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2022-02-27 31:51

2022/02/27:創世記(44)イエス・キリストを指すヨセフ[2]

2022/02/27 聖日礼拝

尹善鎬牧師

創世記 -21


00:01
一言お祈りします。神様、感謝します。
今日も、私たち一人一人を主が導き、守り、憐れんで、許して、
また、神様御自身が、私たちの罪や背き、足りなさのゆえにも、主は絶えしのんで下さって、
今日、ここに私たちを集めて下さいました。
主の許しがあるから、主の憐れみがあるから、私たちは生きております。
主によって生かされているものとして、ただ主だけを仰ぎ見て、ただ主だけを褒めたたえて、
ただ主だけに信頼する、その生き様でありますように、
私たち一人一人を主をどうぞ、あなたら帰り見てみて下さいますように、お願いいたします。
今から、神様御自身が、私たち一人一人の魂の中に、霊の中に、お語り下さいますように、
心を謙虚にし、無にして、神の御声を聞く、信仰を我らにお与え下さい。
そして、その御言葉に基づいて生きるものとさせて下さい。
イエス様の皆によってお祈り致します。アーメン。
今日は、教会としては、第29回の総会が開かれます。
水曜日の学びでしたけれども、エペソビテの手紙の学びをしておりまして、
教会の頭はイエス・キリストである。そして、私たちはその各部分である。
教会は、使徒によるのではなく、イエス・キリストによって導かれ、進まれるということを覚えつつ、
また、総会に共に臨みたいと願っております。
また、皆さんにお願いしたいと思いますけれども、まだコロナが完全に終わっているわけではありません。
つい昨日、私の知り合いの牧師のお姉さん、65歳でしたけれども、3回も接種しましたが、
コロナにかかって、とても健康な方でしたけれども、65歳で亡くなられたそうなんです。
だから皆さん、油断しないでほしいです。
03:03
お知らせしてお願いしているとおりに、お互いを守り合うために、なるべく、
出会いの前には、おしゃべりとか、接触をぜひ控えていただきたいと願っております。
人は油断しているときに、何かが起こりやすいということですので、
お互いを守るために注意していただきたいと願っております。
病気に関しては、自信を持てる人は誰もいないわけですから、
お互いに注意しておしゃべりなど、したい気持ちは分かりますけれども、
しばらく控えておいて、それで何か悪いことが起こるわけではないですから、
お互いに控えていただきたいと、お互いを守るために注意してほしいなと願っております。
イエス・ギリストを指すヨセフ2回目になります。
先週は、詩編84編6節を持って終わりました。
そこで詩編のこの記者は、
彼らは涙の谷を通っても、そこを泉のあるところとします、ということを言っていますけれども、
ヨセフの生涯は、まさにそういうものでした。
神様が彼と共におられて、
ヨセフの生涯は、まさに多くの人々に、
命の救いをもたらす生涯に、主が帰ってくださったということなんです。
この多くの人々に救いをもたらす生涯ということをポイントとして考えるならば、
まさにイエス・キリストのご生涯が、そうであったわけですね。
当時、文宗あるいはユダヤ人の指導者たち、宗教指導者たちは、
イエス・キリストを除いてしまえということで、十字架にイエス様をつけました。
イエス様から見れば、最善のことをしてあげたのに、
その人々から最悪のことをされたわけですね。
しかし、その時にイエス様は、その自分を指して、
06:02
殺せ、殺せと叫ぶ、その文宗を見て、
イエス様は何と言われたのでしょうか。
今日の装飾の話とよく似ている部分がありまして、一緒に開いてみたいと思います。
新約聖書のルカノ福音書23章34節です。
私が読みたいと思います。新約聖書の170ページですね。
ルカ23の34、その時イエスはこう言われた。
父よ、彼らをお許しください。
彼らは自分が何をしているのかが分かっていないのです。
彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いたとありました。
