1. 名谷教会 podcast
  2. 2018/03/18:ナルドの香油
2018-03-18 43:21

2018/03/18:ナルドの香油

2018/03/18 聖日礼拝
斎藤亘師
ヨハネの福音書 12:1~11
00:01
おはようございます。今のこの期間は、教会にとりましてはね、非常に大切な、やるレントという、受難節という、その時を迎えております。
で、今朝、呼んでいただきましたこの箇所は、そういう受難節を迎える中で、開かれる箇所の一つであります。
今朝、このところからご一緒に、首脳、ご受難、十字架に迎われる首脳姿から、私たちに与えられたこの救いの素晴らしさというものを、受け止めていきたいと、ご願っております。
一言短くお祈りをいたします。
恵み深い御在天の地なる神様、どうぞ、この受難節の中にある、この聖なる日でありますが、この日も、あなたが歩まれたその足跡を見ながら、我々の旅主が何をなしてくださったかを、深く心に留める、この礼拝の時と流してください。
主耶穌様の皆を通して、お祈りをいたします。
昨年だったでしょうか、NHKのBSで、二人の食材という、そういうテレビがありました。
食材という言葉は、一般に使われない。言うならば、これはキリスト教神学用語ですから、珍しいなと思いましてね。
それで、見ますと、二人の伝道者ということで、一人は藤田光雄という方、もう一人はジェイコブ・デシェーザーという、この二人のことを中心にして、二人を対比しながら、一時間、それがこの講演がありましてね。
私は、個人的には藤田光雄という方は、私が平方時代に、四条縄の教会に来るというので、その時に、この方のお明かしと言いましょうか、その講演をお聴きいたしました。
あるいは皆さん方も、トラトラトラというね、映画にもなりましたけれども、あるいはそちらの話した方が分かりやすいかもしれませんが、実はこの藤田光雄という方は、そのトラトラトラという、その中で、彼はシンジワン攻撃の創出家としてですね、それを成功させるわけですよ。
03:08
で、その成功したということをトラトラトラ、阪神大合戦ではなかったと思うんですけれども、そういうことでもって、彼は本国に打電しました。
悲劇はそこから始まっていくわけですけれども、この藤田光雄というこの方が、そういう経歴を持った方でありまして、しかしその後の日本というのがどういう歩みをしたか、皆さん方もよくご存知であります。
彼は、そのトラトラトラを発信した頃は、英雄として迎えられた。けれども敗戦になりまして、そうすると今度は世の中の国は一変して、あんなことをやった、その指揮官は誰だということでですね、非常にこの命の危機を感じるぐらいなそういう厳しい道は生まれたようです。
で、和歌山県の田舎の方に越し、何回か東京裁判で呼び出されて、そして証言台に立たされるようなこともあったそうですが、そういう時だったんでしょうかね。
アメリカで捕虜生活をしておりました、その日本軍のその方から、一つの想像もできないような話を聞いた。
それは、自分たちがそのアメリカで捕虜生活をしている時に、一人の女性が来てですね、もう本当に自分たちの世話を毎日毎日やってくれた。身の回りだけではない汚いところまでも、この女性はかいがいしくこの世話をしてくれた。
聞けば、彼女の両親というのはフィリピンで宣教師として働いておったそうです。ところが日本軍が入ってまいりましてね、敵国のそういうスパイダンという権威のもとでもって、この両親はそこで、キリスト教的に言うと殉教ですよね。
そこで彼らは殺害されていく。ところがその殺害される前に、その両親はですね、30分間私たちに時間を与えてほしい。で、30分間この二人は心を合わせてお祈りをした。そして殺害されていった。
ですから両親が日本軍の手にかかって、そしてスパイ行為も何でもない、ただイエス様のことを伝えようとしていったはずの、その二人をそんな風にですね殺害してしまったということで、非常にこう日本人に対するですね厳しいこの思いを持っておりました。
06:09
