00:01
お祈りをお捧げ致します。
ハレリヤ、愛する天皇とお様、
あなたの限りない豊かな御愛と恵みを覚えて、心から感謝を致します。
今朝もまた、私たちの罪の磨りとなって十字架にお書かれ下さり、
すべての命を捧げ、尊い父親を、
最後の一滴までも惜しむことなく、余すことなく流し尽くして下さった
主イエス・キリスト様の、限りずれない御愛を覚え、心から感謝を致します。
今、開会祈祷で、池田先生がお祈りして下さったように、
今日から待望のアドベントの礼拝が始まってまいります。
私たちにとって、またすべての時代、すべての人類にとって、
最も素晴らしい恵みの時であります、イエス・キリスト様のお誕生日であるクリスマスを
心からお祝いするために、私たちの心を整え、生活を整えて下さって、
教会に来ている者たちだけではなくして、
多くの方々、多くの家族とともに、誠の救い主であるイエス・キリスト様のお誕生を
心よくばかりお祝いし、また感謝することができるように祝福して下さい。
この日も、病んでいる、傷んでいる兄弟姉妹たち、特に私たちの敬愛します
ユン先生、ハンナ先生とご家族の上に、どうぞ主の絶大なる帰りみを与え、
あなたの慰めと平和をもって追い詰め、主を願わくわ、
その病から先生を立ち上がらせてくださるように、ひたすらにお祈りをいたします。
明沢教会の兄弟姉妹たちの中で、病んでいる、傷んでいる兄弟姉妹たち、
病院あるいは何らかの施設で過ごしていらっしゃる方々の家に、家族の家に、
天皇神様の慰めと平和をもって追い詰んで下さるように、あわせてお願いいたします。
どうぞこの下辺を清めて下さって、神様から与えられたメッセージを
わかりやすく語ることができるように、お助けください。
兄弟姉妹たちの心にある切なる祈り願い感謝に合わせ、
03:02
イエス様の尊いお名前によってお祈りをいたします。
アーメン。
まず、今大村千恵子氏が読んでいただいた9章の1節から7節のところを
時代的なと言いましょうか、歴史的なことを少しだけお話しまして、
そして少し詳しくお話を進めていきたいと思いますが、
まず9章の1節。
しかし苦しみのあったところに闇がなくなる。
いざや者というのは言うまでもなく、予言者いざやの予言の言葉です。
彼は予言者として、イエス様のお誕生のだいたい735、736年前に
活動した予言者でありますが、
主に救い主イエス様の予言をした予言者で、
誕生、生涯、十字架復活、昇天、神の御座に出すこと、
そして、そこから再びこの地に来られる、いわゆる再臨、
そして最終の最後的な裁き、そこまで彼は予言をいたしました。
その1節の苦しみのあったところというのは、
主にアストリアによる北イスラエルの滅亡、
ゼブルナフタリというイザ族の北の方の民たちが、
アストリアって滅ぼされた。
ところが、闇がなくなる。
やがてその解放される時が来る。
ところが、南のイザの方はどうかというと、
やがて南のイザもバビロンによって滅ぼされて、
イスラエルの民たちのほとんどがバビロンに報酬として連行された。
ところがそれもやがて解放される。
それをひっくるめて闇の中を歩んでいたイスラエルの民は、
06:00
大きな光を見るというのはそういうことです。
地の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く、
解放の喜び、自由と平和の喜びを彼らは取り戻すことができた。
しかしこの大きな光、光が輝くというここにも実は、
まことの光であるイエス・キリストのことが紛らわれている。
そして四節に入りますと、
あなたが彼を追う首と肩の杖、
彼を追い立てる者のムチをミリアンのようになされたように打ち砕かれる方だ。
かつてミリアンの大群をたった三百の勇士で、