イエス様は最善を成したけれども、それを最悪に返してくれる彼らに向かって、
イエス様は父よ、彼らをお許しください。
彼らは自分が何をしているのかが分かっていないのですと叫ばれました。
祈られました。
つまり、私をあの釘で十字架に張り付けにする。
この人々の罪のために、私は身代わりになって死ぬということですね。
これは本当に驚くべきことではないでしょう。
この人々はイエス様に対して、これ以上悪はないことをしてしまったわけです。
しかし、そんな時にイエス様の口から出た言葉は、
父よ、彼らをお許しください。
だったんですね。
イエス様は、神様はそこまで愚かになってくださるお方であります。
09:01
そこまで人々に泥足で顔を踏みにじられても、
その人々をかえり見てくださるお方であります。
ですから、父だら神様は喜んで、イエス様の死を受け入れられました。
そして今度は、その死の世界にイエス様をつなぎ止めさせないで、
死を打ち破って、死の世界から復活させてくださいました。
そして、そのイエスキリストゆえに、
イエスキリストに会って、イエスキリストを通して、
この方を信じる者が救われる道を開いてくださったわけです。
まさにここに、ヨセフの姿を見るわけです。
もちろん、イエス様がヨセフを指すんじゃなくて、
逆にヨセフの生涯や彼の言葉が、イエス様を指さすわけですからね。
ヨセフによって、彼を討った兄弟、最初は彼を殺そうとしたんですね。
その自分のお兄ちゃんたちを、ヨセフは許しました。
許すだけではなく、彼らの命を救ってあげたんですね。
今日の聖書解説をもう一度、今のルカノフ文書のね、
イエス様が叫ばれた34節を覚えながら、
今日の17、20、21節をもう一度見てみたいと思います。
創世紀50章、まず17節、私が読みします。
ヨセフにこう言いなさい。
お前の兄弟たちは、実にお前に悪いことをしたが、
兄弟たちの背きと罪を許してやりなさい。
今どうか、父の神の子供たちの背きを許してください。
ヨセフは彼らの言葉を聞いて泣いた。
まるでですね、神様がイエス様に語られるような言葉ではないでしょうか。
イエス様に対する人々の背きとその罪を許してやりなさい。
これでイエス様は彼らの罪をお許しくださいと、
イエス様は神様に祈られたということです。
12:01
また20節ご覧ください。
20節、あなた方は私に悪をはかりましたが、
イスラエルのユダヤ人たちはイエス様に悪をはかりました。
はかっただけながら実際に実行に移しましたね。
神はそれを良いことのために儚いとしてくださいました。
それは今日のように多くの人が生かされるためだったんですね。
ユダヤ人たち、宗教指導者たち、群衆たちはイエス様を十字架につけました。
悪をはかって実行に移しました。
しかし神様はイエス様の死、その苦しみやその叫びを良いことのために儚いとしてくださった。
ヨシオによってその家族が多くの人々が生かされたように、
イエス様の十字架の死によって人類のその方を信じる人々が生かされるものだったんですね。
それから21節ご覧ください。
ですからもう恐れることはありません。
私はあなた方も、あなた方の子供たちも養いましょう。
このようにヨセフは彼らを安心させ優しく語りかけた。
と、ジエス・キリストの贖いの苦しみと、その苦しみの結果、
神様はどれだけ哀れみ豊かな方であるか。
ヨセフはですね、その生涯を通してイエス・キリストを指さしています。示しています。
このイエス・キリスト、その父なる神様を愛して、
どこまでも帰りみてくださるこの方を私たちもどこまでも真実に、謙虚に、
信仰によって使え、従ってまいりたいと願います。
もう一点、神の訪問ということについて少しお話したいと思います。
今日の聖書・科書のその次の部分ですが、
荘石五十書の二十四節と二十五節をご覧下さいますか。
私が読みします。
ヨセフは兄弟たちに言った。
15:00
私は間もなく死にます。
しかし、神は必ずあなた方を帰りみて、
この帰りみるという言葉を注目してほしいんですが、帰りみて、
あなた方をこの地からアブラハム・イサク・ヤコブに誓われた地へ登らせて下さいます。
