエス様のこの一週間の歩みを簡単にですね、曜日ごとに予約をして見ていきたいと思いますけれども、今日の主日にはイエス様がエルサレムに、そのエルサレム城に入られた日であります。
そして月曜日には何があったのか、いわゆるミヤ清めの日と言われますね。それはイエス様がエルサレムに入って、エルサレムにある神殿があるわけなんですね。
その神殿に入って、そしてあそこで商売をしていた、そして彼らを追い出して主のミヤを清めた日、それが月曜日なんですね。
それから火曜日は、その神殿で最主教たち、あるいはパリサイ人とか、彼らといわゆるですね、論争を仕掛けられたから、彼らと論争をした日が火曜日と言われています。
そして水曜日はイエス様がエルサレムから近いベタニア、ベタニアという町があります。
今日も出てきますけれども、そこで過ごされて一人の女性が、こういうイエス様の頭に注いだ日が水曜日であります。
そして木曜日はイエス様が最後の、いわゆる聖晩餐を弟子たちと一緒に行われた日であります。
そこでイエス様が聖参をなされた、また晩餐を共にした、そして弟子たちの足を洗ってくださった日が木曜日なんですね。
それから金曜日は、いわゆるイエス様が十字架につけられて亡くなられた日が金曜日であります。
そして土曜日はもちろんイエス様が葬られたから土曜日が過ごされて、そして聖日、日曜日になってイエス様がよみがえられました。
この一週間になりますけれども、その中で今日の七日、聖日はイエス様がエルサレムに入られた日です。
当時のイエス様が生きておられたあの時のエルサレムは、いわゆる大きなお城のようであって城壁に囲まれていた町だったんですね。
いろいろ本を見ますと、イエス様の当時のエルサレムだけの人口は4万人から8万人、学者によりまして最大10万人までも推算したりしますけれども、
06:13
だから決して小さな町ではないんですよね。そして何よりそのエルサレムには神を礼拝する神殿が建てられていたんですね。
そしてイエス様の当時の神殿はエルサレムに、あの丘の上に建てられた神殿としては3番目の神殿なんですね。
1番目の神殿はもっとさかのぼって、ソロモン王が建てられた神殿であります。
そしてその神殿はイスラエルもユダもアシリアとバビロンに滅ぼされた時にその神殿も壊されてしまいました。
そしてだいたい70年がたってユダの人々がバビロンから帰ってくるんですよね。
その時の総督と言われる人がゼルバベルなんですね。
そしてそのゼルバベルによってソロモンの時代の神殿よりはちょっと小さめですけれども建てられました。
それが第2の神殿であります。
ところがその神殿もローマによって約BC60年ごろそれも破壊されてしまいました。
そしてその後ローマによってイスラエルを支配していたヘロデ王が出てくるんですね。
そのヘロデ王によってエルサレムのお城が再建されます。
でももう40年以上再建が続いていたわけなんです。
ところがその3番目の神殿もローマによってユダヤ人政策によってエイデ70年ごろに完全に破壊されてしまいました。
さあこのようにしてエルサレムという町はイスラエルの政治や経済や社会の中心でした。
ですからエルサレムを占領すればイスラエルを占領することと同じであって、
エルサレムを失ったらイスラエルを失うことと同じであります。
何よりエルサレムには神を礼拝する神殿がその丘の上にあった。
ですからエルサレムは礼拝の中心であって信仰も中心でありました。
そのエルサレムにイエス様が入られて、イスラエルの多くのガリリとか多くの町ではなくエルサレムに入られて、
09:03
そしてエルサレムの信念を清めてくださって、そこで清算をなされて、そこで十字架でかけられて、亡くなられて、蘇られた。
それがすべてどこで行われましたか。エルサレムで行われてなされたということであります。
イエス様がイスラエルの中心、信仰と礼拝の中心であるエルサレムに入られて最後の一週間を過ごされた。
それを通して私たちが知ることが一つあるならば、それはエルサレムに入られたイエス様が同じく、
私の人生の中心に入っていただきまして、そしてイエス様によって清めてなること、改めてであること、
そして私がイエス様と共に十字架にかけられて、共に死んで共に蘇るこの出来事が行わなければならない。
その始めがイエス様がエルサレムに入られたこの出来事から始まるということであります。
だからイエス様がエルサレムに入られたことは、イエス様が私の人生のただ中に、中心に入っていただくこの出来事と言えるのではないでしょうか。
さあ聖書をもう一度一緒に見ていきたいと思いますけれども、イエス様がコロバの上に乗ってエルサレムに入られました。
さあその時そのエルサレムにいた人々はどういうふうに反応してイエス様を迎えたのでしょうか。