ギテヨンがこれを完璧に完璧な木までに打ち滅ぼしたという。
そのように苦しみと痛みと悲しみを負ったイスラエルの民が
取り巻く敵を完璧な木までに打ち砕くという大勝利を収めるという。
そして五節、まことに戦場で這いた全ての吐き物、
血にまみれていくは焼かれて火の演じ手となる。
ところがその、これはイエス様もおっしゃったことでありますが、
ADの七十年、ローマ将軍タイタスによってエリサレムには崩壊の決めにあった。
これはもう歴史的な事実であります。
そのことを言っているわけです、五節。
そういう時代の歴史的な出来事の中で、六節は言うまでもなくイエスキリストの誕生、
一人の緑子が私たちのために生まれた、一人の男の子が私たちに与えられる、
その時代の王様のことを言っているようですが、
むしろ五節は、まことのメシアである救い主イエスキリストの誕生のことを、
彼はここで語っているわけです、予言として。
そして、主権はその方にある方というのは、力強さを表す言葉でありますが、
主権はその方にあるというのは、主なる天皇神様は、
全知全能の神、つまり神の全権大使、その人の姿をとって現れたのがキリストである。
09:08
その全権大使であるイエスキリストの肩書が、四つここで縫われているわけです。
後で詳しくお話ししますが、その名は不思議な助言者、力のある神、永遠の父、平和の神、平和の君と呼ばれる。
そして七冊に入りますと、驚くべきことに、
助言者イザヤは、キリストの再臨と新天新地のことも予言しているのです。
その主権は増し加わり、その平和は限りなく、
ダビデの王座についてその王国を治め、
裁きと正義によってこれを固く立て、これを支える。
今よりとこしえまで万軍の使の熱心がこれを成し遂げる。
神の全計画が全面的に成就するんだ。
ここまで実は、助言者イザヤは予言をいたしました。
予言というのは、ちょうど山々が重なり合っているように、
言ってみれば、言ったり来たりという、
将来のことを言っているのであれば現在のこと、あるいは過去のことも言っているという、
それが予言の姿なんですね。
そこで申し上げましたように、
当時のイスラエル、北も南も何もかもが間違いだらけの時代であった。
非常に混乱している時代であった。
経済も政治も国際関係も乱れに乱れていた。
戦乱が繰り返して起きていたという、
そういう暗い闇の世に予言したイザヤは、
神の啓示を受けて、主に申し上げましたように、
キリストといわれる幕都の光の出現を、
こよなく予言したのであります。
イエス様は、私は世の光ですと言われました。
ヨワネの一章の9節。
幕都の光があってこの世に来た。
そして、この光に闇は勝てなかった。
つまり、闇の王者であるサタンは、
どんなにもがきあがいても、
幕都の光である、幕都の王者であるイエス様を打ち砕くことができなかった。
12:05
彼はお前の頭を打ち、お前は彼のかかとを打つ。
これは宗旨の3章の15節ですが、
これは幕都の王者であるイエスキリストが、
闇の王者サタンを滅多打ちに打ち砕いたという、
幕楽という予言の言葉です。
そこでイエスキリストの肩書きについて、
お話をさせていただきたいと思います。
申し上げましたように、イエス様の肩書きは、
ここでは4つ述べられております。
まず第一は、不思議な助言者。
この助言者というのは、
支援の深い相談相手という、いわゆるカウンセラー、
ワンダフルカウンセラーという言葉が使われておりますが、
この不思議な助言者というのは、
政治的な意味では国会議員という意味があります。
軍事的には参謀とか参謀会議という意味もあります。
相手のことのすべて、つまり人生全般、
家庭の事情、健康状態、あるいは経済状態、
