1. 名谷教会
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2020-10-11 27:50

2020/10/11:イエス様のたとえ話~私たちへの問いかけ(19)自分を高くする者と低くする者のたとえ

2020/10/11 聖日礼拝

尹善鎬牧師

ルカの福音書 18:9-4


00:01
あらためて、みなさん、おはようございます。
今日もみなさん、この第一礼拝にようこそいらっしゃいました。
台風も無事通って、いい天気の中で礼拝が守られていること、本当に感謝いたします。
今日は、イエス様のたとえ、私たちへの問いかけ19回目です。
来週の20回で、このたとえのシリーズメッセージは、終わりにしたいと思います。
この次のテーマのために、祈っておりますけれども、来週発表したいと思います。
また、説教者のためにも、みなさん、祈っていただけたらと思っております。
今日は、このルカノ福音書に書かれている、2つ目のたとえですね。
そして、最後の14節に書かれているように、
自分を高くするものと、低くするもののたとえ、という題でございます。
早速、メッセージに入りましょう。
このたとえも、イエス様が、誰に対して、誰に聞いてほしいか、
誰に向かって、イエス様がこの話をされたのかが、
今日の9節に明らかに書かれています。
9節、一緒にもう一度読みたいと思います。
それぞれ、みなさんの聖書でいいと思いますのでね。
9節、一緒に読みましょう。
自分は正しいと確信していて、他の人々を見下している人たちに、
イエスはこのようなたとえを話された。
ですから、難しくないですね。
このたとえ話は、この9節をもっと詳しく言うならば、
こういう人々にイエス様が語られた話です。
私は正しいけど、あの人は正しくない。
私は偽人だけど、あの人はどう見ても穢れている人のように見える。
私は神の御子どもをよく守っているのに、あの人はそうではない。
私は本当に清くて、
週に二回断食をして、自分のものから十分の一の献金を捧げていますけれども、
あの人はそうしていない。悪い。
私は謙遜なのに、あの人は謙遜ではない。
のように、自分は正しいと確信している人に対して話されました。
03:06
2017のこの聖書は、正しいと確信していて、
本当に優しく、わかりやすい言葉で訳されていて、
前の第3版は、偽人と自認していてと訳されていますね。
だから、正しいという言葉は、偽人をもっと現代的に訳した言葉です。
どっちも正しい表現だと思うんですね。
皆さん、この話を聞いているパリ裁判の人々は、どんな気持ちだったでしょうか。
もし、彼らの面前に、あるいは近くにいて、言われたら、
きっと、このパリ裁判の人々は、
イエスが私に聞きなさいと言って、あんな話を待たされるんだ。
気分が悪くなった。もう聞きたくない。
あのイエスは、俺がどれだけ強い人なのかわからないから、あんな話をするんだ。
むかすくなかったみたいに、思ったり感じたりしていたかもしれません。
もちろん、当時、パリ裁判の人とか、立法学者たちが、
みんな全部悪い人ではないでしょう。
ニコデモのような素晴らしい人もいましたから。
ところが、多くのパリ裁判の人々とか、
サドカイ派の人々とか、立法学者たちは、
まさにこのように、自分は正しいと確信していて、
そして、他の人々を見下していたわけなんですね。
つまり、簡単に言って、彼らは高ぶっていました。
そして、高ぶる人は、傲慢な人は、
それがついペアになっていて、
傲慢な人は、他の人々を見下すんですね。
特に彼らはですね、身分の低い人、
主税人、罪人、女の人、あるいはサマリアの人々とか、
あるいはザラートの病人たちのような人々を見下して、
知覚もしない、交わりもしない、
人と思わない、そういう人々だったんですね。
つまり、彼らはこのような弱い人、罪人、病人、
そういう人々の上に君臨しているような人々でした。
そして、自分はいつも正しい。
私はあっているけど、あの人は間違っているなとして、
06:04
人を非難する、あるいは罪に定める、あるいは悪く言うような人です。
ところがですね、今日の旧説を見ると、
自分は正しいと確信していたとあるんですね。
自認する、確信するんですよ。
これはある意味で恐ろしい確信ですね。
私は正しいとね。
私は正しいかもと思うくらいじゃなくてですね、
