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2017-11-26 44:27

2017/11/26:ヨハネの福音書講解説教(17)わたしだ。恐れることはない

 2017/11/26 聖日礼拝

尹善鎬牧師

ヨハネの福音書 ~21

00:01
皆さん、おはようございます。
礼拝にようこそいらっしゃいました。感謝します。
それでは、メッセージの入る前にですね、隣の方と挨拶しましょうか。
おはようございます。感謝します。
一言を短くお祈りいたします。
しかし、イエスは彼らに言われた。わたしだ。恐れることはない。アーメン。
主よ、暴かることなく、主の御前に近づいてやってまいりました。
この群れの上に、主の恩恵と愛とまた忌ましめを、あるいは教訓を、この朝、
我らこの群れ一人一人に、明々に主がお語りくださり、悟りを与えてくださり、
我らの信仰の目を主へ、天へ、引き上げていただきますように、お願いいたします。
このものが越して、神様の声だけが主を語られますように。
そして、私たちがメッセージを聞くとき、神の御声を聞く。
我らの霊の目を主よ、大きく開いてくださいますように、お願いいたします。
感謝して、期待して、イエス様の皆によってお祈りいたします。アーメン。
感謝します。
ヨハネノクニショ公開説教、17回目になります。
今日は、「私だ!恐れることはない!」という題にして、
共に御言葉の恵みをお受けしたいと思います。
それから来週からはアドベントに入りますので、お知らせのときにもお話しますけれども、
今年の12月の4回のアドベントのメッセージは、シリーズメッセージさせていただきまして、
特にミシンジャーの方、あるいは挙進者の方向けのメッセージを12月4回にかけてさせていきたいと願っておりますので、
毎週毎週が伝道集会だと思っていただきまして、
ぜひミシンジャーのご家族とか友人の方々、
この日決めたら、その日はちょっと無理ですね、といけない方がおられるかもしれませんが、
4回もありますので、ぜひ誘っていただいて、共に恵みをお受けしたいと思います。
さて先週の資格感謝リハイのときに、皆さんに一つお勧めしましたよね、覚えていらっしゃいますか。
03:04
お帰りになって、お帰りになって、家族の方々と感謝の時をぜひお持ちくださいますか、とお勧めしましたけれども、
実践された方いらっしゃいますか。いらっしゃいますね、ありがとうございます。
何度も聞いても実践に移さないと、自分のものにならないんですね、自分のものにならない。
毎日でもいいでしょう、あるいは毎週でもいいでしょう。
ぜひまずは家族が共に感謝し合うときを、そしてその感謝が自然に神に向けられるんですよね、
そういうときをぜひ持っていただきたいと思います。
今日はタイトルは、私がおしゃれることはないという題ですけれども、私たちは子どもであろうが、青年であろうが、
あるいは大人、あるいはお年寄りの方々であろうが、生きていく中で願わない様々な試練や、
あるいは困難、あるいは難しいこと、困ったことが人生の中に起きたりするんですよね。
神様を信じるクリシャンだからといって、すべての苦しみとか、あるいは病気とか、あるいは事故とか、困ったことから、
すべてそこから逃れることはできないということだ。
しかし大事なのは、全知全能の神様を信じる私たちクリシャンにとって、
困難とか苦しみとか、絶望とか、あるいは病気とか、そういったものは、それがすべて絶望で終わることはないということであります。
そして何より大事なことは、一体私たちが困っていること、そのものは一体何なのか。
何が試練であって、何が苦しみであって、何が困難なのか。
そしてその試練や困難を迎えている自分はどういうものなのか、どういう信仰のものなのか、実はそこがもっと大事なことではないでしょうか。
今日の一つの出来事から、弟子たちとイエス様に起きたことを一緒に見ていきたいと思います。
今日のヨハネノ勲章の十六節を見たら、ここには夕方になって弟子たちは後半に降りて行った。
そして船に乗り込み、カペナムの方へ湖を渡って行ったとあるんですね。
ところが同じ記事が書かれているマタイノ勲章をちょっと開きますか、皆さん。
06:03
マタイノ勲章十四章を開きください。
マタイノ勲章十四章の二十二節を見ますとね、これは今日のヨハネノ勲章の記事と同じ記事ですが、
