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2025-04-13 25:31

2025/04/13:無駄と思えるほどの愛

2025/04/13 聖日礼拝

加藤満牧師

マタイの福音書 26:1-13


サマリー

受難集の開始に際し、イエス様の十字架への道を思い起こし、彼の無限の愛と犠牲に感謝する特別な時が描かれています。女性が高価な紅油をイエス様に注ぐ行為は、彼女の信仰と愛を示し、その出来事が福音と結びつけられて語られます。このエピソードでは、神の無駄遣いのような愛の重要性が強調されます。特に、十字架の上で示される神の過剰な愛について考え、私たちがその愛を無駄にしないためにできることを探ります。

受難集の始まり
それではお祈りを致します。
愛せる天の父なる神様、尊い皆を賛美を致します。
今朝から受難集が始まってまいります。
改めて主よ、私たちのために十字架へと進んで行かれたイエス様の足跡を覚え、
その御子にそのような道を示された父の心を覚え、
そこにあるあなたの犠牲と痛み、
そしてそこまでしてまで私たちを救おうとしてくださったあなたの熱情、あなたの愛を覚えるこの季節を感謝いたします。
神様がどうかこの季節を豊かなものにしてくださり、お一人一人にあなたの受難の意味を教えてくださいますように、
あなたは限りない愛をあの十字架において私たちに示してくださいました。
あなたの流された血潮により、私たちはあなたによって罪許され、や罪から解き放たれ、
三日目に甦えられた復活の命、永遠の命を私たちに与えてくださり、
永遠なる死と決して切り離されることのない新たな命へと私たちを生かしてくださっていることをありがとうございます。
あなたは自分の足立つのではない、私の恵みによって歩みなさいと、あなたは私たちを支えてくださり、
そしてご自身の御国を共に築こうと招いてくださる種であることを覚えてありがとうございます。
神様、どうか、今一度私たちがあなたの前にどれほどのものを捧げられていただいているのかということに目を開いてくださり、
あなたの御前にただ感謝をし、神戸をたれるそのようなものとならしてください。お願いいたします。
ここに来たくても来れないお一人一人がいらっしゃることを覚えます。
特に思いもよらないことがここ最近続いています。体の痛みやまたいろいろなことが起きています。
主がどうかその痛みをお一人一人を慰めてくださり、支えてくださり、あなたの永遠の身腕をもって立ち上がらせてくださいますように、お願いいたします。
神様、世界で本当に様々な争いが起きていることも覚えていますけれども、私たちは誠の王であるあなたを仰ぎます。
主よ、どうかこの世界にあなたの平和を築いてくださいますように、改めてお願いをいたします。
これからの時を見てに委ねます。御言葉を開き、あなたの恵みを教えてください。
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。 アーメン
女性の特別な行為
受難集が始まってまいります。 私たちを罪から解放するために
巫女イエス様は父なる神様の御心をあげまれます。 この時に私たちは改めて
父なる神様、そして巫女なるイエス様の私たちに向けられた痛むほどの愛というものを、ご一緒に覚えさせていただきたいと思うんです。
今朝、この読んでいただきましたのは26章の1節からです。
マタイの福音書において言うならば、この26章から受難というものが始まってまいります。
マタイの福音書というのは、実にわかりやすく構成をしてくださっていまして、話のセクションの始まりと終わりには一つの鍵言葉があるんです。
それは何々を終えるとという言葉で、マタイは区切られる特徴があるんですね。
例えば、マタイの11章ではイエスは十二弟子に対する指示を終えるとという言葉があったり、13章の53節ではイエスはこれらの例えを話し終えるとという言葉があったり、
そういうふうに区分していくんですけれども、今朝の26章の1節をお読みください。
イエスはこれらの言葉を全て語り終えると弟子たちに言われたと。
いわばこれはイエス様の教えの時は終わったということです。
ここからまさにイエス様の誠の王としてのクライマックス、その歩みが始まっていくことをマタイの福音書は告げます。
そしてそこにはまさに様々な人の心の動きがあることがよく見えるんですね。
26章の読んでいただきましたが、3節から5節には例えば最主張や長老たちのことが書いてあります。
彼らはイエス様を殺そうと覚削するわけですね。 その殺意がみるみる磨かれていくわけです。
一方弟子たちはどうであったかというと、おそらく彼らは呑気に構えていました。
十字架の死についてイエス様はマタイの福音書では二度はっきり告げます。
