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2020-09-06 18:43

2020/09/06:イエス様のたとえ話~私たちへの問いかけ(14)祈りと神様の恵み

2020/09/06 聖日礼拝

尹善鎬牧師

ルカの福音書 11:5-13

00:01
あらためて皆さん、おはようございます。
台風が九州の方に登ってくるようで、今日も風は強いですけれども、
このように様々な困難の中で、神様に守られて、今日も霊廃が守られること、本当に主の恵みに感謝いたします。
さあ、今日もですね、このイエス様のたとえ、私たちへの問いかけ、14回目です。
祈りと神様の恵み、祈りと神様の恵み、という台にして、一緒にですね、御言葉をお受けしたいと思います。
今日は生産式もありますので、メッセージは右脚になるかなと思います。
今日の11章の5節から13節の御言葉は、よく祈りを教わるときによく語られる御言葉かなと思います。
確かにですね、イエス様はこのたとえ話の前にですね、ルカンの福音書はちょっと短くなってはいますけれども、
いわゆる主の祈りが書かれているんですね。2節、3節、4節。
つまりイエス様の弟子たちが、イエス様に、主よ、私たちに祈りを教えてくださいと。
それでイエス様が彼らに主の祈り、いわゆるね、聖書には主の祈りと書かれていないんだけれども、
今私たちが主の祈りという、その祈りを教えられました。
そして、この5節から今日のこのたとえをイエス様が話されたわけなんです。
さあ、今日はですね、ちょっと短い時間ですけれども、祈りとは何なのかという話をね、少ししたいと思います。
世の中にある宗教には、祈り、祈祷、あるいは祈願、日本語はいろいろ表現がありますが、いわゆる祈祷というものがありますよね。
一般のキリスト教、私たちのキリスト教以外の宗教で祈祷といったら、どんなものでしょうか。
それは大体の場合、人間が願うものを、その神に求める行為、これが祈祷だと思うんですね。
私たちのキリスト教にも、この祈祷、祈りの概念が全くないとは言えないかもしれませんが、
しかし、私たちの祈りは、単なる神に何か欲しいから求める、そういう行為を遥かに超える、神の恵みの世界があるということなんです。
03:01
ですから、私たちが祈るときに、あるいは礼拝するときに、いつも覚えてほしいことがあります。
それは神様の品性、それが恵み、憐れみ、慈しみという神様の品性を、その方の真実さを信頼することです。
神様は、私たちが求める前に、あらかじめ、私たちに何が必要なのか、主はすべて知っておられる。
そして、神様は見心のままに、それを与える、あるいは与えない、あるいは早く与える、あるいは長く待ってて与えられるということです。
ですから、単なる祈りは、私たちが祈ったら与えられる、祈らなかったら与えられない、そういった幼稚な神様ではないということなんです。
私たちには計り知れない、私たちの祈りがある前に、前に神の恵みと憐れみ、愛があるということなんです。
それは、神様と私たちの関係から考えていきましょう。
神様が望む私たちとの関係は、例えば私たちが何かが欲しいから、必要だから神様に祈る、そしたら神様は答えてくださる。
必要なものがなければ祈らない、求めない、そういう関係ではないんじゃないでしょう。
では、神様が願う関係はどんなものでしょうか。
それは、私たちがいつでもどこでも何でも神様に求めることのできる関係。
何でも隠さないで心を打ち上げることができる関係。
恥ずかしがらず、遠慮せず、恐れず、何でも求め、何でも神様に言える、その深い、そして深くて親しくて美しい関係を神様が願っておられる。
そう求める私たちがいる。
その上に、その先に、神様の憐れみと愛と恵みが、すべてを知っておられる神様が先におられるということです。
このような概念は一般の宗教にはないと思います。
06:05
ですから、今日のこの例えは、祈るかしないか、熱心にするか、生ぬるくしするか、その話よりもっと本質的な部分に触れられていると思います。