マタイはヨハネが書いていない他のこと、またここに透けて書いてますけれども、二十二節を見ますと、
イエスは弟子たちを敷いて船に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群雄を返してしまわれたとあるんですね。
そして祈るために一人でイエス様は山に登られたということです。
さあそうすると、今日のヨハネノ勲章を見たら弟子たちが自分たちで、自分で船に乗って向こうに渡ろうとしたというふうに思いますけれども、
マタイノ勲章を見たら、これはイエス様が弟子たちに、さあ皆さん、船に乗って向こうの岸、ハポノヨムに先に行きなさいと。
私は山に登って祈って、その後からついてきますねと、イエス様の導きだったんですよね。
行きなさいとね。
さあこれは簡単に考えますと、弟子たちが船に乗ってこのガリラの湖を渡ろうとしたのは、イエス様が行きなさいと言われたから、
イエス様の御命令があったから、イエス様の御導きがあったから、彼らはそれに従って船に乗り込んで渡っている途中なんです。
ところが、イエス様が先に行きなさいと、イエス様から言われて、船に乗って渡っているのに、何が起きたのでしょうか。
18節を見たらですね、今日のヨハネ6の18節を見たら、湖は吹きまくる強風に荒れ始めたとあるんですね。
あれ、イエス様が行きなさいと言ってですね、せっかく従って船に乗って渡っているのに、何で強風に荒れ始めて、困難が起きたんでしょうか。
イエス様のお言葉ならば、イエス様に従ったならば、潤風が吹いてですね、もう本当にね、水、海が静かで静まっていてね、すいすいと前に渡っていくはずなのに、
何で、強風に巡り合ったんでしょうか。それで彼らはもうね、死ぬほどですね、苦しんでいたことなんでしょうか。
イエス様のお導きに命令に従ったのに、皆さん実はですね、聖書にはこういう似たようなストーリーが、実はたくさん書かれているんです。
09:04
聖霊に導かれていきました。イエス様に導かれて、神様の命令に従って何かをやった。どこかに進んでいった。ところが、その先には大変な困難があったという記事が、聖書にはたくさんありました。
皆さんもですね、多くご存知だと思いますけれども、例えば一つの話をしましょう。聖書は開かなくていいと思いますが、
その働きの十六章のところを見ますと、パオロ先生がですね、今のトルコの方から簡単に申しますと、東の方に行って伝道しようと思ったんです。
ところが何度もですね、聖霊戦争によって止められて止められて、そして十六章のところでは幻が見えてですね、
今のギリシャでしょ、マケドニア地方の人々が幻に出てきて、パオロ先生に渡ってきて、含み物で伝えてくださいと。
聖霊のお導きがあって、そしてパオロ先生やシラス、あるいはルカ、彼らは渡ってですね、ギリシャに行ったんです。
そして伝道がうまくいくところだと思っていたところ、ピリピという町でですね、悪霊につかれている、占いをしている女奴隷の、その女奴隷の悪霊を追い出してあげたんですね。
そしたらその持ち主が何人もいてですね、お金の儲けがなくなってしまったので、パオロとシラス、彼らを訴えて、裁判にかけて、鞭打たれて、獄に入れられてしまった。
さあ皆さん考えてみましょう。聖霊様がこっちに行きなさいと言っていたのに、何でこんな困難が起こるんでしょうか。
聖霊様は幻までね、見せてくれたら、もう全てがですね、迎え方じゃなくて追い風ですね、スイスイと言って、何の混乱もなくて、行くところをもうみんな全部信じてですね、問題がないはずなのに、何でこんなことが起こるんでしょうか。
神様が失敗したでしょうか。聖霊様の導きが間違いなんでしょうか。
ところがですね、その歌詞を見ますと、鞭に打たれること、あるいは獄に入れられてしまうことより、その苦難をパオロ先生、あるいはシラス、ルカ、その方々がどういうふうにその苦しみを受けたのかが、実は大事なんです。
打ち打たれて、裁判にかけられて、獄に入れられてしまった。ところがですね、首都パオロ、シラス、彼らは、あの牢屋の中で打ち打たれたからですね、ただお尻ペンペンぐらいじゃないでしょう。
あの皮にですね、鉛がついてあるわけなんですよ。それで打ち打たれるわけですからね、体のこの肉がですね、裂かれて血まみれになるわけなんです。そんな体を持って、その牢屋に入れられて、今みたいにですね、たぶんですね、あのセメントでもないでしょう。普通の土でしょうね。