もう確信しているんです。
私は絶対間違っていない。
あの人たちが間違っている。
私はもう絶対正しいと確信している。
思い込みかもしれません。
ところがですね、このような間違った罪深い確信は、
究極的に呪いを、滅びを、裁きをもたらすものではないでしょうか。
彼らはこのように、神の前に来てですね、祈っているんです。
さあ、11節ご覧ください。
11節ご覧ください。
パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。
神よ、私が他の人たちのように奪い取るもの、不正なもの、
簡易するものでないこと、あるいはこの主人のようでないことを感謝します。
つまり、私はあの人々とは違うんだと。
レベルが違う。
私はこんな悪いことをしていない。
奪い取ることとか、不正とか、簡易とか、あるいはあの主人のような人ではない。
ああ、主よ、そんなものでないことを感謝しますと。
感謝している。
そして、それにさらにですね、自慢話をしているんですね。
12節に、私は衆に二度断食をする。
自分が得ている全てのものから十分の一を捧げておりますとですね、
神の前に自慢話をして、自分を誇ってですね、自分を褒めているんです。
神の前に頭を下げることを知らない、本当に高ぶりの人々です。
でもね、実際に彼らは本当にあの律法通りにですね、規定通りに
衆に二度断食をする、十分の一を捧げる、これは本当にそのようにしていたと思うんです。
09:04
それは嘘ではないと思います。
しかし皆さん、彼らのその行いが、全てが無駄にされるのは、
彼らの高慢の高ぶりのためなんですね。
自分自身は偽人だと、私は正しいと確信する、辞任する。
皆さんところが、私たちは覚えてほしいことがありますね。
あなたは正しい、あなたは偽人だ、あなたは偽であると、
それを定めて、そういうふうにみなして認めてくださるのは誰ですか。
自分ですか、周りの人ですか、神様ですか。神様ですよね。
それを誰が評価して誰が判断するんですか。
自分ではないんですよ。あるいは周りの人でもないんですね。
神様、唯一神様だけが、私たちが正しいか正しくないか、
善人なのか悪人なのか、偽人なのか、そうでないのか。
誰がそれを判定してくださるのか。それは神様なんです。
パリサイ人に一番欠けている部分がそこなんですよね。
神様の主見、神様の主見を彼らは越見しているんです。
神様はこの人は正しいと、私はあなたは正しいと、
例えば葬式で神様がアブラムを見てあなたは偽であると、
そういうふうにみなしてくださったようなことは神様の仕事なんです。
神様だけの仕事なんです。人にはそういう仕事をしてはいけない。
なのに彼らは自分で、自分は正しい、自分は偽人だ、私は悪くない、
あの人は悪いというふうに、神の権威を、神の力を奪っている大きな、
これは重大な罪を犯していることなんです。
そして彼らはそれがどれほど大きな罪なのかに気づいていない、
残念なことがあるわけなんです。
そこがこのパリサイ人たちの大きな罪でした。
皆さんところがですね、また人間的に考えるならば、
このような高ぶり、自慢、あるいは阻止、あるいは非難、
12:01
あるいは人を罪に定めることはですね、
まず考えから、思いからスタートすると思うんですね。
頭の中で、心の中で、私は正しい、あなたは正しくないね、とかね、
あなたはあんな悪いことをするんだろう、私はいい人なのに、
あなたは悪くないのに、あの人はなんでああいうことをするんだろう、
みたいなことをまずは思いを持つんです。
そうするとですね、その思いが口を通して言葉で発する。
そういった高慢の言葉が行動に、非難の思いが言葉や行いに、
行いに、もう自分の知らずうちにそれが出てしまうということ。
そしてこのパリサイ人はどうでしょうか。
これはね、誰もいない、自分の奥またどこかの部屋で、
心の中で思って祈っているわけではないんですよ。
今風になれば、どこで?教会に来てね。
神の前にですね、このように立ってですね、頭を上げてですね。
まるでですね、このパリサイ人はもう町中を、教会の中をですね、歩き回って、
まるで毒を撒き散らしているような人みたいな。
さあ、ところが皆さん、これを私たちに当てはめて、適応してみたいと思います。
このような説教を聞きますと、
だいたい2つの答えが、反応が、私たちから現れるかなと思います。
