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2026/03/08 聖日礼拝

加藤満牧師

ヨハネの福音書 -21


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サマリー

本メッセージは、イエス・キリストが父なる神と一つであるように、私たちも神の愛の交わりの中に組み込まれていくという希望について語っています。イエス様は、私たちを見捨てず、代わりに「もう一人の助け主」である聖霊を送ると約束されました。聖霊は私たちの内に住み、神との完璧な関係、すなわち「平安」をもたらします。この神の愛の交わりの中に生きることで、私たちは嵐の中でも神の御手の中にあるという確信を得て、弱さを抱えながらも神の業を成し遂げていきます。

神のわざとしての私たちの働き
一つとして歩むと題してお話をさせていただきますが、改めて富永先生のお明かし、本当に感謝でした。ありがとうございました。
お明かしを聞きながら、先生が本当に個人連動に、その使わされたところで、
精霊様に聞きながら取り組み、葛藤されたというお話を聞きながら、
本当にそれは真摯なご奉仕だなと改めて思いました。
私たちそれぞれもそうであると思います。なかなかそんな簡単にうまくいかないかもしれない。
しかし、私たちが共に覚えたいことは、私たちは人間のわざとそれをやっているのではない。
神のわざとしてそれをやっているし、いやそれは、私たちが働くということ以上に、私たちを通して神がそこで働かれているから、
主の宮沢奇跡を起こすわけですよね。
そのことを改めて覚えるときに、今朝のお菓子もそれに重なるなと思います。
イエス様は今日の10節のところでこうおっしゃいました。
後半にありますが、
私があなた方に言う言葉は、自分から話しているのではありません。
私の内におられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。
実は、ヨハネの福音書はこういう言説が何度も出てまいります。
イエス様は、私じゃない、私を通して父がそれをなされたのだ、ということを特徴的に何度も語ります。
そして、極めつけには、私と父とは一つですと言われました。
切り離せないほどに、私を通して神が働いておられる。
イエス様と父なる神、そして私たち
しかし、この13章から始まった国別説教と言ってきましたが、
この箇所を通して、イエス様はまたもう一歩深く新しいことが始まるとおっしゃられる。
それは、私と父は一つですと言われたイエス様の交わりの中に、
実は私たちもそこに組み込まれていくという新たな御業をここで語られるのです。
ご一緒に少し、2つのポイントでお話をしていきますが、
もう一人の助け主の約束
1つ目は、一つとするためにもう一人の助け主を使わせとイエス様はおっしゃられたということです。
先回私たちは13章を見てまいりました。
その中で13章の3節に、これからのイエス様の歩みが要約されてとお話をしました。
イエス様は天から来られた。
そして父から万物を委ねられ。
そしてまた天へと帰って行かれるというその歩みの最中にある。
あたかもそれはあの室エジプトと同じようであるというお話をいたしました。
かつて神様がイスラエルをエジプトの奴隷から解放したように、
神様はこの地上の奴隷、私たちを縛っている罪であったり、
サタンの支配から私たちを解放してください。
それがこれからなされる十字架だとお話をいたしました。
ただ、この室エジプトの出来事とイエス様の見合わさは、
でもここで明確に違いが現れます。
それは何かというと、室エジプトの時は、
アレヌエ導かれた時に神様がずっと共におられたのです。
夜は陽の柱、夜は雲の柱として、
そして休む時は真ん中に幕屋の中に主は臨在なさって共におられた。
しかし、この十字架の見合わさは、イエス様がいなくなるのです。
解放の見合わさはイエスキリストの死を通して実現をするのです。
だから13章の33節というところでイエス様はおっしゃられました。
子供たちよ、私はもう少しの間あなた方と共にいます。
あなた方は私を探すことになります。
ユダヤ人たちに言ったように、今あなた方にも言います。
私が行くところにあなた方は来ることができません。
明確にイエス様は、私とあなたたちはこれから別れるよということをここでおっしゃられる。
その言葉に弟子たちの心はとても騒ぎます。
あたかもそれは、アラノに導き出されたのに、
そこで神も誰もいなくて、ほっぽり出されるような実感を感じたからです。
ああ、神はどこに行かれるのか。
しかしその不安を十分にわかったイエス様が重要書の1節で言われたことは、あなた方は心を騒がせてはなりません。
神を信じ、また私を信じなさい。
心を騒がせる必要はないとおっしゃられた。
なぜか、神を信じなさい、それはこれからもっと大事なことが起きてくるんだよという、実は希望がここから語られるんですね。
何か一つは、イエス様は天に帰られるけれども、それはあなた方に場所を備えるために帰っていくんだということが、2節から6節で語られます。