12:22
ベッドがあるわけでもないし、きしゅがあるわけでもないし、便所、トイレのね、そういうものがあるわけではない。ほぼ2000年前だからね。狭いなんです。実際のね、ピリピリにその遺跡が残っている。ものすごく狭い。2畳もできないぐらいの、本当に狭いところ。
そこにいる中で、にもかかわらず、あのところでパオロとシラス、彼らは何をしていたんですか。神を賛美していたんです。神の皆は崇めていたんです。驚くことではないでしょうか。打ち打たれたらどれだけ痛いんでしょうか、皆さん。
まともな薬もないわけでね、ヌルナゴとか消毒のそういう赤チキとか、そんなものないわけなんです。そんな身体、そんな苦しみ、痛みの中にあっても、彼らは喜んで神を恋愛して賛美していました。誰も恨んでいくんでいないんです。
精霊様を恨んで、神様、あなたは生きなさいと言っていたのに、なんでこんなことが起こるんですか。そんなことは一切ありません。あるいはですね、シラスさんがですね、パオロさん、あなたの幻間違っているじゃないかと、お互いにね、こんなことが起きているわけではない。
お互いに信頼し合って、感謝して、賛美をしていました。祈りをしていましたよ。皆さん、これが本物の信仰なんです。
だから、その中で牢屋の中で賛美していて、祈っていて、喜んでいたところに、観衆さんが、国理がそれを聞いて、そして結果何が起きたんでしょうか。その観衆の家族みんながイエス様を信じて、洗礼を受ける素晴らしいことが起きたんです。
シューエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。そういうことは、そこで語られます。皆さん、私たちの人生のストーリーも、これと実はよく似ている。
神様を知らなかった私たち、罪の中に溺れて死んでいた私たちが、神を知るようになって、そして神様に従って、神を愛して、礼拝して、一歩一歩進んでいくわけなんです。
神の御言葉に従おうと、時にはもがって、本当に頑張っています。神を愛しています。イエス様を愛しています。兄弟姉妹たちを愛しています。祈りと御言葉によって、清められたくて、主の御前に近づいていきます。礼拝捧げ。神様からいただいたものの中でまた捧げ物を精一杯捧げています。
15:14
ところが、そんな人生の中に、その道の中に恐怖に遭うことも、あるいは、ものすごい大きい岩のようなものがポーンと人生の中に投げつけられるようなことも起こるんですよね。本当に理解しづらいものであります。
皆さん、ぜひ、まず一つ知っていただきたいことがあります。人生のこんなにあったとき、それが事故であろうが、病気であろうが、何かの困ったことであろうが、そのときは、我々自分の信仰が試されるときなんです。信仰が問われるときなんです。
具体的に申しますと、何が試されるのでしょうか。何がテストされるのでしょうか。それは、自分は何で神様を信じているのか。自分のために神様を信じているのか。神のために神を信じているのか。自分の安全、健康、平安、成功、富、慰め、癒しのための神を信じているのか。
また、神のため、神の皆があだめられるため、イエス様が賛美されるため、神の国がこの地に来ますように、そのため、神様を信じているのか。我々信仰の目的が試されるときが試練のときなんです。
だから、神の国が来ますように、祝の祈りを皆さん、毎週祈っているでしょう。そのためにイエス様を信じる。神の皆があだめられるために、自分はどうでもいい。神の栄光のために、イエス様もおっしゃいましたね。
次第の6章で、まず神の国と神の義を求めなさい。それが信仰の我々の唯一のゴールなんです。他のものはですね、神様が必要であれば致してくださる。心配することはないと。
だから、こういう神の栄光のために、神のために信仰を持つ人は、困難が起きても、事故にあっても、病気になっても、回復されなくても、何かができなくてもできても、落ちることはありません。失望に落ちることはないんです。なぜでしょうか。
自分のために神様を信じるものでない。信仰の焦点、フォーカスが自分にあるんじゃなくて、神様にあるんだから、時には困難が起きても、時には困難が起きても、あるいは病気が治らなくても、事故が起きても、失望しない。
18:04