ところが同じ殉教師として両親と一緒に働きをなさった、その帰国された方から、その時の30分間というのは、お父さんやお母さんは何をお祈りしたんだろうか。きっとあなたの両親は自分が今殺されようとしているその時、自分を殺すこの日本兵のためにお祈りをしたと思う。
そういうところから彼女は日本人に対して厳しい目を持って見とったんですけれども、こう変わりましてね、じゃあ両親はどういう気持ちだったんだろうかということで聖書を今度開くようになっていったそうです。
そして彼女もまたその両親のように日本のためにお祈りをしようと。そういうところからその米国に囚われているその捕虜収容所に行って、そしてそういうこの世話をした。
そういう戦争をね、この捕虜生活をしとった元日本兵の方からこの福田さんが聞いた。そんなことってあるだろうか。戦争というのはもう互いに憎しみと憎しみのぶつかり合いだ。
確かにジェイコブ・デ・シェイザーという、この方も私は日本軍の捕虜だったというタラクトを出しておりましたから、あるいはご覧の方々もおるかもわかりませんが、この人はまたこの人でね、やはり日本侵入犯を攻撃した日本人に厳しいということでもって、彼は死願して航空兵になり、この爆弾を落とすそういう役を持っていたそうですが。
で、彼は初めての名古屋空襲のその時、燃料というのは片道しかなかったそうですが、それでその片道の燃料でもって名古屋に爆弾を投下し、そしてその足でもってこの中国の、当時は中国は連合軍のそれ一国でありましたから、自分たちを囲まれてくれるということであった。
ところがですね、不時着したところが、またそこは日本軍が制圧しとったそういう一部だったものですが、すぐに捕らえられて、それから彼に対するところの厳しい、そういう尋問と言いましょうか、拷問とか、いろんなのが始まっていったそうです。
ですからもう、ハワイだけでも憎しみがあるのに、そこへ持ってきて、こんな日本人、なんで私は痛めつけられなかったんだろう、受けなきゃならないんだろうかという、そういう思いで持ってですね、余計この日本人に対して、あるいは日本に対して憎しみを倍加していった。
09:03
ただ同僚の一人がそこで亡くなった時に、日本軍の自分たちの係りをしておった、その日本の兵隊さんが亡くなった人に対してどういうアメリカ人が進んだろうか、きっと彼らは聖書を使うんじゃないかということで、一冊の聖書を差し入れてくれた。
そのことで無人同僚の葬儀もそこでなし、そして彼はそこで聖書を読み出した。
その聖書から、やはりあなたの敵を愛しなさいというイエス様の言葉に触れた時に、今ではもう憎しみでしかなかったこのデシエイザーさんのその心の中に、それじゃあ今度は愛していこうということで、自分が変えられたらですね、まただんだんこう変わっていった、そういうことをおっしゃっておりました。
そのフシタミストという方も、彼はそういう憎しみから来たのではないでしょうけれども、しかし当時の日本の政策も一つで、ハワイを起死をし、そして営業にもなった、そのフシタさんが。
その日本軍の捕虜の話と、そして後にこのデシエイザーというこの方と二人が会う機会があった。そしてお互いにそれを知っていったんですけれども。
このフシタミストという方は、その一人の女性が日本の捕虜を世話をするということでいったいなんでそういうことができるんだろうか、どういう考えなんだろうか、どういう思いなんだろうか。
そしてその両親が占拠してあったというところから、じゃあ聖書を見てみようということで、このフシタミストさんも聖書を読み出した。
そして読んでいった、その中に、このルカニオルフクイションの22章だったでしょうか、そこにイエス様が十字架につけられたその時のことがずっと記録されている。
イエス様がそこで最初の十字架上においての言葉は何であったか、それは父よ彼らを許してください。彼らは自分のしていることがわからないのですと言って、
自分を処刑するローマ兵のために、あるいは憎しみを持って自分にそういう権威を持たせて、そして不当な裁判をかけて殺そうとしている人たちのために、イエス様はそういうお祈りをしている。