それを全部ご存知の上で、
心よく相談に乗ってくださるお方がイエス・キリストという、
ワンダフルカウンセラーであります。
嫌な顔をしない、どんな相談をもしるわけない、
私たちの物事を冷静に考える知恵も与えてくださるカウンセラー、
それがイエス・キリストといわれるお方であります。
支援の139編に、私たちの立つをも座るをもご存知であろう。
また皆さん、お時間があるときに支援139編を、
ぜひお読みいただきたいと思います。
できたならば声を上げてお読みいただきたいと思います。
私たちの立つをも座るをもご存知であろう。
15:02
予言者イザヤが予言者として活躍したときの王様は、
代表的な王様はヒゼキヤという王様でありました。
このヒゼキヤ王様は非常に賢い王様ではありましたが、
どんなことでも予言者イザヤに相談したんです。
自分のことも家族のことも政治のことも経済のことも、
どんなことでも神殿に、神殿というのは今では教会ですが、
イザヤに相談いたしました。
ときには予言者イザヤは王様であっても言いにくいことでも
ズバッと進言し忠告し警告したんです。
それをイザヤは心よく受け入れたのであります。
そこに王様としての成功と言いましょうか、
王としての役割を全うしたのではないかと思います。
二つ目の肩書は、力あり神、マイティガッドと言います。
力のある解決者。
この力ある解決者、タイノノカニというのは、
何でもできる神様という意味もありますが、
むしろ戦いにたけき勇ましい神であるという意味が元々の意味です。
戦いに勇ましい神であると。
同じ支援の二十四篇の七節八節に、
かぞよ、こうべをあげよ、とこしへのとびらよあがれ、
ある訳ではとこしへの戸よあがれとなっています。
栄光の王が入る。
栄光の王とは誰か。
強く勇ましい種、戦いの勇者なる種である。
私たちの種は、なよなよとしたくじけそうな弱々しい種ではないのです。
力ある戦いにたけき種は、天地万物を創造しこれを支えておられる。
力種を支配しておられる。
これを導き守っておられる。
私たちはその絶対的な神の恵みの中に生かされているということを忘れることはできません。
18:02
三つ目の肩書きは、
永遠の父、エターナルファーザーといいます。
永遠というのは、オーラムという元の言葉。
オーラムという言葉が使われています。
永遠という言葉はよく出てきますが、オーラム。
ここで言っている永遠の父という、この場合の永遠はオーラムではなくて、エイド。
エイドという言葉が使われています。
つまりそのエイドという言葉の意味は、
時々刻々、どこでも、いつでも、どんな場合でも、絶対的に信頼できる父である。
信頼するというのは、なかなか人間的には難しい場合があります。
絶対的に信頼できるんだ。
ここで言うエイドという。
どんな場合でも何事が起こっても、絶対的に信頼できるんだ。
いつでも父であるという。
いつどんな場合でも何事が起こっても、全面的に持たれかかっていいんだという。
皆さん、ルカ伝のルカによる福音書の15章の中に、宝塔息子のお話が出てまいります。
あの宝塔息子は、やりたい放題、お父さんから財産をもらいまして、
それで金儲けをしようと遠くへ出かけたはずですが、
お父さんからいただいた財産を全部使えてしまった。
それも仕事とか何かではない。
遊び放棄で宝塔に身を崩してしまった。
何もなくなった。丸裸。
神にも背き、父にも背いた。
もう私は息子と呼ばれる資格はない。
とまで彼は堕落してしまったわけです。
ところがお父さんはどうか。
あんな裏切り者の息子はもう息子ではないと言ったのか。
そうではなかった。
21:03
息子がどんな状態になろうが、どんなに堕落してようが、
どんなに反抗しようが、自分を捨てようが、