私はエルサレムで最主張長老たちに捕らえられて十字架で死に三日目によみがえると。
しかしその言葉を聞いても彼らの心はそれを信じませんでした。
弟子たちの関心は自分のことばかりにあってそんなことが起こるはずがないとペテロは言いました。
しかし、ただ一人だけこの言葉を真摯におそらく受け止め、イエス様の埋葬の備えをした女性がいます。
今朝はその女性に目を向けていきたいと思うのですが、今朝の箇所というのはまさに
受難集を迎える私たち、いえイエス様の受難という事実を前にする私たちに
あなたはどの姿勢をとりますかとまさに語りかけるような箇所です。
そしておそらく期待されるのは、私たちも主の埋葬の備えに加わりましょうという招きでしょう。
じゃあ主の埋葬の備えに加わるとはどういうことなのか、今朝二つのポイントでまたこの箇所を見ていきたいと思っています。
一つ目のポイント、主の葬りの備え、しかしそれは福音の記念であるということです。
葬りの備え、しかしそれは福音の記念であるということです。
6節からのところを主に見ていきますけれども、エルサレムに入場されたイエス様というのはエルサレムに拠点を置かれなかったんですね。
エルサレムから東8キロぐらいのところにあるベタニアという町にイエス様は拠点を置かれて、毎日エルサレムに通われたのです。
おそらくこの6節に書いてありますサラートに侵された人シモンの家というのは、ベタニアのイエス様が拠点にされていた家であると思います。
サラートというのは重い皮膚病とも他の訳では訳されますけれども、当時はその人がそばにいるだけで穢れると思われていましたから、人々は近づかないのですが、
しかしイエス様というお方はどんな汚れでも汚すことはできません。 むしろイエス様の清さがすべての汚れを清めてしまわれるわけですよね。
これは8章のところに書いてあります。 誠の王であるイエス様はサラートのような苦しみや痛む人々と共に生きてこられた王様でした。
そのことがこの1節でギュッと内容がまとめられているんですね。イエスは変わらずそういう王としては生まれた。
さてそこにある女の人が出てまいります。 そして彼女は突然ですけれども7節にあります。
ある女の人が非常に高価な紅油の入った小さな壺を持って身元にやってきた。 そして食卓についておられたイエスの頭に紅油を注いだというのです。
突然女性がやってきてイエス様の頭に紅油を注がれたというんですね。 これはこの紅油は非常に高価なものであったとあります。
いくらぐらいかわかりません。ヨハネの福音書の類数の話では300でなりと書かれていますから今で言うと300万円ぐらいでしょうか。
このところはどういうところかわかりませんが、ただ似たような値段であったのではないかなと思います。
弟子たちはこれを見て憤慨したんです。 怒るほどに高い紅油だったことは間違いないわけですね。
彼らは弟子たちは言いました。 もったいない。こんな無駄遣いをしてと怒ったわけです。
そして紅油というのは通常塗って使うんです。 注ぐというのはそんな使い方はなかなかないんですね。
ですからこの女性のしていることはまさに無駄遣いです。 無駄遣いをしているような光景ですね。
どうしてこの女性はイエス様の頭にそんな無駄遣いというか油を、紅油を注いだのでしょうか。
彼女の理由は聖書には書かれていません。 ただ想像すると彼女はもしかしたらイエス様の弟子であったかもしれません。
そしてイエス様が受難に向けて語っておられる言葉、私はエルサレムで十字架につけられて死ぬのだという話を
弟子たちはそんなことあるはずがないと聞いてたけど 彼女は真剣に受け止めていたかもしれませんね。
そしてこれから死へと向かわれるイエス様に私ができる最上は何かと考えたときに
彼女の持ち物でおそらく最も高価な紅油をイエス様に捧げたいと思ったのかもしれません。
彼女のこの行為に対してイエス様は喜ばれました。 十節にも私に彼女は良いことをしてくれたと言うんですね。
良いことをしてくれた。 彼女がどういう意図でそれをしたかは聖書は書いてませんが、イエス様は彼女の行為をこのように受け止めたわけです。
一つ、彼女は私の埋葬の備えをこれを通してしてくれたんだということ。
そしてこの彼女の行為は福音が語られるところでは記念として語られるようになるということを言われるわけですね。
十字架の意義
ちょっと順に考えてみたいと思うんですけれども この紅油が注がれたということをイエス様はまず埋葬の備えとして受け止めました。
先ほども申し上げましたが、紅油というのは塗るものでして、当時遺体を葬るための準備としては一般的なものでした。
遺体は墓に収められますけれども、今みたいに霊案室があるわけではなくて、向こうは高温多湿ですから遺体ってすぐに痛むんです。
ですから遺体のすぐすぐ後に紅油を塗って死臭不臭を防ぐという意味で紅油を塗ります。