福田さんはそれにびっくりした。
今まさに自分の命を取ろうとしているこのローマの兵隊やそういった当時のユデアの指導者たち、この人たちのためにイエス様が、イエス様の血から出た最初の祈りとしてですね、父よ彼らを許してください。
12:03
彼らは今何を自分がしているのか、それすらもわからないのですと言って、許しの祈りを捧げたという。そこにですね、この福田さんの気持ちは、もう本当に、ああそうだったのか、彼女の両親はこの気持ちで日本兵のために祈り、日本のために祈り。
そして彼女もまた、その両親の懲りざしを継いで、そして日本人のために、特にこの捕虜となっている人たちのために、彼女もまた本当にそういう献身的な方針をしたんだろうと。
福田光雄さんは、この言葉でもって、彼は本当に生涯が変えられて、それから後はですね、自分はこのハワイにですね、あのような行為をした当時の指揮官ですと言って、そういうことをこの証をするために、またお詫びをするために、
日本国内よりも、後ろアメリカのそういういろんな教会、あるいはいろんな地域に行ってお詫びとともに、また自分がこの聖書のことはイエス様によって自分は今はクリスチャンに変えられたという証をして回られたという、そういう二人の対談を中心にしてありました。
共通するところは、互いに憎しみを持って、そして向き合っていたこの二人が、この聖書の中のその一節の言葉に、弟子イエスさんはあなたの敵を愛しなさいという言葉に、福田光雄さんはイエス様がお祈りなさった父を彼らを許してくださいというその祈りの言葉。
このそれぞれのこの言葉でもって、彼らは本当に生涯が変えられていったという二人のこの希采を、二人の食材というNHKが珍しいなと思いましたけどね、そのまま放映しておりましたから、私は忘れることができないですね。
で、今先ほど読んでいただきましたこの横金による福音書の十二章ですが、時間的にこう追ってまいりますと、この出来事というのはイエス様が十字架につけられる二日前と言いましょうか、イエス様が十字架につけられたのは金曜日ですので、木曜日水曜日の出来事であろうと言われます。
イエス様はこのマリアという女性が自分のためにこの三百でなり持つような高価な香水を自分に塗ってくれた。
15:06
マルコによる福音書も同じことをそこに記録しておりますし、またルカは時間的にはもっと早いときに、そこにはマリアと書いてありませんが、一人の女性がイエス様のところに来て、そしてその香油を自分の髪の毛に濡らして、そしてイエス様の足をあるいは全体を拭ったという出来事がそこに書いてあります。
マジでせよ、この香油というのは、ナルドの香油というのは非常に高価なそういうもの。しかも三百でなりというんですから、当時の製酒類は一でなりが一日の二等と言われておりましたから、今まで言うならば三百万ぐらいするような香水なんでしょうかね、お目にかかった方がいませんからわかりませんが、とにかくそういう高価なものをこの下に。
それを見とりました、この弟子たちの中で。特にヨハネは、このユダという人に注目しているんですね。このユダは、その三百でなりもするようなものを注いじゃったらそれで終わりですから、それをむしろ売って、そして人々のためにそれを用いたならばどんなに有効か。
何度彼女はね、そういう計算もできないような無駄なことをしたんだろうかとユダは思ったそうです。
けれども、この箇所では、なぜユダが人々のためにという思いを持ってそういう判断をしたかというと、まだ裏もった。それは、自分がそのイエス・アムの弟子たちの会計係りをしていた。
その会計係りをしているときに、どうも使い込んでしまったようだ。その使い込んでしまったのを埋め合わせするためにあれを売ったならば、その埋め合わせをしながら、みんなに施しをすることができたんじゃないかという、彼の極めて合理的な考えがそこであったようですね。
まあそういう記述を記しております。
