1. 名谷教会 podcast
  2. 2022/11/13:平和をつくる者
2022-11-13 27:37

2022/11/13:平和をつくる者

2022/11/13 聖日礼拝

光田隆代師

マタイの福音書 5:1-12


00:01
おはようございます。
1ヶ月に1回伺っていますが、今回は長かったような気がしています。
ずっと、又井の福音書の5章を開かせていただいておりますけれども、
今、案外この9節を私はお話ししていなかったのだなということに気がつきまして、
結論が難しい見言葉だなと実は思っているところです。
でも、神様が働いてくださって、皆様に、神様からご自身からの恵みが届くようにと願っています。
では、お祈りをいたします。
平和をつくる者は幸いです。その人たちは、神の子供と呼ばれるからです。
恵み深い天皇お父様、尊いお名前と、イエス様の十字架の父をあがめて感謝いたします。
私たちはこのようにして礼拝を捧げておりますけれども、この世界には戦いの最中にあって、
落ち着いて礼拝する場所を持たず、またそれが許されない迫害されているクリスチャンもたくさんいる時代に私たちは生かされています。
今日は特に迫害家にある教会のために祈ることが、日本福音同盟の方から連絡が来ておりました。
神様どうぞ、私たちは外からの迫害をそれほど強く受けてはおりませんが、直接の迫害の中にある多くのクリスチャンたちや同胞が、
本当に信仰を固くされて戦い抜いていかれますようにお願いします。
また私たちも生ぬるいだけではなくて、今の戦いの場で目を覚まして、その場所でそれぞれの信仰のあるべき戦いを進めていくことができますようにお願いいたします。
平和の君である神様ご自身の御心をこの地の中で果たすことができますようにお願いいたします。
尊いイエス様の皆によってお祈りいたします。
聞こえにくいですかね、申し訳ないです。なるべく大きい声でお話をしたいとは思っています。
平和と聞きますと、今は8ヶ月前ですか、もうウクライナの戦争のことをすぐ、今はニュースで思わされますけれども、
日本の戦争が終わって70数年経ちましたけれども、この世の中と私たちの社会は平和ではない、かえって混乱してきているような感じがいたします。
03:04
その中でイエス様は平和を作る者は幸いですと、幸いのこの8つ9つの中にこの平和を作る人が幸いだと仰っています。
それでここに平和が幸いだというのではなくて、平和を作る者、平和を作り出す者が幸いだと言われるんですね。
ですから平和の状態が幸いであることは確かですけれども、それを作り出す方向に生きている者が幸いだということを仰っているわけです。
この平和というのは、これはギリシャ語なので違いますけれども、ヘブル語ではよく聞いていますシャロームというのが平和という意味ですが、
満月のような平和、この間皆既月食がありましたけれども、まんまるでどこをついてもかけがないという、そういう祝福を神様が与えようとしておられる、そのことが平和という言葉ですね。
私たちに対しての神様は、私たちに祝福の良いもののすべてを備えて与えようとしておられるお方です。
そして、イエス様ご自身がまさにもうすぐクリスマスを迎えますが、平和の君として来られて、私たちに本当の神様から上からの良きものを備えてやってきてくださるお方です。
先に申しましたように、平和を作るもの、作り出すものが幸いということですけれど、この新約聖書の中で平和という言葉を見ていくときも、平和を保ちなさい、平和をすべての人との平和を追い求めなさい、
悪を離れて善を行い平和を求めなさい、という言葉がローマ人への手紙とかヘブル人への手紙とかペテロの手紙、そしてテモテへの手紙などで、いつも求めるという言葉とくっついて用いられているんですね。
ですから平和を作り出す、そして平和は私たちの方から待っていてやっていくのではなくて、作り出して求めていく、そちらの方向が必要だということを聖書は私たちに教えてくれています。
ですからその平和があるようにするためには、求めて、そしてそれが出来上がるように継続して努力するということが私たちには求められています。
ですからいつもその方向に向いているということはとても大切なことだと思わされます。
06:03
今ウクライナの先生は確かに武器で戦っていますけれども、本当の平和を勝ち取るための戦いというのはものすごい労力と犠牲と時間がかかるというものを、この世の戦いの中でも見せつけられるような気がしております。