1つは、でも私はこのパリサイ人のようではない、と思う人々。
あるいは、主よ、私がパリサイ人です。
いや、私はこのパリサイ人より、もっと傲慢な悪い人間です、と告白する人です。
私たちは皆、後者でありたいんです。
それなら、私たちは誰もが一瞬でも、このパリサイ人のようになり得る、ということなんですよね。
神の前に、私たちは正直でありたいんですね。
いつでもではないでしょうけれども、
時には、私たちは人を裁いたり、
阻止をしたり、中傷したり、罪に定めたり、
それをしかも教会に来てまでしたり、
15:02
それが、神の力を越見している大きな罪なのに気づいていない、私たちが、
私たちは、ここに、このルカの福音書15発書に書かれているのではないでしょうか。
サタンは、私たちの心の中に、このような傲慢の種を蒔いていくんですね。
そしたら、一瞬に、私は正しい、私は偽人だ、私は正しいのに、
あの人は違う、避難したり、阻止をしたり、中傷したり、高ぶったり、
そうなりやすいのが、私たちではないでしょうか。
一方で、自分を低くすること、謙遜、謙虚というのは、
本当に美しい精霊の実なんですね。
精霊十万の結果なんですよ。
この謙遜について、聖書は、どれほど美しい見事が書かれているのでしょうか。
旧約聖書から、いくつかの歌詞を開きたいと思います。
まず、新言に行きましょう。
新言の15書33節、開きたいと思います。
新言15書33節
新言の第15章33節です。
一緒に読みたいと思います。
主を恐れることは、知恵の崩壊。
謙遜は栄養に先立つ。
謙遜はどうですか。栄養に先立ちます。
謙遜な人には、常に栄養が付いているということですね。
もう一箇所、同じ新言の22章4節、開きましょう。
新言の22章4節、一緒に読みましょう。
下り下りと主を恐れることの報いは、
富と誉れと命、阿弥。
下り下り、謙遜ですね。
謙遜と主を恐れることは、もう同じなんです。
いつも一緒にあるんです。
18:01
下り下りと主を恐れることは、別ではない。
もう対なんですよ。ペアなんですよ。
コインの表裏と、それと同じようにですね。
その人は、富と誉れと命があるんですね。
だから私たちが高慢だったり、高ぶったり、
このパリサイトのように人を見下したり、
さばいたり、そしたりしたら、
私たちには、富も誉れも、神の命も、
消えてしまうということではないでしょうか。
さあ、新訳にまた行きましょう。
エペソビトへの手紙、4章2節に行きましょう。
エペソビトへの手紙、4章2節。
エペソビトへの手紙、4章2節。
一緒に読みますね。2節だけです。
謙遜と入和の限りを尽くし、寛容を示し、
愛をもって互いに絶え忍び、
最初にですね、何をつくりにしますか。
謙遜を、入和、限りを尽くしと書きます。
力のある限り、謙遜でありなさいと読み言葉ですね。
最後にもう一箇所を開きましょう。
第一ペテロ3の8節です。
第一ペテロ3章8節。
第一ペテロ3章8節。
一緒に読みましょう。
最後に言います。
皆一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、
心の優しい人となり、謙虚でありなさい。
最後にですね、謙虚でありなさい。
これは同じ言葉ですね。
謙遜でありなさい、謙虚でありなさいということで。
皆さん、この謙遜、減り下り、謙虚はどれだけ美しいのでしょうか。
見た目による身を結びたいんですね。
イギリスのキリスト教作家であるシエス・ルイスという先生がいますけど、
その方の著書の中で、キリスト教の聖水という本があります。
そこで謙遜、減り下りがどういうものなのか、
ちょっと違った角度からですね、言われています。
私はお読みしますね。
謙遜とは、自分自身をより小さい存在だと思うことではなく、
21:00
自分自身についてより少ししか考えないことである。
わかりますか、皆さん。
謙遜とは、自分自身をより小さい存在だと思うのではなく、
自分自身についてより少ししか考えないことである。
自分自身を低く考えることではなく、
自分自身のことをほとんど考えないことが謙遜だ。
それが本当の謙遜だと、このシエス・ルイス、
あの有名な映画、ナルニアの物語でしたっけね。
それの原作者でしょ。
さあ、これをね、この本を一部読んでですね、
こう思わかるんですよ。
今の時代は、どの国もそうですけれども、