イエス様を、主を信じているということは確実に、確かに帰るべき天のふるさとが私たちにあるということです。
二言葉はそれを確証します。
ですから私たちはその天国への希望は確かに握って良いのです。
しかしもう一つイエス様がここで言われることは、この14章の18節にもありますが、天に帰る私はあなたたちを捨ておくのではない、あなた方を捨てて漕じにはしないと言われたのです。
別れるけれども、あなたたちを捨てるわけでもないし、一人きりには絶対にしていないよということを言われる。
じゃあそのために何が起きるのか、16節、今日読みましたが、16節のそのところに、私が父にお願いすると父はもう一人の助け主を与えくださる。
その助け主がいつまでもあなた方と共にいるようにしてくださるというのです。
死上に残されるあなた方に父なる神はもう一人の助け主を与えてくださる。
実はこのもう一人という言葉が大事です。これはギリシャ語では、もう一つ別のという意味と、同室のという意味は両方が含まれていることです。
これだから意味としては、もう一つ別の存在なんだけど、しかし私と同室の方が来られるということを言っているのです。もう一人のというの。
つまりイエス様とは別の存在ですが、しかしいなくなるイエス様と同じ性質、同じ愛、同じ力を持たれるお方があなた方のところに来るんですよということをイエス様はここでおっしゃられるのです。
いや、実は来るだけではない。もっと進んでいるのは17節なんです。
この方は真理の御霊です。
世はこの方を見ることも知ることもないので受け入れることができません。
あなた方はこの方を知っています。
この方はあなた方と共におられ、またあなた方の内におられるようになるのです。ここなんです。
神の愛の交わりと平安
共にいるだけではない。
主席エジプトの時神は共におられました。しかしそれだけではない。
この神は今度あなた方の内にいるようになる。内になんですよ。
それはヨハネの3章でもイエス様は言われました。
精霊様が働かれて、内に働かれる。
それは何かヨハネの3章でも見ましたが、エゼキエル書の予言の上司ですね。
あなた方の内に神は新たな霊を与えて、あなた方の心から、内からあなた方を作り変える。
ここが戦いですよね。さっき富永先生の話ではそうだと思いました。
ここが戦いですよ。
内に主が住まわれてキリストと結びつくというのは自然と起きないかもしれない。
でも主は約束なさるのです。
いやあなた方の内に私は住む。
そしてこれがまさに上上下下するわけですね。
ですから何度もキリストの霊があなた方の内に宿るのです。
ヨハネは何度も父なる神とイエスである私は一つであると語りましたね。
そしてもう一人の助け主聖霊様はイエスキリストと同室だとおっしゃいました。
そしてその聖霊様が私たちの内に住まわれると言われた。
この一二三を結び合わせるならば実は浮かび上がってくるのは三味一体の神の愛の交わりの中に私たちが組み込まれているという事実です。
そのことを二十節のところでイエス様が言われます。
その日に私が父の内にあなたが私の内にそして私があなた方の内にいることがあなた方にはわかります。
もうちょっと如実にこれはヨハネの十七章でイエス様がはっきりと語られます。
父子聖霊の愛の交わりの中に私たちキリスト社は組み込まれている。
手立てのない愛の交わりの中にですね。
神というお方は遠くにいるのではありません。
私たちが遠くにいるなと実感する時であっても神が遠くにおられるわけがないのです。
あなたは今三味一体の神の手立てのない愛の交わりのただ中にいる。
それが事実だと主は仰られるのです。
私たちが救われ神のことされているというのはそういう事なんですよ。
あなたがどう思うとあなたは神の交わりのただ中に今あるのだ。
そしてその状態を言い表している聖書の言葉は二十七節にあります平安という言葉です。
ギリシャ語でエイレーネと言いますけれども平安という言葉が大事です。
二十七節にありますが私はあなた方に平安を残します。
私の平安を与えます。
私は世が与えるのと同じように与えません。
あなた方は心を騒がせてはなりません。
ギリシャ語のエイレーネ、ヘブル語ではシャロームですが
この言葉が意味をするのは戦いがないという状態も意味するのですが
もう一つはあなたと神様の関係は従前に不可分に今完璧ですよという状態のことです。
平安というのは神との関係の従前性を表す言葉です。平安です。
平安というのは三味一体の神様の愛の交わりの中に生きることによって得られます。
ですからこの後続くのはブドウの木の例えです。
あなた方は私から離れたら何一つ身を結ぶことなどできない。
富永先生の証の通りです。
キリストに連なっていなければ何一つ身を結ぶことはできない。
でもその連なっている愛の時は平安があるんですよ私たちの中に。
主と従前の愛の交わりの中にある。
イエス様は言われました。私が与える平安はこの世が与えるものとは違います。
その通りです。
この世において与えられる平安というのは問題がないということを意味します。