さきの申しました、あの牢屋の中のパウロと知らすルカのように、むしろ苦しみの中にあっても、そこで神を賛美できる信仰。感謝できる信仰。祈れる信仰を神様が求める信仰ではないでしょうか。
ですから皆さん、どうか私たちの信仰が、自分のための信仰ではなく、神のための信仰、神の栄光のための信仰、そういった信仰を持って、そこまで生として行こうではありませんか。それを目当てにして歩んで行こうではありませんか。
続けて今日の歌詞を見ていきますと、この弟子たちがですね、恐怖にあった時に、困っていた時に、何が起きたんでしょうか。
十九節をご覧ください。
こうして四、五キロメートルほど漕ぎ出した頃、彼らはイエスが湖の上を歩いて、船に近づいて来られるのを見て、恐れた。
当然、夜ですし、明かりもほとんどないですし、だから何かの物体、人間なのか何かがですね、湖の上を歩いて来るわけですから、当然怖いわけなんですよね。
ところがそこのポイントは、困っている弟子たちのその肌中に誰が来られたんでしょうか。イエス様が来られたということであります。
困っている彼ら、信徒が試されている彼ら、どうしようと思うとですね、迷っている、戸惑っている彼らのその肌中にイエス様が近づいて来てくださった。これが大事なことであります。
イエスキリストは、私たちの知なる神様は、ご自分の民が困っている時、苦しみの肌中にある時、それを知らないとおっしゃらない方であります。
そして、見過ごされることはあります。ご自分の民がどこで、何のために苦しんでいるのか、何でそのつらいところの肌中にいるのか、主は全て知っておられます。
知っておられるだけではなく、今日のこの出来事のように、その自分の民の混乱が困っている生活、人生の現場の肌中に入って来てくださるわけなんです。
困っている我々の人生の真ん中、個人個人の、あるいは家庭の中に、教会の中に、主が、主ご自身が、自ら来てくださるという恵みなんです。
21:06
なぜでしょうか。私たちは主の民であって、神の子供なんだからです。私たちは信じます。
主は私たちの神であって、私たちはその方の民であることを信じます。
全能なる神様は私たちを決して見捨てることはありませんし、また苦しみも困ったことも全て知っておられる。
我々の嘆きの声を、叫び声を全て聞いていてくださる。それを私たちは信じますし、その方を信頼します。
皆さん、信仰とは何でしょうか。信仰とは自分の能力の良し悪し、出来るか出来ないか、それを信頼するものではありません。
皆さん、信仰というものは、神様の全能さ、全知さ、神の真実さを信頼することであります。
だから皆さん、私たちは自分を見たら、大体私たちは失望します。
あるいは、人を見てもまた同じなんです。皆さん、信仰を持つときに、明大の教会で信仰生活をするときに、皆さん、神様だけを見上げて、神様だけに信頼を置いてください。
人ではありません。牧師でもありません。人を見たら失望します。そこにはなことの希望は実はないんです。
なぜでしょうか。私たちは皆、徹底的に罪人だからなんです。
シト・パールが叫んだように、私たちは常に肉の思いと霊の思いで戦っているんですよ。そうなんですよ。
人にはそれを隠せるかもしれませんが、自分は分かっている。神様は分かっているんですね。
だから私たちは本当に24時間365日、家様を見上げなければならない。
家様が苦しみの中、困難の中に、病の中に、難しい姿に来てくださるんです。
だから家様を見上げてください。24時間365日、生きているうちにずっと家様だけを見上げてください。
そして家様に助けを求めてください。
人に求めるんじゃない。神様だけを礼拝してください。
我々のこの心肝の目、精神の目、全ての心の目が家様にフォーカスを当てて、外さないようにしてください。
24:08
皆様に何か悩みがあるでしょうか。苦しみがあるでしょうか。困っているんでしょうか。助けが必要なんでしょうか。
神の人は人に助けを求めず、神様に。皆さん、人に助けを求める代わりに、教会に来てください。
だいたいですね、月曜日から土曜日まで、だいたい教会1階は空いています。
水曜日の午前、午後、金曜日ももちろんスモールがあったりしますけれども、人がいっぱいある日より空いている日が多いです。
2階に僕はおりますけどね。僕もいない時もありますから、誰もいません。
その時に来てですね、神様に祈って、神様に賛美して、神様に訴えて、神様に祈って、神様と解決して、神様にかけてください。