しかし私たちはこの世の金銭絡みとか欲徳、利徳絡みの戦いではなくて、私たちに神様が架けられているのは信仰の戦いの方です。
ですから今はこのイエス様が私たちにもたらしてくださった平和、そのことから私たちが今何をすることを求められているのかということをお話しさせていただきたいと思っております。
先にも申し上げたようにイエス様は平和の君としてイザヤ人で予言されているようにこの世に来てくださいました。
ですから私たちに最善の最良のもの、最高のものをくださるためにこの世にわざわざ神の身倉を捨てて、この汚い罪だらけのこの世の田中に幼子として生まれて来てくださいました。
その33年の生涯の中でどのような喜びを感じられたかと思うんですけれども、それは聖書を読む限りイエス様が喜ばれたのは信仰をもってイエス様に近づいた人たちを喜んでおられたということを見るわけです。
ですから私たちもこの大きな犠牲も信仰の時間が経てば経つほどその犠牲の大きさと備えられているものの豊かさに驚かされますけれども、
どこまでも私たちを愛して許して良きものを与えようとして来てくださったこの平和の君の心を私たちは組んでそれを用いていくというか生かしていくものである必要があろうかと思います。
それで一つまず聖書をお開きしますが、殺さい人への手紙の1章20節、ここは平和ではなくて和解という言葉が使われておりますけれども、殺さい人への手紙1章20節、そこをお読みします。
09:00
今使っている聖書では新約の400日ページです。
殺さい人への手紙1章20節、その十字架の地によって平和をもたらし、巫女によって巫女のために万物を和解させること、すなわち地にあるものも天にあるものも巫女によって和解させることを良しとしてくださったからです。
十字架の地によって平和をもたらしたように、
イエス様はご自分の生涯のすべてを投げ出してくださって、私たちだけではなくて万物を和解させるために来てくださったということがこのところに書かれてあります。
自分の兄弟のために命を捨てるこれほど大きな愛はないと聖書が言いますように、その実際をイエス様は私たちに見せくってくださって、神様との和解という平和を作り出してくださいました。
それで私たち、この神様からの和解を受け取った私たちがどうするべきかということ、今読ませていただいたところの後ろの方なども読んでいただいたら、どのような恵みが与えられているかということがわかりますが、
それとともに私たちに与えられている使命ということを確認させていただきたいと思います。
その前の方になりますが、コリント大の手紙の5章、ここもよく知られておりますけれども、20節からお読みします。コリント人への手紙、第2、5章、20節、21節、361ページです。
5章20節、こういうわけで、神が私たちを通して進めておられるのですから、私たちはキリストに代わる施設なのです。私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。
神は罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは私たちがこの方にあって神の利となるためです。
ここに一つは、イエス様が来てくださったことによって、私たちに神様の和解によって平和が与えられているということと、もう一つは、私たちが神様によって次の人に使わされていく平和の使者となるということが書かれてあります。
12:05
ですから、まずイエス様が来てくださったことが平和の種まきでしたけれども、2番目に私たちがそのことをしっかりと受け取るという必要があります。
多くの方々はクリスタになられて、このあるべきところ、自分本来神様がこうあるべきだと思っておられるところに立ち返っておられると思うんですけれども、
そこで本当に神様に大切にされていることを喜んで、許されて生きていることに満足している、感謝をすることができるという、その場所にしっかりといることを確認する必要があります。
でも、この世の中には富を求めたり、この世の名誉を求めたり、いろんなことで、また学生であったら人との競争を比べて生きる、そういうことの中でいろんな葛藤を覚えたり、家族が分断していて、自分の居場所がないと思っている若い人たちが多いというのを今は聞きます。
ですから、そのような人々に私たちは持っているものを伝える必要があるということを聖子は私たちに教えています。
表面的に見たら、どの人も満足して生きているように見える時があるんですけれども、案外、その心の中には本当の平安というもの、神様のくださる平和を持たずにですね、表面だけ取り繕ってこの世に流れされている人たちがおそらく多いはずです。