それはですね、私たちが、神様は本当に私たちを愛しておられる父なる神様であることを信頼して、愛して、どんな状況の中でも神様を信頼する関係を神様が求めておられるということであります。
だから、今日の箇所の中で、九節十節の御言葉、皆さんご存知の箇所ですね。
九節十節、私は読みますね。
私はあなた方に言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。叩きなさい。そうすれば開かれます。
誰であっても、求める者は受け、探す者は見つけ出し、叩く者には開かれます。
この御言葉からお話したいことは、さっきの神様と私たちのこの信頼関係が作られていて、
その上で、父なる神様、本当に父なる神様に、いつでも、どんな時でも、どこででも、何でも、神様すべてすでに知っておられる。
私たちに何が必要なのか。
だから、私の神様は、私が祈れば、私が求めれば、くださる神様なんだ、という信頼する人は、自分が祈るこの課題に対して心配しないと思うんです。
この御言葉を信じて、求める者には与えられるんだ。この御言葉を信じる。
さらに神様は恵み豊かな方である。
慈しみ豊かな方であって、私が求めても求めなくても、すべて知っておられ、すでに知っておられ、神様の御心のままに与えてくださる方なんだ。
本当に良きお父さんなんだ、というその関係を信頼する人は、祈っていても、不安で不安でね、どうしようもなくて、
祈るんじゃなくて、神様の憐れみを、誠実さ、真実さを信じるから、祈ります。
09:02
熱く祈ります。あるいは、普通に祈りますけれども、心配はしない。
神様を信頼するから、神様がなさることは、正解であって、正しいから、心配しない。
そこで一つ、娘がいないので、娘の後への話としましょう。
2万名の娘が高校を卒業して、論文みたいなものを書くわけなんですね、経名は。
それで必要な本を買ってくれて、私に頼まれました。
それで調べたところ、新しいのは高いですし、多分一度読んで二度と読まないだろうと思って、中古を探しても、なかなかない本も結構あるんですよ。
それで私がネットやら、ヤフオクションやら、メルカリやら、古本屋さんに行って、一生懸命探して、これはないな、どうしようですね。
娘は心配しないのに、私は心配して、どうしようと探して探している。
それで昨日か一昨日、君の本なのに、君は何の心配もしないで、パパは心配して探しているじゃん。
そしたら娘がこう言ったんですよ。
いや、お父さんが買ってくれることを信頼するから、心配しないんだよと言って、なるほどなと思ったんですよ。
お父さんに頼んだら、お父さんは買ってくれると、もう信じるから、信頼するから、もう平気でやる。
少し今日のメッセージを準備しながら、教えられました。
ああ、そうなんだ。私たちは神様に祈って祈っていても、不安で不安でどうしようもないと言ったら、
もし神様はそんなことをしないですけれども、神様はがっかりするかもしれない。
あなたは私をそんなに信頼できない存在なの?
私に祈っているのに、私が何もできないような困った神様のように、そんなふうに思って不安でどうしようもないのと、
神様ががっかりするかもしれないなと思いました。
もちろん神様はがっかりしないかもしれませんけどね。
皆さんどうでしょうか。
祈ったならば、神様の憐れみ、神様の真実、神様の善能性を信じていられようではないでしょうか。
3番、ここでまたですね、もっと深い話になりますが、祈りについて新しく学びたいことがあります。
それは、私たちが熱心に熱く祈る、粘り強く祈る、もちろんそれ大事ですよ。
12:01
それ必要だと思うんですよ。
でもですね、それが単なる何かの公式みたいに、図式みたいに、
私が祈れば神様はくださる、私が祈らなかったら神様はくださらない、
みたいな、あまりにも単純すぎる考え方は、
私たちが神様を幼稚な方に考えてしまうことじゃないかなと思います。
そして何より、これが何で間違いというのか、ちょっと方向が間違っていることは、
その基準が神様にあるんじゃなくて、自分、私にあるんですね。
私が祈るか祈らないかによって、結果が与えられるか与えられないかなんだ、みたいな。
