神の愛と許し
それでは、「愛は忘れる」と題してメッセージをさせていただきます。
一言お祈りをいたします。
恵み深い天の父なる神様、私たち一人一人をまた、あなたが招いてくださって、
この宗の御前へと、礼拝の場へと集わしてくださったことをありがとうございます。
あなたは限りない愛をもって、私たちを愛してくださったと聖書は語ります。
今日は、そのことを分かち合うファミリーウェルカム礼拝です。
道家宗御自身がこの場にいてくださって、お一人一人の理解を助けてくださり、
聖書の言葉を通して、あなた御自身が語ってくださいますように、
これからの時をあなたへと期待します。
道家宗がお導きください。
また、このところに来たくて来れないお一人一人がいることも覚えています。
ご自宅で礼拝を守っておられる方、心が痛んで来れない方、
道家宗がお一人一人を覚えていてくださって、
また、そのところにあなたの恵みと、あなたの御臨在を表してくださいますように、
お願いをいたします。
あなたに期待をいたします様々な思いが、私たちの中に渦巻いていますけれども、
ただ、あなたを仰がしてください。
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン
イスラエルの反逆
先週は休暇をいただきましてありがとうございました。
リフレッシュをしてまた朱に仕えさせていただきたいと思います。
今朝はファミリーウェルカム礼拝ということです。
このことを覚えてまた今日来てくださった方々も本当にありがとうございます。
聖書に記されている神様の愛について、そして救いについて、
少し分かち合わせていただきたいと願っています。
余談から入りますが、ちょっと私ごとで恐縮なのですが、
実は先週と、そして来週も、その次の週もそうなんですが、
私の家族と、また知人の結婚式が続くんですね。
3つぐらい続くんです。
中には私も試飾をさせていただくものもあるんですけれども、
その中で開こうと思っている聖書の言葉は、
第一コリントの13章4節から8節という、いわば聖書の中で
愛の参加と呼ばれる箇所があるんです。
その言葉は、愛は寛容であり、愛は親切であるという言葉が続くのですけれども、
まさに愛はこういうものだよという説明が続くんですが、
その中で一つ私が心さされた言葉がありました。
愛は自分の利益を求めず、苛立たず、
人がした悪を心に止めずという言葉があるんです。
愛は人がした悪を心に止めないという。
13章の5節というところにあります。
愛は人のした悪を心に止めない。
ああ、私はどうかなと正直に問われました。
自分自身を変えに見ても、人からされた親切というのは忘れやすいもので、
ただ、人からされた悪というのはなかなか忘れることができない。
許したつもりで、怒りが私の中で再燃するということがありますし、
悪を心に止めずどころか、むしろ自分の人生を振り返りながら、
悪を心に溜め込んでいる私自身がいるなということを少し思わされたのです。
なんか偉そうに話せないなと正直思わされたんですね。
ただ、これは私だけのことではないと思うんです。どうでしょう。
私たちは互いに人間関係で失敗をします。お互いにそうです。
時に人に傷つけられるという経験をいたしますし、
時に誰かを傷つけてしまったという経験をいたします。
その中で、私たちは何か許せないという怒りを抱えたり、もしくは、
ああ、こういうことをあの人にしてしまったという後悔にとらわれたり、
そういうふうに、そのような重荷を引きずりながら生きてしまうということが、
お互いにあるのではないかなと思うのです。
そして時にですね、そういうものを抱えすぎると、
一体じゃあ本当に何が正しくて、何が間違っているのかというこの判断が
ごっちゃになってきてしまうようなことが、私たちはあると思うんです。
長年ホスピスで勤めたクリスチャンのお医者さんが、こういうことを書いていました。
多くの方々、それは今まで神様を信じていないそのような人々であったとしても、
共通して最後のその時に差し掛かる中で、漠然と許されたいと思っているのです。
許されたい。
それはきっと、人には言えずに抱えてきたこの重荷を許されたい。
もしくは、人生の最後に何か自分の中に残っているものを生産したいという願いが、
人には根本的にあるんじゃないかということを書いていました。
確かに聖書にもこういう言葉があります。
読みますので聞いていただけたらと思いますが、
人間には一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっていると聖書は語るのです。
これはヘブル人への手紙の9章の27節というところに書いてあります。
人間には一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている。