8節から10節を読みたいと思いますけれども、私が8節と9節を読みますので、皆さんと一緒に9節、10節を一緒に読みたいと思います。
私が8節を読みますね。
すると多くの人が自分たちの上着を道に敷き、また他の人々は木の葉を枝ごと野原から切ってきて道に敷いた。
お一緒に、そして前を行く者も後に従う者も叫んでいた。
保産な至福あれ、主の皆によって来られる方に、至福あれ、今来た我らの父、ダビデの国に、保産な伊藤高き所に、アーメン。
皆さん、その光景をですね、イメージしてみてください。
4万年の時から4万人、全員が集まっているわけではありませんが、多くの人々、またエルサレムに死んでいない近いペタニアとか、あるいはカリデカも人々が集まっただろうとね、そう言われています。
12:07
何千人以上の人かもしれません。
多くの人々が、イエス様をね、もう滅裂にですね、迎え入れる。ある人は自分の上着を脱いで、それをね、道に敷く。
ある人はこの城のね、枝を、葉っぱをですね、歓迎の意味として、イエス様を歓迎して迎え入れているわけです。
そして彼らが叫んでいた言葉が大事であります。
今日はそこにポイントを絞ってお話していきたいと思いますけれども、旧説を見ますと、彼らは叫んでいた、その次の言葉は何でしょうか。
ホサナ、ホサナ、祝福あれ、主の皆によって来られる方に、とあります。
イエス様がエルサレムに入れ、そしてそのイエス様を見て、その多くの人々が叫んだ最初の言葉はホサナでした、ホサナ。
皆さん、今日はこのまず、ホサナという言葉の意味が大事でありますけれども、この意味は何でしょうか。
ホサナ、ホサナ、ホザナ、ホザナ、いろいろ意味がありますけれども、ちょっと調べてみますと、ホサナはヘブライ語ですね、言語としてはホシアナと言います。
ホシアナという意味は、ホ、簡単に言いますと、ホセア、ナーという二つの単語になっています。
さあ、ホセア、聖書ね、旧約聖書の人物の名前ですね、ホセアという言葉の意味とヨシュアと同じ意味で、それまたイエス、この三つの言葉は全部同じ意味なんですね。
ホセア、ヨシュア、イエス、それはどういう意味でしょうか。
救いという意味になります。ホセア、ヨシュア、あるいはイエス、救いという意味であります。
そして、ナーという言葉は、今という言葉であります。
この二つの単語を合わせて意味を考えるならば、どうぞ今救ってくださいという意味であります。
だから、皆さん、お持ちの聖書の中で、下の百十のある聖書を見ますと、ホサナのところに、ホのところに括弧一番ありますよね。
ありますか、お持ちの方は。
そして、その下の九節のところを見たら、四辺百十八辺二十五節とあります。
さあ、そこをちょっと開きましょうか。
そこに意味があるんですよ。
四辺の百十八辺二十五節を開きましょうか。
15:04
聖書をお持ちの方は開いていただきまして、千二十六ページです。
旧約聖書の千二十六ページ、四辺、第百十八辺二十五節。
さあ、そこの二十五節を一緒に読みたいと思います。
よろしいでしょうか。
ご一緒に、ああ主よ、どうぞ救ってください。
ああ主よ、どうぞ栄えさせてください。
さあ、ここの第一行の、ああ主よ、どうぞ救ってください。
この主よ、どうぞ救ってください。
これがホサナという意味であります。
ですから皆さん、よく考えてみてください。
エルサレムに集まっていた多くの人々が、イエス様に向かって叫んでいます。
主よ、今救ってくださいという意味なんです。
主よ、今私を救ってください。
主よ、我らを救ってください。
今救ってくださいと、多くの人々がイエス様に向かって叫びました。
ですから皆さん、この叫びは、イエス様が誰なのかよく知っているから、
主よ、今我らを救ってくださいと、叫ぶことができたのではないでしょうか。
イエス様が救い主であることを、彼らは知っていまして、
また信じていたから、イエス様に向かって、
主よ、どうぞ今救ってくださいと、叫んだということであります。
またイノクニチョ1章21節を見ますと、
ご自分の民をその罪から救ってくださる方と、イエス様の名前を天使が教えてくれています。
エロサレムにいた多くの人々が、本当の救い主に向かって、
主よ、どうぞ今救ってくださいと叫びました。
ですから大事なのは、そこにいる多くの人々が、
イエス様にすでに以前出会った人たちも、そこにいたわけでしょう。
あるいは、今上渇いていて、イエスを神として、神の子として信じている人々が、
またイエス様の救いを切実に求めていたから、
主よ、どうぞ今救ってくださいと叫んでいたということであります。
18:04
おおよそ2000年前、イスラエルの中心に入られたイエス様。
そしてそのイエス様に向かって、主よ、どうぞ今我らを救ってくださいと叫んだ人々がいました。
であるならば、今日、まことの神なるイエスキリストが、
私たち一人ひとりの人生に入っていただきまして、