まるで神様がおられる、私がいる。
私が祈れば神様が動く、祈らなかったら動かない。
神様がまるでリモコンで操縦するロボットみたい。
右に左にバック進んであれ拾ってみたい。
そこに私たちの間違いが立つんです。
それは、自分が基準になっている。
自分が先にあって、神様は私の必要のためにある存在。
それは世の中の宗教なんです。
皆さん、神様はどんなお方なんでしょうか。
私たちが存在する遥かの前に、いや、永遠から神様が先におられて、
神様が私たちを作ってくださって、
そして神様がおられ、その後に私たちがいるということなんです。
だから祈りというものも神様から来るものなんです。
私たちが必要だから作り出してやれたものが祈りではなくてですね。
神様は良きお父さんである。
私に何があればいいのかすべて知っておられるお父さんである。
そして神様は何でも与えることのできる善能なる神様である。
しかも私にははかり知れない恵みと憐れみが先にある。
私が祈る前に神の恵みと憐れみがあるということを知ること、
信頼することが大事なんですよ。
だから皆さん、祈りというものはあまりにも簡単に考えてですね、
私たちが神様に祈るときに神様が
あなたは私に求めないと私は与えないんだよ。
私をもっと感動させなさい。
そうしないと与えないよ。
私をもっと喜ばせ、喜ばせ、喜ばせ。
15:01
神様が求めてですね、そうしないともう何もないよ。
そんな幼稚な神様ではないんですよ。
ただの神の何かの答えをね、ゲットするために
神をもっと感動させようとみたいな、それはですね、
世の中も軌道なんです。
さっきも言いましたように、これがなぜ問題なのか。
祈りの焦点が、祈りの本質が、
良きお父さん神様、憐れみの神様、
善能なる神様に、そこにフォーカスが当てているんじゃなくて、
祈る私にね、私が基準なんです。
それは正しくないということなんですね。
キリスト教は神様が先におられ、
そして人間が後にいるということなんです。
だから私たちがどうするかによって神様が動かされる
ロボットみたいな形ではなく、神様が先におられ、
神の恵みと憐れみが先にあって、
神のすべてを知っておられる善能性が先にあって、
そして神様は主権を持って、
ご自分の心のままに働かれる。
時には失意を満たしてくださる。
そういうふうにして私たちは生かされているということなんです。
ですから神の民は、神の素晴らしさ、
慈しみ、愛、憐れみを信頼して、
その方がなされたこと、
それが神の御業、働き、祝福、
それを喜んで楽しみつつ、味わいつつ生かされていくこと、
そしてその方を愛してその方に従っていくこと、
それが信仰生活であって、
だから祈りはないものをゲットするために何かを求める行為じゃなくて、
すでにイエス・キリスト、聖霊によって与えられていること、
そして何でも与えることのできる神様との関係において、
この祈りあるいは神様からの答えという方法を統合して、
神様をもっと体験する、神様をもっと深く知る、
そして神様の平安の中に歩むことということなんです。
だからそういった意味としてですね、
もっと深く、もっと深い、親密な祈りが必要なんです。
今日のメッセージは、だから祈らなくてもいいんだ、
そんな話じゃないんですよ、皆さん。誤解しないでください。
結論を話したいと思います。
だから祈りは単なる問題を解決するための、
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人間の何かの方法、手段ではなく、
神様の観点から見て、神様をよく深く正しく知り、
神様からすでに与えられているこの祝福を豊かに体験し、
神様との関係がより深く深く、そして変えられていく、
その恵みの手段であることを知っていただきたいと思います。
これから私の祈りの心の姿勢が変えられて、
神様との深い関係であっていただきたいと願います。
お祈りしましょう。
18:43

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