これは厳粛な言葉です。
最後、私たち一人一人の人生は生産する時があるのだと語る。
しかしそれは曖昧なものではなくて、
それは私たち一人一人を創造された神様の前に立たされて生産をする時があるんですよと聖書は語るのです。
その時を私たちはどのように迎えられればよいのでしょうか。
今朝のこの聖書の言葉から少しそのことについてご一緒に考えていきたいと思うのです。
二つのポイントでお話をいたします。
一つご一緒に目をとめたいのは、神というお方は忘れないお方であるということです。
今朝、先ほど読んでいただいた聖書の言葉をもう一回お読みしますと、こういう言葉ですね。
私、この私は、私自身のためにあなたの背きの罪を拭い去り、もうあなたの罪を思い出さないと聖書は語ります。
これは神様が語られた言葉です。神様の言葉です。
そして語った対象は何かというと、それはイスラエルという民族、国に対してでありました。
現在話題になっているイスラエルの2000年以上前のその民族と国に対してです。
このイスラエルというのは、聖書の中では少し特別な人たちでして、神様によって選ばれた民、
神様に愛され育まれ、神様の大切な我が子のように育てられた人たち、それがイスラエルという人たちです。
神様はこのイスラエルを神様ご自身の愛と祝福で満たす本当に素晴らしい民族、国にしよう、
そしてこの国を通して神様の素晴らしさを表そうとされたのですが、しかし現在と同じようにイスラエルは神に逆らい続けています。
そして父なる神様の心を、聖書の中でですけれども、父なる神様の心を深く痛めてしまいます。
経験がある方もいらっしゃるかもしれません。我が子にないがしろにされる親の気持ちってどんなもんでしょうね。
神様は同じようなことを考えられたかもしれません。本当に大切にこの子を大切に育ててきたのに、
イスラエルは神のことを無視して反対方向を向いて、自分の好きなように生きていった。
それよりに神様はこのイスラエルの反逆、逆らったことに対して裁きを下されるというのが、
実はこのイザヤ書の1章から39章で前半に書いてあることなんですね。裁きを下される。
イスラエルの元の国家であった北イスラエルと南ユダというのは、今からもうおよそ2500年ほど前ですが滅亡したと聖書は語ります。
私たちは思います。このイザヤ書の今日の言葉を見たら、
あなたの背きの罪を拭い去れ、あなたの罪を思い出さない。
神様はどんな悪いことをしたって忘れてくれるお方なんじゃないんですか。
気前よく私たちのことを許し、それこそ神様は優しくて愛にあふれて、人がした悪を心にとめなくて、
忘れてくださるお方だと言っているんじゃないんですかと私たちは思いますが、そうではない。
聖書はむしろよく語るのは、神は忘れない方だと語ります。
十字架による贖い
神は決して忘れるお方ではない。
神様はこの世界を創造した偉大なるお方です。
そして私たち一人一人をも作られた、そういうお方だと聖書は語ります。
神様はご自身が創造された一人一人がいる。
だから、ご自身が創造された一人一人を神様は決して忘れないんです。
神が全ての人を愛していると言われる理由は何か。
神様があなたを創造したからです。
そしてそれには例外はないんです。
なんか神様は特別な人だけ愛されるんですね。教会にいる人だけ愛されるんですね。
いやいや私は違う信仰を持っていますから、
いやキリスト教の神様関係はないですね。そうは言えないんです。
あなたを創造した神様は必ずあなたのことを愛し忘れてはおられないんです。
しかし、先ほどの父親と子供のことを思い出していただきたいのです。
私たちはどうでしょうか。
神様は私たちを一人一人を創造し愛しておられるのですが、
しかしもしも、そういう神に創られた神のことされた私たちが、
神様なんか私には関係ありません。
私は私の好きなように生きるんです。
そう言いながら、いや神様なんか私関係ありませんよって言って、
反対方向を向いて生きていくならば、神様はどのように思われるでしょうか。
先ほど語ったような、我が子に無視され、ないがしろにされる親のように、
心を痛めるのではないでしょうか。
そして先ほどのイスラエルと同じように、神様というお方は裁きを下されます。
神様は一人一人の罪を裁くお方であると聖書は語るのです。
罪と言いますと、私たちは神様に悪いことをしました、こういう犯罪がありますということを思いますが、
いやそうではありません。
聖書が語る罪というのは、神様なんか私と関係ありませんということです。
神様なんか私の人生に関係なくて、私は私の好きなように生きるんですと、
神様が本当はあなたを愛しておられるのに、それとはまったく逆方向を向いて生きていく。
それを罪と聖書は語る。
ここがね、聖書の難しいところなんです。