二十五節、ヨセフはイスラエルの子らに誓わせて、
神は必ずあなた方を帰りみて下さいます。
二回もヨセフは言っています。
まずは兄弟たちに、そしてその後は兄弟の子供に、
同じ神様は必ずあなた方を帰りみて下さいます。
その時あなた方は私の遺骸をここからタズサへ登って下さいと言ったとあります。
そしてヨセフは二十六節、ヨセフは百十歳で死んだ。
彼らはヨセフをエジプトでミイラにし、棺に納めたとあります。
そして時間が経って、モーセが生まれます。
そしてモーセによって、モーセを通して神様はこのイスラの人々を、
あのエジプトから、パラオの元から、奴隷の増胎から救ってくださるんですね。
その時にイスラの人々は、
今日のこの五十章の二十四、二十五節、
祝わせたヨセフのお願い通りに、ヨセフの遺骸をタズサへ行って、
カナンの地に向かうんです。
そこで確認したいと思います。
出エジプト記十三章十九節を開いて下さい。
123ページです。私が読みます。
モーセはヨセフの遺骸をタズサへていた。
ここにありますね。
それはヨセフが、神は必ずあなた方を帰りみてくださる。
その時あなた方は私の遺骸をここからタズサへ登らなければならないと言って、
イスラエルの子らに固く誓わせていたからである。
だから皆さん、モーセと、実際にタズサへ行ったのは他の人々でしょうけれども、
18:02
イスラエルのこの百万人以上の人々、おそらく一番先頭におかれだったと思うんですが、
このヨセフの遺骸を、出エジプトの最初から、彼は四十年アラナをさまよったわけですけれども、
だから四十年間ずっとこの遺骸をタズサへて、
残念ながらさまよったわけですけれども、
カナの地までこれをタズサへて登ったわけです。
そして実際にそこで葬ったわけなんです。
その時に、ヨセフは自分が死んだ後のことですが、
今日の五十四の二十四、二十五節において、ヨセフが遺言として残した言葉、
神は必ずあなた方を帰りみて下さいます、というこの言葉を、
また私自身も皆さんにお伝えしたいと願っております。
あいにく私が病気になりまして、
牧会に千年すべき牧師が、十分な牧師ができずに一年が経ちました。
皆さんからは、水曜日とか日曜日だけで十分ですよとおっしゃられていますが、
牧師としては、その牧師しかできないことは、
ある意味でとても申し訳ない気持ちとともに、つらい気持ちになります。
それで一年が経ちました。
その間に、幸いに二回しかなかったのですが、入院の期間もありました。
そして一年が経って、今二月になっています。
もちろん就職せずに、このまま最小限の奉仕をさせていただくことも可能かと思いますが、
牧会者の良心と言いましょうか、何と言ったら言葉が浮かびませんが、
21:01
神様にも申し訳ない、教会において皆さんにも申し訳ない。
とするならば、もう辞めようと思ったわけです。
もちろん私が就職の形として辞めるからといって、
教会が、野田に教会がとても危険な状態になるわけではないと、私は考えて信じております。
教会は神様が必ず皆さん方一人一人を帰りみてください。
誰々さんが私を帰りみてくださるわけではありません。
ある意味で、牧師が帰りみてくれるわけでもないです。
もちろん神様は人を用いてくださるわけですが、
神様が帰りみてください。
神様ご自身が満たしてください。
神様ご自身によって生かされることを、私たちが忘れないでほしいです。
その時に私たちは病んでいても、早く死んでも、健康であっても、
全てがうまくいってもうまくいかなくても、
神様だけを褒めたたえ、神様を礼拝できるということです。
これから一年、今の私のように今までのように、
老女牧師はいなくなるわけですが、
両団の教会が無牧教会になるわけではありません。
神戸西部教会の猪塚先生が主管牧師になられて、
また教区教団の先生方が、ちゃんと帰りみてくださるわけですから、
皆さんは孤児にされるわけではありません。
何より神様が私たちを帰りみてくださるんだという信仰に立っていただきたいです。
猪瀬夫は、あの時に死ぬ前に彼は考えていたことでしょう。
24:03
あなた方がもちもちその苦しい奴隷の障害から救い出されて、
あなた方はさまよいのような障害、試練の障害に進むだろう。