ただ、犯罪者はこの限りではありません。犯罪者はすぐ紅油も塗られる間もなくポンと投げ捨てられます。
ましてや十字架にかけられるイエス様は当然そのようにされるはずでした。 ですから紅油を塗られるいとまのないような死を迎えるわけです、イエス様は。
頭に紅油を注いだ行為、それは十字架で死に紅油を塗られるいとまもないような死を迎えるような私に対して、彼女はこのような油を注いでくれた。
これはイエス様にとって本当に慰めの香りになったと思います。 ああ、そのように私の死を受け止めてくれる人がいたのだということ。
これは良いことなんですよ。イエス様はとても喜ばれたのだと思います。 しかしイエス様はそれだけで終わりませんで、もう一つのことを言われました。
しかしこの女性の行為はイエス様の埋葬の備え以上に13節ですね。 世界中のどこでもこの福音が述べ伝えられるところでは、この人がしたこともこの人の記念として語られますということを述べる。
彼女の行為は、なんて言ったらいいんですかね。 福音が語られるところに添えられて語るにふさわしい行為だということを言う。
もうちょっと先日めて言うならば、彼女の行為こそが福音の特徴が現れているという。 それはまさにこの女性の行為こそが、
神の福音とは一体何であって、いいえこれは受難の一番前に置かれますけれども、イエス様が十字架に向かわれる意味というのは一体何であるのか。
そのすべてを物語っているからです。 私はクリスマスの時に、クリスマスを物語るイメージとしては食家礼拝がベストだというお話をいたします。
真っ暗闇の中に光が灯るというのは、暗闇の中に光として来られたイエス様。 クリスマスはそれだけでも一発で語れる。
じゃあ受難を語るその出来事、そのイメージは一体何なのか。 彼女のしたことです。受けるに値しない。
まあそういう言い方も良くないか。でもあまりにも高価な行為をもったいなくドボドボと目の前で注ぐという行為。
それが受難です。 どういうことか。いわばこういうことができるのでしょう。
この女性は高価な行為を無駄遣いするかのようにイエス様の埋葬の備えをするために捧げたのですね。
しかし十字架とは何でしょうか。 それは
父なる神が何よりも高価な神の御子を無駄遣いするかのように罪人を救うために十字架に捧げたのです。
聖書は語ります。これが福音だということです。これが福音です。 神様が私たちに一方的に成してくださったこと
父なる神は何よりも高価な神の御子を無駄遣いするかのように罪人である私たちを救うために十字架に捧げられた。
それは神が私たちを罪から解放するために 全ての犠牲と痛みと悲しみを引き受けられたということです。
それはあなたに対して何もし払わせないために 神は全てを払われたということ。
高価な行為を惜しみなく捧げた行為を通して 実は神様がこの十字架の前にそのイメージを置かれるのは
私たちが気づくべきことは神ご自身もまた 私たちのために高価な行為を惜しみなく捧げきってしまわれたということです。
それが御子イエス様だと聖書は語るんですね。
無駄遣いですよね。本当に無駄遣いです。
神の無駄遣いのような愛
二つ目のポイントを見ていきます。二つ目のポイントは私たちは 神の無駄遣いのような愛を無駄にしてはならないということです。
この女の人が紅葉を捧げた時に人々は怒りました。
なんともったいない。なんと無駄遣いか。 ただ私たちは少し想像してみていいかもしれません。
もし一転して、私がこういう無駄遣いをされる 立場に置かれたならばどうでしょうか。
私という人間がこの物語でいうとイエス様のところに私が置かれていると想像してみてください。
突然私が座っていたら 神様が高価な油を、非常に高い高価な油を
私に惜しみなく注がれるのです。ドボドボドボと注がれる。 私たちはおそらく同じ言葉を言います。
怒ってではなくて驚き喜んで言うかもしれません。 神様私にこんな高価なものをいただいていいんですか。
神様もったいないですよと。 神様私なんぞのためになんという無駄遣いをあなたはなされるんですか。
私たちは言うでしょうね。 その神様の気前の良さに驚きながら感動しながらですよ。
私のためにあなたはこんなことまでされてしまうのですか。 そのように
そこまでされる神様の前に私たちは戸惑うのではないでしょうかね。 けれども
神様はドボドボドボドボと油を注がれる。 惜しみなく無駄遣いをするかのようにドボドボと油を注がれる。
しかしその手は震えているんですね。 私の宝を
すべてをあなたに捧げよう。 あなたが
彼によって生きるためにと。 それが十字架。 それが十字架。
十字架に示された神の愛というものは 実にそういうものです。過剰な愛です。
過剰です。 全く均衡のとれていない無駄遣いのような愛です。