聖書は神は愛であると語ります。
ですから神様は私たちを作った一人一人を愛しておられるのは確かなんです。
しかし同時に、神は聖なるお方だと聖書は語る。
聖なるお方と語るときに、神は罪を裁かざるを得ない神である。
私たちはふと思うかもしれません。いやいやいや。
神様なんか信じてなくても、幸せな性格を送っている人はいろんな人ころでいるじゃないですか。
神様信じてなくても、この世の春を謳歌している人たくさんいるじゃないですか。
裁きはどこにあるんだと私たちは思うかもしれない。
しかし先ほどのヘブル書の言葉に戻りましょう。
人間には一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっていると聖書は語るのです。
裁きはいつあるのか。裁きは死後にあります。
最後に私たちは互いに神の前に立たされる厳粛な事実です。
そしてそこで神様の前で罪がつまびらかにされていく。
私の罪がつまびらかにされていく。
その時に、いや私はこれだけ一生懸命、いいことして生きてきました。
いや私はそんなに悪人と呼ばれるような人間ではありません。
でも、あなたがどれほどよく生きてきたかというよりも、
でも神様に対して背中を向けて生き続けてきたのであるならば、
どのように申し開きができるのだろうかということなのです。
厳粛な事実ですね。これは私もそのところに立たされるものです。
しかし、神は私たちのことを忘れてはおられない。
ただもう一つ、今朝の箇所で覚えたいこと。
しかし、本来であれば決して私たちのことを忘れない神様は、
今日の言葉の通り、神はしかしあなたの罪を忘れると言ってくださる。
しかしそれは何によってか、十字架によってということです。
二つ目のポイントは、神は罪を忘れてくださる。
それは十字架によってということです。
先ほどお話ししました、私たちは自分の罪をどうにかしなければなりません。
ただそれは、なんか、いや私はいいことして生きてきたんで、
まあ大丈夫でしょうというような、そういう話ではないんです。
この聖書が語る罪というのは、あなたがどう生きたかというよりも、
あなたが神の前にどうありましたかということが問われることなんです。
あなたは背を向けましたか、それこそあなたは神に向き合いましたかということが、
罪ということからの問題なんですね。
悔い改めと方向転換
ですから、よく教会で言われることは、悔い改めろ、悔い改めろと言われるのは、
あれは何かというと、方向転換しなさいということなんです。
反対を向いていた、神様なんか知りません、私の人生に関係ありません。
いや、でもその方向から向き直って、神様の方を向きましょうという、
方向転換のことを悔い改めと言います。
じゃあ、私たちが神様の方向を向いたら、そこには何があるのでしょうか。
それは十字架、十字架なのです。
神様は、私、この私は、私自身のためにあなたの背向きの罪を拭い去り、
もうあなたの罪を思い出さないと言われます。
もうあなたの罪を思い出さない。
しかし、無条件で神は忘れることなどできない。
いい加減なお方ではないのです。
決して忘れないお方が、あなたの罪を忘れるというために、
何が起きたか、実は神は、愛する御子であるイエス様を十字架で、
私の罪によって本来受けるべき裁きを、
神の御子であるイエス様が身代わりとして受け切ってくださった。
実はそれが十字架というものです。
何の罪のない神の御子が、私の受けるべき裁きを全部代わりに受け切ってくださった。
それが十字架です。
罪に対しては裁きがある。厳粛なこれも事実です。
しかし、本来私たちの罪の裁きは、私たちが受けるべきものでしたが、
裁きを受けたら滅びるしかない私たちですが、
しかし神はイエスキリストをそこに立てられた。
イエスキリストの十字架というのはよく絵になりますし、教会でも掲げられますね。
イエスキリストが十字架の上で苦しんでいる姿ということを私たちは目にいたします。
それは単に痛かったとか、そういうことで苦しんでいるだけではありません。
イエス様の十字架の苦しみというのは、私たち全人類の罪、私たちの重荷、私たちの呪い、
その全てをその身に引き受けられた苦しみですね。
そして十字架で裁きを受け切ってくださいました。
御子の父なる神様は聖なる神様です。
あなたの罪なんかを細目で見て何かないようにしましょうなんてことを言えるお方ではない。
罪を忘れたなど偽ることはできない。
しかしそれ以上に、父なる神は愛の神なのです。
聖書はこのように語りますね。
聖書で一番有名な言葉ですが、
神は実にその一人号をお与えになったほどに、要、愛された。
それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、