それが信仰なんです。それが信仰なんです。
人はみんな罪事です。人には答え、正解はあります。
しばらく慰められることはあるでしょう。しかし、誠の答えは、助けは、イエス・キリスト他にはありません。
だからイエス様がね、私は道であり、真理であり、命であると。
それが唯一の真理なんですよ。全ての問題の解決、それが真理なんです。
誰にあげますか。イエス・キリストにあります。
大体の葛藤が、衝突が起こることはですね、神様に信頼しないで、私たちが人を信頼する。
それが主人であろうが、奥さんであろうが、子供であろうが、誰であろうが、先輩であろうが、誰であろうが。
私はですね、パサンデの話ですけれども、2013年12月に赴任して、2014年、大きい教会から行政のいろんなサブの奉仕をしていたところ、
一般の神とやら、またいろんな業者とのいろんな関わりのある仕事をしていたので、本当に自分の思い通りにいけなくて、
いろんな人から言われてやられて、大変苦しんだことがあるんですね。
そのときに何かの、忘れましたが、何かの報告するべきことがあって、そのときの朱人牧先生の聖先生に行ってですね、報告をして、
そしてですね、先生実はこういう悩みがあります。勇敢にですね、忙しい中でもちょっとお話をして、
27:04
こういう恋とかあって、愛があって、これでどうしたらいいのか、本当にわからないし、悩みがしたら、その先生が一発で解決してくださりまして、
人を頼りにするんじゃない、神様になって解決しなさいと。
黙って出てきます。そうなんです。皆さん本当にそうなんです。答えは、正解は、神様にしかありません。
聖書をちょっと開きましょうか。四辺の四十六遍、四辺の四十六遍、一節、二節、三節読みたいと思います。
私の聖書では950ページです。一節、二節、三節ですね。これ合わせて一緒に読みましょうか。
神は我らの避け所、また力、苦しむ時、そこにある助け、それゆえ我らは恐れない。
たとい地は変わり、山々が海の真中に移ろうとも、たといその水が立ち騒ぎ、泡立っても、その水が逆まして山々が動いてもせら。
アーメン。皆さん、これはコラの子孫のね、コラという人の、その子孫たちの歌なんだけれども、
ダビデもですね、同じような歌を歌っているんです。皆さん、誰が我らの避け所、力なんでしょうか。
皆さんお答えを見てくださいよ。誰ですか。神様なんです。苦しむ時、そこにある助けは、どなたなんでしょうか。
誰ですか、皆さん。神様なんです。それゆえ我らは恐れない。
地は変わっても、山々が海の真中に移ってもですね、水が立ち騒いでも、泡立っても、水が逆まして山々が揺れ動いても恐れない。なぜでしょうか。
神様が我らの避け所なんだから、力なんだから、助けだからなんです。
皆さん、私たちもこの歌が、この詩が、私たちも一人一人の親子告白でありたいんです。このように歩みたいんです。
皆さん、お願いします。何かの困ったことがありますか。大変なことがありますか。解決しなくてはならない課題があるでしょうか。
誰かとおしゃべりするより、一人で悩むより、神の前に出てきてください。あるいは教会に来てください。
30:07
そして賛美して祈って、賛美して祈って、感謝して、また聖書読んで、その中で神様に答えがあるんだから。
皆さん、すみませんがこういう話ね。例えば皆さん、誰々と電話して、何十分も何時間も電話することがあるでしょう。いろんな話をする。
でも神の前に賛美して祈ることは、十分に一分もなかなかできない。ある意味でおかしいと思いません、皆さん。
聖徒は、神の人は、人を頼りにしません。イエス・キリスト、聖霊様、神様のみ、頼りにします。
神の人、聖徒は、人に助けを求めません。イエス・キリストに助けを求めます。
聖徒は、人とおしゃべりして、ストレスを解消するか、満足を得るかじゃなくて、イエス・キリストに祈って、イエス様がくださる平安を豊かに味わいます。
これが信仰であって、これがクリチャーナです。
皆さん、もしも、私も含めてですし、私たちがイエス様に祈って、イエス様に求めて、イエス様と話し合って賛美することより、
もしも誰か誰や誰さんに会って、素敵なレストランに行ってランチして、コーヒー飲んで、おしゃべりして、
人を頼りにすることをもっと楽しんで好んでいるならば、私たちはそれを切り替えしなくてはならない。