でも教会が十字架を掲げるのは 十字架上で示された神の愛というのは、そのような過剰で私たちに対して無駄遣いをするような
そのような愛を神は私たちすべての人のために注いでくださって、その愛は今も変わらないということを神が約束されたからです。
愛を受け取る態度
そのような愛ですね。 その愛を注がれた行為を
私たちは無駄にはしてはいけないということを 今朝ご一緒に覚えなければならないと思います。
そのような愛、そのような非常に高価な行為、 無駄にしないために私たちにできることは何でしょうか。
私は一つだと思います。 神様の愛を私たちは小さく見積もることをやめましょうということです。
エピソディという手紙の3章の17節からというところで パウロが同じことを語りました。
エピソディの手紙3章の17節から19節、 皆さんよくご存知だと思いますが読んでしまいます。
エピソディの手紙の3章の17節から19節、お読みいたします。 新約聖書の387ページの下段になりますけれども
こういう言葉があります。 お読みいたします。
信仰によってあなた方の心の内にキリストを住ませてくださいますように そして愛に根差し愛に基礎を置いているあなた方がすべての生徒たちと共にその広さ長さ高さ深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり
人知を遥かに超えたキリストの愛を知ることができますように そのようにして神の満ち溢れる豊かさにまであなた方が満たされますようにと
パウロは語ります。 十字架に表された愛、キリストの愛というのはパウロの言葉を借りるならば人知を遥かに超えた愛です。
それは言わばその神の愛、キリストの十字架に表された神の愛は大きさが計り知れない、仰ぎきれないほどの愛であると語ります。
しかしながら私たちの現実におそらくよくありがちなことは 私たちの中には神様のために私はどれほどのことをしなければならないか
ということが大きくて、神様に私が何をしなければいけないかが大きくて 神様が私になしてくださっている福音、良き知らせを小さく見積もるということが私たちよくあるんですよ
しかし何度も言います。福音書であったり福音という言葉は神が私たちに何をなしてくださったかです
そして福音書が語るのは神が私たちにこれだけのことをなしてくださったあなた方は どのようにいきますかという問いかけであって、これが大きいんです
神が私たちに何をなしてくださったのか 計りきれないような大きな愛を受け取ること、受け取り続けること
神の愛を小さくしないように、そのようにし続けること それが私はこの無駄遣いのような愛を無駄にしない
大事なことではないかなと思います もう終わりますが受難集といいますのは
神様の愛の大きさを思い巡らす一つの機会になるのではないでしょうか 改めて私たちは受難集を言い
神様の愛を前にどのように過ごすのでしょう これは別にこの季節に限らず問われることですが
一つ考える大事な機会になるのではないかと思っています
最初に申し上げました 私たちはこの受難集をどのように、神の愛を前にどのように過ごすか
3つの態度を取ることができる 最小や民の長老のように過ごすことはできます
自分の願い通りに働いてくれない神など死んでしまえ 十字架上で十字架につけると叫んだ人たちの思いはそういうものです
私の期待に応えない神など死んでしまえ そのように神様に対してあなたの愛など信じられないと言い続けるのでしょうか
もしくはイエス様の弟子たちのように過ごすかもしれません 受難?神が何をしてくれた?そんなこと起きたはずがない
そのように私たちは何気なく神の愛の前を過ごすことも可能でしょう しかし私たちは互いに今朝
イエス様の埋葬の備えに行きなさいと招かれる それは
十字架に向かうイエス様を思い巡らしながら 彼を見つめなさいと招かれるんですよ
神がキリストを通してあなたにどれほど大きな犠牲を払い どれほど高価なお方を捧げ
しかしそれを通してどれほどあなたを愛しておられるか 私に対して神様が注いでくださった無駄遣いのような愛を喜んで受け取りましょう
受け取りきれないほどの愛の広さ長さ深さ高さを思い巡らしましょう 木曽集をお渡しいたしました 大したこと書いてないかもしれませんが
ただ私が心がけたのは神がこの時に何を私たちにしてくださったかということです 神が何をなさったか
そして同時に私たちはそこに流れる神様の痛み 涙を覚えましょう
私たちに何一つ負わせないために 神がどれほどの痛みと犠牲の上に私たちに新しい命を与えてくださったのか
そのことを覚えて父なる神様 そして巫女なるイエス様の痛むほどの愛を私たちはご一緒に深く思い巡らせさせていただきたいと思います
一言お祈りをしてメッセージを終わります
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