ですので、神様は私たちにその平和の使者としての役目をお与えになっておられます。
それはこれまでも何度もお聞きになってよくわかっておられることだと思うんですけれど、そのイエス様が命を捨てられたほど重い課題であるということを思う時に、この平和を作り出すもの、そしてその忍耐というのは、おいそれと果たされるものではないな、重いものだなということを思わされます。
しかし、その人たちは神の子供と呼ばれるからです、というのが今日の御言葉の後半の部分です。
神の子供と呼ばれる人たち、新約聖書の中に、天におられるあなた方の父の子供となるためです、という言葉があるのですが、
15:02
天におられるあなた方の父の子供になるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しいものにも正しくないものにも雨を降らせてくださるからです。
神様は全く公平です。
自分に良くしてくれる人には良くするのは非常にやりやすいですが、嫌なことをされたり傷つけたりする人にも同じように良くするというのは、ハードルが高いことだと思います。
しかし、神様ご自身が悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくないものにも同じように雨を降らせる。
とにかく神様の慈しみが、どの人に対しても何に向かっても同じだということを教えてくださっています。
このような存在が神の子供であるというのが、このマタイの福音書が私たちに教えているところです。
その前の43節から読みますと、「あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎めと言われていたのをあなた方は聞いています。しかし、私はあなた方に言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
と読みますが、46節、「自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなた方に何の報いがあるでしょうか?主税人でも同じことをしているではありませんか?」
ということで、最後の48節に、「ですから、あなた方の天の父が完全であるように、完全でありなさい。」
この標準に人間的努力で届こうとしてもとても無理な話ですね。
でもそれはイエス様のレベルでおっしゃっているので、その努力は、努力して勝ち取るものではなくて、キリストにあっていつもその方向を向いているということが大切であろうと思います。
この完全を目指して、この完全に私自身をならそうと思ったら、そのギャップでかえってつまずいてしまうかと思うんですけれども、この方向が私たちの目指すべきだということを確認しておく必要があると思います。
18:11
先ほどお祈りの中で、御精霊が働いてくださいますようにと祈られておりましたけれども、聖書の中に、「御霊に導かれる人たちは皆神の子供です。」とあります。
導かれている人が神の子であって、完成品が神の子供になるような感覚にちょっと囚われるんですけれども、この聖書の御言葉が教えている標準にいつも導かれて、それを聞きながら従おうとして生きている人が神の子だと。
例えば、道真人の手紙の8章の14節などに、神の御霊に導かれる人は皆神の子供ですと書かれてあります。
ですので、私たちは自分の思いに従うのではなくて、神様が何を願っておられるかということに注目しながら進むということがとても大切になってきます。
そして、自分が完成されるというそれを目指すのではなくて、神を見上げて従っていく、その方向から逸れていかないようにするということが必要かと思います。
その平和を作るものという人がいつも求めて努力をする必要があると申し上げましたけれども、私たちの生き方に、生きている中にはいろんな課題がありまして、それぞれ課題が違うと思うんですね。
これが済んだら次はこれということがだんだん起こってまいります。そういう時に自分はこれにどうするべき、どう対処していくことが神様に求められているのかということをいつも問いながら生きていく、そのことが私たちには求められています。
よく聞いていることでは、人々を救うために伝道するということが一番だと思えるんですけれども、でもそれも決して言葉とか何かではなくて、私たちの生き方そのものが周囲の人々に伝道になるということをもう一度確認したいと思います。