そして私たちを救ってくださり、私たちを新しくしてくださろうとしておられるということであります。
イエス様の立場から見るならば、私たちの中に入ってくださることであります。
私たちの立場から見るならば、イエス様を私たちの自分一人ひとりの中心に迎え入れることであります。
ところが皆さん、イエス様を迎え入れることにあって、イエス様を誰として迎え入れるか、これが大事です。
誰として迎え入れるか、それが大事なんですね。
今回、毎回日曜日に、平日に多くの都会を回りましたけれども、
富山から総理に行ったり、あっちこっちに行ったりしますけれども、車がないからバスや電車で移動したわけですけれども、
私がそんなに大した牧師ではないでしょうけれども、ある協会は親切に駅まで高級車を送ってくださって、
そして私より結構多くの年配の方が運転してくださって迎え入れた協会もあったり、
ある協会は私が電車に乗って、バスに乗って歩いて始めた協会もあったりしましたけれども、
皆さん、イエス様を私たちが自分の人生に誰として迎え入れるか、それが大事なんです。
さあ、今日のこのエルセベムにいた人々はイエス様を誰として迎え入れたんでしょうか。
まず一つ目は、このフォーサンナーから分かるように、イエス様をただの偉い人、
何か力があって、何かいいこともしてくれる人じゃなくて、救い主として迎え入れた。
これが第一のポイントとして大事なところであります。
彼らはフォーサンナーと叫びました。それはイエス様を他ではなく、救い主として迎え入れた。
自分の人生の真ん中にイエスキリストを救い主として迎え入れたことであります。
だから、今救ってくださいと叫びました。
21:01
皆さん、これが一番大事であります。
イエス様を我々自分の人生に本当の救い主として迎え入れて、
そしてそのイエス様によって、自分の全てが新しくされること、変えられること、イエス様のように変えられること、
その方に導いていただく人生になること、日々朝にも昼にも夜にもイエスは私の救い主ですと告白して生きること、
その始めはイエスキリストを自分の人生の救い主として受け入れることから始まります。
そして既に受け入れて告白された方々は、日々一瞬一瞬イエスは私の救い主であると、
その信仰に立って私たちは歩んでいこうではありませんか。
そしてまた願わくは、私たち一人一人、また家族のみんながイエスは私の救い主です。
主よどうぞ今私を救ってくださいとみんなが告白できるその日が一刻も早く来ますように心からお祈り申し上げます。
二つ目はこの旧説のところにあります、
祝くあれ、主のみなによって来られる方にという言葉からありますように、イエスを主として迎え入れることです。
一つは何ですか、救い主、二つ目は主です、主人です、オーナーです。
彼らはイエス様に向かって祝くあれ、主のみなによって来られる方にと叫びました。
つまりイエス様はただの偉い人、聖人なんかできるすごい力を持っている人じゃなくて、主として、主人として、自分の人生のすべての主としてイエス様を迎え入れたということであります。
実はこれは本当に救い主という告白と主という告白はとても大事なことであります。
同時にまたこれはある意味で、ある方はすぐにイエス私の救い主です、イエス私の主ですと告白がすぐにできる方もいるんですけれども、
なかなか何年も何十年も経ってもなかなかできない方も実はいるわけなんです。
普通に人間としても人の下に立って人に仕えることというものはそんなに優しいことではないんですよね。
24:15
例えばここに男性の方々も女性の方々もおられますけれども、
すいませんが、奥さんの方々が旦那さんに仕えることはだいたい旦那の皆さんは当然と思うでしょう、だいたいね。
でも逆に今日から今日の礼拝の後から旦那の皆さんが下辺になって奥さんにお仕えすることはいかがでしょうか。
顔はムッとしてますね。今日からこう言ってどうでしょうか。
あなた、私は今日からあなたの下辺になりますと。旦那さんからですよ。なかなか難しいです。
人の下に立って仕えること。
イエス様にあなたは主です。私は下辺です。私はあなたにお仕えします。その告白なんですよ。
イエスを主と信じる信仰は、告白がそこにポイントがあるんじゃないでしょうか。
皆さん、この二つ。イエスは救い主、イエスは主として知って、そして信じて、その通りに生きることによって、我々の人生の方向は決定付けられる。
将来もそういうふうに決まるということであります。
昨日、天国の中で商店舎記念墓前礼拝が、教会の墓地で行われましたけれども、その写真の中の兄弟姉妹たち。
イエス様を信じて救われて、天国に凱旋された方々です。
その方々はイエスを救い主として信じていたから救われたわけなんです。
皆さん、今日この朝イエス様が私たちの人生に入ろうとしておられ、エルサレムでイエス様を救い主と主として迎え入れた人々のように、