けれどもイエス様がおっしゃったのは、この尊説を見ますと、マリアは非常に高価な純粋なナルドの香油300デナリをとってイエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足を拭った。
家は香油の香りでいっぱいになった。ところが、といってこの枝のそれが始まるわけですね。確かにその高価なそれを用いる。
18:08
で、このマルコニオル福音書のほうをちょっと参考に開いてみましょうか。マルコニオル福音書では14章にこの出来事が記されております。
この14章の8節を見ますと、この女は自分に出来ることをしたのですと書いてあります。自分に出来ることをした。ここは公語訳成書では、出来る限りのことをしたと書いてあるんですね。
表現が違うことによって受け止める理解というのが少し違っていくようかと思いますが、公語訳では出来る限りのことをした。イエス様はそういうふうに彼女の行為を受け止めなさった。
今の進化訳では、自分に出来ることをした。しかもイエス様はここで持って、さらに自分の出来る限りのこと、自分の出来ることをした。そういってイエス様は、彼女のその行為そのものを非常に受け止めなさっているわけですね。
また別の歌詞を見て参りますと、これはルカニオル福音書の方なんですが、この女の多くの罪は許されていますというのは、彼女は余計愛したからです。しかし少ししか許されないものは少ししか愛しませんという、似たような出来事の中でもって、イエス様のこの女性に対するこの評価というのは、評価と言いましょうか、理解というのは、
彼女は何でそんなことをしたのか、自分はどれだけこの方から許されたかという、その許されたその思いが強ければ強いほど深ければ深いほど、自分は何とかイエス様にそのことを表したい。
そういう意味合いから、彼女は自分の持っているものを全部そこで持って注いだ。しかも、このルカニオル福音書の方に戻りましてね、七節を見ますと、ギダや他の弟子たちの非難に対して、非安に対して、イエス様がこういう風に彼女のために仰った。
21:12
イエスは言われた。そのままにしておきなさい。マリアは私の頬ぶりの日のためにそれをとっておこうとしていたのです。という、頬ぶりの日のためにそれをとっておこうとしていた。それを今、自分に添えてくれたんです。
この場面のこの前後に、これはマタニオル福音書の方を読んだ方がより理解ができるかと思うんですけれどもね、ルカニオル福音書の文章ですが、イエス様はこの後最後の晩餐、清算をするわけですね。
この清算の式とは当時は言いませんね。最後の食事を弟子たちにこれは私の体だってパンを渡して、これは私の血だと思ってって言って、この武道士を渡して、そしてあなた方はいつまでもこのことを覚えておきなさい。
そうおっしゃったその後ですよ。弟子たちはやったのは何かというと、我々の中で誰が一番偉いんだろうか。どっちが上の座につき、どっちが下の座につくんだろうか。そういうことでもって彼らは互いに議論しているということが書いてあります。
この辺りの出来事ですよ。マリアはイエス様のために来る日も来る日も、やがてその日が来た時にはこれを注ごうと思って準備をしていた。弟子たちはね、一番イエス様のもとでもってイエス様の姿を見、お言葉を聞いていたはずの彼らが、
まだ彼女の持っている十分な位置でもございない、本当に弟子たちは何を考えてそんなことをやっているんだろうかというぐらいに駆け上がれたレベルですよ。マリア様はその日のためにこれをとっていた。
いつイエス様が私たちのためにその日が来ても、自分は本当にこの方のために注いでいこうという、そういう備えをしていたというのが、このヨハネの七節の言葉ですよね。大森の木のためにそれをとっておこうとしていた。
しかし弟子たちは全くそんなことを知らずにね、しかも精算を受けなさって、そしてこれをあなた方の間でいつまでも大切にしなさいよと言われていたその先でもって、そういう自分たちの地位争いですよ。
24:25
そういう弟子たちにとっては三逆でなりもするような行為を一度にそれをですね、費やしてしまうというのは無駄にしか思えなかったんでしょうね。