問題がない。自分を頭悩ませることがないから平安なんです。世の中は。
しかしイエス様が私たちに与えられた平安というのは問題の過虫にあっても
今私は神の愛の中に神の御手の中にあるという事実があるから平安なんです。
もう一回言います。問題の過虫であったとしても問題がない日々なんかないんです。
しかし問題の過虫にあったとしても私は今それでも神に握られ
確かに神の愛の中に今ある。
ならこの日々が決して最悪になるわけがない。
全ては死の御手の中に握られている。
だからイエス様は御自身が十字架を目前にしたある種絶望的な状況の中で
心騒ぐ弟子たちに対して言われたのです。
心を騒がせるな。あなた方は決して孤児になるのではない。
むしろこれまでよりも近く深く
共に一つとなって生きるようになるのだ。
いいえ今私たちの現実はそのように生きているのだということです。
たとえ嵐の中にいても万物の主王である神の愛の内にあるという安心感
この一つこそが私たちの不安を打ち消す神の恵みです。
そしてもう一つを短く見て終わりますが
神の業を成し遂げる歩み
一つとされている私たちは一つとして進んでいくということです。
三味一体の愛の交わりの中に生かされている私たちは
じゃあどのように進んでいくのか。
最初のイエス様の言葉がポイントでしょう。
私の内におられる父が御自分の業を行っておられるのですと
十節で申し上げました。イエス様が言いました。
私の働きは自分から語るのではない
神が私を通して語り働かれるのだということです。
イエス様は私たちに私の行う業を行えとも言われますし
イエス様のように生きなさいとも招きます。
しかしイエス様御自身はこれは私ではなく
神が私を通しなしておられる業だと言われる。
先ほども言いましたがヨハネの福音書では何度もこの内容が語られます。
私ではない神が私を通して働いている。
私はつくづくその自覚が大事だなあと思います。
私たちは互いに神様のためにこれがしたいと願います。
一歩進んで道を選び取って進んでいきます。
しかしその実起きていることは
その道ですらも神様が私を通してそこに押し出しておられる。
だからそこでなされるのは主の業である。
宣教というのはいつでも主語が神様なんです。
私は何がしたい以上に
神様はここで私を通して何をなさるのかというのが宣教の御業です。
それは先生がおかしなさったこと通りでしょう。
そして神の道からは大きい。
だから私たちは変に堅い地を張って
私が強くなきゃと立ち止まり続ける必要はない。
大島英介先生が言われた言葉が大事だなあと思います。
よくエッセンシャルウィークネスという言葉を言われたと思います。
エッセンシャルウィークネス。
キリスト社は本質的に弱さを持つべきである。
私たちは本質的には弱いお互いです。
嵐が吹けば三味一体の愛の交わりの中にあると知っていても
それすらも譲るがされやすい私たちの現実です。
しかしパウロがこう言いましたね。
第2コリントの12章の9節10節ご存知かと思うのでお読みしますが
しかし主は私の恵みはあなたに十分である。
私の力は弱さのうちに完全に現れるからであると言われた。
ですから私はキリストの力が私を覆うために
むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
私が弱い時にこそ私は強いからですと言った。
神様が働かれるというのはこういうことですよね。
主のためにと労せる時はそうすれば良いのです。
ただ私たちはそうできなくなる時がいくらでもあります。
でも神の御業は止まっているのかそうではないのです。
神様は私たちが進める時も止まってしまう時も変わらずに進んでいる。
変わらずに主の業はあなたを通して進んでいく。
その恵みを覚えながら私たちは今朝この後ご一緒に清算を受けたいと思っています。
主に確かに握られ
主の業が私たちを通してなされる歩みに置かれているということを覚えて受けます。
教団牧師会の時にある先生がこう表現なさいました。
十字架の意味と聖餐
十字架において我が神我が神どうして私をお見せになったのか。
十字架というのはこの三味一体の地底と精霊の交わりが裂かれた時ですよね。
我が神どうして私をお見せになったのか。
しかしイエスキリストが十字架において三味一体の神の愛の交わりが裂かれたのは
その神の愛の交わりに私たちをつなぐためであったとある先生は表現なさいました。
私はとても詩的でいい表現だなと思って受け止めましたし
あ、そうだなと思います。
御子が身体を裂き血を流されたのは
私たち一人一人がこの神の愛の中に確かに今生かされているということを
何度も何度も思い返すためです。
聖三式はそのためにします。
そしてパンと葡萄寺を受け入れる時に
私は今もこれからも
いや天に帰るまで
この三味一体の神の愛の交わりに
以降物なのだと信仰を持って受け止めるように招かれています。
そのように今朝私たちは様々な嵐がありますが
しかしその中に平安を得させていただきたいのです。
一言お祈りをしてメッセージを終わります。
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