お父さんはいつでもこの息子の父でありました。
FATHER FOR ALL TIME
いつでも父であることは普遍だった。
私たちの主なる神様、天のお父様なる神様は、
私たちの状態が、あるいはこの世界の状態が、
日本の状態が、家庭の状態がどうであろうとも、
天の父なる神様には変わりない。
全然変わりない。
たとえ私が、そんなことはないんですが、
たとえ私が堕落しても、天のお父様なる神様は変わらない。
だからといって、私は堕落していいのか、そんなことはない。
FATHER FOR ALL TIME
このことを皆さん、お忘れないでほしいと。
四つ目の肩書は、平和の神、PRINCE OF PEACE
ここで言っている平和というのは、悩みも悲しみも苦しみも戦いも何もない。
平穏無事だという平安ではありません。
苦しみも悩みも悲しみも痛みも問題も渦巻いているかもしれないけれども、
それを乗り越えていくことができる平安である。
シャロームという言葉は皆さんご存知だと思いますね。
シャロームというのは、まさにそういう意味なんですね。
戦いがあり、痛みがあり、醜い争いがあり、家庭の中に問題が渦巻いている。
悲しい出来事が次から次へと起きてくる。
もうそれを乗り越えることができない。
こっぱみじになってしまうという、そういうものではない。
ある本で読んだ話ですが、大嵐で海がどんなに荒れ狂ってても、
24:11
海の底は穏やかだ。
ここでいう平和というのは、そういう平和なんです。
これはお金や物で得ることができない、
あるいは楽しい旅やおいしいものを食べて得ることができない、
趣味や何かで得ることができない平和、平安です。
イエス様が弟子たちに、私はあなた方に平安を与えます。
私の与える平安は、与我応えるような平安ではありませんと言われました。
私たちは、私も含めて、なんだかんだ悩んだり、孤独に苛めたり、苛まれたり、不安に陥ったり、
争いや誤解や人間不審、自己憐憫で、
あるいはもう緊張度が過ぎて錯乱状態になってしまうという時もないわけではない。
つい落ち込んでしまう。
ひがみ根性と言いますが、悲願で傲嬢になったりして、
いつかも話したと思いますが、
私は自分で、自分という人間は複雑な人間だなと思う。
快活な時もあれば、しゅんとする時もある。
どういう人に対しても温かい気持ちになることもあれば、
でもそうでない時もある。
複雑な弱い人間。
詩編の40編の1節2節に、
この詩編の記者は、相当大きな苦しみ困難に遭遇した人だったと思います。
27:05
彼はこの詩編の40編の1節2節でこう言っています。
私は切に死を待ち望んだ。
主は私に耳を傾け、助けを求める叫びを聞いて下さった。
滅びの穴から、泥沼から、主は私を引き上げて下さった。
私の足を岩尾に立たせ、私の歩みを確かにされた。
泥沼のような苦しみ悲しみ痛みを経験した彼は、
しかしその時、主を助けて下さい。
主は彼を助けあげて下さった。
それが詩編の40編1節2節。
この詩編の記者は、泥沼のような絶望の中で、ただ神の助けを待ち望んだ。
そこで、神の出番という。
お芝居なんかで、次は私の出番だという。
出番を待つ役者というのは、ドキドキもしますが、
期待に胸を膨らませる、なんとも言えないエキサイティング。
いい意味で興奮、気合が盛り上がって燃えてくる。
そういう出番を待つ役者。
それは私たちの人生において、
私たちの舞台に登場して立って働いてくださる一番の役者。
30:12
これはただの役者ではなくて、最高の役者である。
それは我らの主イエス・キリスト様です。
先ほどの詩編の記者も、神の出番を信仰によってキャッチした。
私たちの人生においても、何度も何度も神様との出会いのチャンスがある。