イエス・キリストを二十四時間見上げて、イエス様だけを求めて、イエス様だけに助けを求めて、イエス様に祈り、あるいは叫ぶ信仰を身につけ、学ばなければなりません。
イエス様が言われました。
私の中に、私の内に留まりなさい。皆さんよくご存知でしょう。私の内に留まりなさい。
あるいは、ブドウの枝がブドウの木に突き刺されて繋がっていなければならない。
ということは、イエス様と相談することです。イエス様に祈ることなんです。
イエス様に申し上げて、イエス様に時には訴えて、イエス様に時にはその前に泣いて、賛美して、
それが、私の内に留まりなさいということなんです。
結婚された方が大勢おられますけれども、夫婦はお互いの内に留まっているわけなんです。
でもね、例えば、うちの奥さんがですね、悩みがあるのにですね、他の旦那さんに行ってですね、それに相談したりですね、訴えたりしたら、それはおかしいことでしょう。
クリシャーは、イエスのものなんですね。神のものなんです。イエスの中に留まるものなら、イエスキリストと相談する。
33:04
イエスキリストに祈る。イエスキリストに賛美することなんです。
皆さん、今までの皆さんの行動のパターンを、振り返ってみて、考えてみていただきたいです。
何か、何かが起きたんです。問題が、大変なことが起きました。
どうしよう、どうしよう、解決しなくならない、何かの苦しいことが起きた、あるいは自分の限界を感じた。
今までそんな時に、皆さんはどんなアクションを取りましたか。
それが、我々の本当の信仰の様子かもしれない。
自分で一人で病んでいた。あるいは、何とかなるだろうと、自分は自分を誤魔化していた。
あるいは、誰かに電話して、おしゃべりをしていた。
あるいは、どうかいいところにドライでも行こうかと言った。
あるいは、おいしいものもいっぱい食べて忘れようとしていた。
そうしたならば、我々の信仰は、イエスキリストより、人を、何か肉的な楽しみをもっと頼りにしている。
それが、本当の自分自身の姿ということで。
そして、何よりそれは、イエスキリストを全く信頼をもって信頼していない罪であるということを、私たちは知らなければならない。
だから皆さん、サタンというものが絶えず、私たちが恋愛できないように、祈れないように、神に近づくことができないように、神様を見上げることができないように妨げます。
恐ろしいほど、激しいほど、妨げます。
皆さん、もしもですね、土曜日の夜になったら、日曜日の朝になったら、何かが起こる。
そして、教会の礼拝に今度は何かが妨げられているならば、それはただの問題じゃなくて、ただの病気じゃなくて、これはサタンとの戦いなんです。
恋愛を妨げようとしている。
皆さん、もしも私が何かのどんな理由であろうが、祈っていない、礼拝していない、神をイエスキリストに見上げていないならば、それはあのサタンに負けていることなんです。負けていること。
あるいは、いくら祈ってももう答えられない。あるいは、神にほどかないと、神が私の祈りを聞いてくださらないと、それは祈りを妨げるサタンの偽り、嘘なんです。騙されてはいけません。
皆さん、祈りというものは、礼拝というものは、我らの力でできるものではないんですね。
祈れること、祈れた、礼拝できた、そのすべては神様の大きな恵みではないでしょうか。
36:06
神の恵みによって祈れるし、神の恵みがあるから礼拝できるし、神の恵みがあるから神の前に近づくことができるんですよ。そうなんです。
二つのうち一つです。肉の思いに負けるか、それに勝って礼の思いに導かれるか。信仰生活は二つのうち一つなんです。
皆さん、愛する皆さん、愛する明大祝会の皆さん、イエス・キリストを24時間365日、イエス様だけを見上げて、イエス様だけに助けを求めて、イエス様だけにお話をして、イエス様と勝負してください。
最後にもう一つだけ今日の御言葉から教えられることは、聖書の中では皆さんご存知のように、恐れてはならない、恐れるなという言葉がたくさんありますよね。
今日の二十節もイエス様がこう言われました。しかしイエスは彼らに言われた、私だ、恐れることはない。
皆さん、少なくともこの御言葉から言いますと、恐れというものは信仰と対峙するものであります。信じることと祈ること、平安はいつも共に生きます。