でも私のこの質疑がいつも先に行って、
神様がこの私を、この猪瀬夫をどうしてどのようにしてくださったのかを、
帰りみるならば、あなた方が帰りみるならば、
神の恵みを、神の導きをわかるだろう。
神が共におられる障害だったと思い起こすだろう。
と猪瀬夫は、荘石五十章二十四、二十五節において、
彼らの兄弟に、またお父さんの役割に言ったわけですね。
そして、イスラエルの民がどんなに苦しい試練の底を通っても、
軍隊の先に進んでいる質疑に収められている猪瀬夫を導いてくださった神様は、
同じように、神様を信じるこの民を導いてくださる。
どんなに苦しい所を潜るようなことがあっても、
必ず帰りみてくださる。これを信じてほしい。
という猪瀬夫の言葉だったんですよ、皆さん。
それを今日、ぜひ心に留めて捉えていただきたいです。
交差点でも、私の説教はあとわずかしか残っていませんが、
もちろん、4月からは、私よりはるかに優れた先輩の先生方によるメッセージが語られるわけですからね。
今日が最後になるわけではありませんが、
この9年間、本当に足らない僕氏、家族、僕氏、特にこの夫婦を皆さんが耐えしのんで、
辛抱して帰りみてくださって、支えていただいて、
私としてはこの9年、この押し、いろんなことがありましたけれども、
辛いことも、嬉しいこともありました。
27:03
辞めたい時も多くありました。
しかし、主に従うように、ここまで、私自身も皆さんに支えられて、神に支えられて、ここまで歩んでまいりました。
多くの欠点も多くの非も、多くの過ちのある僕氏、
皆さんは寛大な心を持って、寛容を持って、抱いてくださって、許してくださって、
ということを覚える時に、心から本当に感謝を申し上げます。
ヨセフは、自分の意外を持って、あの可難地に登っていく彼らに向かって、
神は必ずあなた方を帰りみてくださるよと言いました。
ここにですね、帰りみるというこの言葉、日本語では帰りみるという言葉で訳されていますが、
その言葉の元々の意味は、訪問する、訪ねるという言葉なんです。
知りましたか、皆さん。帰りみるという言葉は、もちろんその意味がありますよ。間違いではありません。帰りみるという意味がありますが、
その元々の意味は、訪ねる、訪問する、
そして、お客さんとしてね、訪問して帰ってしまう、そういう意味としての訪問、訪ねるんじゃなくて、
もう、訪ねて、何もかも全部責任を持って帰りみる、そういう意味なんです。
やってあげる、そういう意味なんです。
それがこの帰りみるということです。帰りみるだけ見たらですね、
なんか距離があって、考えのような、思いの中で、頭の中で、ような気がするんでしょう。帰りみるという言葉の意味はね。
しかし、実際の意味は、そういった遠く遠く離れて、アメリカにいる人をここから帰る、そういう意味じゃない。
もう実際にそこに行く、あなたのところに私が行く、そして、あなたの全てのことを私が責任を持って助けてあげるという意味が、この帰りみる、訪問する、訪ねるという意味。
30:14
だから皆さん、これは、ヨセウの言葉を、神は必ずあなた方を訪問するよ、あなた方を訪ねてくださるよ、という意味なんです。
まさに神様は、ヨセウのところに訪ねてくださいました。
まず、イスラエルの民がアラノを通って、カナーに向かっていくところに訪ねてくださいました。
訪ねてくださるだけではなく、彼らを食べさせて、来させて、敵から守ってくださいました。
その神様は、今日は私たちの人生の深いところにおいでになって、訪ねてくださって、食べさせて、来させて、守ってくださるということなんです。
皆さん、知っていてください。
摂理の神、歴史を動かす神様は、この方に個人的に信頼をおいて、申し上げて、この方が私たちのために持っていてくださる人生の計画を明らかにしていただいて、
それに従って前進していくときに、驚くべき神様は、私たちを用いて満たしてくださるんです。
ですから、今日も私たちは、この予選後の障害によって示されたイエス・キリストに、目を止めて歩んでいきたいと願います。お祈りしましょう。
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