何かのきっかけで、神の出番のチャンスが必ず巡ってくる、何回も。
ある人にとっては、そのチャンスが病気になることかもしれません。
大病患ったということが、神との出会いになる場合もあると思います。
あるいは、家庭の中で思わぬ出来事が起きた。
それこそ、これまでは、昨日までは何もかもで立たない平穏無事な、本当に幸せな家族、家庭であったところが、一夜明けたら大変なことになってしまったという。
しかし、それが神との出会いというチャンスになるかもしれない。
これが神の出番。
神様は舞台の外で、袖でいつも待っていらっしゃる。
今回のコロナウイルス、これはおそらく私たちだけでなく世界の誰もが、よもやというような出来事ではなかったかな。
だんだん感染者が減少して、グラフがずっと減少してくると、私たちはもうほっとします。
ところがまた最近、また増えてきたという。
これがもう、来年は4年目ですかね。
もう同じことが繰り返されているので、グラフがもう下がったり上がったり。
いつかもお話したと思いますが、どんなに非常宣言されても、そして病院関係のお医者様や看護師さん、保健師さんたちが、
33:01
私たち、少なくとも私の知らないところで、どんなに苦労と言いましょうか、大変な目をされているか、
なぜなかなか収束に至らないのか。
これは私個人の考えと言いましょうか、思いですが、
何かその、人類が、世界の全ての者が、神様に食い争める、神様に立ち返るチャンスを、神が許されているんじゃないかな、こういう状態をね。
この痛ましい状態、亡くなる人もついかず家へと来てくる、もうみんなが苦労している、
誰よりもこれを一番よく知っていらっしゃるのは、天の幕との神様だと私は思います。
何で神様は黙っているのか、それこそ、私はそんなことを思っていませんし、考えませんよ。
どこかの侵略者が、神は死んだと。そんなことはない。
神は今も堂々と生き生きと生きていらっしゃる。
じゃあ、なぜ、この様を嘆いていらっしゃるお方様が、それこそ一党両団の下で、このコロナのウイルスを一掃してくれないのか。
私はご存知の上で、そうなさらないのは、神は私たちを、全人類、全世界を待っていらっしゃるんじゃないかなと。
神様は、こういうウイルス、コロナだけではないんですが、やっぱり、神様は出番を待っていらっしゃる。
こういう形のチャンスを、神は私たちに与えてくださっているんじゃなかろうかなと。
36:01
そのことに早く気がついてほしい。クリスチャンはもちろんですけどね。
世の中の多くの人々も、本当に早く目を覚ましてほしい。
そのチャンスが、私は、やっぱりクリスマスの時ではないかなと思います。
主が私をかえりみてくださった、というマリアは、マリアさんから歌いました。
主は私をかえりみてくださった。
私たちの人生には、お金で解決することもあります。
医学や科学で解決することもあります。
政治や教育や福祉で解決することもあります。
けども、決定的な決め手ではない。
本当の平和、本当の希望、本当の祝福、そのためには、決定だには届かない。
決定では何か、それは十字架で死んだけれども、
よみがえってくださった復活の宗だけが、本当の決定だ。
インマヌエルという言葉を皆さんご存知ですね。
インマヌエル、神ともにいます。
私たちの救い主イエス様は、インマヌエルの神である。
以前、ここでお話したと思いますが、電車、まあ汽車ね、列車というのは、
必ずレールの上を走ります。当たり前。
レールという限られたところ、限られたその上を走っている間は、
よほどのことがない限り、誰かがいたずらしたり邪魔をしない限りは、
列車は出発地点から終着駅に安全に走ることができます。
狭いレール、電車や汽車にとっては非常に、何と言いましょうか、狭い世界?