特にユダハは、彼はその頃に相手方の西市長とかそういう人たちとの密約を交わしていたんです。
お前はあのグループの一人だけれども、あのイエスを自分たちに通合して逮捕する現場を教えてくれたならば、それなりのこの報酬を与える。
そしてそれで取り交わされたのは、銀30シケルですよ。銀30枚。銀30枚というのは、出世時の方で奴隷に対する扱いなどを書いてあるところがありますよ。
そこを見てまいりますとね、奴隷がその家畜、牛とか何かでもって怪我をしたならば、その雇い主は二枚金として銀30枚を出しなさい。そして牛は殺しなさいという、そういうことなんですね。
言うならば、ユダがイエス様を売るために取引しました額は、300ネラリじゃないんですよ。30ネラリでもないんですよ。銀30枚という。奴隷に対しての二枚金でしかないような、そんなわずかなお金でもって、このユダは。
それでも少しでも帳本が合わせられたなという気持ちがあったのかわかりませんけども、彼は自分のそういう、あのを埋めるためにそんな取引までして、そしてイエス様を売ってしまった男ですよ。
ですからユダや他の弟子たちの目から見たら、なんと無駄なこと。これも映画の話ですけどね。炎のランナーという、これは開かた時代に教会でも上映しました。非常に素晴らしい映画で。
今ちょうどパラリンピックやっておりますけども、夏のオリンピックでもっての一つの出来事ですが、このエリック・リデルっていう、その英国を100名というか、とにかくそういうことでもって、彼はオリンピック選手として金メダル、もう一番近い存在としてこの押された。
27:22
そして彼はその日を迎えるんです。ところがその日が日曜日なんですね。日曜日の午前はやっぱり礼拝したい。そして自分のお姉さんからは、エリックお前はそういう役だけど、しかし高校校で日曜日を守りなさいよということを常日頃から言われていた。
彼はですね、もうそこの葛藤が始まるわけですよ。当時の英国皇太子がオリンピック団長として来ていますし、しかし自分はやっぱりクリスチャンとしてどうだろうかと思って、こういう戦いの中でもって、彼はその皇太子にね、私はその日を忘れない。
という、言うならばこの皇太子にとっても他の委員の人たちにとってもですね、とんでもないことをこのエリックが言ってきたんで、もうなだめてそんなことしなくたって、我々時には休むこともあるだろう。そんなこと言ったかどうかわかりませんが、とにかく彼を説得してですね、そしてそのレースでもって金を獲得せよ。
これがあなたに対するイングランドの英国のこの与えているところの責任だって。もういろいろとこやるんですけども、とうとう彼はね、たとえ皇太子から言われても私の王はそれを好まない。
そう言って彼はとうとうその礼拝を守るために近くの教会に行って、そして礼拝を。その代わりにこの同じ英国の選手の中にレア系の彼がおりまして、ライバルなんですけども、彼がその、じゃあところを走ろう。
その代わりにエリック、あなたは私のレースを受け止めてくれと言ってお互いに変えたわけです。本当はもうそれでね、まあメダルが取れるかどうかわからない、自分の得意とするそれをやめるわけですからお互いに。しかしこの二人がそれぞれのコースでもってレースでもってとうとう金メダルを取るっていう、そういう映画です。
その、私はそれを梅田の映画館で見たんですけども、いっぱいなんですよ。こういう映画、一般の人はどういうふうに理解するだろうかなと思って思いましたけどもね。やはり人間はどんな時でもね、自分の信念を持ったならそれをやり遂げるっていう、まあそういうところが受けたのかもしれません。
やはりクリスチャンとしての礼拝を守るっていう、そういうことは一般の人はあまり理解しませんからね。しかしこのリベル、彼はとうとうそれをやり遂げる。そしてその後彼は第二次大戦が始まりまして、そして中国に英国軍人の一人として派遣されていく。
30:18