ですからまず自分自身が神様との平和の中にちゃんと生きていることと、そして次に家庭の中で自分が本当に平和の子としてそこに存在しているかどうか、私の家庭がそうであるかということがとても大切なことになると思います。
21:04
ちょっと話がずれるんですけれども、私が前に退任させていただいていた教会に、今75歳ぐらいになっていると思うんですけれども、社会の働きをしておられる時にはある役職を務めておられた方があったんですね。
私が知っている時にはまだクリスタルになって10年ほどの頃だったと思いますけれども、退職しておられてあるかつての職場で自分の部下にあたる方が連絡をしてこられて、自分の息子が学校に行くためにお金をちょっと貸してくれないかという話が来たんだそうですね。
奥様もクリスタルなのでお祈りしつつ愛の配慮を持ってその方にまず何十万円かのお金をお渡しして返しますという約束でお貸しして、それでそれが返らないうちに次の2回目のもう少し貸してくれないかということが来たそうなんですね。
これは今日の話の平和とは直接は関係ないんですけれども、いろんな人との対処の中でどうするべきか。この場合ですとお金を差し上げて渡すのがいいのか、それともその人の何か努力とか自立を導くようにした方がいいのかとかいろんな考え方があると思うんですけれど、
その兄弟は結局2回お渡しして返ってきたのかどうかは分かりません。そのような人との関係の中で私たちは平和を築いていかなければならないんですが、その兄弟は自分が貸したものを返してもらうのが当然だという考え方をしないようにという聖書のルールに従って多分判断しておられたのだと思います。
ですので、それぞれ同じような出来事にぶつかっても、皆様一人一人の対処方法は多分違うと思うんですね。神様はそれを許しておられて、あなたはキリストに会ってこれにどう対処しますかということを私たちに自分で決めて自分で進んでいくように求められていると思います。
そこで思わされるのは、自分の置かれている立場は神様がそこにそういう課題が起こる、そこの場所に皆様また私自身も置かれているということです。
そこでしか経験しないこと、出会うことのできない人とか経験しない状況が備えられていて、それをどう私たちが神様の知恵に導かれてまた祝福をもたらす存在として対処するかということが問われていると思います。
24:19
この今の社会も分断が起こって、ウクライナの戦争とかでいろんなところからいろんな立場で支援をする人たちが行っていて、実際にその場に行く人、また献金で支援する人とかいろんな人たちが起こされていますので、その人たちがどう受け取って、そしてそれにどう答えるかという動きをしています。
かつての日本では香川豊彦とか、そしてマザーテレサとかですね、自分がそれぞれ置かれた立場で人を愛するためには何をすべきかという社会活動をした方々もあります。
近くでは3年前にアフガニスタンで襲撃された中村哲さんのように、アフガニスタンで川、水路を作るための働きを一生懸命していった方々もあります。
その人に別の人が変わるわけにはいかなくて、私たち一人一人に与えられた人生というか置かれた立場の中で神様がいろんな課題を与えてくださっているので、それに対して平和を作り出す努力をする子どもとして、私たちはいつもキリストに聞くということをさせていただきたいと考えています。
説教の一番初めに読もうかと思ったんですけど、やっぱり終わりに読みます。有名なアッシージのフランシスの祈りですね、これを読んで今日は終わりにさせていただきます。
主よ、私をあなたの平和の道具として扱い下さい。憎しみのあるところには愛を、いさかいのあるところには許しを、分裂のあるところには一致を、迷いのあるところには信仰を、誤りのあるところには真理を、絶望のあるところには希望を、
悲しみのあるところには喜びを、闇のあるところには光をもたらすことができますように。主よ、慰められることを求めず、慰めることを求めさせて下さい。理解されることよりも理解することを、愛されることよりも愛することを求めさせて下さい。
27:09
終わりの部分をもう一度読みます。
主よ、慰められることを求めず、慰めることを求めさせて下さい。理解されることよりも理解することを、愛されることよりも愛することを求めさせて下さい。
12世紀のイタリアのアッシージのフランシスの言葉です。ではお祈りをいたします。
27:37

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