ですから私たちは、この世がくれない平安をイエス・キリストがくださる、そして私があなた方と一緒にいく、世の終わりまで共にいるというイエス様の強い約束があるならば、恐れることはない。
皆さん、祈って、主を信頼して、感謝して、主の御前に近づいてまいりましょう。苦しみの時も、混乱の時も、どうしたらいいのかわからない時も、人を頼りにするんじゃない。
自分を頼りにするんじゃない。この世を、この国を、お金を、健康を、能力を頼りにするんじゃなくて、イエス・キリストだけを頼りにしてください。
それが信仰なんで。そして、私たちは、皆さんお一人お一人には本当に、祈らなければならない課題が山ほどたくさんあると思います。
あるいはね、信仰の問題、信仰の成長のために、家族の救いのために、様々なことの解決のために、祈らなければならない課題がたくさんあるでしょう、皆さん。
39:07
祈らなくていい人は、私が見て一人もいらっしゃないと思います。私も込めてみんな祈る課題があります。ところが皆さん、何が危機だと思いますか。何が危機なんでしょうか。
祈らなくてはならない課題が、問題が、あるいは自分の能力が足りない、できる、できない、それが危機問題じゃなくて、もっと大きな危機問題は、
そういう山ほど課題、祈らなくなる課題があるのにかかわらず、祈っていない私たちが危機なんです。
ときにですね、たまに思うんですよ。明太利教会のある信徒さんは、本当に信仰があまりにも多くて、とても大胆な中田なのかな。でもそうではない。
ある意味で私たちが、本当に霊的な鈍感に無覚悟に陥っていて、精霊に反応、敏感になっていないと、祈らなくてよかろう、人に頼りにしようと思いがちなんです。
そこから抜け出てですね、精霊様は真理の霊ですから、その精霊の御言葉、精霊の際に敏感になって、霊的に目を覚ましていっていく人は、真理をわかります。そして真理を選びます。真理に従います。
1ヶ所の聖書を開けましょうか。ローマ書8章26節。ローマ人への手紙8章26節。私の聖書では302ページです。ローマ人への手紙第8章26節。
ご一緒にお読みしたいと思います。3、愛。
三多摩も同じようにして、弱い私たちを助けて下さいます。私たちはどのように祈ったらよいかわからないのですが、三多摩ご自身が言いようもない深いうめきによって、私たちのために取り成して下さいます。
アーメン。本当そうですよ、皆さん。
精霊三多摩様は真理の霊だから、私たちがどう祈ったらいいのか教えて下さい。導いて下さい。だから、精霊様にイエス様に祈るんですよ、皆さん。これが正しい信仰なんです。
何が恐れることなんでしょうか、皆さん。北朝鮮の核ミサイルが怖いことなんでしょうか。金さんが恐ろしいんでしょうか。戦争が怖いんでしょうか。いいえ、そうではありません。
42:10
あるいは、自分が何かができない、できるお金がある、ない、年取っている、そうではない、病気である、元気である、弱い。それが恐れることではなくて、もっと私たちが恐れるべきことは、私たちが霊的な無感覚に鈍感に陥ることであります。
祈らないことであります。神様を喜ばないことであります。神様に全く信頼を置かないこと、我らはそれらを恐れるべきであります。メッセージを終わりたいと思いますけれども、皆さん。
ですから、両大の協会の我ら一人一人が、この世にして目に見える問題が問題ではなく、自分の信仰、自分の信仰の力、自分の祈りの力、神様をどれだけ信頼しているのか、神の力を信頼しきって歩むならば、すべては解決されます。
そして、神様はあなたの栄光に輝く御挨拶をなしてくださるでしょう。そこに信仰の勝負があります。そうでないとですね、いつも問題ばかりで、いつも葛藤ばかりで、いつも争いばかりで、いつも乏しくて、いつも繰り返される、そこにずっとおるかもしれない。
皆さん、助けを求めにどこに向かっていますか?この世より大きなお方、父なる神様。私たちのどの問題よりそれを、ここにおられるみんなの問題を全部合わせてもそれよりはるかに大きな父なる神様。
その方に全く信頼を持って信じていくとき、そこに生きる道が、真理の道が、祝福の道が開かれることを皆さん、ぜひ信じてください。私が恐れることはない。イエス様の御声だけを聞きましょう。イエス様にだけ助けを求めましょう。平安はイエスキリストのハートにあります。お祈りしましょう。
44:27

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