で、そこで持っていかれば運悪く捕らえられて、そして捕虜生活の中に入るんです。映画ではね、そういうのは描いてませんよ。その後のことを私は一冊の選挙誌が印した、その本でもってわかったんです。
というのは、その選挙誌というのは、両親と一緒に当時この中国に渡って、そうしてやったところが、やはり日本軍に捕らえられて、そして自分も少年ですから、そういう刑務所とかじゃないでしょう、捕虜所、漁所みたいなところに入れられとった。
で、この彼は日本軍に対して非常に憎しみを持つんですけどもね、そこで接したのがこのエリック・リデル選手だった。そういう関係を知らなかったこの少年は話をしていくうちに、この英国からイエス・キリストの救いの素晴らしさ、そしてその教えに向かうところの、自分たちの今の置かれているところがどんなに大切なことかということを、
だから日本軍に対してあなた方にはそんな考えを持ってはいけないという、このリデル選手はそこで極死していく、病気でもって亡くなっていくわけですけども、けどもこの当時の少年に語られたリデル選手の言葉も残って、
そしてアメリカに帰ってから、この人は選挙主として日本に来られてね、10年、もうちょっと前かな、前に定年でもって英国へ帰られました。少年地区を中心にいろんな働きをなさった、今もう名前が出てこないんですけどね、私は非常にいい本だなと思ったんですけど、あげちゃったんですよね。
とてもよかったなと今思うんですけども、その二人の出会いから、そしてこのリデル選手は、それこそ彼の歩んだ道というのはね、一般的に言うならば何と無駄な道を歩んだんだろうか、もし彼が別の、やるオリンピック金メダルとしてですね、行きたいならばもっと違った道がそこにあったかもわかりませんけども、しかしか彼は中国に渡っていった。
そして選挙主として渡っていって、そして彼はそこで無くなるわけですけどもね、人の評価は彼の持っていたその評価ではなかったと思う。
イエス様は人がどんなに無駄だと決めつける、そういうこの事柄であっても、イエス様という方はそれを本当に最高に、その人の動機から何も全部これを受け止めて、そしてそれを喜びとする。
33:12
私たちは弟子たちの彼女に対するところのいろんな批判があったでしょう。しかし彼女はそういう弟子たちの冷たい視線も受けながら、けれども私のイエス様に対するところの一番の思いはこのことです。
それがナルトンの行為としてイエス様にそれが進まれたその行為なんですね。イエス様という方はそういうふうに私たちの全てのことを、それこそ動機までも含めて私たちのことを全部評価なさる、そういう方なんだなということがわかります。
じゃあ他の弟子たちは、そういう時が近づいているのにかかわらず、時間的にならば今のこの時期ですよ。もう間もなくイエス様が捕らえられて、そして十字架に向かわれるのに弟子たちの間ではどっちがイエス様に近いだろうか。
中にはイエス様にお願いしていって、イエス様があなたが天皇座につく時には私の方をちょっと覚えておいて、そしてそこにつかせてくださいというような、そんなやりとりもしている。それが他の弟子たちにわかって、何てことをやるんだと言って、互いにまたそこで論争し合うというような、そんな弟子たちです。
しかしイエス様は、その女性の自分にしてくれたそれを最高に評価しながら、とんでもない評価しかできなかったこの弟子たちのために、イエス様はもう彼らを放っておこうとしちゃったのかというとそうではないんです。
これは大切なところですから開いてみましょうか。
今、与花の十二章を読んでおりますけれども、だいたい同じ頃ですよ。議論をしているそんな弟子たちのために、この三十一節。
36:16
四問四問みなさい、サタンがあなた方を麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし私はあなたの信仰がなくならないようにあなたのために祈りました。だからあなたは立ち直ったなら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