自己実現、自己アピール、自己啓発が本当にもう流行っているんです。
もう昔からずっと、もう今もものすごく流行っていますね。
それで自分が人の前で何を言うか、
どれくらいインパクトを与えられるか、
あるいは人をどれくらい自分に引き付けられるか、
自分の魅力をどれくらい引き出せるか、
といったことが多くの人の関心になっているんです。
だから今の時代は、自分自分自分ということに向きになっていて、
自分をどうすれば人に好きになってもらえるか、
というテクニックを求めているような時代です。
だからネットではですね、日本でですね、
このようなセミナーがネットで流行っているんですよ。
CDを送ったり、セミナーに行ったりですね、
その人が書いた本をめちゃくちゃ高いもので買ったりするセミナーにですね、
それでお金を儲かっている人も多いですし、
そこに行っている日本人が多いんです。
どうしたら人に好きになってもらえるか、
どうしたら自分を高揚できるか、みたいなセミナーがですね、
ものすごい多いんですよ。
もっとひどい場合はですね、キリスト教を辞めて、
そこに行ってしまう人々もすらいるんです。
しかし、キリスト教信仰は、
自分に関心を置くよりも、
キリスト、イエス様を仰ぎ見て、
神様の恵みに思いを集中して、
神様の慈しみに感謝していくことを中心にしているんです。
ですから、もうね、自ずと自分について悩むことも少なくなり、
キリストの十字架の贖いに感謝していきますから、
神様の恵み中心に、
思いも言葉も生き様も変えられるんです。
これが実は清めなんですね。
24:00
ただ、悪いことをしないだけではなく、
するとどうなるのか、人は不思議に、不思議にですね、
この自分へという、この囚われと言いましょうか、
そこから開放されて、本当に開放されて、自由にされるんです。
そして、神の御心を求めるという思いになるんです。
そしてそこから、神から来るこの満足感と言いましょうか、
忠実感がもたらされるんです。
だから、自分のことで、それが自分の弱さである、
ダメなところである、それが自分である、
ダメなところである、それでくよくよ悩むことが、
次第に少なくなっていく、もう消えてしまう。
だから、心が謙遜に謙虚に変えられるのではないでしょうか。
だから皆さん、謙遜、謙虚は、自分はダメだ、
もう私は愚かなものだ、もう私は何もできない、
もう能力がない、みたいに自分を低くして、低くして、
低くして、自分を見下して、もう自虐するように考えるのは、
謙遜ではないんです。キリスト教はそれを教えていない。
そういう思うのではなくて、そういくら思ってもですね、
人は謙遜になれないんです。じゃなくて、
常に目を自分自身に向けさせるのではなくて、
もう神様にこの目を引き上げて、神様をイエス・キリストを見上げる。
そして、私は救われたならば、キリストの内にある謙遜の、
この謙虚の減り下りのね、もう罪悪的な方のキリストの中にあるから、
そのキリストに似ているものとして、
キリストの謙遜を着て生きるということ。
だから、自分が人にどう見られるか、どう評価されているか、
人が自分のことをどう思っているのか、
そういった思いから解放されるんです。
なぜ?私はキリストの中にあるから。
ここから本当の謙遜が始まるのではないでしょうか。
だからね、謙遜な人の美しさは、自分より人を高くすることを喜びます。
自分の弱さを認めることを恥と思いません。
試練の時、神様を仰ぎます。
いつも神様、イエス様を高くします。
神様が受けるべき栄光を横取りします。
真の謙遜とは、主イエスキリストにあって自由にされ、
もはや自分のことで悩むのではなく、
イエスキリストの力を思い、その力を頼みとし、
27:01
イエス様の愛に感謝し、その愛を味わいつつ歩むことではないでしょう。
何よりイエス様は、私たちを死の闇から、
命の光に導くために、イエス様は自ら喜んで、
人となられ、癒しくなられ、低くされ、死の苦しみを通られました。
ですから皆さん、イエス様の中にある人は、イエス様に似ており、
イエス様の謙遜を着て生きる人です。
メッセージを送ります。
私の歩みが、イエス様にあって、イエス様に似るものとして、
謙遜を着て、最後のゴールまで歩ませていただきましょう。
お祈りいたします。
27:50

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