堅苦しいと言いましょうか、限られた。
でも、その束縛された例の上を走っているときは安全な。
39:01
まさか、汽車や電車が、ノーと言うことは絶対ないんですが、
こんな狭いレールじゃなくて、自由に走りたいなんて、大変なことになる。
私たちにとって、レールはイエス・キリストであり、彼の真理の御言葉。
このレールの上を走っている限りは、神を信じる信仰者、キリスト者たちはまず安全な。
いろいろ、迂回曲折は多少ありますが、必ず終着駅に無事に到着できます。
私たちは、この真理そのものであるイエス・キリスト、彼の御言葉から、このレールから外れてはなりません。
外そうとする者がいるかもしれないけれども、その者に向かっては知りどけ。
時にはみなさん、教会生活とか、神と共に真面目に生きるということは、堅苦しさが伴う時もあるんですね。
もっと好きなことをしたい。たまには礼拝を休んで、どこか遊びに行きたいというクリスタルはいないと私は思います。
教会はもっと何か知らないけれども、もっと楽な教会はないのかという。
この教会ではないですが、この教会は非常に楽で楽しい。
私のこれまで経験している経験上ですよ。
でも、もっと柔らかい聖書の話ばかりじゃなくて、もっと浮世の楽しい話をしてくれへんかな。
堅苦しかっても、聖書の話が私にとっては、やっぱり命の糧ですからね。
世の中の楽しい話を教会でワーワーギャーギャーしても、それは私たちの命の糧にはなりません。
意識的な楽しいですよ。
いろいろダンスをしたり、いろんなゲームをしたり、いろんな遊戯をしたりするのも、それは悪いことではないと思いますけど、でも命の糧にはならない。
だから皆さん、これからの明治谷教会がどうなるのか、どうなるのか分かりませんけども、この教会は窮屈になるということはまずないと思います。
42:18
満に一つ奥の一つ、窮屈になっても離れない。教会というレールから離れない。
終わりに一つの話をさせていただきたいと思いますが。
ごめんなさい。
皆さんの中でご存知の方がいらっしゃると思いますが、清水康造という先生、この方は96歳で召された先生でありますが、
オビリン学園の創立者、とても若い頃に清水康造という先生がどういう先生か、少しだけ聞いたことがあるのですが、詳しいことは何も知りませんでした。
最近、この清水康造先生が書かれた、希望と書いて希望、望みを失わずというような本を手にした、ずいぶん古い本ですが、その本によりますと清水康造先生の授業伝ですね。
中国の北京にミッションスクールを設立した、日本から中国に選挙士として渡った最初の先生だと言われております。
約22年間以上そこで働かれて、やがて休戦になって、ほとんど無一物で日本に帰国された。その間に経済的、健康的、人間関係、学校経営、希望、裏切り、迫害、そこ知れぬ苦難に悲しみにあった。
45:02
私はその本を読みながら、しかしこの先生、よう生きて帰ってこられたなと思いました。
日本に帰ってからも、苦しみとか悩みとか痛みとか絶望的な体験がずっと続くわけです。もちろんいいことも楽しいこともあったようですが。
しかしこの先生はいつも、そういう時だけではないのですが、
人に相談する前に、神様にひざまずいて祈った。祈る時に必ず聖書を開いて読んだ。不思議なように神様はその時にピタッと適切な言葉を必ず示してくださった。
そういうものですよ皆さん。本当に神様とお祈りして聖書を読んでいるとね、本当にそれこそ、ピタッと言いましょうか、
ジャストメッセージ、ジャストライトメッセージ、そういう言葉が必ず与えられる。
この先生もそうです。必ずお祈りして聖書を読んで神様から解決と言いましょうか。
望み得ない時にも神への希望と信仰は失わなかった。つまりこの先生は宿のレールから外れなかった。
ポールがロマンスの4章の中で、彼は望み得ない時に望みを抱いて信じた。
何でもかんでも自分の思う通りになる時に、望みがある、希望がある、信仰が湧いてきた。そうではない、全く逆の時に、神に望みを抱いて神を信じた。
あるいは第2コレントの1章9節10節に、私たちは非常に激しい耐えられないほどの圧迫を受けた。
48:06
それは生きる望みを失うほどでした。しかし私たちはこの神に希望を置いています。
これはパウロ自身の体験ではあります。清水康生先生はまさにこのパウロのような体験をかれた。
これはもう絶望しかない。左を見ても横を見ても真っ直ぐを見ても下を見てもだめだ。
でも天の窓はいつも開かれている。私たちもこれから今までもあったかもしれません。
お先真っ暗だ。望みも何もない。しかし望み得ない時にも望みを抱いて信じるという神徒であり牧師でありたいなと思います。お祈りいたします。