私たちもイエス様を改めてイエスを救い主と主として信じて迎えることが、我々に必要なことであります。
そしてこの出来事が我々の人生に起こる時に、本当の意味で起こる時に、人生に素晴らしいターニングポイントが、素晴らしい恵みがそこから起こるのではないでしょうか。
27:08
皆さんに真剣にお尋ねしたいと思います。
イエス・キリストは皆さんのまことの主であり王であられますか。
イエスを主、王としてお仕えする人は、すべて自分が握りしめていることを手放しておろす人であります。
自分の人生の王座から降りてきて、そしてイエス様の御前に跪いて比例振す人、そして自分が握っている楽しみや、あるいは欲や、そういったものも手放した人であって、
そしてイエス様が望まれる道を、イエス様が喜ばれる道を、自分も喜んで歩む人が、イエス様を主と呼ぶ人であって、王と呼ぶ人であります。
だからイエス様が主でありますから、イエス様が王でありますから、イエス様が救い主でありますから、そのイエス様に私が自分の内面が、人格が、品質性がイエス様のように変えられることであります。
自分の好き嫌いさえもイエス様によって変えられることであります。
何かに対する自分のこたわりさえも変えられることであります。
それでですね、どんどんどんどんイエス様が喜ばれることを私も喜ぶ。
イエス様が好きなことを私も好きになる。
イエス様が嫌うことを私も嫌うようになる。
そういうように変えられていくことなんですよ。
それがイエスを主と王として使える人の生き様であります。
実は皆さん、これが恵みであって、
今回ねがやいた、支援してくさって祈ってくさった方、
以前も何回お明かししました、ペクさんという女性の神徒さんに、
彼女も教会の法事が多くて、ちょっとだけお会いしたところ、
私から本当に10年も変わることなくずっと祈ってくださって、
支援してくさった夫人の方です。
旦那さんは教会にたまに来たり、まだ微信者でありますけれども、
30:00
そんな中でも10年もずっとずっと祈ってくださって、支援をしてくださった。
それでですね、私はその感謝の気持ちをお伝えしたら、彼女がこういうふうに言いました。
イエス先生、アニュン先生、実は私が先生のために、
先生の家族のために、明太の教会のために祈らせていただいたから、
私が実は先生よりたくさん恵まれているんですよ。
祈れるから恵まれているんですよ。
また選挙士の先生のために、日本の教会のために、
祈れる特権が他の人ではなく私に与えられたから、私はラッキーですよって。
ずっと祈らせていただきますねって言ってですね、私は涙をしました。
本当に涙をしました。
それこそ皆さん、神の国のために、主のために生きる人の生き方ではないでしょうか。
イエス様が喜ばれることを私も共に喜ぶんです。
それがイエス様を主として、王として仕えて生きる人です。
逆の人はイエス様にいろいろ働かせるんです。
イエス様、ああしなさい、こうしなさい、なんでこれをしないんですか。
なんでこれを答えてくれないんですか。ちょっと遅いねって。
それはイエス様を主として、王として仕えていることです。
イエス様を主、王として仕えて信じて生きる人は、
いつも主にイエス・キリストにこのようにお尋ねします。
主よ、私がどうしたらいいんでしょうか。
主よ、私が主のために何をしたらいいんでしょうか。
このように、いつも主の心をお尋ねして、
そしてその心に従う人であります。
それがシモベであります。
ところがこれは決して悲しい、マイナス、損する人生ではないんです。
これを知っていて、このように生きる人こそ、本当の幸せな人であります。
そしてこのような人は、自分に良いことが起きても、悪いことが起きても、悲しいことが起きても、
イエスは変わることなく主であり、王であり、救い主であること。
だから自分の信仰も揺れることがあります。
いつもイエスは王であり主であります。
なんと素晴らしいんでしょうか。
簡単に申しますと、イエス様を主、王として迎え入れて、
使えて生きる人は、主のために私が何をしようかを、
いつも考えて実践して生きる人であります。
33:02
メッセージを終わりたいと思います。
エルサレムの人々は、保産な祝福あれ、主の皆によって来られる方に祝福あれ、
今来た我らの父ラビレの国に、保産な糸を掛けるところにと叫んで、
イエス様を迎え入れました。
今日皆さん、イエス様をどういう風に迎え入れているんでしょうか。
願わくばイエス様を救い主として、主として、王として迎え入れ、お疲れする。
そしてこの下辺の道を、主と共に喜んで歩んでいこうではありませんか。
お祈り致します。
33:40

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