永遠の命を持つためであるという言葉があります。
神は実にその一人号をお与えになったほどに、要、愛された。
この要という言葉に私たち一人一人を入れてよいのです。
神は実に一人号をお与えになるほどに、あなたを愛された。
先ほど歌いました賛美の歌詞にこういう歌詞がありましたね。
十字架にイエスキミワレオアガナイタモ
十字架の悩みは我が罪のためなりと私たちは歌うんです。
この十字架は私のためであったとクリスチャンは告白をいたします。
教会はどこに行っても十字架を掲げます。
教会の中心は十字架なのです。
神に逆らってきた罪、それを解決することは私自身では到底不可能である。
罪は自分がいいことをしたかどうかの話じゃない。
神の前にどう向き合うか。
しかし自分一人では到底無理。
ただ罪の救いはイエスキリストの十字架にのみあると教会は告白をするから、
私たちは教会に十字架を据えるんです。
このイエスの十字架は私だけではない。
ここに集っておられる私たちですし、
今日恐らく教会に来られ始めたその人たちの全ての人の罪も、
あなたの罪も私は背負っているのだとイエスキリストは語られます。
これまでどれほど神様に背を向けて罪を重ねてきたとしても、
今このお方に方向転換をしイエスキリストを受け入れるならば、
あなたの罪は許されることができる。
神の愛と許し
あなたは神の子となることができる。
そのように聖書は語ります。
そしてこの十字架のゆえに神様は言われるのです。
私、この私は私自身のためにあなたのその気の罪を拭い去り、
もうあなたの罪を思い出さない。
これはクリスチャンである私たちも気をつけなければなりませんが、
神様の御前に立つときに私の罪を消してくれる都合のいい黒板消しなんかありません。
人の罪を消すために必要だったのは巫女の血をです。
イエスキリストの流された血。
でしか私たちの罪を消すことなどできない。
一つだけ詩を紹介して終わりたいと思いますが、
クリスチャン界隈では有名な水野玄蔵さんという詩人の方がいらっしゃいます。
この方は瞬きの詩人として知られる方です。
水野玄蔵さんというのは9歳のときに赤リによる高熱が原因です。
脳性麻痺を患われるんですね。
志々が不自由になって言葉も伝えられない。
ですから家族の方とコミュニケーションを取る時は
瞬きの回数でコミュニケーションを取ったという方がいらっしゃいます。
この水野玄蔵さんが12歳のときに牧師先生と出会って
聖書に触れクリスチャンとなられるんですけれども、
この方がこういう詩を読んでいるんですね。
一つお読みしますとこういう詩です。
キリストの愛に触れてみよという詩です。
お読みしますと、
幾度も聞いても読んでも
キリストの愛の尊さは触れなければわからないから
キリストの愛に触れてみよ
キリストの愛に触れてみよ
幾度も思い考えても
キリストの愛の確かさは触れなければわからないから
キリストの愛に触れてみよ
キリストの愛に触れてみよ
涙を流して感動しても
キリストの愛の嬉しさは触れなければわからないから
キリストの愛に触れてみよ
キリストの愛に触れてみよという
そのような詩があります。
キリストの愛に触れてみよ
私たちは想像できないかもしれません。
体が動かなくなった、何もできなくなった
神を呪って死にたい
水野さんそのように思われたその方が
希望と感謝を持って
キリストの愛に触れてみよと歌うことができる
それほどまでの変化が
神様に触れるときに
イエス様に触れるときに
キリストの愛に触れる
私たちにあるんですよ
本当にそうなんです。
もう最後になりますが
あえてお聞きいたします
皆さんの人生の生産はもうお済みですか?
あなたの抱えている重荷を下ろせましたか?
あなたの罪は許されていますか?
神の御前に立つ備えはできていますか?
どれほど私たちが正しく
いい人間として生きたかではない
罪の救いは
イエス・キリストの十字架にのみあると語られている
イエス様はあなたの罪も
十字架で担われたと言われます
その事実を受け入れることが
信じるということです
神様は今朝
私たちを招いているのではないでしょうか
私はあなたを愛し
イエスの十字架によってあなたに
罪の解す罪の解決の道を開いている
私はあなたの罪を忘れたいと願っている
キリストの愛に触れてみようです
キリストの愛に触れてみよう
外で時短座を踏んでいても変わらないのです
一方この方の愛に触れてみよう
それが今朝私たちに招かれるところではないでしょうか
ぜひ思いがあるならば
そばの方と祈っていただきたいですし
分からなかったら私に聞いていただいてもいい
分からないなら教会に来続けていただきたいと思います
でも一つ確かなことは
キリストの愛に触れなければ分かりません
ぜひ時短座を踏まずに
一歩進み出していただきたいのです
お祈りをいたします