と、イエス様がおっしゃっているこの言葉です。私は本当にこの言葉によってどれだけ今日まで救われたと言ったでしょうかね。こんな過ちをしているような困難を生むためにも、イエス様はもう既にこの祈りを持っている私のために、ご自分の思いを私に教えてくださっている。
教えてくださっているだけではない、私はあなたがどんなになろうと、私はあなたの信仰が守られるように祈っているんだから、というその言葉です。
イエス様は、県と違いなことを判断し、県と違いな方向に向かおうとしているこの弟子たち、私はこの祈りの中には、自分をわずかなお金で打った油断も含めてイエス様はね、このことをおっしゃっていると思うんです。
確かに、この端末ですからペトロに向けられた言葉ではありますけれども、しかしイエス様のその思いの中には弟子たちのみんなのためにね、私はあなた方の信仰がなくならないように祈った。
だから立ち直った時には、あなた方は本当にうまく他の人たちのために、なお立ち直ってそうして一生懸命やりなさいよ、励ましなさいよ、という一連のことは。
バリアの行為に対して、そのような評価をなさるイエス様は、その万分の一にも及ばないようなとんでもない方向を見ておりました弟子たちのためにも、こういう祈りをもって、そして私たちのために取り成してくださっている。
ウチサミストという方は、この後に続く十字架上のイエス様の祈りの言葉に彼は自分が分かり、自分がどれほど大きな許しの中に今あるかということを知って、そして彼は伝道者になっていったんですけれどもね。
私は、こういう実際の出来事と、そういう大きな変化をもたらすイエス様のこの言葉というものを、本当にイエス様が今も私のために、この祈りをもって私のために取り成しくださっている。
39:10
そのことを深く心に留めます。
バリアの行為は、主の十字架を明かしする行為となりました。
藤田さんの救いに至るための、あの殉教をしましたこの両親の石を継いだその娘さんの行為も、同じようにこの十字架のイエス様を明かしする行為として。
そして、それは何も知らないで受け止めた捕猟の人たちをもったと思いますけれども、彼女は一生懸命イエス様の十字架の許しをもって、そしてこの日本軍の捕猟の人たちのためのこの海外仕事の背負いをなさった。
私はこういう押しまずに成した行為、あるいは捧げ物というのを、これはこういうふうに新しい命を生み出していくんだな。
リーデル選手もそこで亡くなりますけれども、そこで接した一人の少年の彼は捕らえられて、そしてしかも日本に来て伝道を障害して、そして定年までこの末等していかれた。
イエス様の福音、イエス様の十字架の救いというのは、その許しというものは、いつもそこに新しいものを生み出し、そしてそこから大きな変化というものをもたらせるんだということを、改めてこの教えがあります。
もう時間がありませんが、先ほど歌いました117番、この栄えのシエスというこの歌ですけれども、これは英国賛美歌の冠とも言われているこの歌で、賛美歌で、このアイザック・ワッツという人は、栄光のシエスは死なれた。
この踊るべき十字架をつくづくと見上げるとき、これほどの宝は世にはない。曲役で言うと、そういう役のこの歌だそうですよ。
私は、ユンスキーさんの奥さんがいらっしゃるから、韓国の役ではこの辺りはどういう風に役されているのか、このつくづくと見合わすというのが直訳するとそういう言葉だそうですけれども。
ところが、仰ぐというこの言葉、これは私の想像ですけれども、当時の賛美歌を編参なさった結城幸という方がおられます。その方が役されたのかなと思ったりもするんですけれども、それは私の想像の範囲ですが。
42:13
それにしてもこの仰ぐ、十字架の詩を仰ぐ、ちょっとそこを改めてこの歌詞だけをお読みしてお祈りをしたいと思います。
これは作者の信仰イエス様の十字架の恵みに対する彼の思いがそこによく表されている歌だと思います。
これちょっと歌いたいと思います。いいですか。一節と四節だけを。それでこれできますかね。そしてお祈りをいたします。
43:21

コメント

スクロール